収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像&その他いろいろblog
旧・地震研究所の石飾り
 
1928年,東京都文京区,内田祥三(建築),岸田日出刀(石飾り),建物は現存しない(石飾りのみ保存)(撮影:2007年)

 『ロダン以後』−建築と彫刻の邂逅(7)
 最近になって『磯崎新の「都庁」−戦後日本最大のコンペ』(平松剛)を読んでみたが、結構面白かった。業界の内輪話として聞いたことがあるようなエピソードなどもうまくアレンジされており、例えば1950年代末、まだ若くこれからという磯崎新に対して、権威者として君臨する岸田日出刀が一言「作為の無きように」といった意味のアドバイスを発した話は、その本で初めて知った。もちろん磯崎はそんな忠告を全く無視して出来るだけ作為に満ちた「わざとらしい」設計を行ない、世に出る足がかりを築いた。
 しかし、老境とはいえ自らを棚上げにして若者に忠告を発する岸田も岸田なのである。1920年代の若い頃の岸田日出刀は表現主義指向にどっぷり浸っており、内田祥三が進めるゴシックで統一されたキャンパス計画という「たが」を上手にすり抜けながら、自己表現の場をしっかりと確保していた。結果的にはそうしたDNAが、丹下健三や磯崎新にまで受け継がれたということか。

 上図の、つまり現在の地震研究所の正門に置かれた「石飾り」は、元は内田祥三設計による旧・地震研究所の入口脇外壁部分に取り付けられていたものであり、岸田日出刀が担当していた。その辺りについて、以前にも記事にした。脇にある説明文には地震計をかたどったもの、とある。しかし、実際こういう形の地震計があろうか?。私には地震計のイメージに名を借りた、岸田にとっての幾何学形象への偏執の表明としか思えない。つまり、岸田にとっての師である内田が進めた設計に、岸田は自らのミニチュアのイメージモデルを取り付けた。これを強烈な「作為」と呼ばずして何と称しよう。
 
 一方、偏執的幾何学形象の実物大モデルは、実は1926(大正15)年の段階で、既に右図の建物として実現をみていたようだ(旧・医学部夜間診療所(現・広報センター))。
 岸田は、その後に『過去の構成』を著し、その写真図版、とりわけ軸線に基づく幾何学的構成美が麗しい「朝鮮神宮」が丹下健三に影響を及ぼしたとされるが、こうした、より純粋な幾何学的構成美の称揚は、若かりし1920年代の岸田の幾何学への偏執とも、まったく無縁ではないであろう。

 ロダン以後の時代において、建築家による建築の一部をなす彫刻的要素とは、デザインの主張を凝縮したモデルであったと、とりあえず締めくくってみよう。
| 1920年− | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
日本工業倶楽部会館
 
1920年,東京都千代田区,横河工務所 松井貴太郎(建築),小倉右一郎(正面彫像),部分保存により現存(撮影:2008年)

 『ロダン以後』−建築と彫刻の邂逅(6)
 正確には「ロダン以後」とは言えないのかもしれない。むしろその胎動に位置すると言うべきか。と言うのは、この建物が松井貴太郎の手腕によりウィーン・ゼツェッション(ウィーン分離派)という、20世紀初頭の傾向を忠実に反映していたことによる。おのずと人物彫刻もO.ワグナーらの作品にも似て、新時代の芸術への希望を込めるように誇らかに空を仰ぎアピールするのだが、これこそが重苦しい過去の衣に取って代わる彫刻の役割(ウィーン・ゼツェッションにおける)であったと思われる。
 ひとつ付け加えるなら、横河工務所は、後の1930年にも「兜町株式取引所」において「構造社」結成の彫刻家齋藤素巌による《交通》《商業》《工業》《農業》を委嘱、「近代彫刻史・建築史に語り継ぐべき、画期的な作品」(*1)を残した。しかし、こちらは残念ながら既に取り壊された。

 さて、小倉右一郎による日本工業倶楽部の彫刻は、坑夫の男と糸巻を持つ女性により、当時の主要な産業であった石炭産業と紡績業とを象徴しつつ建築物の内容を表明している。そして彫刻家の個性は、控えめながらも人間への慈しみを湛えた存在感として示されている。
 そして、特に注目すべき点は、「日本初の本格的コンクリート彫刻」(*2)であったこと。当時、コンクリート造は建築の分野で研究と導入が進められていた、いわば新技術であったのだが、同じ素材(セメント)が彫刻にも選択されたことは大きな意味を持つのではないだろうか。

 最後に、小倉右一郎(1881〜1962)の略歴を。東京美術学校を1907年に卒業、同期生に朝倉文夫がいる。1908年文展への入選以来、白樺派がもたらしたロダン信奉の土壌(ロダニズム)が彫刻界を席捲する中で制作を続けた。1919年には朝倉らと共に「東台彫塑会」を結成、「ロダン以後」の世代が排出された。「ロダン以後」の代表格陽咸二も小倉に師事している。

  *1:迫内祐司「齋藤素巌とその時代」(図録『構造社展』所収,2005)による
  *2:田中修二「両大戦間期の日本の彫刻界」(図録『構造社展』所収,2005)による
| 1920年− | 22:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
東京大学医学部附属病院
 
1934年,東京都文京区,内田祥三(建築),日名子実三(レリーフ(上)),新海竹蔵(レリーフ(下)),
現存(撮影:2009年)

 『ロダン以後』−建築と彫刻の邂逅(5)
 いわゆる内田式ゴシックの、その壮大な間口を持つ外壁を引締めるアクセントとして、2つのアーチ状の入口それぞれにレリーフが飾られている。
 上の画像は、日名子実三による《長崎への医学の伝来》,下の画像は新海竹蔵による《診療・治療・予防》、というタイトルが付されている。いずれも建物の「病院」という用途に因んだタイトルだ。
 まず、それぞれの彫刻家のプロフィールについて簡単に記してみる。
 日名子実三(1892〜1945)は、朝倉塾の塾頭格を担いアカデミックな作風で頭角を現していたが、震災を機に建築と彫刻の融合などパブリックアートとしての道を見出し、齊藤素巌と共に「構造社」という団体を結成した。「平和の塔」の作家として知られ、日本サッカー協会のエンブレム図案八咫烏(やたがらす)の作者でもある。
 新海竹蔵(1897〜1968)は、日本の彫刻界の礎を築いた世代の作家である伯父新海竹太郎に学び、院展系の彫刻家として活躍した。

 さて、私は日名子実三のレリーフの方を注目してみたい。
 《長崎への医学の伝来》は、3つに分割された画面において、左右の「日本」と「西洋」とが中央で出会うというユニークな構成となっている。平面的でシンプルな像とされているが、メッセージの伝達性を高めようと意図したように思われる。アニメ的レリーフ?―とは言い過ぎだが、少なくとも実験的な意欲が観て取れる。

「構造社」の結成まで
 上で触れた「構造社」が結成されたのは、大正15(1926)年であった。そのきっかけは、どうも震災直後のバラック装飾にあったのではないか、と考えられている。事実、日名子と齊藤は新聞紙上でバラックについて批評記事を何度も書いていて、さらに日名子は「バラック装飾社」の一員であったとの説さえある。
 バラック装飾に対抗する構造―日名子らは自ら行動を起こす指針をこのように定めたのだろうか。
 日名子が都市の中で生きた芸術としての彫刻に関心を抱き、構造社結成のきっかけになったと推し量られる事例は他にもある。大正13(1924)年の帝都復興創案展覧会に日名子が出品した作品《文化炎上碑》(プライズカップ受賞)と《死の塔》は、いずれも女体が炎の如く舞い上がるかあるいは棺を抱いて慟哭するというモチーフであった。そして構造社結成前年の大正14(1925)年、東京都江東区にある蔵魄塔(ぞうはくとう)が、上記作品の現実の都市における実施版のごとき納骨堂の目的で作られ、その墳墓を女体が抱いている。

 「構造社」の作家による活動は、当初のうち、都市における構造物を仮定したモニュメントを課題として、そこに各会員が自らの作品を融合させる(綜合試作)の発表を繰り返した(*1)。
 しかし、都市や建築を見据えることによる新たな表現の獲得しようとする彼らの意気込みに対して、建築サイドはどのように見ていたのだろうか。その意欲については表向き評価していただけが実体だったようだ。昭和ひとケタの時期にはモダニズムの波は日本をも飲み込んでおり、蔵田周忠の評ならずとも、シンプルな構成を意図する新しい建築の思潮から見れば、残念ながら相変わらずの付加装飾的なレリーフでは時代遅れなのであった。(*1)「構造」を標榜したものの、そうた易いことではなかったようだ。

 改めて《長崎への医学の伝来》を見てみる。内田式ゴシックに馴染んだ、というか遠目には建築物に従属した装飾的な部分を請け負ったに過ぎない。ところが、彫刻家の専門領域の内にあるレリーフそのものを見るとなかなか斬新なようにも思える。
 特に、完璧に構成されひとつの有機体と成り得た建物は、この時期よく見るとそれほど多くないようだ。思いの違いから起こるズレなどを含んだ混成体も排除せず受け入れてみると、過渡期の建物も、むしろ興味深い。

 *1:齊藤祐子「『構造社』研究-イワン・メストロヴィッチとその影響-」(2002,眞保亨先生古希記念論文集「芸術学の視座」)、及び同氏「構造社と『綜合試作』」(図録 「構造社展」所収)などを参考にしております。

| 1930年− | 21:35 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
イベント開催のお知らせ―「検見川送信所は何を伝えたか?」
 「検見川送信所を知る会」主催第6回イベントが開催されます。
 「検見川送信所を知る」というキーワードから始まった、誰でも参加自由の交流の機会もいつの間にか第6回を迎えることになりました。

 今回のテーマは、映像。「建築」関連部分と「無線通信」に関わる部分について、バランスを考慮した企画となっております。
 「建築」では昨年10月の送信所内部の映像の上映やシンポジウム、「無線通信」では元送信所職員によるパワーポイントを用いた解説が行なわれる予定です。

【日時】2010年2月7日(日) 
14:00〜16:30
【場所】千葉市検見川公民館
(千葉市花見川区検見川町3-322-25)

詳細は「知る会」HPトップより「イベント情報」をご参照ください。
プレイベントとして11:00〜12:00まで送信所見学を予定しております。(外観のみの見学です)


・そうそう、上記イベントとは無関係の情報ですが、2月4日放送予定の『空から日本を見てみよう』(テレビ東京系、19:58〜21:00)にて、検見川送信所が取り上げられるそうです。

・画像は昨年撮影の検見川送信所正面。
仕上げ材の剥落が、はからずも手の込んだ下地を露呈しています。庇のエッジ部分にアールを作り出すために、あらかじめコンクリートが丁寧にはつり落とされていた様子が分かります(左画像凹凸の部分)。

 
| その他いろいろ(活動) | 21:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ロート製薬本社
 
1959年(本社工場),大阪市生野区,日建設計,現存(撮影:2010年)
 
 驚くなかれ。ちょっとひと息、ここらで脱線のつもり。ここはお定まりの近代建築紹介にあらず。
 とにかく誰でも知っている戦前様式建築が「国会議事堂」だとすれば、戦後モダニズム路線で事実上最も有名な建物となると、丹下健三でもなく黒川紀章の建物でもなく、実はこれなのではないか、とふと思ったことがある。ただそれだけの理由で、つい先日、所用で大阪に赴いた際に立ち寄った。

 最初の実写版オープニングキャッチの力は、絶大だった。少なくとも私は「ロート製薬ーー!! ♪」ときたら「巨泉のクイズダ〜ビ〜」と思い出す。(否、もっと古い番組も見ていたが)たぶん私だけでなく大方の建築にこれっぽっちの関心さえ無い人でも鳩が舞う白亜の建物風景を、なんとなくイメージできるのではないだろうか。しかも結構純粋なモダニズムの建築だったのだなぁ、とは最近になって感じたこと。
 行ってみると、TVメディアの中で生きてきた建築の地上の現実は、やはり、当初の純粋無垢と言っても良いようなイメージから移り変わった、増築の繰り返しによる新旧混合体としてそこにあった。上の画像は本社工場を敷地の外から眺めた写真なのだが、しかし、改装されようともあのオープニングキャッチで見たイメージに似た搭状の部分が見えただけで、恥ずかしながら感激してしまった。あ〜あ。田舎から花の都東京に出てきてTVでしか見たことの無かった有名な風景とか俳優を間近で肉眼で見たようなものか。こういうミーハーが世の中にはいる。

 そういうことだけではなく、実際行って良かった。広い敷地を眺めると、あのオープニングキャッチの映像以降に建てられたらしい、どうも工場には似つかわしくないアーチ形シェルの建物に出喰わしたり、ドミノそのままの建物があったりで、こんなにもやりたい放題だったのか、と知ることができたからである。
 右の2枚は、隣接する巽公園から撮った写真。どうも有名な話らしいが、これは、元社長の山田輝郎氏が、東京オリンピックの水泳の成績不振を嘆いてその強化のために1965年に敷地の中に開設した「山田スイミングクラブ」の建物であるとのこと。

 一番下の写真が、ドミノそのもの建物。バリエーションに富む建物が増設された時期のもの。
 夢と野望に燃えた1950〜60年代の設計者魂が垣間見えるが、別の言い方をすれば純粋でひたむきだった時代を物語っているようでもある。そして、その純粋さとテレビで見た建物自身の純正さがダブってくる。
 そのようなわけで、これらが名建築であるかどうかは脇に置いておくとしても、私個人的には、いたく感動した。

 
 (それで、まさか無いとは思うけど、念には念を。建築の学生さんは、間違ってもこのような私の戯言をレポート課題のネタにされぬように。無謀です。大体バレますし。)
| 1950年− | 22:49 | comments(1) | trackbacks(1) | pookmark |
葵館
 
1924年,東京都港区,吉川清作(建築),荻島安二(正面レリーフ),村山知義(内装&緞帳デザイン),非現存(画像はすべて『建築新潮』(1925.1)より)

 『ロダン以後』−建築と彫刻の邂逅(4)
 
以前、『「葵館」レリーフの彫刻家―荻島安二』と題した記事で、様々な表現領域を行き来し切り拓いたユニークな作家について触れた。荻島安二は朝倉文夫門下生として、大正6年に文展に初入選するなど、始めはアカデミックな土壌から出発したのだったが、荻島の友人で画家の深水正策の言葉によれば、「彼の好みはアーキペンコの初期の物、メストロウィッチなどにあり、エジプトに一番惹かれていた。奈良の古仏も研究していた」(*1)と語られたように、サロン芸術の枠内に納まって「銅像請負業者」(*1)となるタイプではなく、関心は最新の表現の可能性の開拓に向っていた。関心さえ向えば、それが建築物であろうとマネキン人形であろうと、まったく構わなかったのだ。

 活動写真館「葵館」は、震災からの復興に向け、日活の「村上」と名乗る人物が村山、吉川、荻島らに声を掛けたことを発端とする。(*2)その結果、恐らく日本初の出来事であろう、建築ともコラボレーションアートともつかぬ作品が大正期の街中に出没した。(画像上2枚は荻島によるレリーフ。下は村山によるインテリア)
 荻島によるファサードのレリーフに注目すると、一見して古代エジプトの浅浮き彫りを取り入れていることが分かり、これは深水正策の指摘通り、メシュトロヴィッチの作風の、そのアルカイックな部分と重なる。いくぶんマチス風なのは、「活動写真」本来の躍動感を意識したからなのだろうか。人物の極端なデフォルメによる流麗さは、私が見る限りでは、奈良法隆寺の百済観音像かな、などと憶測したくもなる。

 「活動写真館」とは、たまたま与えられた仕事というだけではなく、本来の荻島の映画に対する並々ならぬ関心が向わせたと言ったとしても、さほど強引な物言いではないはずだ。
 実際のところ、荻島の映画との関わりはいくつでも挙げられる。例えば彫刻では映画女優第一号と言われる「花柳はるみ」をモデルとし、後にも海外の銀幕のスターの映像、M.ディートリッヒや子役S.テンプルなどを題材として多数作品化した。(大正期、女優をモデルとしたことは帝展落選の一因となっていたとも言われる。)
 さらに、深水の述べるところによるなら、「東宝スタジオで荻島の名を知らぬ者はもぐり」(*1)であったそうで、例えばP.C.Lにて『昭和新撰組』という探偵映画で「アインスタイン研究所」の模型(セットのことか?)を作ったことが語られている。是非とも「アインスタイン研究所」が映っている映画を見てみたいものだが・・・・。
 勿論、映画との関わりがそれ程なれば、当然「写真」への関心も高かった。商業写真の先駆として木村伊兵衛や原弘らと仕事をしていたようだ。

 荻島安二は、横浜の機械輸入商の家に生まれ育ったという環境が関係していたのか、生来、近代技術の所産への関心は強かったと言われる。そして、3Dの造形を生業とするようになって以降も、旧来からの領域としてのファインアートの牙城に留まることには何ら未練を感じず(かといって決別したわけでもなく)、「商業芸術」と見下されようとも気にせず、荻島は、ただひたすらモダニズムの精華としての新しいメディアからその本質を汲み取り作品化することのみに専念した。だからこそ、作ろうとしている何かが、建築であるのか彫刻であるのかは彼にとっては大した問題ではなかったはずなのである。

   *1:深水正策『荻島安二・人と芸術』(『美術手帳』72 1953.8)
   *2:村山知義『私の画生活−大正十三年度の二つの仕事』(アトリエ2-2 1925.2)

| 1920年− | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・京都中央電話局西陣分局(西陣電話局) (現・NTT西陣別館)

1921年,京都府京都市上京区,岩元禄,現存(撮影:1994年) 

『ロダン以後』−建築と彫刻の邂逅(3)
 前2編の長〜い記事は、岩元禄による西陣の彫刻を再考するための伏線だったのかも知れない。
 この岩元禄による唯一の現存建物は、また大正後期の特徴を表した貴重な外観を持つ建物でもあり、さらに重要文化財としての指定を受けるほどの評価に浴して今日に至る。このこと自体は喜ばしい限りだが、しかし、肝心の彫刻的部分についてさほど突っ込んだ言及がなされてきたとも思えない点が、引っかかる。

 戦後まもなくして蔵田周忠は、「形づけは、フランスの彫刻の系統とは異なった造形性、おそらくヒッティトや西アジアに学んで、その異国性を近代化したドイツの彫刻家フランツ メッツナーやユーゴスラヴィアのイヴァンメシュトロウィッチのようなゼツェシオン出身の強い作風に啓発され勇気づけられ・・・」(*3)との記事を著したが、これがほとんど唯一の岩元の彫刻への言及であった。また、これとは別の証言から、どうやらその造形上の根拠は、「ガイスト・スピーレン(知的遊戯)」との、恐らくは岩元によるドイツの思想を下地とした考え方に拠るものらしい。
 こうして今も京都西陣に建つ建物は、岩元個人の独創性を知らしめるのと同時に、かつての逓信省営繕課についても、最先端の近代技術を扱う省として、それら機器設備のみならず収納する器にも先端デザインを積極的に取り入れるという姿勢を、象徴的に証し立ててきた。

●表現主義彫刻との関係
 ところで、最近になって彫刻研究の方面から岩元禄の彫刻とメシュトロヴィッチのそれとの関係が指摘されているので紹介したい。(*4)
 日本の在野的彫刻団体「構造社」を研究する齊藤祐子氏によれば、右下の図メシュトロヴィッチによる1912年の作《舞姫》と、西陣のトルソには構図や造形性においての影響関係が見られる、とのことである。このことは、(勿論、岩元が単純に模倣したということではなく)日本において、広くメシュトロヴィッチの作風が受け容れられていたことを示しており、建築家をも触発していた状況を明らかにしている。
 私の見たところ、さらに岩元においては、トルソのみならずレリーフにも共通して、メシュトロヴィッチの彫刻が持つプリミティブな要素やある種の官能性―前記事の《弾琴の少女》のように―を消化しているようにさえ感じた。
 また、私も同氏に倣って、今度は蔵田の『ロダン以後』掲載の彫刻を眺めてみた。そうしたら、あるではないか。私には右最下の図、つまりフランツ・メッツナーによる《屈む女》にも類似した造形性が見出せる。
 このように、いわゆる表現主義彫刻からの影響に基づく類似点が見出されることについては、疑いないであろう。しかし、ひとつだけ西欧の彫刻との相違点にも気付かされた。前記事で示したように当時の西欧の彫刻は、どこか沈痛で内省的な部分がその本質をなしており、そこには第一次世界大戦前後の、特にドイツに顕著であった悲劇的な状況が反映していると考えられる。しかし、日本では社会状況が異なっていたからだけなのか、岩元禄のトルソやレリーフには、一言で言えば「暗さ」はなぜかほとんど感じられないのだ。むしろ、あっけらかんとした表情で、明るく街路を彩っているようにさえ感じられる。
 もしかしたら、表現主義を生んだ社会的土壌の違いだけではなく、岩元禄によって、表現主義彫刻はひとつの拠り所として換骨奪胎され、新しい建築表現の獲得に向けらたのではないか、と推察された。

●「尖塔社」との関係
 ひとつことわっておくべきこととして、特に装飾芸術団体「尖塔社」、及び岩元との関係について、あまりに資料が少ないことがこれまで詳しい研究を阻んできた、そのような致し方ない事情がある。しかし私は、尖塔社は岩元の造形性を問う上では避けて通れないと思い、やや先走りがちなのを承知で私見を敢えて書き綴っている。
 「尖塔社」とは、大正9(1920)年に結成された、東京美術学校の梨本正太郎を発起人とする装飾美術団体であり、図案、木工、舞台装置、染色など芸術分野横断的な集団であった。何度か会合が持たれ会誌が回覧されたが、実際の活動が顕在化したのは、震災直後のアクション系の画家達との合流による今和次郎率いる「バラック装飾社」の活動からであった、と伝えられる。
 岩元は建築サイド唯一の参加者であり、同年に結成された分離派への堀口からの誘いを断っての参加であった。岩元が尖塔社を選んだ理由は、本人いわく「自分は総合芸術を実現するんだ」(*5)との言葉が伝えられている。逆に分離派に対しては「理知的、打算的である」とするやや否定的な見方であったようだ。(これは、後のバラック装飾社の今と分離派の瀧澤の論争をなんとなく暗示しているようでもある)

 岩元が目指していた「総合芸術」とは具体的にどのようなものであったのだろう。グロピウスらのドイツの動向にどの程度精通していたのかについては、今や全くの謎である。唯一、実作による手掛かりとしてこの西陣分局を眺めたとき、表現主義彫刻などの近代的な装飾的要素をヒントとして、新たな建築、もっと言えば都市景観の一般解を求めようと目論んでいたのではないか、と思われてくる。地域性を度外視して、ここ京都西陣でも東京青山でも、同様の彫刻でファサードを飾ろうとしたことから、余計にそのように思えるのだ。
 尖塔社がバラック装飾社のかたちで焼けた街に繰り出したのは岩元の逝去後のことであったが、岩元は遡る大正7(1918)年の卒業論文において早くも都市計画をテーマとしていた事実があり、都市の美観について触れていた。この当時、都市を視野に入れたこと自体かなりの先見性の持ち主といわざるを得ない。(他の例では、同じく大正7年のこと、村野藤吾が卒業設計において、自らデザインしたファサードを街路景観の中で提示したことが都市性の視点の萌芽であろうか。) 
 あるいは、都市的な視野を備えた岩元による総合芸術であるとするならば、彼は単体の建築自体を都市における装飾的要素と位置づけ、建築の芸術的な在り方そのものを模索していたのだろうか。そして、あまりに壮大な夢を抱きながら、途半ばにして世を去ったのであろうか。

*1:「メストロウィッチの彫刻集」(1923,森口多里監修,洪洋社)より
*2:「ロダン以後」(1926,蔵田周忠,中央美術社)より
*3:「建築家・岩元禄」(1977,向井覚,相模書房)所収 「建築文化」(1948,8-11,蔵田周忠)「東京の近代建築」
*4:齊藤祐子「『構造社』研究-イワン・メストロヴィッチとその影響-」(2002,眞保亨先生古希記念論文集「芸術学の視座」)
*5:「建築家・岩元禄」(1977,向井覚,相模書房)所収 「逓信史話(上)」(1961,山田守)「逓信建築の人柱と巨匠岩元禄さんのことなど」

それでは、皆様、よいお年を

| 1920年− | 18:01 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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