収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
日本不燃建築研究所による防火建築帯2題(大宮,亀戸)
 「建設工学研究会」に所属し「沼津本通り防火建築帯」を手掛けた後の1957年、今泉善一を中心とした「日本不燃建築研究会」が設立された。ここでは同会が設計した中から大宮駅東口と亀戸十三間通りに残る建物をアップしてみたのだが、もちろんこれらに限らず、今でも防火建築帯はあちこちに現役の建物として残っている。


■大宮駅前新共栄ビル(大宮駅前東口防災街区造成事業)(1962年)
 大宮駅東口から東西に伸びる大通りを挟んだ南北にまたがるブロックの防災街区造成事業区域のうち、第1期工事分として1962(昭和37)年に竣工したのが、この新共栄ビルである。

写真手前部分の5階建て地下1階の部分は、7店舗の共同により「オールオープン式の店舗計画(*1)」がなされたとあり、「大一ビル」の部分のことであろう。また写真では左側に見える部分は、連続した1棟のように見えるけれども数軒が縦割り状に連続している。

     

     

     

 外観の現状は看板に覆われ痛々しい。しかし屋上のパラペットの辺りのちょっと凝ったデザインに、不燃建築研究所らしさを垣間見せている。また下の写真のように、地下部分は古びて寂れつつあるが、昭和30年代レトロ感を濃厚に滲ませている。

     

 ひとつここ大宮駅東口の造成事業について注釈しておきたい。全体計画図(『不燃都市』1962.No15掲載,下図)を見たところ予定年度を示したいくつかの区域に区切られ、その中で新共栄ビルは「昭和36年度完成」とされていて当初から道路に面して奥行きの浅い(細長い)建物として計画されていた。これは恐らく従来通りに「耐火建築促進法」に則って路線から奥行11mの範囲で防火性能を備えた「防火建築帯」としたためであろうと考えられる。しかし昭和36年は同法に取って代わり街区全体の防災を旨とする、新しい「防災建築街区造成法」が施行された年でもあった。従ってここ大宮においてもその後の昭和37年以降の区域については、奥行にとらわれずに街区に計画の線引きがなされた。つまり同じ造成事業区域でありながら2つの法律にかかる、移行期の事業であったということが分かった次第である(*4)。

     


                  *****

■亀戸駅北口十三間通りの共同建築(1958年)
 日本不燃建築研究所が東京近郊で関与した事例としては、日本橋横山町、蒲田駅東口、巣鴨地蔵通り、赤羽町、柏、そして亀戸十三間通りなどが挙げられる(*2)。そのうちの亀戸十三間通りの共同建築を直接担当したのは、日本不燃建築研究所の元所員小町治男氏であった。このことについてはHP「建築家山口文象(+初期RIA)アーカイブス」のインタビュー記事「戦後復興期の都市建築をつくった建築家小町治男氏にその時代を聞く」(伊達美徳氏作成)の中で詳しく語られており、また建築当初の写真なども掲載されているので参照されたい。

 下のように2件の建物が残っていた。一見して見分けがついたのだが、それはやはり屋上部分のデザインによる。以前取り上げた沼津の「上土通り」と同様、ここでも屋上部分のデザインで通り全体に統一感を与えようとしたと考えられる。外装は当初と見比べると随分改装されたようである。


     

     

     

     

 初田香成氏の著書『都市の戦後』によれば、「日本不燃建築研究所」はその後「日本不燃開発研究所」を併設し、需要が増す商業コンサルタント業務にも対応するようになったと書かれている。またこのことは成長著しい商店主らの利益追求に応えることを最優先とせざるを得なくなったことをも意味していた。大資本に対抗しつつ公共的な都市計画上の提案を行うなど、建築家が得意とした部分は相対的に二の次となり、次第に防火建築帯に対する建築家の関心は薄らいでいったそうである。池辺陽がかつて言ったように防火建築帯はやはり過渡期のあり方に過ぎなかったのかもしれない。そして日本不燃建築研究所の所員は独立しては去り、結局「今泉だけが残るようになっていった」(*3)。

 本来マルクス主義の建築家の今泉善一にとってみれば、(見方にもよろうが)皮肉な末路を辿ってしまった、ということなのかもしれない。


  *1:『不燃都市』(1962 No.15)による
  *2:『都市の戦後』(初田香成、P.256-257)による
  *3: 同上(P.291-294)による
  *4: 伊達美徳氏からの指摘に従って調べた結果判明した。








 
| 街並み | 19:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
横須賀の防火建築帯(三笠ビル)
   
1959年,神奈川県横須賀市,日本不燃建築研究所(所長:今泉善一),現存(撮影:2014年)


 このRC造のビルとなる以前、三笠通り商店街は背後に丘陵を背負う位置に木造の店舗がひしめき合い、もしも一度火災となれば海岸からの風を受けて大惨事となることが心配される状況にあった(*1)。そこで市制50周年の協賛事業の話をきっかけに不燃化の街づくりが開始され、こうした戦艦の威容をも感じさせる大規模な防火建築帯が誕生するに至った。

     

     

                   

 三笠ビルには他の防火建築帯にはない、立地状況に起因する大きな特徴がある。
 元々の三笠商店街は、緩やかに「くの字」状に折れた市道(三笠通り)を挟む両側に商店が立ち並んでいたのだが、不燃化事業においてもその骨格は活かされ、両側の商店街と道路を含む全体が事業対象となった。
 具体的に言うと、新しい建物においては4.5mの幅を持つ道(市道としては廃止)のあった場所に沿うようにコンクリート造の屋根が架けられ、中廊下状に「屋内化」した共用の歩廊となった。その両側にRC造の店舗など住戸が並ぶアーケード街が作られたのである。

       

      

 要するに、一つのビルの中に公道を内包したようなイメージの空間ができあがったと言えばよいのだろうか。しかし車が通る県道と別の「人専用」の道なので、人々はよりショッピングに専念できる環境を手に入れたというわけである。
 下の写真(▼)は、このように元々は市道だったアーケードの、現在の姿。

        

 さらに地上階のコンクリートの屋根の真上、すなわち2階にも開店が可能なように共用の歩廊が設けられた(▼下2枚)。しかし実際の現状は地上階の賑わいとは裏腹の別世界。無人の共用空間が不思議な雰囲気を漂わせていた。

        

     

 元々道路であったことを示す名残りも残っていた。「豊川稲荷」参道へ通ずる曲がり角があった地点には、下の写真のような豊川稲荷参道への出入り口が設けられた(▼)。こうした配慮を見ると、三笠ビルには、単体の商業ビル建築にはない街づくりへの視点が働いていたことが分かる。

          

 石段の参道から三笠ビルの裏側を見下ろす(▼)。県道側のファサードとは雰囲気を異にする、山の斜面ぎりぎりにまで迫った複雑な建物なのである。

     

 三笠ビルには、通りに面した線状の防火帯を作るだけではなく、街区単位で防火仕様とする考え方への萌芽がみられるという(*2)。その他共用の無料休息室、事務室、会議室、電話交換設備、一括共同受電の変電室が設けられ(*2)、区分所有の登記もなされるなど、進化した内容を持つ防火建築帯の共同建築であった。


 *1:『不燃都市』(1961 No.6)による
 *2:『不燃都市』(1962  No.15)による







 
| 1950年− | 16:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
沼津市上土通りの防火建築帯(沼津センター街)
  
1960年,静岡県沼津市,日本不燃建築研究所(所長:今泉善一),現存(撮影:2014年)


 前項で沼津本通り防火建築帯を取り上げたが、その完成に続いて、本通りのすぐそばに並行する道沿いの伝統ある商店街、上土(あげつち)通り商店街おいて、不燃化と店舗の共同化が行われた。設計は本通り防火建築帯に携わった今泉善一が組織した日本不燃建築研究所による。

    

 上土通りで防火建築帯が作られた理由は、完成によって売上げを飛躍的に伸ばした本通り商店街と、駅前の大手デパートの進出に対抗する気運が高まったことによる。この計画が立案されたのは1956(昭和31)年のことであった。完成と営業開始は地元商業界史(*1)によるところ1960(昭和35)年であり、営業開始後に完成した建物もあったらしい。
 その実現に向けて利害関係などの調整に苦労が付きまとったのは、ここ上土通りも例外ではなかったらしく、産みの苦しみから営業を開始し大幅な売り上げ増加が実現するまでの経緯は、機関紙『不燃都市』(1966.No4)に記録されていた。

 こうした記録を読むと、不燃化商店街の形成は、実は全国各地で始まっていて、不思議なことに今日まであまり語られてこなかった、もうひとつの戦後の日本の建築の発達の流れを見るような思いがした。

    

 上土通りの新たな工夫としては、個々の店舗間の仕切り壁が取り払われ(シャッターで開閉可)、一続きの店内で買い物を楽しめる部分が設けられたことがまず挙げられる。またアーケードは2階が遊歩道となっていて、2階に店を構えることが出来るように設計されていた。現在のアーケードを見ると、なるほど歩くことができるようになっている。

 外観は、写真でも一目瞭然だが、屋上部分がフラットルーフによる独特のモダンなデザインであり、これが商店街としての統一感を醸成している。 また、各地に残る今泉ら不燃建築研究所の建物を見ると、上土通り同様、フラットルーフの屋上部分にモダンなデザインを施すことは、よく行われていたようである。

 そうした上土通りのファサードを眺めると、戦前に今泉が初めて創宇社の展覧会に出展した「連続住宅」(下図)をなんとなく想起させる。しかし戦前の計画案と戦後の建物との関係などの詳細については、今のところ明らかにされていない。

     

    

 かつては通りを挟んで東西にこうしたモダンな商店街が立ち並んでいたようであるが、現在は主に西側にその多くが残っている。
 洗練されたファサードのデザインは、あまり昭和30年代という古さを感じさせず、むしろ新鮮な印象を得たほどであった。最近、一般に再開発などで大きな箱のようなテナントビルに多数の店舗が収容される場合があるが、街路の散策を楽しみながらのショッピングということを思うならば、上土通りのケースは将来の商店街像へのヒントを含んでいるようにさえ思えてくるのであった。

    


 *1:「簡略 沼津商業界昭和戦後史」による


 
| 1960年− | 16:16 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
沼津市本通防火建築帯(沼津アーケード名店街)


西側竣工1953年,東側竣工1954年,静岡県沼津市,建設工学研究会(池辺陽,今泉善一,坪井善勝(構造)他),現存(撮影:2014年)

 以前、横浜の「防火建築帯」を取り上げた。今回はRC造の店舗併用住宅を共同化し、新しくもユニークな空間形式の商店街として話題を集めた、静岡県沼津市の「沼津市本通(ほんどおり)防火建築帯」を取り上げたい。またここは「防火建築帯」としても最初期の規模の大きな事例として知られ、民と行政が力を合わせて建設を成し遂げた功績に対して、1954(昭和29)年度の建築学会賞が授与されている。

 「防火建築帯」とは、防火壁の役目を担うために帯状に建て並べられた3階建て以上の建築群を指す。根拠となる法律は1952年に施行の「耐火建築促進法」であり、あらかじめ都市の必要箇所の道路に沿って防火帯を指定、建築にあたっては補助金の交付が可能となった。既にこの法律自体は役目を終えたが、終戦後の復興都市を形作る上で大きな役割を果たした制度であり、地方都市に建てられた数多くの防火建築帯は、現在でも相当数残っているようである。


「有階アーケード」の商店街
 この計画が実現するまでには越えねばならない問題があった。
 終戦後、木造商店が立ち並んでいた元の本通り商店街には、復興計画として道路の拡幅計画があり、それは既存の12.5mの道路の両側を3.75mずつ拡幅して計20mとしようというものであった。しかし拡幅予定部分には、既にRC造4階建ての百貨店が建つことが決まっていて計画は進まなかった。
 1952年に住民らが防火建築帯への編入を求め、市側もこれに賛同したことがきっかけとなり状況は動き始めた。一旦道路拡幅計画が中止された上で、両サイド3.75mの拡幅予定地を市所有の公共用歩廊とし、その上空は住戸建物用に無償貸与とするという打開案でまとまった。つまり、公共のアーケードの上に2階以上の建物が3.75mほど張り出すことになり、それが商店街空間の基本的な骨格をなすことになった。
 しかしこうした公共用地と民間の建物との重合は、普通はあり得ない。ここでは特に「建築協定」を結び「美観地区(*1)」指定を受け、建物の構造や形態、設備、色彩、看板などを細かく取り決めることを条件に認められたのである。例えば電線は背後に隠し、電話線を地中埋設することなどがあり、全国初の試みもあった(*2)。結果的にではあるが、コンクリートによるモダニズム建築が美観地区の指定を受けた例は、ここ沼津が唯一であった(*3)。


    
    
■竣工した「沼津本通防火建築帯」
 こうして建物群は2階建て一部3階又は4階として完成した。各住戸多くは1階を店舗、2階以上を住居としていた。ここで言う建物の「共同化」とは、RC造住戸を長屋状に連続させて1棟の建物としたものであり、これにより敷地の利用率は高まり防火上の安全性も確保された。ただ隣地境界線上にそのまま壁や柱を建てる場合が多く、各戸の間口寸法は皆一定とは限らなかった。
 問題の既存RC造百貨店も、一部を削って歩道とする形で建てられることで解決したそうである。

 有階アーケードはすべての棟に適用され、実際の構造はキャンティレバーという張出しによる部分と、そこにピン支柱が添えられた部分との2通りがある。
 構造について付け加えれば、防火建築帯は3階以上が基本なので、当初2階建てで建てられた部分も、あらかじめ、3階建てに増築することが可能となるように設計された。構造設計の担当者は坪井善勝である。

      
       
 RC造の新しい商店街は、南北の通りの東西に計7棟の建物が並び、その総延長距離は344mという、当時としてはかなりの規模を持つショッピングセンターとなった。「横のデパート」とも称され驚きを持って迎えられ、売り上げが6割伸びたとの記述もみられる(*3)
 もちろん規模だけでなくデザインも特筆に値する。アーケードでセットバックした建物はあたかもピロティ状にも見え、上階は連続窓が続く1棟の統一体としてまとまったデザインのファサードの様相を呈し、当時の人々に鮮烈な印象を与えた。この洗練されたモダニズム建築は、池辺陽や今泉善一らの設計力が発揮された結果なのである。

    

    
■池辺陽と今泉善一らの「建設工学研究所」
 まず設計者今泉善一の経歴について触れておきたい。
 戦前、今泉は大蔵省で製図工として勤めるかたわら、山口文象(岡村蚊象)が組織した「創宇社建築会」に参加出展していた。作品は、第7回(1929年)に「印刷工場」「連続住宅」,第8回(1930)に「共同組合アパートメントハウス」(道明栄次と合作)であった。1931年に共産党入党、翌年銀行襲撃に加わったとして逮捕投獄、1944年に出所し前川國男事務所に勤務、プレモスの開発を担当した。そして1947年、「新日本建築家集団(NAU)」結成に参加、NAU集団設計委員会において池辺陽に出会い親交を深めた(*2,*6による)。

 一方、坪井善勝や池辺陽らが運営する東大第二工学部の外郭団体「建設工学研究会」では、沼津市より防火建築帯の設計の相談を受けていた。そこで坪井が実務経験に長じた今泉善一を建設工学研究会に引き入れ、今泉を中心とした沼津の設計体制が出来上がった(*2による)。ただ恐らくは池辺と今泉のNAUにおける出合いがあったからこそ、こうした流れになったものと考えられる。
 池辺による商店建築の共同化の考え方は、特にモダニズムの考え方による統一したファサードの美を強調する方向に向いていた(*4)。その意味において沼津の有階アーケードは、建築がアーケードの機能を内包しており(仮設的な後付けアーケードと異なり)、池辺の考え方に適うものであった。

    

    
■池辺陽と今泉善一の「沼津以後」
 本通防火建築帯の完成以後は、池辺は防火建築帯の制度を(既存の街路に手を加えるにとどまるので)抜本的な将来の都市計画と比べて過渡的なものと位置付けるようになり、徐々に防火建築帯の計画から遠ざかるようになったという。
 しかしこれとは対照的に、今泉善一は沼津市本通防火建築帯を出発点として旺盛な設計活動を展開、1957年に「日本不燃建築研究所」を組織して全国各都市の防火建築帯を多数手掛けた。(後に、今泉は「本通り」の隣の「上土(あげつち)通り」でも防火建築帯の設計を行った)

    
    

■現在の沼津本通防火建築帯
 「アーケード名店街」という看板が立つ現地に私が初めて沼津に赴いたのは、昨年末のこと。当初は2階建てが多くを占めた商店街も、現在はほとんどが3階建て以上に増築され、全体的に見れば、ファサードのデザインはある程度統一感を損なう形で改装が加えられていた。ただ数か所旧態をとどめる箇所も残っており、特にアーケード北の入口のカーブした壁面に縦長窓が連続する当初の外観はなかなか印象的である。

 有階アーケードも商店街全体に渡ってほぼそのままの形で機能しており、当初からの建物の構造体がそのまま使われ続けている様子を窺わせていた。築後60年以上経過する大規模な建築群なのだが、現在取り壊されて失われた部分はほんの一部であり、間口距離にして約95%が現存するという計算である(下図2枚は、その時私が撮影した街並みの写真をつないで、現況ファサード図としてみたものである)。

 しかし驚くべきは店舗のほとんどが稼働中で、私が見たところでは空家は1軒のみだったことである。全国的な「シャッター街」化問題とは様相を異にしているように思えたが、やはりこれには理由があるらしかった。町づくりのアドバイザーとして長く商店街に根をおろして活動されているNPOの方の話によれば、やはり10年前には3割位が空家だったのだが、しかしある原因に気付いて対処したところ空家がほとんど無くなったということであった。お話を伺いつつ、粘り強く町づくりに尽力されている姿勢に大変感銘を受けた。

     

     

■生き続ける熱い志
 現地で何人かのお話しを聞いた。まず、当初から営まれているある商店の年輩の女性は、店主である亡きご主人手作りの店舗内装をひとつひとつ説明して下さった。
 先ほどのNPOの方の話によれば、この防火帯としての商店街が完成した頃は相当繁盛したこと、視察も相次ぎ、有名タレントを招いてのイベントが繰り返し催された時期があったことなどを話して頂いた。過去の繁栄だけでなく、これからの町づくりについても頻繁に会合が持たれているとのことであった。

 この戦後復興期の商店街の成功を「学民官三者協働の成果」と評する言葉を見かけたが(*5)、数時間滞在し地元の方と接触しただけでも、「民」である居住者の方の誇りと熱い志の灯が生き続けていることを実感することができた。



 *1:美観地区:「市街地の美観を維持するために定める地区」として1918(大正7)年施行。昭和8年に皇居周辺が指定、その他倉敷などが指定を受けた。平成16年景観法施行により廃止、美観地区は景観地区へ移行した。
 *2:『都市の戦後−雑踏のなかの都市計画と建築』(初田香成 2011年,東京大学出版会)
 *3:「美観地区に関する史的研究」(澤田充生,岸井隆幸 『土木史研究』16号1996年)
 *4:「商店建築の共同化について」(池辺陽,『建築界』1955年5月)
 *5:HP「沼津アーケード名店街」
 *6:「大森事件のことなど」(今泉善一(聞き手:本多昭一,藤森照信),『建築雑誌』1985年1月)




 
| 1950年− | 20:52 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
城内学園(きうちファッションカレッジ)
  
  1961年,静岡県沼津市,沖種郎,現存(撮影:2014年)

 丹下研出身の沖種郎による、都市デザインの延長線上にあって、都市と建築との融合をめざした計画の実例。あるいはそのモデルとしての建物と言えるのかもしれない。

    

 1960年代当時、「メタボリズム」に代表されるように、急激な人口増加への対応あるいは急速な高度成長の問題に対する解決策を求めて、都市デザイン的な提案が盛り上がりを見せていた。
 沖種郎は1961年2月の『建築』誌上において、「ジャングルジム・システム」とのタイトルを付した提案を行い、いくつかの計画案と実施作として「宮津市庁舎」と、この「城内学園」を掲載した。

    

       

 提案の中で、まず沖は近代技術がもたらす「人間疎外」を問題視し、そこで人間の生活と有機的に関連付けることが可能な都市のシステムを模索した。提案のタイトルに「建築デザインから都市デザインへの接近」と添え書きされているように、沖はマクロスケールの都市と生活する人間スケールの建築との融合によって解決を図ろうとした。
 具体的には、林立する大規模なコア柱とその間に架かり水平に延びる巨大な梁を恒久的な巨大なメジャーストラクチャーとし、そこに更新可能で人間スケールのマイナーストラクチャーの建築を取り付けるという二重構造による(この二重構造自体は、当時、割と普及した考え方ではあった)。
 このようにして多種多様な建築空間が生み出されるジャングルジムのようなシステムと、残された屋外空間とが有機的な関係を持ちながら結合することが可能になるわけで、この点がこの提案の核心となっているようである。
 「淀橋浄水場開発計画案」の例を挙げれば、上空を上述したようなジャングルジム状としオフィス空間として利用、跡地として残された地面は分譲され住宅地として活かされる、というものであった。
 おおよそこのような提案の内容であろうか。

    

    

 城内学園は、都市的視点からすれば小規模なモデルかもしれない。ひとつのコアから延びるRCの構造体があり、余白の部分は教室や執務空間となっている。またそこにはプレキャストコンクリートによる外壁という更新可能な部品が取り付けられているのが特徴となっている。またRC構造フレームのヴォイドな部分は、屋外の広場空間のように機能している。

 写真ではわかりにくいが、プレキャスト部材は木造家屋で見かける「南京下見板張り」をヒントにした水切りの工夫がなされていたそうである。内側には凹みが付けられ棚として利用が可能とのことである。

       

       



 
| 1960年− | 19:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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