
1921年,京都府京都市上京区,岩元禄,現存(撮影:1994年)
『ロダン以後』−建築と彫刻の邂逅(3)
前2編の長〜い記事は、岩元禄による西陣の彫刻を再考するための伏線だったのかも知れない。
この岩元禄による唯一の現存建物は、また大正後期の特徴を表した貴重な外観を持つ建物でもあり、さらに重要文化財としての指定を受けるほどの評価に浴して今日に至る。このこと自体は喜ばしい限りだが、しかし、肝心の彫刻的部分についてさほど突っ込んだ言及がなされてきたとも思えない点が、引っかかる。

戦後まもなくして蔵田周忠は、
「形づけは、フランスの彫刻の系統とは異なった造形性、おそらくヒッティトや西アジアに学んで、その異国性を近代化したドイツの彫刻家フランツ メッツナーやユーゴスラヴィアのイヴァンメシュトロウィッチのようなゼツェシオン出身の強い作風に啓発され勇気づけられ・・・」(*3)との記事を著したが、これがほとんど唯一の岩元の彫刻への言及であった。また、これとは別の証言から、どうやらその造形上の根拠は、「ガイスト・スピーレン(知的遊戯)」との、恐らくは岩元によるドイツの思想を下地とした考え方に拠るものらしい。
こうして今も京都西陣に建つ建物は、岩元個人の独創性を知らしめるのと同時に、かつての逓信省営繕課についても、最先端の近代技術を扱う省として、それら機器設備のみならず収納する器にも先端デザインを積極的に取り入れるという姿勢を、象徴的に証し立ててきた。
●表現主義彫刻との関係

ところで、最近になって彫刻研究の方面から岩元禄の彫刻とメシュトロヴィッチのそれとの関係が指摘されているので紹介したい。(*4)
日本の在野的彫刻団体「構造社」を研究する齊藤祐子氏によれば、右下の図メシュトロヴィッチによる1912年の作
《舞姫》と、西陣のトルソには構図や造形性においての影響関係が見られる、とのことである。このことは、(勿論、岩元が単純に模倣したということではなく)日本において、広くメシュトロヴィッチの作風が受け容れられていたことを示しており、建築家をも触発していた状況を明らかにしている。
私の見たところ、さらに岩元においては、トルソのみならずレリーフにも共通して、メシュトロヴィッチの彫刻が持つプリミティブな要素やある種の官能性―前記事の
《弾琴の少女》のように―を消化しているようにさえ感じた。

また、私も同氏に倣って、今度は蔵田の『ロダン以後』掲載の彫刻を眺めてみた。そうしたら、あるではないか。私には右最下の図、つまりフランツ・メッツナーによる
《屈む女》にも類似した造形性が見出せる。
このように、いわゆる表現主義彫刻からの影響に基づく類似点が見出されることについては、疑いないであろう。しかし、ひとつだけ西欧の彫刻との相違点にも気付かされた。前記事で示したように当時の西欧の彫刻は、どこか沈痛で内省的な部分がその本質をなしており、そこには第一次世界大戦前後の、特にドイツに顕著であった悲劇的な状況が反映していると考えられる。しかし、日本では社会状況が異なっていたからだけなのか、岩元禄のトルソやレリーフには、一言で言えば「暗さ」はなぜかほとんど感じられないのだ。むしろ、あっけらかんとした表情で、明るく街路を彩っているようにさえ感じられる。
もしかしたら、表現主義を生んだ社会的土壌の違いだけではなく、岩元禄によって、表現主義彫刻はひとつの拠り所として換骨奪胎され、新しい建築表現の獲得に向けらたのではないか、と推察された。
●「尖塔社」との関係
ひとつことわっておくべきこととして、特に装飾芸術団体「尖塔社」、及び岩元との関係について、あまりに資料が少ないことがこれまで詳しい研究を阻んできた、そのような致し方ない事情がある。しかし私は、尖塔社は岩元の造形性を問う上では避けて通れないと思い、やや先走りがちなのを承知で私見を敢えて書き綴っている。

「尖塔社」とは、大正9(1920)年に結成された、東京美術学校の梨本正太郎を発起人とする装飾美術団体であり、図案、木工、舞台装置、染色など芸術分野横断的な集団であった。何度か会合が持たれ会誌が回覧されたが、実際の活動が顕在化したのは、震災直後のアクション系の画家達との合流による今和次郎率いる「バラック装飾社」の活動からであった、と伝えられる。
岩元は建築サイド唯一の参加者であり、同年に結成された分離派への堀口からの誘いを断っての参加であった。岩元が尖塔社を選んだ理由は、本人いわく
「自分は総合芸術を実現するんだ」(*5)との言葉が伝えられている。逆に分離派に対しては「理知的、打算的である」とするやや否定的な見方であったようだ。(これは、後のバラック装飾社の今と分離派の瀧澤の論争をなんとなく暗示しているようでもある)
岩元が目指していた「総合芸術」とは具体的にどのようなものであったのだろう。グロピウスらのドイツの動向にどの程度精通していたのかについては、今や全くの謎である。唯一、実作による手掛かりとしてこの西陣分局を眺めたとき、表現主義彫刻などの近代的な装飾的要素をヒントとして、新たな建築、もっと言えば都市景観の一般解を求めようと目論んでいたのではないか、と思われてくる。地域性を度外視して、ここ京都西陣でも東京青山でも、同様の彫刻でファサードを飾ろうとしたことから、余計にそのように思えるのだ。
尖塔社がバラック装飾社のかたちで焼けた街に繰り出したのは岩元の逝去後のことであったが、岩元は遡る大正7(1918)年の卒業論文において早くも都市計画をテーマとしていた事実があり、都市の美観について触れていた。この当時、都市を視野に入れたこと自体かなりの先見性の持ち主といわざるを得ない。(他の例では、同じく大正7年のこと、
村野藤吾が卒業設計において、自らデザインしたファサードを街路景観の中で提示したことが都市性の視点の萌芽であろうか。)
あるいは、都市的な視野を備えた岩元による総合芸術であるとするならば、彼は単体の建築自体を都市における装飾的要素と位置づけ、建築の芸術的な在り方そのものを模索していたのだろうか。そして、あまりに壮大な夢を抱きながら、途半ばにして世を去ったのであろうか。
*1:「メストロウィッチの彫刻集」(1923,森口多里監修,洪洋社)より
*2:「ロダン以後」(1926,蔵田周忠,中央美術社)より
*3:「建築家・岩元禄」(1977,向井覚,相模書房)所収 「建築文化」(1948,8-11,蔵田周忠)「東京の近代建築」
*4:齊藤祐子「『構造社』研究-イワン・メストロヴィッチとその影響-」(2002,眞保亨先生古希記念論文集「芸術学の視座」)
*5:「建築家・岩元禄」(1977,向井覚,相模書房)所収 「逓信史話(上)」(1961,山田守)「逓信建築の人柱と巨匠岩元禄さんのことなど」
それでは、皆様、よいお年を