収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」 ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その4)―

 まずは瀧澤眞弓による分離派時代の作品から。

(↓)第1回展《山岳倶楽部》。瀧澤の卒業制作。学生時代に見た青島総督府の強い印象が元になっている。

            

(↓)第2回《山の家》。表現主義的な傾向が強い作品。私見では音楽の流麗さやリズムを建築で表現したものとみている。

         

(↓)第2回展《入口試案》

                             

(↓)第4回展《公館》。「早稲田大学故大隈総長記念大講堂」すなわち大隈講堂のコンペ応募案。コンペの開催は1923年であったが、1924年の第4回展に出品された。

         

(↓)第4回展《野外劇場兼音楽堂》。この頃としては珍しく直方体による幾何学的構成による計画案。

           

 

4.「哲人村」―土田杏村と自由大学

 

4-1.土田杏村の自由大学
 神川村では児童自由画運動や農民美術運動と併行して、さらに自由大学の構想が実現に向けて進められていた。自由大学は今日言う生涯教育の元祖的な存在であり、官製の教育機関とは異なる選択肢として、一般の人々が哲学などの高等教育を自由に学び取る機会として考え出された。
 そのきっかけを作ったのは金井と共に活動していた神川村の山越脩蔵であった。山越は土田杏村に普通選挙に関する講演を依頼し(実現せず)、その後も土田に哲学講義を依頼したところ土田が関心を示し、哲学の出張講義を行った。この人気は高く1921年には内容を充実させた上で「信濃自由大学趣意書」を発表、設立に至った(1924年に「上田自由大学」に名称変更)。

 

 土田杏村(本名茂(つとむ),1891〜1934)(fig.6)は京都帝大出身、西田幾多郎門下に学んだ哲学者であった。新カント派の立場に立ち様々な実社会の事柄についても自説を唱え文明批評家としても活躍した。気鋭の学者として人気は高く、1934(昭和9)年に逝去するまでに遺した著作は膨大であった。日本画家土田麦僊は兄である。


 土田は自由大学と並行して山本鼎らの農民美術運動や児童自由画運動にも強い関心を示しており、それらと村の人々が様々な地域振興策を創造していることなどを紹介する記事を『改造』に寄稿した。その記事「哲人村としての信州神川」(1921(大正10)年夏)は、かつて例を見ない文化活動のメッカとなった神川村を讃え、そのことを初めて紹介したものとなった。

 

   都会文明の堕落に沈み切って居る人達は、かうした機会

   に田舎へ動いて行って、田舎の健全な、又謙遜な、地方

   主義個性主義の空気の洗礼を受けて来るがよい。(*4-1)

 

 土田による神川村に関する功績は、自由大学の構想、児童自由画運動、農民美術運動などを貫く根源的な意義を見通し、ある種の普遍化を与えたことであろう。特に山本が編集発行した『芸術自由教育』誌には土田の論考がいくつも掲載されており、関心の高さが窺われる。
 私なりにごく単純化して土田の考え方を読み取るならば次のようになろうか。土田は現代の機械文明の果てに生じた人間性の疎外、没個性化の弊害からの解放の道として、一般の人々の生活を捉え直すこと「人生=芸術」という視点に立つべきであることを唱えた。もちろん芸術とは言っても無理に贅沢なことを強いるわけでもないし、独善的な芸術至上主義でもない。ルネッサンス以降の天才芸術家による純粋芸術の普及を目指したわけでもない。土田は敢えて歴史的を遡り、理想化された中世文化、中世のゴシック建築やスコラ哲学を例にとり、宗教を基礎とした精神世界と生活の統合完結した共同体を思い描いた。その調和した中世の共同体の人々の生活は悦びに満ちており、現代に欠落したものをそこに感じ取ったのである。しかしルネッサンス以降の時代の変化によって神と決別した現代のことを考えるのであれば、対処もあくまで現代的でなければならず、決して懐古的に立ち戻るべきではなかった。結論としては現代人においても可能な限りイデア(理想)を追求する人生の営み、すなわち芸術をもってあらゆる人にとって人生の悦びとすることを目指すべきとしたのであった。

 

   芸術は贅沢に非ずして人生の理想、光りであり・・・人生全体はその

   統一の側面より見て芸術であると言ふ事が出来る(*4-2)

 

 農民美術、児童自由画、自由大学それぞれ一般民衆を対象としており、その本質は創造行為つまり自由なる精神による理想追求によって本来あるべき悦びのある人間生活を取り戻す実践であったということになろう。確かに前回述べたように、精神を解放され自由を手にした悦びは神川村の人々の心に行き渡ってたようである。先に触れたような男女共々助け合う農民美術の教室の日常、「芸術の日」のイベントなどは、土田がイメージした良き中世文化のエッセンスの現代的な表れであったのかもしれない。

 

4-2.瀧澤眞弓と土田杏村

 1922(大正11)年の早い時期、山本鼎は同年の平和記念東京博に農民美術作品をもって参加、その際に長野県出身で博覧会のパビリオン設計にも関与した「分離派建築会」の建築家瀧澤眞弓(fig.7)の存在を知り、農民美術研究所の建物の設計を依頼した。従って瀧澤と山本鼎や土田杏村らとの関わりも1922年から始まった。

 ところがどういう偶然か、建築家瀧澤眞弓は1922年以前から土田杏村を知っていただけではなく知り合いであったらしい(*4-4)。そして1922年2月頃に行われた土田の哲学講義の場で改めて再会したのであった。しかも両者の関係は単なる知り合いではなく、互いに思想面で影響を及ぼし合う関係だったのであり、つまり瀧澤を知る上で重要な発見ということになるので、以下もう少しこの件について触れておきたい。


 瀧澤が勤務先の学校紙に寄稿した述懐記事によれば、自らの大学進学に際して、芥川龍之介と土田杏村の2人に相談して建築学科に進むべきか決めたという。芥川との関係は、芥川は瀧澤にとって一高時代の先輩であったこと、そして名前への関心がきっかけであった。「瀧澤」は養子入りした後の姓であり実家は「矢羽(やば)」姓であったわけで、芥川は文学者らしく「矢羽眞弓」という旧姓名そのものに興味を感じたのだそうである。そして矢羽眞弓は芥川の学帽を譲り受ける間柄となった。ただ土田杏村との出会いの経緯については特に説明はなかった。記事の中で大学進学前に専攻科目を決めるのにあたって、瀧澤は次のように語った。

 

   私は学校時代から数学、なかんずく計算と云ふものをよく間

   違へる方で始めは電気をやらうと思つていたが、どうも計算

   の方に自信がかへつて絵を書いたりする手先の仕事が巧いの

   で建築の方をやらうかと思つて、芥川さんに相談すると是非

   やれとの事で土田さんも大賛成をして呉れた、私が建築に志

   したといふのは此の二人におだてられて入つた様な形でして

   ね・・・(*4-3) 

 

 またこんな話もある。これは金井正の評伝『夜あけの星』に書かれていた内容である。1922年2月頃、山本鼎が設計を依頼した瀧澤にその構想を話す打合せをしていたところを金井正らが山本宅を訪れ、建築家瀧澤を初めて知ることとなった。金井らは「芸術の日」のイベントを企画し、蓄音機でベートーヴェンやシューベルトのレコードコンサートを行うことが決まり、そのポスター画を山本に依頼しに行ったのであった。山本と瀧澤の打合せが済んだ後、金井はちょうどこれから土田杏村の哲学講義があることを告げたところ、山本が酒でも飲もうと誘ったのを瀧澤は辞退し、土田の講義の聴講を希望したのだそうである。そして講義が終わった後、以下のようにしめくくられていた。

 

   二人は旧知の間柄ででもあったかのように打ち解けて話し合ってい

   た(*4-4)

 

 つまり既に旧知の間柄という事実があり、既にお互いの考えを知った上で話に花を咲かせていたのであろう。

 尚、瀧澤が土田から影響を受けていたことは、早世した土田への瀧澤による追悼記事からも明らかである。

 

   もとより私は杏村を兄とも師とも仰いだ。しかも、私は思想家杏村

   の所説に服するよりも人間杏村に敬慕した。(此の事意外に思ふ人

   もあらう)しかも杏村の懇切な指導がなかつたならば私の専門研究

   も途中で勇気を失つたかも知れない。杏村は私にとつては恩人であ
   る、が同時に私が専門外の畑に脱線する事に拍車をかけるやうにな

   つたのも多分杏村のお蔭である。私は杏村のオダテに乗つたのであ

   る。(*4-5)

 

 

4-3.「音楽と建築」
 瀧澤と土田はほぼ同じ時期に音楽芸術を拠り所とした言説を残している。それが偶然なのかどうかはわからないが。瀧澤は1921年10月の第2回分離派展に合わせて「音楽と建築」という論考を発表した。過去様式の模倣から分離しかつ建築を芸術の一分野であると主張した分離派の建築家達はそれぞれ新しい創造のあり方を模索したが、瀧澤の場合は、単に音楽好きであったのみならずそこに造形の原理を求めた。「音楽と建築」ではまず直感的印象から、建築の造形に置き換えることへの関心が述べられる。(音楽と建築すなわち「時間」と「空間」へのこだわりは本人も言うようにアインシュタインの相対性理論からの影響が強く、瀧澤はその後もこれを起点とした研究を続けた(*4-6))

 

   もし、音楽を汲み立てている、ひとつ一つ一つの音の夫々に、各特

   有の色と共に形とマツスとを与え、音楽の時間的な連続に応じて其

   色、形、マツスを有する立体を、空間的なダイメンションに於いて、

   配列乃至堆積して見るならば、私共は其処に、文字通り、氷結せる

   音楽を作り出す事が出来るであらうと。(*4-7)

 

 ちなみに音楽の流動的でリズミカルな部分を直感的に形に置き換えたものが第2回展に出品した「山の家」のモデルではないかと私はみている(fig.2)。以下に喩えられたように。

 

   音楽は直ちに、美しき線の交錯となり、奇しき立体の集団となり、

   互いに縺れ合ひ、響き合ひ、而も尚ほ其奇麗な組織を失う事なく無

   限の空間に踊る様に感ぜられます(*4-7)

 

 しかしこの論考の後半部分は瀧澤なりの音楽に関する分析であり、その結果として音楽の数学的な抽象的芸術性を論じた。つまりは幾何学形態、瀧澤いわく「豆腐形」立体を最小単位とする造形を打ち出す。純粋幾何学形態によるモダニズム的な指向がこの時には垣間見られる点には驚かされる。ただ「豆腐形」が実を結んだ作例はというと、《野外劇場兼音楽堂》(fig.5)にややそうした傾向を感ずる程度なのだがどうであろうか。

 

 一方、土田杏村も上述の瀧澤の論考に先立つ1921年8月「第二ルネサンスと芸術」の中で音楽と芸術についてこのように語っていた。

 

   すべての芸術は音楽の方向へ憧憬れているといふの

   は、要するに芸術に属する絵画や彫刻や詩やが、す

   べての感覚的要素を罷脱して音楽のそれの如き純粋

   理想形を憧憬れて居る、換言すれば、芸術一般とし

   てのイデアを追ふて居ると言つたのであらう。

   ・・・・その理想図形を追ふこと自身は我々の意識する

   生命活動である。(*4-8)

 

 音楽に代表される理想を求めるギリシャ古典哲学に息づく精神は、(一握りの天才のためではなく)あまねく民衆の生活に浸透したものとして、第二のルネッサンスとして、再度待ち望むという主旨なのであった。

 土田は中世文化を例に挙げたように、本来芸術は民衆の生活に密着したものであるはずであった。しかし産業革命以降の機械時代にあってはそれが生活全体を構成するべきであるとし、昭和期の土田の著書ともなると明確に近代の機械芸術を肯定的に扱うようになった。(逆にその頃発生した「民芸運動」については、手工業による少量生産を範とする懐古主義であり有閑芸術論者の所業と批判した)

 土田は昭和初期の著書の中でコルビュジエの語りのように汽船を賛美したが(*4-9)、実は瀧澤の情報提供によるものであった(本瀧澤本人の弁による)。また私が最近のブログに示したように、瀧澤による土田の著書の装丁デザインを発見した(fig.8)。この希少なグラフィック作例は、何より土田と瀧澤の相互の思考を高め合おうとした絆の証しなのではなかろうか(続く)。

 

 

*4-1:「哲人村としての信州神川」(『改造』,土田杏村, 1921夏季臨時号)
*4-2:「芸術教育論」(『芸術自由教育』,土田杏村,1921.8)
*4-3:「家庭の教授訪問記 学生時代は矢羽根姓を名のり芥川龍之介・土田杏村の奨めで建築に志す 瀧澤教授之巻」(『神戸高工新聞』,1936.11.10)
*4-4:『夜あけの星』(小崎軍司,1975)
*4-5:「土田杏村を憶ふ」(『神戸高工新聞』,1934.5.10) (この記事では土田との出会いを1922年秋の土田講義の時としており、(前掲書(*4-4))と辻褄が合わない。その後の記事(前掲書(*4-3))において訂正したものと解釈した。)
*4-6:時間と空間の相対的な関係への意識は、さらに空間の歪み、ギリシャのパルテノン神殿の視覚補正の探究へとつながった。
*4-7:「音楽と建築」(『分離派建築会の作品』(第二刊),瀧澤眞弓,1921.10)
*4-8:「第二ルネッサンスと芸術」(『中央美術』,土田杏村,1921.8)
*4-9:「モダアニズムと機械時代(一)」(『文明ハ何処へ行ク』,土田杏村,1930)

 

fig.1:『分離派建築会宣言と作品』(1920)より

fig.2,3:『分離派建築会の作品』(第2刊)(1921)より

fig.4,5:『分離派建築会の作品』(第3刊)(1924)より

fig.6:『土田杏村全集』より

fig.7:第1回分離派展開催時の記念写真より

fig.8:筆者所有本

 

 

 

 

 

 

 

 

| 1920年− | 15:22 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」 ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その3)―

 農民美術練習所設立頃の練習生による作品から。下の写真は男子による木皿、木鉢、人形白樺巻など。ちょっと見えにくいが、「白樺巻」とは白樺の皮を筒状に巻いて底とふたを付けた細工である(fig.1)

 

      

 同じく下は女子による作品(fig.2,3)。刺繍されたクッション、手提げ袋、テーブルクロスなど。練習生の村人は若い男女が多かったようである。それにしても女子の作品の「かわいい」のセンスは今も昔も変わらないようだ。クッションを見ると、若い二人の男女が仲良く農作業に励む様子がいともさらりと図案化されているように見えるのだが・・・(もしや思いを寄せた男子へのプレゼント?)。

 

 

      

 拡大してみると、以下の通り。

 

         

 下の木彫りの人形は人気の高い「木片人形」。「こっぱ人形」と読む。踊る農民、登山する人、スキーやスケートをする人など、デザインには素朴さや地方色を考慮し、商品性と作品性を兼ね備えることに心血が注がれた(fig.4)

 

     

 

 

3.神川村の芸術運動

 

3-1.農民美術運動と児童自由画運動

 1916(大正5)年の暮れに帰国した山本鼎は、翌年早々父親が開業した医院のある長野県の神川村に向かった。地域振興に意欲を燃やす青年らがロシアの思い出話を聞きたいというのである。富農の家柄に生まれた金井正やその後輩の山越脩蔵らは強い関心持ち、彼らの協力を得て児童画運動や農民美術運動が展開されることになった。特に農民美術においては事実上の片腕として、金井正が経営面で果たした役割は大きかったと言われる。

  1919(大正8)年10月に山本が金井との連名で書き村人に配布した「農民美術運動建業の趣意書」に、農民美術が何であるかが書かれている。

 

   農民の手によって作られた美術工芸品のことであって、民族若しくは地方的な

   意匠、―素朴な細工―作品の堅牢等がその特徴とせらるる・・・(*3-1)

 

 農閑期の副業として手工芸品を制作しそれを販売、副収入を得ることできれば生活も潤う。またそうした発想に加えて「一般の美術趣味の裨益」(*3-1)すなわち生活そもののを創造的で潤いのあるものとすること、芸術は専門の芸術家が独占物ではなく、むしろ普通に暮らす人々にこそ大切な生きる意味をもたらすものとなるという考え方に支えられた運動であったと考えられる。

 芸術を農民ら一般の人々の生活の一部に取り込むとはいえ、何の素養も下地もないところから創作することは無理な話でもあるので、山本を筆頭に専門の講師を招いた教習が行われ、それが「農民美術練習所」の始まりとなった。しかし実際始まってみると農民練習生が自発的に表現し創造性を発揮したので、山本はそれを尊重した。一方で山本自身が手本不要の自由画教育を行ったわけであるから当然とも言える。

 

 農民美術と並行して行われた児童自由画運動(順序としてはこちらが先であったが)も、山本による1918(大正7)年の講演を手始めにスタートした。手本の模倣を強いることは教育的とは言えない。そんな「不自由画」を脱却し自由に創造性を発揮することの意義を浸透させるには実際にやってみるのが効果的であった。つまり児童画展覧会の開催であった。その第1回展では1万点に迫る児童画の応募があったのだが、それを審査した山本は手本を上手に模写した大半の作品を選から外し、自己の思いを直接表出した個性ある作品を入選作とし、人々に衝撃を与えた。

 山本にとって農民美術も児童の自由画も、人に本来備わった自由な精神、創造性を涵養し開放に導くことこそ何にもまして重要であると考えていたことは明らかであり、またそれは他の何物にも優先されるべきものであった。山本はこう語った。

 

     私の理想郷(ユートピア)には、自由を抑制したがる「宗教」もなく、自由を

   圧制したがる「政治」もなく、ただ、自由の生長醇化に到達する「芸術心」の

   支配があるばかりだ(*3-2)

 

 当時の社会は、社会主義など新しい政治思想が流布しつつあった。しかし山本は芸術がそのための道具に陥ることを嫌った。プロレタリア美術運動が政治手段化してしまった当時の傾向を批判したこともある(*3-3)。また高崎で児童画展覧会を企画した際のこと、地元の若き井上房一郎がその趣意書を作成したのだがそこにアナーキズム(無政府社会主義)の提唱者クロポトキンの言葉を引用していた。当時の状況からして、そのことに気付いた県側は警告を発し、結局展覧会の縮小を余儀なくされることとなってしまったわけだが、山本は「過激思想」が引用されたことに不快感を表明した(*3-4)。

 


3-2.農民美術練習所の始動

 募集に応じた練習生は当初神川小学校の教室を練習所として、農閑期の12月から3月までの間にかけて講習と制作を行った。受講料は無料、第一期には男子7人女子13人ほどの男女が集まった(fig.5)

 

      

 

 冒頭で示したように木片人形、彫刻を施した木製の皿具、煙草入れ、白樺巻、刺繍や染色を施した布製品など多数の作品が作られたが、積極的に先行する北欧やロシアなどの事例を参考にしたためか、それらと似たあるいは「意図的に似せた?」作品も作られたようである。純粋な芸術と違い完全なオリジナリティーを追求することについてはやや鷹揚さを許していたようである。

 例えばロシアのある地方で作られている土人形(ディムカヴァ人形)を、山本が「土ひねり人形」と命名してその日本版を作ろうとしていたようである。下のような広告を見ると、北原白秋が歌を付けて商品化してたことが窺われる。(fig.6)   (参考までに、右下はロシア(おそらくソビエト時代頃の)のディムカヴァ人形)(fig.7)

 

  

 

 神川村の農民美術が可能性を実感したのは、東京の三越呉服店における展示即売会の成功であった。最初の練習生のひとり中村實によれば、作品が1日半で約600点もの作品のほとんど売れ、さらに予約注文まで舞い込んだのだそうであった(*3-5)。ともあれ農民は副収入を現実に手にすることができたのである。
 生産組織も整備され、1922(大正11)年に講習を終えた者は「日本農民美術生産組合」に所属することになった。原材料がそこで一括購入され、また売上代金から材料費を清算した上で制作者に報酬を手渡すといったしくみが整えられた(*3-5)。農民美術が普及するにつれ、こうした組合が県内外に相当数が作られるようになった。

 但しこうした運動に対しては、様々な批判が起こるものである。工芸家の高村豊周は、「美術」を標榜する割りには農民美術は力量が伴っていないことに苦言を呈した(*3-6)。また民芸運動の創始者柳宗悦は、農民の副業として始まった農民美術がやがて「専業」化していった状況を捉えて「堕落している」と批判した。これについては農民作家となった中村實が反論した。骨董品を崇めるような民芸運動のあり方に疑問を呈した上で、柳に対して以下のように皮肉まじりに反応したことが述べられている(*3-5)。

 

   「自分では何も作らないくせに、ようしゃべくることが上手な人でごわすなあ」

    (*3-5)

 

 

3-3.「農民美術学校」の構想と芸術村的風景

 山本鼎は農民美術運動を立ち上げて半年を経た1920年には「農民美術学校」として整備する構想を抱ていた(*3-7)。敷地の提供は受けたものの建設資金はなかったので、すぐに行動開始というわけにはいかなかった。しかし山本の胸中には諸工房の他、男女合計約100人を収容し得る教室、他府県からの受講者約20名のための寄宿舎を設け、染料や素材を育成する工芸用庭園の整備するなど、夢は大きく膨らんでいた。寄宿舎つまり生活機能を持たせようとした点は、開かれた形における生活共同体づくりへの指向を、なんとなく匂わせる。
 1921年6月の「芸術自由教育」誌には金井正の設計による新しい練習所の試案が掲載されており、素人ながらその間取りのアイデアはなかなか興味深い(fig.8)。ヨーロッパ中世の修道院に造られた中庭(クロイスター)つまり瞑想のための列柱が並ぶ中庭に見立てた部分を取り囲むように、伝統的な和風の縁側と工房が配置されるという案なのであった。皆が夢や理想を描いた、最も幸福な時期であった。 

        

 1922(大正11)年1月、それまでの神川小学校や金井家の蚕室から、小さな平屋の建物ながらも常設の通称「蒼い屋根の工房」と呼ばれた工房に移った。場所は大屋駅北側の小高い敷地であり、翌年にはその隣に瀧澤の設計による建物が建つことになる。

 練習生の日常風景はと言うと、一応形の上では男子部と女子部とに分けられていたが、講師の村山桂次(村山槐多の弟)によって以下のように描写されている。

 

    「作業に飽きたら男女共々コーラスを歌い、野を散歩し、女子が男子の繕い

     物を手伝えば、雛祭りになると今度は男子が女子のために手料理を振る舞

     うこともあった(*3-8)。」

 

 当時の閉鎖的な男女関係を思えば、農閑期の数か月の生活は練習生達にとってバラ色の別天地であったに違いない。中村實の述懐によればやはり想像通りであり、小学校の教室を借りて「いい年をした男女がキャーキャー騒ぎ」といった状況を横目で見る教師や村人の評判は当然良くはなかったらしい。しかし本人曰く、しっかり良い思いをしていたとのこと。中村は同窓の女子と恋愛結婚に漕ぎつけたとも語っている(*3-5)。
 また1922(大正11)年2月には「芸術の日」と名付けられた催しが行われ、SPレコードのコンサートや寸劇などが披露された。

こうした文化イベントが開催されるなど、短期間のうちに自由な空気が大正時代の一農村を覆い、生活に芸術が結びついていった様には驚くばかりである。山本が日本に紹介したロシアのタラーシキノの芸術家村を彷彿とさせる光景が日本にも芽生え始めていたかのようでもある。

 最後に、山本の甥の村山槐多もこの地で活動し、短くも奔放な生涯を送ったこともここに付け加えておかねばなるまい。

 

 次回から、ようやく建築家瀧澤眞弓が登場する(続く)。

 

 

 

ーーーー最後におまけ画像----

 農民美術研究所は昭和10年には閉鎖されたが、一度燃え盛った創作への思いは途絶えることなく脈々と受け継がれている。今日でも上田近辺では農民美術の流れをくむ工芸品に出会うことができる。例えば下の写真のようなものがある(fig.9)。鳩の青い楊枝入れは、鳩の砂糖壺と共に人気が高いようである。

 

            

 下の木製のペーパーナイフは戦後の作であろうが独特の装飾が彫られており、紙箱の「農美」のシールも雰囲気がある(fig.10)

 

            

 

 

 

  *3-1:「農民美術運動建業之趣意書」(山本鼎,金井正,1919)  
  *3-2:「巻頭言」(『芸術自由教育』,山本鼎,1921.4)
  *3-3:「美術界時評」(『アトリヱ』,山本鼎,1930.1)
  *3-4:「クロポトキンの祟り」(『芸術自由教育』,山本鼎,1921.4)  
  *3-5:「信濃の彫師 中村實」(『技術と人間5』,深沢武雄,1973.4)
  *3-6:「農民美術の価値」(『中央美術』,高村豊周,1921.7)
  *3-7: 「農民美術建業の趣意及其経過(展覧会目録より)」(『みづゑ』,山本鼎,1920.7)
  *3-8:「青屋根以前」(『農民美術』,村山桂次,1926.6)

 

     fig.1-3:『みづゑ』(1920.7)より

     fig.4:『農民美術」(1924.9)より

     fig.5:『農民美術』(1926.6)より

     fig.6:『アトリヱ』(1930.1)掲載の広告から

     fig.7,9,10:筆者所有

     fig.8:『芸術自由教育』(1921.6)より

     

 

 

 

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瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」  ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その2)―

2.美術家山本鼎

2-1.山本鼎について
  山本鼎の功績を顕彰し資料を保存する「上田市山本鼎記念館」(fig.1)が、山本勝巳の設計によって上田城公園の一角に建設されたのは1962(昭和37)年であった。最近は新しく建った上田市美術館その機能は移管されたが、現在でも瀧澤による農民美術研究所の図面などを含む多くの資料が保存されている。

 

       

 

 山本鼎関連の情報は本人自身の著作もあり割と充実している。ここではそれに加えて旧山本鼎記念館が発行した山本鼎に関する解説書、小崎軍司による詳細な評伝などを参考にしてその活動の経過について触れてみたい。
 山本鼎は1882(明治15)年に愛知県岡崎市に生まれ1946(昭和21)年に没した。幼少の頃東京に移住して木版工房の徒弟となるが上達ぶりは抜群であり、伝統的な印刷技術としての版画を芸術作品の域に高めた。1904年に『明星』に発表した《漁夫》(fig.2)は版画とはいえ「自画、自刻、自摺」つまり作者がすべての工程を行い、原則ひとつの作品の創作を行う道を編み出した。これは創作版画の起点とされ、あるいは「刀画」とも評された。また雑誌『方寸』を共同で発行し創作版画の普及を図った。この頃より山本が好んで描いた題材には市井に暮らす庶民が多く、この頃から既に後の農民を対象とした美術運動を予感させるものが感じられる。一方絵画の技量にも優れ東京美術学校を卒業している。

 

2-2.ロシアでの経験
 1912(明治45)年、山本はフランスへ渡航しボザールで学んだ。しかし第一次世界大戦が勃発すると戦火はパリにも押し寄せ、やむなく帰国の途についた。北欧を経てモスクワにたどり着いたのは1916(大正5)年、ロシア革命前年のことであった。
 ロシア滞在は山本にとって思いがけず興味深い体験を積む機会となったようであり、平田領事の別荘に起臥し作品を残し、結局短期間の経由地の予定が約5か月間滞在することになったという。例えば片上伸と知り合いトルストイ邸を訪れ夫人との会見を果たした。山本自身あまり言及していないようではあるが、農民の教育を行ったトルストイの人道主義的行動に触れたことは、農民や児童などと共に芸術活動を行う発想の下地となったのではなかろうか。ロシア滞在の記録は山本が著書『美術家の欠伸(あくび)』の一章「農民美術と私」の中で詳細に触れており、とりわけ三つの出来事が印象深かったと記していた。

 まず第一「児童創造展覧会」を見学しロシアの児童が自由に描いた絵画を見学したことであり、これは逆に日本の嘆かわしい図画教育の現状を思い知らされることになった。その当時の日本では「新定画帳」という教科書の絵を手本として上手に模写させることが児童の図画教育とされており、そこに個人の創造性を発揮する余地はほとんどなかった。山本は帰国後、人間の早期段階における創造性の開発の必要性を感じ、「児童自由画運動」としてこれを推進することになった。これについて山本は後に自著の中でトルストイの言葉を引用しながら触れていた。

 

    トルストイは「児童について人の道を学べ、児童は未だけがされず、

      ―彼れ等にとりては人々皆同じ」と云ったが、私は児童等の鮮やかな

    創造力に驚く者だ。日々社の展覧会の時に、石井鶴三君は感嘆してか

    う云った。「・・・子供はみんな天才なんだ」と(*2-1)。

 

 第二「農民美術蒐集館(しゅうしゅうかん)山本の言葉による「クスタリヌイミュゼ」を見学したことであり、農民が副業として制作した工芸品を展示販売するのを目にした。山本は帰途上、ここで買い求めたいくつかの工芸品(fig.3)を眺めつつ日本における農民美術運動を構想した。 

 

 

                  

 

2-3.山本が観た「嫁とり唄」、タラーシキノの芸術村
 三番目の経験は山本の帰国後の行動に直接影響を与えることなはかったが、やや個人的に興味深いエピソードと感じたので敢えてここに記しておきたい。山本いわく、それは「農民音楽」という農民による歌を伴う舞踏であった。ある晩、山本は音楽学校において小ロシアの老若約30名からなる農民の一団による歌と踊りの試演を観覧し、その中でも「嫁とり唄」の舞踏が印象深かったと記している。

 

    彼らの村の婚礼の祝宴をありのままに表したもので、始めに婆さんが唄ひ、

    次いで娘が、左手を腰に支え、右手をかざし、小きざみな脚踏で踊りなが

    ら唄ひ終ると、今度は全部の男女が、皃とろとろ(*2-2)のやうに列になっ

    て大きく輪を描いてめぐり、その廻旋を次第に早めてゆく、すると、酔ひ

    どれに扮した(あの時は多分扮したのだろう)禿頭のおじさんが両手を挙

    げてわめきながら、その輪のなかへよろけ込んで、巧みに一種の調子で人々

    の間を縫いながら踊り合してゆく(*2-3)

 

 この踊りとは別に、農民らによる芸術活動と言えば、例えばモスクワから西へ400劼砲△襯好皀譽鵐好市郊外のタラーシキノにおいてマリア・テニシェワ侯爵夫人が開設した農民美術の芸術村が活動していたことが知られている(fig.4,5) 。そこでは農民によるペザント・アート(Peasant art)の作品が生み出され、またテニシェワ夫人も芸術家のパトロンとしての役割を果たしていた。現在も、そこで教師として活動したマリューチンの設計による以下の美しい建築物が残っている。

 

 

       

 

 山本はタラーシキノを実際に訪れたわけではないもののかなり影響を受けたようであり、帰国した後そこで行われていた農民美術(fig.6,7)について、自ら発行した機関誌『農民美術』において、以下のように『タラスキノ旅行記』の一節を孫引きながら紹介した。農民が彫刻を施した劇場が備えられていること、農民自らが創作オペラ作りなどに没頭する芸術家村らしい光景などが語られている。

 

    タラスキノの小劇場は丈夫な木造りで・・・・面白いことに装飾技手達は、同

    時にその劇場の俳優ともなるのである。「私は蜂の巣を突ついたやうな大

    騒ぎを目撃した。それは田舎での大事件であるところの素人芝居がはじま

    らうとする前の騒ぎであった。相当込み入った「七騎士物語」を出すした

    くで、人々は連合楽譜(*2-4)を作ったり、博物館から借りてきた衣装と

    釣り合いのとれるやうな立派な衣装を新調することで大汗をかいているの

    であつた。アトリエの生徒達は仕事をしまうと、急いで衣装を着け、せり

    ふ稽古にかかり、舞踊を練習し、或は又オーケストラに加わつて手ならし

    をするのであった、―彼らは、夜になつてそれがおしまひになるのを、ひ

    どく悲しがつた」(*2-5)

 

       

 

 ここで私が個人的にちょっと気にかかったのが、山本が実際に見た「嫁とり唄」の舞踊の方である。若い娘による「小刻みな足踏み」や「旋回を早める輪舞」が老婆の踊りと相俟って繰り広げられる土俗的な踊りのせいだろうか、近代音楽の金字塔として名高いストラヴィンスキー作曲のバレエ音楽「春の祭典」(1913年)(fig.8,9)を思い浮かべた。下の写真は初演時頃のものと言われる。これらなどから最近復元された、ニジンスキーによる初演時の振り付けに共通するイメージを感じはしまいか(「Riot at the Rite」という最近制作された再現ドラマの後半、シャンゼリゼ劇場初演のセンセーショナルな場面によく描かれている)。


 「春の祭典」は神に捧げるいけにえに選ばれた少女が息絶えるまで踊る、といった内容のバレエ音楽である。一応作曲の経緯を調べてみたところ、実際にストラヴィンスキーは舞台美術家ニコライ・レーリッヒに呼ばれてタラーシキノを訪れ1911年に両者で「春の祭典」の構想を固めていたことが色々な著書に書かれていた。『ロシアの農民美術』(*2-6) にはテニシェワ侯爵夫人の屋敷に滞在して作曲したともある。しかし「春の祭典」は古代スラブの原始的なイメージから構想されたとされ、音楽もリトアニア民謡などを元に創作されていたことが判明している。

 結局のところ、山本が見た「嫁とり唄」の舞踏イメージとの関係は何も分からなかったが(恐らく直接の関係はないのかもしれないが)、もしかしたらそれと同様の踊りなどの総合的なイメージが振り付けにつながった可能性はなくもないように思えた。何よりも、ほぼ同じ時期にストラヴィンスキーと日本の山本鼎という(超意外な取り合わせの)芸術家が、タラーシキノの芸術村という点で接点があったことはなかなか感慨深いものがある。
 ・・・どうも話が脱線してしまったようなので、今回はここまでにする。(続く)

 

      

 

 *2-1:「自由画教育の要点」(『美術家の欠伸』所収,山本鼎,1921)
 *2-2:「児とろとろ」:不詳、「花いちもんめ」のようなものだろうか?
 *2-3:「農民美術と私」(『美術家の欠伸』所収,山本鼎,1921)
 *2-4:総譜(スコア)を指すのか
 *2-5:「タラスキノの農民美術」(『農民美術』,山本鼎,1924.12)
 *2-6:『ロシアの農民美術』(遠藤三恵子,2007))


 fig.1:筆者撮影(2016年)
 fig.2:『山本鼎』(小崎軍司 山本鼎記念館友の会,1969)より
 fig.3:『農民美術』(1924.9)より
 fig.4,5:wikipedia commonsより
 fig.6,7:『農民美術』(1924.12)より
 fig.8:『ストラヴィンスキーの音楽と舞踊作品研究』(柿沼太郎,1942)より
 fig.9:『ストラヴィンスキイ自伝』(1936)より

 

 

 

 

 

 

 

| 1920年− | 01:17 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」 ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その1)―

1.序

1-1.はじめに

 分離派の建築家瀧澤眞弓が設計した「農民美術研究所」の建物(fig.1)について書こうと思い立ったのは1年位前のことだろうか。実はそう思って調べ始めたところ色々と発見があり、(言い訳がましいのだが)のめりこんでいたらブログも休眠状態となってしまった。そこでこの話題にていざ再開、と思うのだがやはり山本鼎や上田の人々が興した農民美術運動そのものが結構興味深く、また私が思うに分離派瀧澤の思考にとって密接な関係があったという結論に至った。さらにそれらを語る上で、土田杏村という今日ではあまり語られなくなった思想家の存在が欠かせないことにも気付いた。

 そのようなわけで山本の芸術運動と分離派瀧澤の大正時代の営み、この両者を併せて読み物的にまとめてみようと思う。少々長丁場の連載物になることをお許し頂きたい。

 

     

 農民美術運動は当時の長野県小県(ちいさがた)郡の神川(かんがわ)、現在の上田市を舞台として大正中期から昭和初期にかけて興った。山本鼎が主導した農民美術運動児童自由画運動、また土田杏村が中心となって始まった自由大学運動など、大正時代のとある長野県の農村に、閃光ひらめくが如き文化芸術運動が出現していたのだった。尤も神川村は養蚕特に蚕種業などで比較的豊かであり地域振興に意欲的な土地柄という要因が、多少後押ししていたとは思われるが。ちなみに農民美術運動とは、農民が農閑期に工芸品などの制作を通して収入を得ることを目的とし、また同時に一般の人々の生活と芸術の調和を目指した運動でもあり、山本鼎がロシアで直接に見聞した経験をモデルとしつつ、土地の人々と共に進めた営みであった。

 

1-2.農民美術研究所ー建物の概略

 農民美術運動は山本鼎と神川村の金井正とが連名で1919(大正8)年に趣意書が配布した時をもって始まった。もうすぐ発足してから100周年目を迎えることになる。
 山本鼎はその本拠となる建物の設計を、1922(大正11)年の早い時期に瀧澤眞弓に依頼した。同年に開催された平和記念東京博に農民美術作品を出品した際、山本が長野出身でパビリオン(fig.2)の設計に関与した分離派の建築家瀧澤眞弓を知ったことがきっかけであったことが、小崎軍司の『山本鼎評伝』に記されている。またその年の2月頃、山本の家で設計の構想を瀧澤に語り、それが済んだ後瀧澤は地元の金井らと土田杏村の講義を聴講するため上田に出掛けたことも記録されている(*1-1)

 こうして図面は7月に完成し、細川護立らの寄付を得て10月下旬に着工した。年末には外観が姿を見せ、翌年4月にはすべて完成した建物の開所式が盛大に行われた。

 

 建物の外観は一見した限り急勾配屋根のバナキュラーな木造民家風であり、分離派が目指した既成のデザインから離脱した先端的なデザインを思うと拍子抜けするかもしれない。つまり瀧澤の他の作品はドイツ表現主義建築の影響が濃厚であったこともありギャップを感じざるを得ないのである。ただ竣工当時の地元の人々の反応は北欧風のエキゾチックなたたずまいに、西洋風の建築として新鮮な驚きをもって迎えられたとされ、好意的な評判を得ていたようである。

 瀧澤の書簡には木材の一部に「赤黒色」で着彩を施したとの記述があり(*1-2) 、カラーリングした点からして日本の伝統的な農家とは異なる西欧風の印象を与えようとしていたことが判る。また良く見れば近代の新しい目を持った建築家瀧澤の造形感覚も垣間見えてくる。三角形や四角形に縁取りされた窓、何より三角柱に整理された屋根などを見るとシンプルな幾何学形状に還元しようとする意思が感じられる。この点など詳しいことは次回以降に触れてみたい。

 

 農民美術運動そのものはそう長くは続かず、1935(昭和10)年に国からの補助の打ち切りによって頓挫した。しかしながら作品の制作そのものは専門の工芸家としての後の世代に受け継がれ僅かながら命脈を保ち、上田近辺では今日でもその流れを汲む作品を目にすることができる。

 また農民美術研究所の建物も既にない。1940(昭和15)年の時点で建物は売却され大屋区の集会所となり、その後は乳業会社の牛舎として利用された。戦後になると建物の老朽化は目に余るようになり、結局1955(昭和30)年に惜しまれつつも解体された。現在、建物が建っていた辺りは盛土され、コンクリートの擁壁が築かれた上は廃棄物処分場となっている。下段に残る僅かな古い石垣のみが往時を偲ばせている(fig.3,4)。  

 

  

 

 さて瀧澤に限らず分離派の建築家の作品を思い起せば、農民美術研究所同様に田園指向の強い作品を生んだ建築家は意外と存在していたことに気付く。最も有名な作品は堀口捨己による茅葺きの《紫烟荘》(1926年)(fig.5)であろう。民家研究に勤しんだ蔵田周忠も大正期には田園風の住宅をいくつも設計しており、中でも《聖シオン会堂》(1926年)(fig.6)は木造急勾配屋根の特徴的な建物であった。しかしやはり同種の建物の中では瀧澤の建物が最も早く建っていたことになるであろう。これら分離派建築家それぞれの田園住宅を探る事は今後の研究テーマとしても興味深いと思う。

 

     

 

 そこで私が最も不思議に感じたことは、当時新進の若手建築家であった瀧澤にとって農民美術研究所が(仮設のパビリオンを除き)初の本格的な建築の実施作であったのにもかかわらず、建築関係の公の場例えば分離派展などをはじめどこにも発表することがなかったこと、そして殆ど忘れ去られたままであったことである。分離派展なら1923年の第3回展がちょうど良いタイミングだったのだが出展の形跡は見当たらない。このことは色々と憶測を呼ぶ。瀧澤自身がこの建物を発表したくなかった訳があるのだろうか?単にタイミングを逸しただけなのだろうか?


 こうした疑問がきっかけとして、私は瀧澤の農民美術研究所に関する言説の有無を調べてみた。その結果、山本鼎が発行した農民美術研究所の機関誌『農民美術』(1925.1)に寄稿した瀧澤の記事「田園文化と中世紀主義」がほぼ唯一の農民美術に関する論考(ただし建物のことには触れていない)であることを発見した。もちろんほんの1行程度の記載なら他にもあるが、論述したと言えそうなのはこれだけであった。

 この論考から、農民美術運動をきっかけとして、中世文化やゴシック建築を媒介としつつ瀧澤の建築思考につながっていることがみえてきた。次回から農民美術運動を興した山本鼎の行動の概要を振り返ってみたい。(続く)

 

 

    *1-1:『夜あけの星』(小崎軍司,1975)

    *1-2:瀧澤眞弓による金井正宛て書簡(1922.10.20) 「赤黒色」が具体的に示す意味は不明。4本の大柱、大桁、垂木、母屋などに塗るよう指示した。

  

 

| 1920年− | 11:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
分離派瀧澤眞弓による本の装丁

       

いつもの建築物というわけではないが、予想もしていないところで珍しいものがみつかったのでUPしてみる。分離派建築家瀧澤真弓による本の表紙のデザインである。

国会図書館デジタルデータで公開されている土田杏村の『文明は何処へ行く』(S5 千倉書房)を検索して開いたところ、本の扉に「装幀 瀧澤眞弓氏」の文字があるのが目に入った(▼)。ただこのデータとしてスキャンされた本では表紙が失われていてどんな装丁だったのか分からない。そこで古本屋で検索したところカバー付のを1冊みつけた。そう高くもなかったので買ってここにUPした次第。

 

        

昭和5(1930)年と言えば、既に分離派は自然消滅の観を呈し、瀧澤は堀越事務所に在籍しつつ設計を行っていた頃であった。ただ次の年には神戸高等工業学校(現神戸大)で教職を得て設計の筆を折ることになる。そういうことなので瀧澤が行った設計・デザインは数が少なく、勿論現存する作品も無い。そんな中にあってこうした装丁というグラフィックな仕事にも手を延ばしていたことを知ることができたのは、せめてもの貴重な発見であろうと思う。


この昭和に入りモダニズムが浸透し始めた時節(それだからというわけではないのが本人の考えのはずだが)の幾何学的なデザインはなかなかのものだと思う。設計をやめなければ相当良い作品を残していたであろうに・・・。

ちなみに著者土田による本の内容もモダニズムについて語り、機械美を汽船を例にとり強く肯定的な説明を進めるあたりはコルビュジエさながらである。勿論土田独自の深い思索の文脈から来るものだが。そのようなわけで、内容と表紙のデザインとはリンクしていると言えよう。

 

  

土田杏村と瀧澤眞弓の縁について言えば、大学に入学する前からの親交があったそうなのである。例えば瀧澤が大学に入学するにあたって進路を建築にしようか迷っていた際、土田杏村と一高先輩の芥川龍之介に相談して賛成された、という記録がある。


土田杏村(1891−1934)は京都大学出身、西田幾多郎の門下生であり大正から昭和初期に活躍した哲学者、文明批評家、教育論者であった。長野県上田市に自由大学を創設したりもした。画家の土田麦僊は兄。ネット上では宮澤賢治が羅須地人協会を構想するにあたって土田の著作を参考にしたという、興味をひく話もみられる (HP 検証「羅須地人協会時代」(鈴木守著作集))

だが巾幅広い領域に亘って相当な著作を遺したにもかかわらず、現在ではなぜか忘れられた存在のようになっている。
 

 

(▼)カバーをとると、カバーと同様の図柄が配色を変えて出てくる。

      

 

 

 

 

 

 

| 1930年− | 20:15 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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