収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
奈良県庁舎
  
1965年,奈良県奈良市,片山光生,現存(撮影:2014年)

 大きな庁舎ではありながら、隣接する奈良公園の落ち着いた雰囲気を助長するかの如く、鹿の群れもこの打ち放しコンクリートのれっきとしたモダニズム建築になじんでいる。

 待てよそうか、本来モダニズムの建築とは自然環境との親和性が高いものだったということか。(そのかわり、過去の様式建築との対比を強調するところから所謂モダニズムの建築は出発したとも言えよう)その好例として、コルビュジエが地中海の風景に溶け込んだバナキュラー建築から影響を受けたことやいくつかの計画を思い出せば、容易に納得できよう。

    

 設計者は片山光生。寺院の伽藍配置を思わせる建物配置が特徴。
 リズミカルに柱を配した回廊を透かして、中庭とシンボリックなペントハウスのある建物に視線が誘われる。回廊はピロティとなって建物を浮かび上がらせ、最大限に大地を見せようとしている。窓やバルコニー手摺それに個性的なデザインの庇が水平に広がり、これらによって見事に圧迫感を消し去っている。また屋上庭園は市民に解放されており、奈良公園から若草山まで一望できる。まさに近代建築の原則に忠実に則ってできたと言ってよさそうな建物である。
 もちろんこうした中庭や回廊部分は、現在でも生きた空間として利用されている幸せな建物なのであった。

    

    

    

    

 片山光生はこの他にも奈良県文化会館(1968年)、奈良県立美術館(1973年)を同様の方法で手掛けた。
また、昨今ご存じの方も多いと思うが、東京の現・国立霞ヶ丘競技場(1958年)の設計者でもある(下の画像)。水平性を強調した外観で、落ち着いたたたずまいを大都市のど真ん中に創出する手法は、その時既に開花していたようである。


    






 
| 1960年− | 17:11 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧JR奈良駅舎(奈良市総合観光案内所)
 
1934年,奈良県奈良市,大阪鉄道管理局工務課(柴田四郎,増田誠一),曳家の上保存,現存(撮影:2014年)


 ここからは、久しぶりに関西の建物(特に奈良と大阪の建物を中心に)取り上げてみようかと思う。今年の夏、用事で関西に数日滞在した折に撮った写真であるが、ちょうど台風の襲来と重なり、その間を縫うようにしながら廻れるだけ廻った。

 まずは保存活用叶ったJR奈良駅舎。約20年前にここを訪れた際に撮った写真が家のどこを探しても無いので、再訪しリニューアルした駅舎を撮り直したことになる。   

   

 初めて訪れた時には、なぜか待合室に「サモトラケのニケ」像が置かれており不思議だったことを覚えている。それは「奈良シルクロード博」で展示されたものだったそうなのだが、現在は無かった。ご覧のような新しい用途に合わせて雰囲気を変えていた。

     

 建物の外観は洋風を基本に和風の屋根を載せた、いわゆる和洋折衷のRC造建築という、比較的昭和初期にありがちな形式ではあるが、ここでは古都奈良の地域性を考慮するというはっきりした目的を持ってデザインされている。相輪を載せた屋根は破綻なく全体が調和しており、うまくいった建物だということを再度訪れて確認できた。
 こうした和洋折衷の建物は、軒廻りと柱頭のデザインに作者のセンスが出やすいように思う。強いて言えば「あっさり味」な方だろうか・・・

     

     

     




 
| 1930年− | 18:08 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
川崎市体育館
   
1956年,神奈川県川崎市川崎区,川崎市建設部建築課(原壽幸),現存(撮影:2014年)


 昭和期を中心に数多くの試合が行われたプロレスや女子プロレスのメッカ、川崎市体育館である。
 テレビ中継でつとに知られた建物は、行ってみれば期待にたがわずモダニズムによる外観で、これぞ昭和のシンボルといった風情を感じた。しかしそのようなオジサン世代の郷愁をよそに、無情にも建物は本年末をもって閉館、取り壊されたのち新たな建物に生まれ変わることになっている。
     
 1955(昭和30)年の神奈川国体開催に合わせて建設された建物は、計画段階から2000人の大規模な客席と舞台、映写装置を備えるなど多目的な内容とされ、当初は「市民会館」として開館した。恐らくそうした意欲的な施設内容がプロレス興行などでも頻繁に使われる一要因となったのではないかと察せられる。

 また個人利用が可能であるなど市民に開放された体育館として愛され続けており、そんな単なる箱モノを超えた面があるからなのか、建て替えを惜しむ声を予想してか、下記のHPに素敵なアーカイブスの動画がアップされていた。特に設計者へのインタビューは貴重で興味深い。

    川崎市民ニュース ・・・「川崎市施設映像―体育館」(YOUTUBE)


     
 動画の中で、設計した原壽幸氏は2つの点で工夫したことを語っておられる。
 第一は床である。体育館にとって特に大切な床が湿気で傷むのを防ぐため、床下空間を強制換気し床面にアスファルト防水を行ったとのことである。当時としてはなかなかここまで至れり尽くせりの仕様とすることは少なかったのであろう。
 第二点目は屋根である。大空間を覆う屋根の構造について、設計者が戦時中に宇都宮航空隊に所属していた折に見た飛行機の格納庫を思い出し、「ダイヤモンドトラス」という構造を取り入れることを思いついた。そして事前に木製の美しいダイヤモンドトラスの実例を見た上で、体育館の屋根を鉄骨によるダイヤモンドトラスとすることを決めたとのことである。

 「ダイヤモンドトラス」とは巴組鐵鋼所(現・蠻奪魁璽櫂譟璽轡腑鵝砲量釼薫賚困戦前に開発した立体トラスの鉄骨架構で、独特の美しい構造を持ち、戦前に建てられた建物の現存例では、「東京書籍印刷工場」(1936)のようにDocomomo Japan選定の建物もある。

 内部の天井を撮影しようとしたのだが、残念ながら真っ暗であった。

     

  動画には下図のようにダイヤモンドトラスの様子がはっきり映っていた(下図)。
       
        
               

 飾り気もなく清々しいばかりの昭和のモダニズムの建物がまたひとつ、表舞台から消え去ろうとしている。
 


 
| 1950年− | 19:23 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
鶴見線沿線散歩
     

 前回ご紹介した国道駅のあるJR鶴見線沿線を、もう少し歩いてみた。鶴見駅から隣の旧・本山(既に廃駅)辺りの線路沿いを歩き、電車に乗って浅野セメント社宅群のある「安善」駅で降りた。


 ●鶴見駅(旧京浜デパート(現京急ストア))
 鶴見臨港鉄道として昭和5年に開通した当時、鶴見駅は仮駅舎のままで少し旧本山駅寄りのところにあったそうだ。その後1934(昭和9)年に省線と一体化した駅舎が完成、下の写真のように外観はモダンで内部が西欧のターミナル駅風な鉄骨建屋の下に「京浜デパート」が設けられ営業を開始した。

        

 「京浜デパート」の発祥についてちょっと辿ってみたところ、思いがけず白木屋デパートが関係してくることを知った。どういうことなのか、簡単に書くと次のようになろうか。
 かつて白木屋は関東大震災による痛手から立ち直るべく、起死回生策として小規模な分店網の展開を企てた。しかし日本百貨店協会が支店開設自粛の協定を作ったことで白木屋の名で支店の店舗展開をすることができなくなり、協定への抵触を避けるべく白木屋の出資を伴わない「京浜デパート」を新たに設立することになったというわけである。ただし社員については白木屋から送り込まれたそうである。
 その時に作られた店舗のひとつが鶴見の京浜デパートであり、他には品川店をはじめ、蒲田、川崎に開店した。『鶴見線物語』(*1)によれば、鶴見臨港鉄道では既に国道駅に開店していた「臨港デパート」の実績が、より規模の大きな京浜デパート開店につながったのではないかとしている。

 しかしながら京浜デパートは地元商店会の反対や戦災などに遭遇し、終戦の時点で品川と鶴見の2店舗だけとなった。戦後は「京急ストア」として店舗を増やしたが、結局発祥時からの京浜デパートの建物は、ここ鶴見が唯一となっている。

        


                
●鶴見〜旧・本山
 鶴見駅から一つ目の駅は「本山」駅であったが駅は無く、現在はホームや階段の痕跡が残るのみである。かつて本山駅は曹洞宗の大本山總持寺への最寄駅として、参詣への便宜が図られていたのである。
 ▼總持寺の参道と鉄道が交差する地点には今でも總持寺架道橋が架かり、テナントの入った高架下の開口部に一対のアーチ形があしらわれている。国道駅同様、アーチを好んだ阿部美樹志のデザインがここにも感じられる。

      

        


 ▼またこの付近の高架下は、主にバスの車庫として利用されている。少し鶴見寄りに戻ってみたところは開業当初、鶴見の仮駅があった辺りである。戦前からのものであろうか、ちょっと古めかしいテナントのデザインが顔を覗かせていた。

      

        


●安善駅を降りて
 さて一気に進んで「安善」駅で下車。「安善」という駅名は鶴見線敷設を財政面からバックアップした安田財閥の安田善次郎の名からとられたのだそうだ。鶴見線の駅名は、鶴見線には関係する人物名からとられた駅名がいくつかある。調べてみたところ、「浅野」駅はもちろん鶴見を開拓し鉄道敷設を主導した浅野総一郎、「武蔵白石」駅は日本鋼管創業者の白石元次郎。「大川」駅は製紙王の大川平三郎、「鶴見小野」駅は地主の小野信行という具合だそうだ。

        

 ▼駅前にはRC造の一戸建ての住宅が立ち並んでいるのだが、良く見ると歴史を感じさせる。最近知ったのだが、これらは浅野セメント社宅群であり、戦前に建てられ、元々は数多くの家が立ち並び街区を成していたというから驚きである。基本的にはモダンなデザインだが、玄関庇の持ち送りなどにチラリと装飾性への意識が少し残っていた。

      

 現在は建て替えが進んだようではあるが当初の壮観さを想像することは今でも可能である。トニー・ガルニエの工業都市のイメージを彷彿とさせると言ったら大げさ過ぎるであろうか。
 各住宅は2階建てと平屋の2種類で統一されていたようである。2階建ての屋根は陸屋根、平屋は勾配屋根なので小屋組みについては木造の可能性も推測されよう。

      

        

           

 ▼さらに「安善湯」というやはりRC造の銭湯も健在である。恐れ入ったことに唐破風をかたどったような曲線までRCで出来ている。これもたぶん浅野セメント社宅と同時期に開業したのではないだろうか。

            
      

 ▼最後はたばこ屋さん。こちらもRC造でなかなか味わい深い店舗である。正面の装飾が半分切れているとことからすると、以前はもっと大きかったのかもしれない。たばこ売り場のブースも今や珍しい。
 古びた外壁にはちょっと鉄筋が顔を覗かせている箇所もあったのだが、かえってただのモルタル塗りではなくRC造の証拠を示しているようでもあった。

      


    

ということで、本日の散歩はここまで。


*1:『鶴見線物語』(サトウマコト,2005,230クラブ)










 
 
| 街並み | 19:33 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
JR鶴見線国道駅
     
1930年,神奈川県横浜市鶴見区,阿部美樹志,現存(撮影:2014年)

●戦前からの高架下空間
 ふと戦前の鉄道高架橋下空間の利用について気になったので調べてみたところ、やはり戦前から、賃貸とし高架の建設費を補充するという考え方があったことを、小野田滋氏の論文の中にみつけた(*1)。つまり高架下に人が住み店舗などとして利用されはじめたのは戦後のドサクサが発端だったとは限らない、ということが分かったのである。

 先日、JR鶴見線国道駅とその周辺の高架下を見に行った際にそのような疑問を抱いたわけなのだが、その論文にはさらに重要なことも書かれていた。国道駅やその路線の高架橋などを設計者が、大正から昭和戦前期にかけて鉄筋コンクリートによる建築物や鉄道高架橋など幅広く手掛けた阿部美樹志であったのである。
    

●昭和5年開業、鶴見臨港鉄道「国道駅」
 JR鶴見線は、元々は「鶴見臨港鉄道」の路線であった。まず1926(大正15)年に貨物線として開業、同社は鶴見の仮駅舎から扇町に至る区間に高架橋や橋梁を建設、1930(昭和5)年に旅客輸送を開始した。国道もその時に誕生したのだが、駅名称は第一京浜国道と交差する地点のそばだから、ということらしい(図5)
 その後鶴見臨港鉄道は1943(昭和18)年に戦時買収により国有化され、今日のJR鶴見線となった。国道駅は戦後の1971(昭和46)年には無人駅となりながら今日に至っている。

    

 RC造の高架橋の上が国道駅のホームとなっている。緩いアーチが美しい鉄骨の上屋あるホーム(図6,7)から階段で降りると改札がある(図8,9)。改札口は当初上下線それぞれにあったらしいが、現在は高架下の渡り廊下を通じて一ヶ所の改札から出入りするようになっている。
 高架下空間は結構高さがあり、上階が住宅下階が店舗となったユニットが上下線に沿って並び商店街を成している。そうは言っても現在は、外見上ほとんどの店は閉鎖されたようであった。

●現在の「国道駅」
 現在の高架下は画像の通り暗く寂れていて、それがある意味知る人ぞ知るスポットとなっているらしく、見廻せば数人の人が写真を撮っていた。
 確かに実際に行けば行っただけのことはあった。改札を出て高架下の商店街に足を踏み入れた瞬間、異空間に迷い込んだ感覚に襲われた。古い看板がそのまま残り、ありし昭和の時間がそのまま凍結したかのようであった。心もとない照明に照らされただけの暗闇に、幾重にも重なりあったアーチ構造が浮かび上がり、まるで昭和へと誘うタイムトンネルそのもののといった風情だったのである(図1〜4)





 ネット上にも無数の記事があり、その中に黒澤明の映画「野良犬」(1949年)などロケ地などとして使われたことが書いてあったので、早速その「野良犬」を観てみた。
 この映画には闇市ばかりを映し出す長いシークエンスがあるのだが、それは映画表現として優れているだけでなく当時の風俗記録としても貴重であると、映画通の間で知られているらしい。そこで特にその辺りを中心に見たのだが、何度見返しても国道駅とすぐに判るような空間は現われなかった。長い街路に沿った露店が並ぶシーンがあり「それかな?」と思う位であった。詳しい方に教えて頂きたいところである。

●「臨港デパート」
 国道駅の高架下空間は商店街となっていて、そこはかつて「臨港デパート」と呼ばれていたそうである。その存在を証し立てる往時の画像などには今のところお目にかかっていないのだが、開業当時は高架下商店街として活気に満ちていたことは想像に難くない。以下その理由について、鶴見臨港鉄道からJR鶴見線に至るまで詳細に記された『鶴見線物語』(*2)を参考にしつつまとめてみた。
         

         
 デパートと呼べるような商店街が計画されるほどの乗降客があったとすれば、まず浅野総一郎の埋め立て事業による工場進出がもたらした京浜工業地帯の通勤の足として、基本的に路線そのものの需要が高かったことが理由として挙げられるであろう。そして競合路線である既存の「海岸電気軌道船線」を買収した上で旅客輸送を開始したので、利用客は鶴見臨港鉄道に集中したことも大きな要因であったのでなはなかろうか。
 さらに通勤客のみならず、1916(大正5)年に開園した花月園遊園地や、1911(明治44)年鶴見に移転した曹洞宗大本山總持寺(最寄駅は隣の「本山」、現在は廃止)などが近く、行楽や参詣の人出も大きく作用したことが考えられる。
         
 昭和9年には臨港鉄道の始発鶴見駅の駅舎は省線鶴見駅まで延長され、駅舎の一体化がなされた。集客の成功を裏付けるかのように、両路線の乗り換えの利便性UPが図られた上、鶴見駅には国道駅よりも格段に規模の大きい商業施設「京浜デパート」が建設された。その建物は建物は現在も「京急ストア」として現役である。(これについては後日別稿を設けようかと思う)。

 この頃には「高架線下貸室ご案内」との広告が打たれ、鶴見駅から国道駅に至る間の高架下の範囲でテナント募集が行われていたのだが、「アッという間に埋まってしまった」(*2)とのことである(図14は現在の利用状況)
     

 さて、このようにそれなりの需要が見込まれ当初から臨港デパートは消費を刺激するべく華やいだ商業空間のデザインがなされたのであろうと思うのであるが、私が見た限りでもそのことを窺い知ることができる。
 まずはアーチ。当時流行りのアール・デコ装飾を意識したような幾重にも連続するアーチの幾何学パターンは商店街の広がりとその範囲を示すサインにもなっていよう。また、当初からのものと思われる各戸の入口の木製建具上部の欄間にも、正方形の幾何学格子模様(図10〜12)があしらわれていて、商店街全体をひとつのトーンでまとめようとする意図が感じられる。さらに柱の腰に巻かれたスクラッチタイル(図13など)の使用は、阪急梅田高架橋に通ずる装飾との指摘がある(*1)
 こうしたモダンなデザインとして構想され実現を見たのも、その分野において手馴れた阿部美樹志の関与があったからこそなのであろう。
          

●阿部美樹志の業績
 阿部美樹志(1883−1965)は、戦前の日本における鉄筋コンクリート工学のパイオニアのひとりとして、建築では旧・阪急梅田ビル(第一期1929年),神戸阪急ビル(阪急三宮駅)(1936年)、日比谷映画劇場(1934年)などをはじめとした多数の建築物や鉄道高架橋などを設計、建築−土木の隔てなく活躍した。
 アメリカ留学から帰国後鉄道院に勤務、1920年に独立して設計事務所を経営した他、浅野混凝土専修学校校長、東洋セメント社長などを歴任、戦後は戦災復興院総裁に任じられアパートのRC造化を推進した。

 コンクリート構造が専門であるが意匠性についても力を発揮し、阪急ビルや神戸阪急ビルなどで大きなコンクリートのアーチ空間を創出した。高架橋の構造にもアーチを取り入れることがあり、コンクリートのアーチはいわば阿部美樹志のトレードマークの感がある。国道駅にコンクリートのアーチがみられるのは、必然の成り行きだったようである。

 ここで小野田滋氏の論文の中から、阿部美樹志が手掛けた高架橋からいくつか拾い出してみた。できるだけ現在の路線名に直してみたのが下記なのだが、さて現在どれだけ残っているのだろう。
  ・(JR)東京−万世橋間(1919年)(初のRC造鉄道高架橋)
  ・(阪急)梅田高架橋(1926年)
  ・(東横線)多摩川園−神奈川(1926年)−高島町(1928年)(現状は廃止)
  ・(東横線)渋谷−多摩川(1927年)
  ・(東急大井町線)大井町−大岡山(1927年)
  ・(JR南武線)尻手−浜川崎(1929年)
  ・(阪急神戸線)三宮高架橋(1936年)

 阿部の設計による代表的な建築物の多くが消滅した昨今、高架橋についても少なくなっているようで気にかかる。国道駅は今や貴重な作例と呼んだ方がよいのかもしれない。
       

●歴史が刻んだもの
 国道駅には戦時中の空襲で受けた痛々しい弾痕があちこちに残っている(図15〜17)。この辺り一帯が焼け野原になり果てたころの辛い過去を静にかつ雄弁に、老いた駅舎が語りかけているかのようであった。
 また寂れた風情の国道駅の高架下も、かつては重化学工業の中心地をひた走る路線の駅舎として、いわば繁栄の表舞台に立っていた頃の誇らしい思い出を背後に秘めながら、息をひそめて建ち続けているように思う。この奇跡的に残ったとも言えるような昭和戦前からの遺構を、今後とも大切に継承してゆきたいものである。

          

     



*1:「阿部美樹志とわが国における黎明期の鉄道高架橋」(小野田滋,『土木史研究』第21号,2001.5)) 小野田滋: 工学博士 (財)鉄道総合技術研究所
*2:『鶴見線物語』(サトウマコト,2005,230クラブ)




 
| 1930年− | 20:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
CALENDAR
S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< December 2014 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
叢書・近代日本のデザイン 25 [大正篇]
叢書・近代日本のデザイン 25 [大正篇] (JUGEMレビュー »)
分離派建築会,関西分離派建築会
「分離派建築会」作品集3刊の、初の復刻本が刊行されました。末尾の解説文は私が担当しました。
収蔵庫・壱號館
ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE