収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
石本喜久治のブルーノ・タウト会見ルポルタージュ(1922.11 於ドイツ マグデブルク) (後編)

      

 

■5.色彩都市マグデブルクの感激
 前回から続く。早速『サンデー毎日』1923(大正12)年5月27日号「表現派の建築」の記事の内容に移りたい。(掲載の画像は記事残りの下段部分です)

 記事はタウトに面会し都市計画の全体像を説明された後、その第一歩である鮮やかに塗られた街並みを助手のカール・クライルの案内により見学、それに対して石本が感想を述べる形で書かれていた。市庁舎、郊外の工場、共同住宅群、クライルの住む田園住宅群と同氏の家のインテリアを案内され、クライル宅のインテリアの写真については3枚ほど記事に挿入された。まず市庁舎を見て石本は感心する。(以下青文字部分は『サンデー毎日』記事から引用)。

 

  屋根は緑、軒蛇腹は黄色、胴蛇腹は紫、壁は白に、柱型は赤色・・・内部も同様
  繰型どほりに色をちがへて、赤青黄紫黒などゝ階段室も広間も廊下も天井床壁
  腰羽目扉窓枠入口廻りなにもかも思ひつきてあゝもやれたものだと感心する。

 

 案内するクライルは大通りの建物をあれこれ指さしては「イミタチオン」とあざ笑ったことが書かれているが、これはタウトの影響であろう。後年来日したタウトは洗練されていない模倣建築をあれこれ拾い上げては「いかもの(=imitation)」と嘲笑っていたが、ドイツ時代から既に助手に伝染していたほどだったとは・・・。

 数件の建物を案内された後、最後にクライルの家に案内され、その内装を見た石本は以下のような言葉で締めくくっている。

 

  広間も階段も支那料理屋のそれよりも激しい色。・・・その前にあるテーブルから

  二三脚ある椅子、左手に飾られてる戸棚、家具、悉くが極彩色。勢ひあまって床

  にまで及んでいるのには唖然たらざるを得ない。家具類は一切手製で思ひきつ

  たその彩色に劣らず極めて突飛な形をしているが色と形とが気持ちよく調和し

     実に面白い。

 

 「実に面白い」―石本は極彩色の内装に驚きつつ、正直な気持ちで好感をもって受け止めていた。否、よほど印象深かったのか、石本の洋行記録『建築譜』の巻頭にも、クライルから贈られたのであろう同氏作の色鮮やかなドローイングが唯一カラー画像として掲載されていた(▼左:『建築譜』表紙,▼右:巻頭頁クライルのドローイング《composition》)。そして同著書序文において石本氏は、派手に塗られた震災バラックの建物に触れ「所謂バラツク芸術の出現に当面して非常な感激を受けつつある」と称賛した。他の分離派建築家などバラック装飾に否定的な割合が高かった中において。

 

      

 

 

 また、同行した仲田定之助も日記の中にマグデブルクについて記している。なかなか面白いことをやっているとしながらも、石本とはやや異なる印象を受けたようである(以下赤文字部分は仲田日記より)

 

  Krayl氏の考えでは全市を色でぬりつぶすらしい。Alte Magdeburgは慄えて

  いると云った、慄へる筈だ。この人達は一種の色魔だ(文字通りの)(*1)

 

 

■6.敗戦後の心理、表現主義の色彩
 しかし石本がマグデブルクの彩色を肯定的に見ていたのは、本人の主観的嗜好だけでない。ドイツに赴いたからこそ肌で感じ取ったであろう第一次大戦敗戦後の暗く絶望的な心理とそれが引き起こす反発力、生命の爆発的発露に対する理解と同情の念が多分にあった。従って、外壁の色彩化自体を建築の究極的な終着点とは考えておらず、クライル氏が自らの置かれたやむなき一時的な状況として「建物塗師(ハウスマーラー)」と自嘲していたことを、石本は忘れずに言い添えた。

 尤もこうした感想は、後で述べるように、石本自身が考える本来の建築的理想とは異なるという前提に立った上で示したものであったことにも注意しておく必要があろう。(その意味では、後の白木屋など石本の作品に見られるモダニズムときらびやかな装飾が同居する二面性を、この記事が既に暗示していたのかもしれない。)

 

      たゞ止むをえないがゆえに、古い建物をぬりかへて、せめて色彩のうへからで

      も新しい気分が味はひたいといふ今の場合は全く例外で、その建物は一つの画

      布(カンバス)にすぎず、その塗られたものは建築的にはなんの意味をもたな

      い一つの絵画として見られるべきものであらう。氏は不平と謙遜とから『自分

      は建築家よりも建物塗師(ハウスマーラー)』といつているが気の毒ながら今

  のところ全くそのとほりである。   (カッコ内は筆者補足)

 

      


■7.洋行と石本の建築観
 このように石本はマグデブルクに率直に魅せられ、あるいは敗戦後の一時的な対処としての「色彩都市」に対して一旦は理解を示した。しかし自身の思考の中で理性的に建築の向かうべき方向を見定めるもうひとりの石本は、建物を塗り込めることに不賛成の意思を示した。つまり日本の分離派のひとりとして、建築を自立した芸術と考える石本からすれば、建築を絵画的二次元芸術のためのキャンバスも同然の存在に追いやる扱いを許すことはできなかった。そして表面的付加的な色彩(=装飾)は建築にとって無意味であるとし、それを否定する考え方につながっていた。

 

 

      しかしこんな調子に建築を一ツの画布と心得てそれに描き、または塗りた

      てることには賛成出来ない。・・・建築的にはなんの意味をもたない一つの

      絵画として見られるべきものであらう。

 

 そして建築のあるべき姿として次のように述べた。

 

      地球もしくは宇宙そのものを画布(カンバス)もしくは土台としてそのうへ

      に建築的に描きかつ刻むのでなければならない。さうしてやがては、絵画も

      彫刻も音楽までもが、それぞれの境界を撤してとけあひ、そこに渾然たる真

      義の綜合芸術が生れいでんことを究竟(きゅうきょう)の理想とする。

                                                                         (カッコ内は筆者補足)

 総合芸術として建築を捉え直し、付加的要素としてではなく絵画彫刻音楽までをも有機的に統合された姿としての建築を理想と語ったのは、恐らく石本にとってこれが初めてであろう。ただしかし、壮大なスケールからそう思えるだけかもしれないが、どこか「アルプス建築」「宇宙建築師」などブルーノ・タウトが夢見たユートピアの影響下で発せられた言葉であるような印象を受けなくもない。この時点では、石本の建築観というよりも、ドイツ表現主義に身を浸し興奮さめやらぬ中で発せられた言葉であったのだろうか。

 

■8.放浪者(Vagabond)

 石本は刻々変転する近代建築運動の渦中に直に身を投ずる旅を行った。そしてドイツの建築動向を『建築譜』で整理しつつもさ迷う心中を率直に認め、解説の締めくくりで自らを「放浪者(Vagavond)」と喩えた。「Gropiusに参じて主義に斃(たおれ)るべきか Poelzigに就いて趣味に溺(おぼれ)るべきか Tautに倣って空想に終わるべきか。Vagavondは所詮 Vagavondである。」  (カッコ内は筆者補足)

 『サンデー毎日』の記事はまさに近代建築運動を直に体験した直後の興奮、放浪する石本の生の心を写し取った一文であったように思える。

 

 

  *1:「仲田定之助日記(1922−1923)抄」(寺門臨太郎,山本佐恵,江口みなみ 2016年 美術批評家著作全集第18巻 仲田定之助所収 ゆまに書房)

 

 

| 1920年− | 15:23 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
石本喜久治のブルーノ・タウト会見ルポルタージュ(1922.11 於ドイツ マグデブルク) (前編)

                       

■1 日本建築家初のタウト面会者として

 石本喜久治発見報告その2
 『サンデー毎日』1923(大正12)年5月27日号に、分離派建築家石本喜久治自らによる「表現派の建築」と題された記事があるのをみつけた。1ページの記事の中には石本喜久治がドイツ マグデブルク市に赴き、同市建築課長であり「色彩宣言」を発表した建築家ブルーノ・タウトとの面会を果たした際のことが詳細に綴られていた。特にタウトの助手カール・クライルから鮮やかな色彩に塗られた建物を案内された際の石本の感想など、興味深いものがある。

(画像は1ページを「上,中,下」3段に分割し、前編には「上,中」まで載せた)

 

     

 

 石本は1922(大正11)年5月に出港し翌1923年5月末頃に帰国するまでの約1年間、欧米を旅した。帰国後は『建築譜』と題する著書を刊行し、そこに建物の写真やドローイング自らのドイツ建築最新傾向の小論を掲載した。その著書にもマグデブルクのタウトを訪ねたことを短く触れてはいるが、文面からは実際タウトに面会したのか判然としない。今回みつけた『サンデー毎日』の石本の記事によって初めて実際に面会していた事実が明らかとなった。(以下青文字部分は『サンデー毎日』記事からの引用)

 

  タウト氏はいかにも穏かな優しい容貌と態度と言葉とで初対面とは思はれない

  くつろぎを私にあたへながら大きな製図台の回りで二人は親しく語り始めた。

 

■2 マグデブルクを訪れた建築関係日本人
 石本以外にマグデブルクを訪れた日本人建築家として思い浮かぶのは堀口捨己である。しかし時期的には石本が帰国した後入れ替わるように1923年7月に日本を発ったのであり、『近代建築の目撃者』(佐々木宏編(*1))には、同地に赴くもタウトには会えず助手のクライルから建物を案内されたことが書かれていた。
 他には三浦耀(*2)と藤島亥治郎(*3)もマグデブルクを訪れたことが本人らの著書に書かれているが、それらを読んでもタウトと面会した形跡はない。本野精吾のベルリン滞在は1909〜11年なので早すぎる。

 

 以上のようなことからして、私はタウトに初めて会った出会った日本人建築家はこの記事を書いた石本喜久治であろうと考えている。しかしなぜそんなに初めて会った日本人建築家にそんなにこだわるのか、と問われるかもしれないが、理由は簡単である。
 言うまでもなくブルーノ・タウトは表現主義の建築家としてドイツでは最も影響力のある建築家のひとりであっただけでなく、ナチス・ドイツから逃れるべく1933(昭和8)年に「日本インターナショナル建築会」の招待を頼りに来日したこともよく知られている。そうしたタウトの日本との関係が形づくられた源泉、きっかけについてはやはり関心が持たれて然るべきと思うからなのである。

 石本も「日本インターナショナル建築会」に参加していたので、想像を逞しくして言えば、恐らく1922(大正11)年11月の段階でタウトが既に日本人との面識を得ていたことも、日本からの招聘受け容れの判断をし易くした要因のひとつとなったのかもしれない(もっとも、来日後にタウトが石本に内心抱いていた感情は芳しいとは言えなかったようだが)。

 

      

 

■3 「仲田日記」に書かれていたタウトとの面会時期
 1922年11月という面会の日付は、実は『サンデー毎日』記事にも『建築譜』にも書かれていない。そんな折、訪問時期を知る手掛かりは『仲田定之助のベルリン日記(上,下)』(寺門臨太郎(*4))が与えてくれた。実は『サンデー毎日』に石本が寄稿した件も、この日記の記述から見出したものである。

 

 仲田定之助は帰国後、実際に作品を創り、また美術評論家として知られた人物である。石本とは洋行の客船に偶々同船していたことから知り合いとなり、共々ベルリンに到着した後も芸術家との面会など行動を共にすることが多く、頻繁に情報を交換し合っていた。それを仲田は几帳面に日記に記し、例えば行動派の石本はヨーロッパのあちこちに出掛けては旅先から仲田に宛ててに葉書を送ったことなども、その都度日記に記していた。そのようなわけで仲田の日記から石本の行動がある程度窺い知られるのである。ただ公にされた1923年分が手元にあるのみで、日本を発った1922年分は注釈に書かれた内容から察するしかないと思っていた。
 1923年の仲田日記を読むと、帰国する同年5月末までの石本の行動は相当広範囲で慌ただしかった。恐らくその期間にタウトと面会する時間的余裕はほとんど考えらず、またタウトへの言及もみられないので、やはりドイツに到着した1922年後半にマグデブルクのタウトを訪ねていたと推測したのである。・・・・と、そこまで書いてブログにUPした。

 だがブログを上げた日に、1922年分の日記(*6)が発刊されたばかりであることに気が付き急いで取り寄せた。その結果、私の推測通り1922年11月2日に石本は仲田を誘って二人でマグデブルクのタウトを訪れていたことが日記にはっきりと書かれているのを目にすることができた。そればかりでなく仲田は「アトリエ」(1934.1)にもその日のことを記事にしていた(下記赤色は「アトリエ」の引用)。

 

   私が石本喜久治に誘われてマグデブルク市にブルノ・タウトを訪れたのは一九

   二二年の秋だった。・・・伯林から汽車程二時間余、車窓からどんよりとした灰色

   の曇日のもとに、赤や青の原色に塗られた小住宅がチラホラ眺められたので早

   くもマグデブルク市に近づいた事を知った。

 

 

    

 

 

■4 世界一周していた石本喜久治
 ちなみに仲田日記から読み取られる石本の翌1923年の1月から5月末までの行動は、以下のようなものである。まず2月頃ベルリンからイタリア南部シチリア島まで南下の旅を行い、戻ればハンブルクの港を出港、アメリカ大陸サウサンプトンに到着してニューヨーク、ナイアガラの滝など東海岸から仲田に宛てて葉書を送った。その後カリフォルニアなど西海岸からも葉書を送り(さらに石本が撮ったと思われるライトの住宅の写真が『建築譜』にある)そして日本に帰国した。ヨーロッパからアメリカに渡って帰国したということは、どうやらアジア滞在こそなかったもののジュール・ベルヌの小説よろしく形の上では世界一周の旅を敢行していたようである。(石本が後に「コスモポリタン」を自称した(*5)理由がこの辺りにあるのかもしれない)


 さて話が脇道に反れてあまりに長くなってしまった。記事の内容などについては後編に譲ることとします。(つづく)

 

 

  *1:『近代建築の目撃者』(佐々木宏 1977年 新建築社)

  *2:『建築・風景』(三浦耀 1931年 岩波書店)

  *3:『ブルーノ・タウト 近代建築家第3』(藤島亥治郎 1953年 彰国社)

  *4:『未公刊資料ー仲田定之助のベルリン日記(上,下)』(寺門臨太郎 現代芸術研究1998年,1999年 筑波大学芸術学系五十殿研究室)

  *5:「建築のファシズム」其他(石本喜久治 『建築新潮』1927.2分離派建築会第六回展覧会号所収)

  *6:「仲田定之助日記(1922−1923)抄」(寺門臨太郎,山本佐恵,江口みなみ 2016年 美術批評家著作全集第18巻 仲田定之助所収 ゆまに書房)

 

 

 

| 1920年− | 14:38 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧東京朝日新聞社・・・計画時のパース2題

最近、分離派建築家のうち石本喜久治について気になっている。特に1922〜23(大正11〜12)年の渡欧外遊前後の資料はないかと思っている。石本氏は帰国後に渡欧の記録を『建築譜』(1924年5月)にまとめドイツの建築動向を解説し、また竹中工務店に所属しながら東京朝日新聞社社屋を設計しており1927(昭和2)年に竣工した。その間いくつかの論文や小規模な建物の設計をしたのは分かっているとしても、今ひとつリアルな側面が見えてこない・・・
そんなことを思いつつ、あちこち調べてみつけた発見報告を2回に分けてご紹介したい。(いつもの建物紹介とは違っていますが悪しからず。また異常な長文、お許しを。)

 

 

    

    建物竣工1927年,東京都千代田区,竹中工務店(石本喜久治),非現存

 

【パース画その1】

まずはこれ(▲)。大正期のアサヒグラフなどに有楽町の東京朝日新聞新築を予告するものが何か出ていないだろうか、と予想して誌面をめくってみたら、本当にあったのでびっくり。絵には正面中央最上部に大きな無線用の鉄塔が鎮座していて2度びっくりした。有楽町の朝日新聞社新社屋の提案時のパースのようである。鉄塔は大阪で設計されたせいなのか、私としては初代通天閣の風情なきにしも非ずといった感じである。1925(大正14)年7月に発行された同誌に2度同じ内容で掲載されていた。


左下には"TAKENAKA KOMUTEN  OSAKA JAPAN"と装飾書体で書かれている。右上にもドイツ語で書かれているが判然としない。

パースを眺めてみると、建物部分については実際に建った建物と比べて向って、当初は左側が少し大きかったことが分かる。しかし竣工した建物と造形上の基本的な違いは感じられない。石本の説明によれば左側の外壁が削られたようにセットバックしているのは市街地建築物法の規制による高さ制限を逆手にとった造形であるとのこと。私には苦しい説明だと思えてしまうのだが、一方で石本は「市街地建築物法への抗議案として」と名付けたミースのガラス摩天楼を模したような模型を、同時期の分離派展に出品している。

大きなマッスにバルコニーや庇がバランスよく張り出すのは竣工建物と同じである。コーナーが曲面であるなどやはりメンデルゾーンの影響とりわけベルリナー・ターゲブラット新聞社屋の参照が濃厚だろうか。特に地階右側の窓はメンデルゾーンの帽子工場を思わせる。比較のため竣工時の建物画像(『建築世界』1927.5より)を下に載せてみる(▼)。

 

このパース画は元々着彩画であったようである。(理由はレタリング文字の不明瞭さ。文字と背景とを異なる色相で表現したためではないか)竣工建物の外壁は3階から上と下を境に黄色と青緑色で塗り分けられていたそうだが、外壁塗り分けのアイデアはこのパースの段階で提案されていたことが分かる。カラーで見たかったものだ。こうしたポリクロミーの派手な塗り分けを自作に応用したのは、ドイツ マグデブルクで見た町並みが関係するのかもしれない。

 

因みに分離派の会員特に瀧澤真弓は、震災直後の今和次郎らバラック装飾社のペンキ装飾を批判していたが、しかし石本だけは「所謂バラツク芸術の出現に当面して非常な感激を受けつゝあるのである(*1)」と肯定的であった。それは恐らく実際に大元のマグデブルクで見た塗装外壁を「馬鹿々々しくも滑稽には違いないが、今の彼等にとつては実に止むに止まれぬ生命の強力的な爆裂(*2)」とし、大戦で疲弊しつつも放つ表現主義の光に対して、実見の上敢えて理解を示すことができたからなのかもしれない。そして自ら「Vagabond(放浪者)」(*1)と吐露したように、それ以降も合理主義的で純粋な芸術としての建築を目指す建築家石本と、一方で装飾に魅せられた石本とをひとりの人間の中に併せ持ちさまよう。(その詳細は次回)

 

話をパース画に戻そう。外壁各階の窓の窓台のレベルにはすべて細い帯状の水平ラインで結ばれており、何列もの水平線で水平性が強調されていた。水平ラインの意味については、『東京朝日新聞小観』の中で、一般向けではあるが意匠上の説明(恐らく設計者石本が書いた説明に間違いなかろう)でも以下のように述べられている。大戦後とはもちろん第一次世界大戦のことであり、文章の背後にヨーロッパに自ら赴いた者としての自信が感じられる。

「窓の窓台がそれぞれ水平線によつて結ばれていることは、大戦後に於けるヨーロッパの諸建築でもさうである様に、一つの安定した静かな気持を社会感情として各人が抱くことを表現せしめたのである。(*3)」

だがどういう事情によるのか、その水平ラインは下(▼)の実際に建った建物では、中層まででストップしており半楕円窓の部分には付けられなかった。

          

 

パース画の無線鉄塔について注意して見るべきは、大きさを強調するためにその部分だけ透視図法を無視し立面を貼りこむように描かれていることであろう。図法に沿って描いたら鉄塔は足元部分が見えず奥に小さく見えるだけになってしまう。つまり目立たせたかったようである。

そしてこれは蛇足だが、鉄塔には螺旋階段が描かれているのが見える。そのせいか、戦後の山田守による東海大校舎を思い起こした。


パース画に付された説明文には「昨年末京橋数寄屋橋畔千三十坪の地に新社屋を建設することとなり・・・」とある。「昨年末」とは1924(大正13)年末であり、他の記録によれば起工は1925(大正14)3月である。そこで設計時期を推定してみるならば、新築決定の1924年末から翌年3月の起工までの間では設計期間が少なすぎるので、やはり1924(大正13)年前半には設計が開始されていたのではなかろうか。伝説として伝わる社内コンペもその頃行われたのだろう。それはちょうど『建築譜』が刊行された頃、つまり渡欧の余韻がまだ残る時期にあたる。恐らく「昨年末」(1924年末)に決定された内容とは、設計案の承認かあるいは請負契約の締結を指すのではないだろうか、と推測する。

 

次に、1926(大正15)年1月の分離派第5回展出品の公開済の各面連続の立面図を見てみたい(▼)。これは工事のための実施設計図とみられ、この図の段階では既に大無線鉄塔は消えている。つまり最初のパースから次の段階に至って無線塔のデザインは保留状態になったらしいことが読み取れる。正面から見て左のセットバック部は実際に建った建物と同じになった。この段階では各階窓の水平ラインは石本の意図通り、最上段まできっちり描き込まれているので、中層階で終わってしまったのは現場での変更だったことがわかる。

 

      

 

【パース画その2】

さて、もうひとつ下は写真絵葉書に描かれてたもうひとつの外観パース(▼)をご紹介したい。これは先日ネットオークションでみつけて安く手に入れたもの。
こちらは、無線鉄塔は竣工時のものと同様のデザインがなされ、屋上階段室の上部に細長く突き出すように取り付けられた。玄関正面を避け構成主義的な造形に組み入れられている。やはり断然モダンでスマートである。
 

    

屋上階段室や無線鉄塔の設計に関しては、『東京朝日新聞小観』において以下のように正面から側面の階段室上部に移った試行の経緯が、そのまま造形上の説明として語られている。

「・・・これにも相当の考慮が払われている。この建物が水平線に延びんとする外郭を有するに当って、これに垂直な高塔が建物の正面の狭い面に垂直にあることは、建物全体としての釣合ひをとる上から言つても余り面白くないので、殊更に正面を避けた側面に持つて行つて、川に面する側の大きな面、中央の面、他の側の低い面との釣合をとる様にしたものである。(*3)」

また窓台の水平ラインについてはこのパース画においても立面図同様最上段まで描かれている。従って恐らくこの絵葉書のパースも、大切なデザインのポイントである水平ラインを全て盛り込んであることから、石本氏が描いたものであろうと思われる。さらにパースのタッチは白木屋などその後の石本作品のタッチにも似通っている。

 

そのようなわけで、他にも気になる点があるのだが、あまりに長くなってしまったので、そろそろこの辺で・・・・。

 

   *1:『建築譜』 より(石本喜久治 1924)

   *2:『分離派建築会作品 第三』所収「タウト一派の傾向価値」より(石本喜久治 1924) 

   *3:『東京朝日新聞小観』  「二 新社屋の設計」より(1927 東京朝日新聞発行所)

 

 

 

| 1920年− | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
昭和第一高等学校(旧・昭和第一商業学校)増築部

  

   

 

       

    1937年,東京都文京区,石本喜久治,現存(撮影:2016年)

 

上の画像(▲▲)が現状、上から2番目の画像(▲)は竣工時。
外堀通り沿いに見えるややゴシック風の既存棟(▼)の裏手の同敷地内にモダニズムの棟が増築されていて、それは戦前の石本建築事務所の設計によることが判った。比較して分かるように現在の道路側外壁面には煉瓦色のタイルが貼られ、屋上のパーゴラ風のフレームは取り去られている。(既存建物とは別棟ではあるが、ここでは当時の図面タイトルに合わせて「増築」と称した)


そもそも石本建築事務所の『50年の軌跡』巻末の作品年表を見ると「昭和第一商業学校」との記載があることが以前から気になっていた。そしてつい最近、石本事務所に行って調べる機会があり同事務所で増築工事を担当していたことが判明、海老原一郎の押印のある図面や竣工アルバムが残っているのを見出した。そして了解を得てここに掲載した次第。

 

                   

 

戦前期に石本喜久治が設計した作品は、数が多いにもかかわらず商業系の建物が多かったためか現存建築物は少ない。残っている建物を挙げると、以前取り上げた「旧・白木屋大塚分店(現・大塚ビル)」が外壁表面を金属パネルで覆われつつ残っている他、横須賀の「旧・海仁会病院(現・聖ヨゼフ病院)」は立原道造が計画に関与した建物でもありドコモモの認定建築となっている。他に石本の卒業設計「涙凝れり」の実施版を思わせるコンクリート造の石本家の墓標が大阪にある、といったところであろうか。数年前に解体された芦屋の松橋邸は密度の濃い戦前モダニズム住宅であり、しかも家具、照明器具からカーペットまでアールデコ装飾でデザインされた石本らしさがほぼそのまま残る作品であっただけに大変惜しまれた。


そうした現存状況から考えると、この現昭和第一高校の増設棟は必ずしも凝った作品とは言えないかもしれないが、数少ない現存建物として貴重であろう。特に正面ペントハウスの「塔」が残っていたことは喜ばしい限り。

 

    

 

 

    

 

(上の画像は建物裏側の現状(▲▲)、そしてモノクロ画像(▲)は竣工時のもの。一部再増築されたのがわかる)

 

石本作品の特徴として、戦前のビル建築のには必ずと言ってよいほど「塔」あるいは「搭状のペントハウス」が付いている。どうも旧朝日新聞社屋や日本橋の白木屋以降そうした傾向が続いたようである。

そのようなわけでこの現・昭和第一高等学校においても、見ての通り屋上中央に塔状のペントハウスが残っている。しかも1930年代の石本建築に見られるやや新古典主義風の特徴がここでも示されている。

 

屋上から下をモダニズムのデザインとし、屋上から上の屋根部分を時代状況に合わせ、あるいは施主の好みに合わせて造形上の操作を加えるのは、1930年代以降の民間設計事務所にとって生き残るに必要な道であったのか、と思わずにいられない。あの分離派の闘将石本喜久治でさえも。

 

 

 

 

 

| 1930年− | 11:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
林芙美子邸(現・林芙美子記念館)

        

      1941年,東京都新宿区,山口文象,現存(撮影:2016年)

 

 戦前の日本でモダニズムを指向した建築家には、二通りあったように思う。もちろんはっきり分けられるものではないけれど、ひとつは西欧のモダニズムを比較的素直に受入れ根付かせようとした建築家。レーモンドやコルビュジエの弟子前川國男、それからここに挙げた挙げた山口文象もバウハウス帰りの建築家という意味であてはまるかもしれない。
 そしてもう一方は、モダニズムを単に受け入れるだけでなく日本の伝統建築との融合を試みた建築家。堀口捨己、吉田五十八、白井晟一、藤井厚二と結構多い。吉田鉄郎もこちらの仲間かもしれない。

 

 わざわざこういう見方をしたのは、こうすることで林芙美子邸の位置が見えてくるかもしれないと思ったからである。前者の建築家の立場からすれば伝統的和風建築の仕事はあまり表に出したくないなずで、「余技」「建築家のたしなみ」としておくことが多かったようである。山口自身、この建物を建築誌上に発表しなかったそうである。

 

     

 施主の林芙美子は200冊近く参考書を買い入れ京都へ赴くなど住宅造りに執念を燃やしていた。山口は専門家的な立場でアドバイスを行い、施主を立て趣味に沿いつつ設計したようである(特に諸事情を逆手に取り込み、2棟の建屋を中庭を介して配置した山口の構想には巧みさを感ずる)。

 しかしその結果の産物としてのこの住宅は、どこを取っても構成感覚みなぎる住宅であり、モダニズムと身に付いた伝統とが無意識のうちに混然一体となった傑作として見えてくる。こういう和風モダン住宅のあり方もあるのだろう。知らず知らず、後者の堀口や吉田の道を別ルートでアプローチしていた建築と言ったらほめ過ぎか。

 

     

 

 

 

 

 

 内外問わず見られる抽象的な線と面の構成。その意図は「太鼓張り」の障子(▼)からも明らかである。

 

        

 

        

 林の好みによる印度更紗貼りの襖(▼)が艶やか。戦後に堀口が八勝館御幸の間で行ったのを、どうしても思い起こさせる。
 

        

 

 機能に沿って造られたと思われる人研ぎの流し台(▼)は、どことなくシステムキッチン的なものの萌芽を感じさせる。他に水洗トイレなど近代的な設備が完備されていた。注目すべきは使用人室の二段ベッド(▼)。「創宇社」を結成した山口らしさがちらほらと・・。プロレタリアートのための機能的な寝室のようにも見える(この機械的なしつらえは確か列車の二段ベッドがヒントになったとか)。

 

 

 

 アトリエ(▼)は大空間に太鼓張り障子の大採光窓とトップライトを備えた、ドラマチックな木造モダニズムの空間であった。しかしこの部屋だけが各要素をシンメトリーに配した空間であることも少し気にかかる。和室が非対称の面のコンポジションを強調するのに対して洋室のアトリエは左右対称、この「転倒」が何を意味するのか、答えはみつからない。だが少なくとも、山口独特の大胆で潔いモダニズムの造形をここに感じ取ることができる。

 

        

 

     

 

     

 こうして1940年代の物資統制下における、時代の困難を克服して建つ和風モダン住宅が、ほぼ完全な形で残っていて私達の目を楽しませてくれることは、とてもラッキーなことだと感じた。

 

 

 

 

 

| 1940年− | 18:57 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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分離派建築会,関西分離派建築会
「分離派建築会」作品集3刊の、初の復刻本が刊行されました。末尾の解説文は私が担当しました。
収蔵庫・壱號館
ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
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