収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
JR鶴見線国道駅
     
1930年,神奈川県横浜市鶴見区,阿部美樹志,現存(撮影:2014年)

●戦前からの高架下空間
 ふと戦前の鉄道高架橋下空間の利用について気になったので調べてみたところ、やはり戦前から、賃貸とし高架の建設費を補充するという考え方があったことを、小野田滋氏の論文の中にみつけた(*1)。つまり高架下に人が住み店舗などとして利用されはじめたのは戦後のドサクサが発端だったとは限らない、ということが分かったのである。

 先日、JR鶴見線国道駅とその周辺の高架下を見に行った際にそのような疑問を抱いたわけなのだが、その論文にはさらに重要なことも書かれていた。国道駅やその路線の高架橋などを設計者が、大正から昭和戦前期にかけて鉄筋コンクリートによる建築物や鉄道高架橋など幅広く手掛けた阿部美樹志であったのである。
    

●昭和5年開業、鶴見臨港鉄道「国道駅」
 JR鶴見線は、元々は「鶴見臨港鉄道」の路線であった。まず1926(大正15)年に貨物線として開業、同社は鶴見の仮駅舎から扇町に至る区間に高架橋や橋梁を建設、1930(昭和5)年に旅客輸送を開始した。国道もその時に誕生したのだが、駅名称は第一京浜国道と交差する地点のそばだから、ということらしい(図5)
 その後鶴見臨港鉄道は1943(昭和18)年に戦時買収により国有化され、今日のJR鶴見線となった。国道駅は戦後の1971(昭和46)年には無人駅となりながら今日に至っている。

    

 RC造の高架橋の上が国道駅のホームとなっている。緩いアーチが美しい鉄骨の上屋あるホーム(図6,7)から階段で降りると改札がある(図8,9)。改札口は当初上下線それぞれにあったらしいが、現在は高架下の渡り廊下を通じて一ヶ所の改札から出入りするようになっている。
 高架下空間は結構高さがあり、上階が住宅下階が店舗となったユニットが上下線に沿って並び商店街を成している。そうは言っても現在は、外見上ほとんどの店は閉鎖されたようであった。

●現在の「国道駅」
 現在の高架下は画像の通り暗く寂れていて、それがある意味知る人ぞ知るスポットとなっているらしく、見廻せば数人の人が写真を撮っていた。
 確かに実際に行けば行っただけのことはあった。改札を出て高架下の商店街に足を踏み入れた瞬間、異空間に迷い込んだ感覚に襲われた。古い看板がそのまま残り、ありし昭和の時間がそのまま凍結したかのようであった。心もとない照明に照らされただけの暗闇に、幾重にも重なりあったアーチ構造が浮かび上がり、まるで昭和へと誘うタイムトンネルそのもののといった風情だったのである(図1〜4)





 ネット上にも無数の記事があり、その中に黒澤明の映画「野良犬」(1949年)などロケ地などとして使われたことが書いてあったので、早速その「野良犬」を観てみた。
 この映画には闇市ばかりを映し出す長いシークエンスがあるのだが、それは映画表現として優れているだけでなく当時の風俗記録としても貴重であると、映画通の間で知られているらしい。そこで特にその辺りを中心に見たのだが、何度見返しても国道駅とすぐに判るような空間は現われなかった。長い街路に沿った露店が並ぶシーンがあり「それかな?」と思う位であった。詳しい方に教えて頂きたいところである。

●「臨港デパート」
 国道駅の高架下空間は商店街となっていて、そこはかつて「臨港デパート」と呼ばれていたそうである。その存在を証し立てる往時の画像などには今のところお目にかかっていないのだが、開業当時は高架下商店街として活気に満ちていたことは想像に難くない。以下その理由について、鶴見臨港鉄道からJR鶴見線に至るまで詳細に記された『鶴見線物語』(*2)を参考にしつつまとめてみた。
         

         
 デパートと呼べるような商店街が計画されるほどの乗降客があったとすれば、まず浅野総一郎の埋め立て事業による工場進出がもたらした京浜工業地帯の通勤の足として、基本的に路線そのものの需要が高かったことが理由として挙げられるであろう。そして競合路線である既存の「海岸電気軌道船線」を買収した上で旅客輸送を開始したので、利用客は鶴見臨港鉄道に集中したことも大きな要因であったのでなはなかろうか。
 さらに通勤客のみならず、1916(大正5)年に開園した花月園遊園地や、1911(明治44)年鶴見に移転した曹洞宗大本山總持寺(最寄駅は隣の「本山」、現在は廃止)などが近く、行楽や参詣の人出も大きく作用したことが考えられる。
         
 昭和9年には臨港鉄道の始発鶴見駅の駅舎は省線鶴見駅まで延長され、駅舎の一体化がなされた。集客の成功を裏付けるかのように、両路線の乗り換えの利便性UPが図られた上、鶴見駅には国道駅よりも格段に規模の大きい商業施設「京浜デパート」が建設された。その建物は建物は現在も「京急ストア」として現役である。(これについては後日別稿を設けようかと思う)。

 この頃には「高架線下貸室ご案内」との広告が打たれ、鶴見駅から国道駅に至る間の高架下の範囲でテナント募集が行われていたのだが、「アッという間に埋まってしまった」(*2)とのことである(図14は現在の利用状況)
     

 さて、このようにそれなりの需要が見込まれ当初から臨港デパートは消費を刺激するべく華やいだ商業空間のデザインがなされたのであろうと思うのであるが、私が見た限りでもそのことを窺い知ることができる。
 まずはアーチ。当時流行りのアール・デコ装飾を意識したような幾重にも連続するアーチの幾何学パターンは商店街の広がりとその範囲を示すサインにもなっていよう。また、当初からのものと思われる各戸の入口の木製建具上部の欄間にも、正方形の幾何学格子模様(図10〜12)があしらわれていて、商店街全体をひとつのトーンでまとめようとする意図が感じられる。さらに柱の腰に巻かれたスクラッチタイル(図13など)の使用は、阪急梅田高架橋に通ずる装飾との指摘がある(*1)
 こうしたモダンなデザインとして構想され実現を見たのも、その分野において手馴れた阿部美樹志の関与があったからこそなのであろう。
          

●阿部美樹志の業績
 阿部美樹志(1883−1965)は、戦前の日本における鉄筋コンクリート工学のパイオニアのひとりとして、建築では旧・阪急梅田ビル(第一期1929年),神戸阪急ビル(阪急三宮駅)(1936年)、日比谷映画劇場(1934年)などをはじめとした多数の建築物や鉄道高架橋などを設計、建築−土木の隔てなく活躍した。
 アメリカ留学から帰国後鉄道院に勤務、1920年に独立して設計事務所を経営した他、浅野混凝土専修学校校長、東洋セメント社長などを歴任、戦後は戦災復興院総裁に任じられアパートのRC造化を推進した。

 コンクリート構造が専門であるが意匠性についても力を発揮し、阪急ビルや神戸阪急ビルなどで大きなコンクリートのアーチ空間を創出した。高架橋の構造にもアーチを取り入れることがあり、コンクリートのアーチはいわば阿部美樹志のトレードマークの感がある。国道駅にコンクリートのアーチがみられるのは、必然の成り行きだったようである。

 ここで小野田滋氏の論文の中から、阿部美樹志が手掛けた高架橋からいくつか拾い出してみた。できるだけ現在の路線名に直してみたのが下記なのだが、さて現在どれだけ残っているのだろう。
  ・(JR)東京−万世橋間(1919年)(初のRC造鉄道高架橋)
  ・(阪急)梅田高架橋(1926年)
  ・(東横線)多摩川園−神奈川(1926年)−高島町(1928年)(現状は廃止)
  ・(東横線)渋谷−多摩川(1927年)
  ・(東急大井町線)大井町−大岡山(1927年)
  ・(JR南武線)尻手−浜川崎(1929年)
  ・(阪急神戸線)三宮高架橋(1936年)

 阿部の設計による代表的な建築物の多くが消滅した昨今、高架橋についても少なくなっているようで気にかかる。国道駅は今や貴重な作例と呼んだ方がよいのかもしれない。
       

●歴史が刻んだもの
 国道駅には戦時中の空襲で受けた痛々しい弾痕があちこちに残っている(図15〜17)。この辺り一帯が焼け野原になり果てたころの辛い過去を静にかつ雄弁に、老いた駅舎が語りかけているかのようであった。
 また寂れた風情の国道駅の高架下も、かつては重化学工業の中心地をひた走る路線の駅舎として、いわば繁栄の表舞台に立っていた頃の誇らしい思い出を背後に秘めながら、息をひそめて建ち続けているように思う。この奇跡的に残ったとも言えるような昭和戦前からの遺構を、今後とも大切に継承してゆきたいものである。

          

     



*1:「阿部美樹志とわが国における黎明期の鉄道高架橋」(小野田滋,『土木史研究』第21号,2001.5)) 小野田滋: 工学博士 (財)鉄道総合技術研究所
*2:『鶴見線物語』(サトウマコト,2005,230クラブ)




 
| 1930年− | 20:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・三井物産横浜支店生糸倉庫
    
1910年,神奈川県横浜市中区,遠藤於菟,現存(撮影:2014年)

 日本で最初の鉄筋コンクリート構造物は1903(明治36)年完成の琵琶湖疏水上の橋であると言われる。また建築物において日本で初めて構造体全てを鉄筋コンクリート造(RC造)とした建物は、遠藤於菟設計による「旧・三井物産株式会社横浜ビル1号館(以下横浜ビルと称す)」(1911(明治44)年竣工)であると言われている。

 さて、ここで取り上げた「旧・三井物産横浜支店生糸倉庫(以下生糸倉庫と称す)」(*1)は、その「横浜ビル」よりも約1年先立って竣工した。二つの建物は連続して建っている。(下の画像手前の建物が「横浜ビル」、奥が「生糸倉庫」)
 生糸倉庫の方は、柱など一部が鉄筋コンクリート造のいわゆる混構造であったため、「日本最初のRC造」とまでは言われないが、しかし生糸倉庫の価値も横浜ビルと同様に高く貴重な建物であると考えられている。

     

 生糸倉庫は、構造体全体をRC造とした三井物産横浜ビルに至るいわば前哨戦の建物に相当しよう。だが生糸倉庫をかたち作るRC混構造の構造形式は、後にも先にもないユニークかつ唯一無二のものであり、またそれは設計者の創意と苦心の痕跡を物語っている。さらに両建物により日本最初のRC造の出現のプロセスを示す証拠ともなっているわけで、こうした理由により外見上そう目立たない生糸倉庫もその価値は計り知れないのである。

 遠藤於菟が考案した生糸倉庫の構造をもう少し具体的に言うならば、内部の柱と屋上スラブは鉄筋コンクリート造であり、床版は木組みでそれらを煉瓦造タイル貼りの外壁が覆っているというものであった。内部の写真と構造の模式図(大野敏氏作成)が日本建築学会関東支部の保存要望書(*2)に添付されているので、これを参照すればイメージし易いかもしれない。
 こうした構造は今日では普通考えられないものだが、関東大震災に遭遇した際も生糸倉庫の機能を維持し商取引の継続に寄与したということなので、構造上の一定の有効性は実証済みと言えるではなかろうか。

 設計者遠藤於菟と言えば、この建物の他に帝蚕倉庫建物群を設計した建築家としても知られている。

     

 構造的な側面ばかりではなく外観について言えば、タイル貼りにバランス良く鉄扉付の窓が取り付けられただけと言っても良いような外壁面でありながら、深い味わいを感じさせるものとなっている。よく見るとタイル目地は覆輪目地となっていて、細やかな意匠上の配慮が感じ取られる。
 そして全体にシンプルな外壁面に、私は何かしらモダニズムの予兆のようなものを感じたのであるがどうであろう。建築意匠の歴史の上でも意義のある建物ではないだろうか。
 因みに(この建物と直接の関係は無いにしても)佐野利器が日本建築学会の誌上討論『我国将来の建築様式を如何にすべきや』において「・・・建築美の本義は重量と支持との明確な力学的表現に過ぎない事と思はれる・・・」と述べたことが思い起こされるのだが、この発言がなされたのは生糸倉庫が竣工したのと同じ1910(明治43)年のことであった。

     

                  ***

 生糸倉庫が近く解体されるのではないかとの情報がある中、建物の価値を知るためのシンポジウムが開催されるなど、にわかに注目が高まっている(*3)。
 最近の富岡製糸場の世界遺産登録決定の例を持ち出すまでもなく、生糸産業は日本の近代化における基幹産業であり、横浜などの港町は貿易の拠点であった。この生糸倉庫がそのことを証し立てる横浜に現存する最古の倉庫であることなどがこれまでに指摘されている。

 歴史を未来につなげるための資産として活かすことについて実績を持つ横浜に建つ建物のこと、そこで活動する企業にとっても、歴史的価値の高い建物をプラス材料として活して頂けるに違いないであろう・・・と、そのように私は希望をもって見守っていきたい。

  

 現在「旧三井物産横浜支店生糸倉庫を壊してほしくない人々の会」が活動を行っているが、その一環として昨日から同会の主催による倉庫をテーマとした写真展が横浜で開催されている。
 詳細は下記のとおり。場所は1957年に建てられた「防火建築帯」の建物(吉田町第一名店ビル。前話題中の画像「吉田町C」)なので、そちらの街並みも楽しみつつお気軽に覗いてみてはいかがだろうか。

                  ***

  【まちかどの近代建築写真展in横浜 テーマ:「倉庫」】
  日時:9/20(土)〜27(土) 13:00〜19:00(最終日は18:00まで)
  場所:Archiship Library&Cafe (中区吉田町4-9)
  料金:写真展入場無料
  主催:旧三井物産横浜支店生糸倉庫を壊してほしくない人々の会
  協力:まちかどの近代建築写真展実行委員会
     近代建築メーリングリスト・モダン建築探検隊




*1:ここでは旧・三井物産横浜支店生糸倉庫と称したが、「旧・日東倉庫日本大通倉庫」に同じ
*2:「KN日本大通りビル(旧三井物産横浜ビル)および旧三井物産横浜支店倉庫の保存活用に関する要望書」(日本建築学会関東支部,2014.7.28)
*3:「生糸を守った建築家『遠藤於菟』」(2014.9.18)




 
| 1910年− | 18:53 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
横浜の防火建築帯をめぐる


  最近、横浜で気になっているのは、上と下の画像(長者町8丁目共同ビル,1958年頃竣工(?))のような、昭和20年代末から30年代頃に建てられたと思われるちょっと古びたRC造の建築である。これらは「防火建築帯」を形成する建物として建てられたものであり、横浜市には今でも多数残っている。特に建物が連なる吉田町界隈、それに飲食店として濃厚な賑わいをみせる福富町辺りで見かけた建物スナップをアップしてみた。
 
 「防火建築帯」の名が示すように、ひとつひとつの建物は鉄筋コンクリート造の耐火建築であり、それが街路に沿って連続することにより防火帯としての役目を果たす。また本来こうした目的で形成されたのだが、街路景観として見ても、普通なら個別の建築が乱立し雑然とした印象を与えるのを抑え、長い一棟の建物がある統一性を持つ街並みを作り出している。大抵はモダニズムの造形によるデザインで、新築当時は明るくシャープな印象がより際立っていたことであろう。

 さて、以下に防火建築帯について自分なりにまとめてみたのだが、基本的な内容について、実際に大阪で防火建築帯の計画に携わるなどした伊達美徳氏のHP(*1)をかなり参考にさせて頂いたことを、まずおことわりしておきたい。


 ●「防火建築帯」とは
 昭和27(1952)年、耐火建築の普及と町全体の不燃化を促進するために「耐火建築促進法」が制定されたことが、そもそもの発端である。これは防災上、広い道路に面した街区を連続する耐火建築で囲う(防火建築帯)ことを目論んだ法律であり、地上3階建ての建物を鉄筋コンクリート造などの耐火建築物とする必要があった。対象となる地域は都市計画審議会の議決を経て建設大臣が定めた。また建設費の一部は補助金として地方自治体から建主に交付できるしくみを持っていた。

 そしてこの法律を最初に適用したのは鳥取市だそうである。また沼津市には規模の大きなアーケード方式の建物が出現するなるなど、全国の都市で防火建築帯が建設された。横浜市については、1952年まで続いた占領軍の接収による復興の遅れを取り戻すべく、まず道路と宅地が復旧され、防火建築帯とするべく地域が指定され、数多くの防火帯建築が建築されていった。

 約500棟もの防火帯を成す建築物が建てられ、ある調査によれば約200棟程度が今でも現存しているとのことである(*2)。横浜市は抜きんでて広範囲に防火建築帯が作られた都市ということになるのではないだろうか。

●「防火建築帯」の形式
 複数の地権者が、敷地を出し合いつつ共同で1棟の建物を計画することが基本的な考え方であり、境界線上に壁や柱を立てた連続建築を区分所有するというものであった。
(写真「福富町建物A」はこうした基本的な姿を反映したのか、異なる外装色の壁面が連続している。)
 しかし実際は、下層階ではこうした形式を取りつつも、上層階には共用の廊下と共用階段でつながった賃貸共同住宅が載ることが多かった。(写真「福富町建物A」以外の建物)

 このような形式となる理由は主として建設資金に起因する事情が関係しているらしい。
 伊達氏のHPによれば、地権者らは建設にあたり建築助成公社からの融資を受けることが出来たのだが、それだけでは足りない場合が多かった。そこで県の住宅公社が事業に加わることで、実際に建設を可能とすることができた。つまり公社が賃貸共同住宅の建設を上層階で受け持つことにより、地権者の工事費負担の軽減が図られた。下層部と共同住宅など賃貸の上層部が載ってひとつの建物を成しているのはこのためのようである。
 そして建築後10年を経過した後、上層の住宅を地権者に優先譲渡する約束が結ばれたとのことであるが、時間と共に権利関係は複雑さを増し、どこでも予定どおりに事が運んだかというと、そうでもないらしい。
 恐らく、建物が老朽化したまま修繕などの措置が加えられないでいる建物が多いのも同様の理由によるのではなかろうか。 


●現在の「防火建築帯」の評価など
 伊達氏はHP(*1)の中で、横浜の防火建築帯について、おおむね4つの点で評価されているのだが、ここでごく簡単にかいつまんで引用、紹介させて頂くと以下のようになろうか。
 1:防火建築帯の形成は都市計画上基盤整備のみならず建築物をもコントロールした。不燃化された居住と仕事の場を確保し、戦後復興の遅れを急速に取り戻すきっかけを作った。
2:積極的に住宅を都心に持ち込む政策であったこと。
3:住民参加のまちづくりの始まりであったこと。債務のリスクを恐れず土地を持ち寄って街並みを作りあげた先人の気概、しかも広範囲に渡って行われたことは敬服、賞賛に値する。
4:一定の高さを持つ壁面線が形成され、秩序ある都市景観が形成されたこと。

 こうした点を挙げつつ、同氏は多大な努力を払い官民共同で作りあげた「戦後復興の街並み」に敬意を払い、評価し保全する視点が必要なのではないかとしている。

                     ***

 戦後の昭和期建築が知らぬ間に次々姿を消しつつある昨今である。復興期から高度成長期にかけて建てられた防火建築帯は、昭和の人の営みの歴史の証しであり、しかも今現在そこで人が暮らし活動する生きた建築-都市でもある。歴史を偲ぶとは言っても、決して過去の遺物ではない。
 聞けば、若い人を中心にクリエイティブな活動の拠点として防火建築帯の建物に入居する動きがあるという。様々なアイデアを持つ人々を柔軟に受け入れ、生きた空間として有り続けられれば良いと感じている。また横浜はそういう気風が良く似合う町だと思う。



*1:「まちもり通信G1版 横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか」(伊達美徳)
*2:「関内肝関外地区の防火帯建築など古ビルの再生活用まちづくりの相談態勢づくり」P5(特定非営利活動法人アーバンデザイン研究体)




 

| 街並み | 21:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
都橋商店街
    
1964年,神奈川県横浜市,横浜市,現存(撮影:2014年)

 横浜市内を流れ緩やかに弧を描く大岡川には、カーブのラインに忠実に沿うような形をしたちょっと不思議な飲食店ビルがある。
 長い建物は2階建てでハモニカ状に区切られ飲食店が多数入居し、一部は川の上空に迫り出しているようであり、ちょっとしたアジア的な魅力のある空気を感じさせる。大体どうしてこのような建築が実現できたのだろうか、気になるところだ。

       
 知る人ぞ知るスポットとしてネット内を散策してみれば結構有名なようではある。しかしその由来についての詳しい解説は少なく、やはり専門家である伊達さんのHP「横浜B級観光ガイドブック」などを参照させて頂くことにした。
 話をまとめて要約すればこういうことだろうか。50年前の東京オリンピック開催の計画が持ち上がった際、戦後の闇市の名残りである露天商や屋台が美観上問題視され、そこで行政サイドはひとつの建物に店舗を収容してしまおうと画策した。しかし空いている土地がそう簡単にみつかるわけでもなく、目をつけた公有地である大岡川に私有の建築を建てることはできない。結局は河川敷と河川上空の占有許可を得て、横浜市(横浜市建築助成公社へ委託)が建設し、商業者の組合(横浜野毛商業協同組合)へ貸与、さらに組合員が入居する形をとることに行き着いたのだそうである。

           
 実際ほとんど超法規的と言っても良いような離れ技をクリアして実現されたとのこと、やはり「東京オリンピックの開催」が不可能を可能にさせる「伝家の宝刀」として働いたのではなかろうかと思う。(状況は異なれど、次の東京オリンピックでも良くも悪くも似たようなことがありそうである。「歴史は繰り返す」のであろうか。)
 
 建築された当初は1階が日用品などの店舗、2階には飲食店が入居していたようである。現在はほとんどがスナックなどで占められている。

       


       

 さて、こうした特殊な敷地を生み出し方をもって建てた建築物として恐らく誰もが思い浮かべるのは、土浦亀城による2つの建物ではないだろうか。最近惜しくも閉鎖解体されてしまった銀座の「三原橋地下街(1952)」と、上野公園のがけ地にあり既に建て替え済の「西郷会館(1952)」である。前者はやはり河川が相手で、埋め立てられた三十間堀川のに残った廃橋の下の空間を商店街や映画館としたものであった。上野の西郷会館も崖の法面を利用するというとてつもないアイデアであった。

 これらは闇市を一掃するために占領下の特殊な状況下で生み出され、恐らく今日ではこのような方法で土地のないところに土地を生み出す方法など考えられないのではないだろうか。
 都橋商店街は「三原橋地下街」や「西郷会館」よりは時代が下るものの、希望は横浜で見出されたと感じた。現存する同類の建物がなんと横浜で現役だったのである。戦後昭和期の数少ない生きた遺構として、まだまだがんばってほしいと思った。

    



    



==================================================

・付録「大和橋ガレージ」
 さて、三原橋商店街の話が出たついでに、最近みつけた建物(と言ってよいのか?)「大和橋ガレージ」をおまけにUPしておきたい。
 下は岩本町辺りを歩いていて見つけた地下入口の画像である。その正体はかつてあって埋め立てられた「竜閑川」に架けられた大和橋の廃橋の下を利用して作られた地下の貸駐車場であった。現在は閉鎖されている。
 これについてもネットで調べてみたところ、こちらのブログ「(老人の呟き フォトアルバム」)が詳しい。1952年に造られたのだそうだが、当時の「江東楽天地」によって橋の下を映画館にするという、三原橋と同様の計画案も一時浮上していたそうである。

        

 こうした車路が一対ある。内部はどうなっているのだろうか。入口脇の格子模様が意味あり気だが、何だかさっぱり解らず気がかりである。

        

        

以上。

 
| 1960年− | 21:08 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
三岸アトリエ
     
1934年,東京都中野区,山脇巌,現存(撮影:2014年)


 昭和初期といえば、明るく透明感のある白い箱のようなモダニズムの建築が登場し、進取の人々を魅了し始めていた。しかしイメージそのままに作られた木造の建物は、か弱い可憐な花のように、大抵の場合そう長くは持ちこたえられず修理の繰り返しを余儀なくされ、あるいは短命に終わったようだ。それでも自然の摂理に敢えて挑戦するように陸屋根と大きな開口部を持つ純白の住宅に住むことは、生活自体が主義主張を行うのと同じ意味を持ち、つまり住み手側にも強い意志が求められていたことを物語っていたのである。
 例えばそうした状態から出発した初期モダニズムによる個人の建物は、今やどれだけの数が生きながらえているのだろうか。

     

 1934(昭和9)年に完成した画家三岸好太郎のアトリエも初期モダニズムの貴重な遺構である。三岸好太郎(1903−1934)は大正から昭和にかけて活躍した画家であり、洒脱で独特の詩情を漂わせる画風の持ち主であった。だから勿論、鬼才の画家三岸好太郎そして妻で女流画家の三岸節子(1905−1999)のアトリエとしての価値も大きいはずである。
 アトリエの現在の姿は、自然の強い力抗しきれなかった結果として各所に綻びを呈し、また修理や増改築を経て当初のままとはいかない現状にある。しかし、かえってそうした建物の姿こそが三岸のアトリエを維持する住み手の強い意志の表れとしてこちらに迫ってくるのであり、語弊があるのを承知で言えば、そこにある美的な感動さえ呼び起させられる。


●三岸アトリエの経緯
 このアトリエは単に画家の仕事場というだけではなく、三岸好太郎にとっての理想的空間イメージの表現でもあったようだ。三岸による計画段階のスケッチなども残されている。三岸が示したアイデアに呼応しつつ、バウハウスに学んだ建築家山脇巌が実際の設計を進めた。

 アトリエのポイントとなるらせん階段はそうした三岸が強くこだわっていた部分である。しかし、その比類なき空間の完成を目にすることなく三岸は急逝した。妻の三岸節子によって建物は完成し、後に洋風の暖炉のある建屋や庭園が加わるなど増改築が重ねられながら、アトリエは守り伝えられてきた。歴史の年輪を積み重ねるように変化する建物は、生きた建築としてあり続けていることを意味するのであり、従って現在も三岸好太郎の魂がそこに息づいているという感覚と感慨に浸ることができるかもしれない。

     

     


●求められる保存措置
 現在、三岸好太郎の孫にあたる山本愛子さんが維持管理に腐心されている。このアトリエの価値を重んじ、区の交流会場(まちなかサロン)絵画教室を開くなど積極的に有効利用を図られている。このブログへの掲載についても、価値ある建物の存在を周知する観点から快く了承して頂いた。ここに掲載した竣工時の写真や資料(資1〜5)も山本さんから提供を受けたデータである。

 前段で歳月を経て綻びつつも力強く建つ貴重なモダニズム建築を讃えたつもりなのだが、それはそれとして、一方で呑気に褒め讃えて済ませられる状態ではない現実もある。老朽化は進んでおり、長く維持しようとするならばそれなりの措置が必要であるとも言われている。山本さんが最も悩んでおられる部分である。先の地震による漆喰壁の剥落は痛々しく、早急な対応が待たれる。ただ一部応急措置が「中野たてもの応援団」により差し伸べられつつあったことは、せめてもの救いに見えた。


     


●アトリエ見学
 6月14,15日の両日、「近代建築探訪メーリングリスト」による「まちかどの近代建築写真展」がここ三岸アトリエで開催された。私もメーリングリストの会員であり、この機会に三岸アトリエを改めて訪問した。今回で2度目の訪問となる。

 建物がどのように増改築や修理を受けてきたのか、当初の資料写真と見比べてみるとなんとなくわかってくる。当初の陸屋根は目立たぬように勾配屋根で作り直されていた。また当初の玄関は、現在収納庫として使われているので入ることは難しい。その代り暖炉のある洋風の部屋が増築され、そちらからアプローチするようになっている。またアトリエ北西側の外壁面全体が幅約1間増築されている。それに伴って北側の大型窓が改修され、天窓はなくなったようである。アトリエ内部の鉄骨らせん階段と2層吹き抜けの大空間は健在なのだが、道路側の大型建具は大幅に改修された。おおまかに言って以上のような変化がある。

    

 しかし細部をよく見ると、当初のままと思しき見どころもある。旧応接スペースや旧玄関を中心に、まるで埋もれた宝石が顔をのぞかせているように残っていた。将来必要に応じて修理され再現されるよう、心の中で祈った。
 例えば旧応接スペースの奥には、黒いタイル貼りの飾り台があった(下の写真)。真鍮のカバーの中にストーブが収納されるようになっていた。資料5の当初の写真の通りモダンで美しい台である。

     

     

 旧玄関のドア脇の球形のペンダント照明は、丸く刳りぬかれた外壁に接しており、外部のポーチ灯を兼ねている(下の写真)。刳りぬかれた丸い穴からは外気が入る、さりげなくも大胆な仕掛けである。夜、絵のモチーフになりそうな蛾が飛来するのを期待したのだろうか・・・などと想像したくなる。

   

         

 旧玄関ホール部分にはグリーンのスチールパイプ棚(下の写真)が、白い壁面のアクセントとして取り付けられていた。

      

 床は土間部分に黒いタイル、靴を脱いで上がった床には白いタイルが貼られている(下の写真)。白いタイルは釉薬がかかった艶付のタイルであり、壁一面の大きなガラスの窓からの光でさぞかし美しく照り映えていたことだろう。

      


 こうした細部のひとつひとつが三岸と山脇によって考え抜かれたアイデアであったはずである。設計は、全体の中で動かしがたいところまで考え抜かれ洗練されていったに違いない。そうしたいわば三次元の美術作品が、いつの日か再現されたらどんなに素晴らしいだろう・・・、とそのようことを勝手に思いつつ建物を後にした。




 
| 1930年− | 19:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
CALENDAR
S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< October 2014 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
叢書・近代日本のデザイン 25 [大正篇]
叢書・近代日本のデザイン 25 [大正篇] (JUGEMレビュー »)
分離派建築会,関西分離派建築会
「分離派建築会」作品集3刊の、初の復刻本が刊行されました。末尾の解説文は私が担当しました。
収蔵庫・壱號館
ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE