収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
都橋商店街
    
1964年,神奈川県横浜市,横浜市,現存(撮影:2014年)

 横浜市内を流れ緩やかに弧を描く大岡川には、カーブのラインに忠実に沿うような形をしたちょっと不思議な飲食店ビルがある。
 長い建物は2階建てでハモニカ状に区切られ飲食店が多数入居し、一部は川の上空に迫り出しているようであり、ちょっとしたアジア的な魅力のある空気を感じさせる。大体どうしてこのような建築が実現できたのだろうか、気になるところだ。

       
 知る人ぞ知るスポットとしてネット内を散策してみれば結構有名なようではある。しかしその由来についての詳しい解説は少なく、やはり専門家である伊達さんのHP「横浜B級観光ガイドブック」などを参照させて頂くことにした。
 話をまとめて要約すればこういうことだろうか。50年前の東京オリンピック開催の計画が持ち上がった際、戦後の闇市の名残りである露天商や屋台が美観上問題視され、そこで行政サイドはひとつの建物に店舗を収容してしまおうと画策した。しかし空いている土地がそう簡単にみつかるわけでもなく、目をつけた公有地である大岡川に私有の建築を建てることはできない。結局は河川敷と河川上空の占有許可を得て、横浜市(横浜市建築助成公社へ委託)が建設し、商業者の組合(横浜野毛商業協同組合)へ貸与、さらに組合員が入居する形をとることに行き着いたのだそうである。

           
 実際ほとんど超法規的と言っても良いような離れ技をクリアして実現されたとのこと、やはり「東京オリンピックの開催」が不可能を可能にさせる「伝家の宝刀」として働いたのではなかろうかと思う。(状況は異なれど、次の東京オリンピックでも良くも悪くも似たようなことがありそうである。「歴史は繰り返す」のであろうか。)
 
 建築された当初は1階が日用品などの店舗、2階には飲食店が入居していたようである。現在はほとんどがスナックなどで占められている。

       


       

 さて、こうした特殊な敷地を生み出し方をもって建てた建築物として恐らく誰もが思い浮かべるのは、土浦亀城による2つの建物ではないだろうか。最近惜しくも閉鎖解体されてしまった銀座の「三原橋地下街(1952)」と、上野公園のがけ地にあり既に建て替え済の「西郷会館(1952)」である。前者はやはり河川が相手で、埋め立てられた三十間堀川のに残った廃橋の下の空間を商店街や映画館としたものであった。上野の西郷会館も崖の法面を利用するというとてつもないアイデアであった。

 これらは闇市を一掃するために占領下の特殊な状況下で生み出され、恐らく今日ではこのような方法で土地のないところに土地を生み出す方法など考えられないのではないだろうか。
 都橋商店街は「三原橋地下街」や「西郷会館」よりは時代が下るものの、希望は横浜で見出されたと感じた。現存する同類の建物がなんと横浜で現役だったのである。戦後昭和期の数少ない生きた遺構として、まだまだがんばってほしいと思った。

    



    



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・付録「大和橋ガレージ」
 さて、三原橋商店街の話が出たついでに、最近みつけた建物(と言ってよいのか?)「大和橋ガレージ」をおまけにUPしておきたい。
 下は岩本町辺りを歩いていて見つけた地下入口の画像である。その正体はかつてあって埋め立てられた「竜閑川」に架けられた大和橋の廃橋の下を利用して作られた地下の貸駐車場であった。現在は閉鎖されている。
 これについてもネットで調べてみたところ、こちらのブログ「(老人の呟き フォトアルバム」)が詳しい。1952年に造られたのだそうだが、当時の「江東楽天地」によって橋の下を映画館にするという、三原橋と同様の計画案も一時浮上していたそうである。

        

 こうした車路が一対ある。内部はどうなっているのだろうか。入口脇の格子模様が意味あり気だが、何だかさっぱり解らず気がかりである。

        

        

以上。

 
| 1960年− | 21:08 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
三岸アトリエ
     
1934年,東京都中野区,山脇巌,現存(撮影:2014年)


 昭和初期といえば、明るく透明感のある白い箱のようなモダニズムの建築が登場し、進取の人々を魅了し始めていた。しかしイメージそのままに作られた木造の建物は、か弱い可憐な花のように、大抵の場合そう長くは持ちこたえられず修理の繰り返しを余儀なくされ、あるいは短命に終わったようだ。それでも自然の摂理に敢えて挑戦するように陸屋根と大きな開口部を持つ純白の住宅に住むことは、生活自体が主義主張を行うのと同じ意味を持ち、つまり住み手側にも強い意志が求められていたことを物語っていたのである。
 例えばそうした状態から出発した初期モダニズムによる個人の建物は、今やどれだけの数が生きながらえているのだろうか。

     

 1934(昭和9)年に完成した画家三岸好太郎のアトリエも初期モダニズムの貴重な遺構である。三岸好太郎(1903−1934)は大正から昭和にかけて活躍した画家であり、洒脱で独特の詩情を漂わせる画風の持ち主であった。だから勿論、鬼才の画家三岸好太郎そして妻で女流画家の三岸節子(1905−1999)のアトリエとしての価値も大きいはずである。
 アトリエの現在の姿は、自然の強い力抗しきれなかった結果として各所に綻びを呈し、また修理や増改築を経て当初のままとはいかない現状にある。しかし、かえってそうした建物の姿こそが三岸のアトリエを維持する住み手の強い意志の表れとしてこちらに迫ってくるのであり、語弊があるのを承知で言えば、そこにある美的な感動さえ呼び起させられる。


●三岸アトリエの経緯
 このアトリエは単に画家の仕事場というだけではなく、三岸好太郎にとっての理想的空間イメージの表現でもあったようだ。三岸による計画段階のスケッチなども残されている。三岸が示したアイデアに呼応しつつ、バウハウスに学んだ建築家山脇巌が実際の設計を進めた。

 アトリエのポイントとなるらせん階段はそうした三岸が強くこだわっていた部分である。しかし、その比類なき空間の完成を目にすることなく三岸は急逝した。妻の三岸節子によって建物は完成し、後に洋風の暖炉のある建屋や庭園が加わるなど増改築が重ねられながら、アトリエは守り伝えられてきた。歴史の年輪を積み重ねるように変化する建物は、生きた建築としてあり続けていることを意味するのであり、従って現在も三岸好太郎の魂がそこに息づいているという感覚と感慨に浸ることができるかもしれない。

     

     


●求められる保存措置
 現在、三岸好太郎の孫にあたる山本愛子さんが維持管理に腐心されている。このアトリエの価値を重んじ、区の交流会場(まちなかサロン)絵画教室を開くなど積極的に有効利用を図られている。このブログへの掲載についても、価値ある建物の存在を周知する観点から快く了承して頂いた。ここに掲載した竣工時の写真や資料(資1〜5)も山本さんから提供を受けたデータである。

 前段で歳月を経て綻びつつも力強く建つ貴重なモダニズム建築を讃えたつもりなのだが、それはそれとして、一方で呑気に褒め讃えて済ませられる状態ではない現実もある。老朽化は進んでおり、長く維持しようとするならばそれなりの措置が必要であるとも言われている。山本さんが最も悩んでおられる部分である。先の地震による漆喰壁の剥落は痛々しく、早急な対応が待たれる。ただ一部応急措置が「中野たてもの応援団」により差し伸べられつつあったことは、せめてもの救いに見えた。


     


●アトリエ見学
 6月14,15日の両日、「近代建築探訪メーリングリスト」による「まちかどの近代建築写真展」がここ三岸アトリエで開催された。私もメーリングリストの会員であり、この機会に三岸アトリエを改めて訪問した。今回で2度目の訪問となる。

 建物がどのように増改築や修理を受けてきたのか、当初の資料写真と見比べてみるとなんとなくわかってくる。当初の陸屋根は目立たぬように勾配屋根で作り直されていた。また当初の玄関は、現在収納庫として使われているので入ることは難しい。その代り暖炉のある洋風の部屋が増築され、そちらからアプローチするようになっている。またアトリエ北西側の外壁面全体が幅約1間増築されている。それに伴って北側の大型窓が改修され、天窓はなくなったようである。アトリエ内部の鉄骨らせん階段と2層吹き抜けの大空間は健在なのだが、道路側の大型建具は大幅に改修された。おおまかに言って以上のような変化がある。

    

 しかし細部をよく見ると、当初のままと思しき見どころもある。旧応接スペースや旧玄関を中心に、まるで埋もれた宝石が顔をのぞかせているように残っていた。将来必要に応じて修理され再現されるよう、心の中で祈った。
 例えば旧応接スペースの奥には、黒いタイル貼りの飾り台があった(下の写真)。真鍮のカバーの中にストーブが収納されるようになっていた。資料5の当初の写真の通りモダンで美しい台である。

     

     

 旧玄関のドア脇の球形のペンダント照明は、丸く刳りぬかれた外壁に接しており、外部のポーチ灯を兼ねている(下の写真)。刳りぬかれた丸い穴からは外気が入る、さりげなくも大胆な仕掛けである。夜、絵のモチーフになりそうな蛾が飛来するのを期待したのだろうか・・・などと想像したくなる。

   

         

 旧玄関ホール部分にはグリーンのスチールパイプ棚(下の写真)が、白い壁面のアクセントとして取り付けられていた。

      

 床は土間部分に黒いタイル、靴を脱いで上がった床には白いタイルが貼られている(下の写真)。白いタイルは釉薬がかかった艶付のタイルであり、壁一面の大きなガラスの窓からの光でさぞかし美しく照り映えていたことだろう。

      


 こうした細部のひとつひとつが三岸と山脇によって考え抜かれたアイデアであったはずである。設計は、全体の中で動かしがたいところまで考え抜かれ洗練されていったに違いない。そうしたいわば三次元の美術作品が、いつの日か再現されたらどんなに素晴らしいだろう・・・、とそのようことを勝手に思いつつ建物を後にした。




 
| 1930年− | 19:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
東郷神社境内の、とある狛犬(?)

 町を飾るパブリックアートのあり方は色々、あまり限定しないようにと考えている。今回このカテゴリーで取り上げたモニュメントは一風変わった「狛犬」、と言うか獅子像(ここでは以下、仮に「狛犬」と称した)。神社の境内で見かける伝統的な狛犬とは異なり、どちらかと言えば近代的な彫刻の方向に振れたような姿がとても気になるのである。

 東京原宿の東郷神社の境内に鎮座しているこれらの像は計2対で4体。うち1対は第二次大戦における潜水艦乗組員の慰霊碑(昭和33年建立)の脇を固めるように配置されている。ただし東郷神社本殿参詣の道筋にはちゃんと「正当な」別の狛犬が置かれているので、ここで取り上げた狛犬はこの神社を護るために作られた狛犬ではないことを、まずおことわりせなばなるまい。

     
 そう言うのも、実はこれらのの狛犬には以下のようないきさつがあるからである。まずはっきりさせておかねばならないことは、元々別の地に鎮座していたということ。
 1921(大正10)年、彫刻家新海(しんかい)竹太郎(1868−1927)により《有栖川宮威仁親王像》が東京築地の海軍大学校の敷地(現在の国立がんセンターの辺り)に作られた。その後、関東大震災を蒙ったことから1928(昭和3)年、伊東忠太の設計による新たな台座に載せられたのだが、その台座の四隅を固めていたのがこれらの狛犬なのであった。

 戦後の1984(昭和59)年、《有栖川宮威仁親王像》本体は福島県の「天鏡閣」に移設された。そこは有栖川宮威仁親王の別邸であり、自らの家にご帰還されたことになろう。そして台座に残された狛犬については、いつどのような経緯を経たのかは明らかにされていないが、ここ東郷神社で海軍と所縁の深い碑の前に落ち着くことになったのである。

     

 いかめしい表情の獅子像は4体とも同じ作りで、直線や面に還元された独特の造形は西洋近代のキュビズム作品的な趣きを感じさせている。しかし直線に込められた勢いや鋭さにより、本体を守護するための日本の狛犬本来が持つ一種の威嚇的な雰囲気を生じさせているようでもある。こうした西洋と日本が奇妙に入り混じったモノに覚える違和感は、私にとっては昭和10年代の日本瓦の載ったいわゆる帝冠様式の建築を見たときの感覚に近いかもしれない。

 それでは、この狛犬をデザインした作者はいったい誰なのだろうか。
 まず、署名らしきものは無いかと観察したが見当たらなかった。その上で、台座を設計した建築家伊東忠太の作品集を見てみると図面(↓)と写真が載っていて、小さくではあるが狛犬までしっかり書き込まれていた。階段を上がったところに狛犬が配置されている。この他、新海竹太郎の彫刻作品を扱った文献にも狛犬がはっきり写っている写真が掲載されていた。


               
 伊東は築地本願寺など自ら設計した建築など狛犬までデザインすることが多い。中でも新潟の弥彦神社の場合は狛犬のデザインを、新海竹太郎(原型)伊東忠太(匠案)両名のコラボレーションという形で実施している。新海と伊東のコンビはこの《有栖川宮威仁親王像》の場合とも似ている。そう考えれば、ここでも伊東忠太のデザインに沿って彫刻家が作りあげた可能性もあり得なくはなさそうだ。ちなみに背筋を伸ばし胸を突きだした姿の狛犬は伊東忠太のものによく見られる。

 ただ問題は、直線や平面に還元するような造形手法をとることがあるのか・・・ここからは全くの想像なのだが、伊東や新海の作風とはちょっと違う気がするので下の世代の若いスタッフが関わったのなのだろうか?
 推測は色々、楽しい想像もこの辺までとしておこう。




     


     



 
| パブリックアート | 20:29 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
館林探訪(その2)
 前回の続きです。
 本町近辺は戦前からの土蔵や看板建築などの他、戦後昭和期の典型的な建物なども色々。どれも2014年2月頃の撮影です。 

                  ****

■永寿堂医院
 まずはタイルとステンドグラスの外装が美しい1924(大正13)年建築の建物。ゼツェッション的な趣きの外装が上品で美しい。しかし建物は医院としての使命を終え、売り物件の看板がなんとも淋しげ。心ある人が救ってくれるように、と祈る。
    

  





■旧丸山本店
 典型的な看板建築ながら、ペディメントの細工が細かくて綺麗。
   



■旧森牧商店
 こうした店があるだけで昔からの商店街全体の賑わいがなんとなく想像できる。実物にまさる証拠はないということか。




■蓼沼洋品店
 構成主義風の外装による1934(昭和9)年築の商店。昭和初期、モダンであることは善であり夢のような新生活が約束され・・・といった夢を外観のアイコンとした、というよくあったパターンのひとつに該当しようか。巷にはフラット屋根の建築に見せるため、勾配屋根の住宅をわざわざ四角い看板で覆った商店は数知れないほどあるのだが、その延長上にありつつもよく出来た建物、と感じた。

    

    



■某商店ビル
 1階が店舗のRC造の建物。1960年代の建築であろうか。高度成長期に賑わう昭和の光景が目に浮かぶ。




■某店舗
 上の建物に並んで建つこちらは、1970年代以降の店舗であろう。当時の未来イメージが反映されているのか、地上から浮上するようなイメージを上手に建築化したと思う。

  


■某そば屋
 雰囲気あり過ぎで思わずシャッターを押してしまった。味わい深いたたずまいも良いが、屋根をよく目を凝らして見ると、平べったい瓦の形状と葺き方は、長年の変化を度外視したとしても、他で見たことのない不思議なもの。







■旧NTT(現館林水道センター)
 モダニズムの造形そのものの元電話局。戦後建築の局舎のようだが設計したのは誰なのか少しばかり気にかかる。







と、目につくがまま気軽に撮った館林の探訪記録でした。




 
| その他いろいろ(建築探訪) | 19:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
館林探訪(その1)
 城下町として古い歴史を持つ群馬県館林市の市街地は、古い土蔵が散見され古い木造家屋の多い落ち着いた雰囲気の町。明治から昭和にかけての典型的な建物がよく残っている。
 2年前に菊竹清訓設計の旧・館林市庁舎を見る目的で訪れたのが最初なのだが、その道すがら撮った建物やその後に再訪した時の撮影分などを、2回に分けて探訪記録の形でUPしておきたい。

               ****

■東武鉄道館林駅
 探訪の始まりは駅舎から。1937(昭和12)年建築の駅舎の東口はきれいにお化粧直しをされてたたずんでいる。片や西口の方は再開発に合わせて雰囲気を残しながらも新しい駅舎となっている。
 ホームの屋根を支える古いレールもなかなか。レールの製造年代はみつからず。

  
 
     

■館林駅変電所
 駅東口のそばにある古めかしい建物は1927(昭和2)年に建てられた変電所。

  


■現・某選挙事務所
 予備知識なしで通りすがりにこのような建物に遭遇したときは、思いがけない収獲に驚きと感動。昭和初期の味を濃厚に湛えるしかも上質の建物。

  

  


■旧・館林信用金庫本店(現・館林市民センター分室)
 さらに、こうした素晴らしい建物に遭遇すると町全体が文化的香りの高い地であるようにどうしても思えてくる。だがネット上を色々あたったりしても旧建物名と1934(昭和9)年竣工位の情報しか得られないのが不思議。それにしても竣工当時の状況下つまり既存の様式建築にモダニズムの考え方が流入した時期に、これだけのデザイン力を発揮した設計者は一体誰なのだろう。特にディテールは創造性に富んいて面白く、個人的には「群馬のスカルパ」と呼びたいほど(失礼、こちらの建物の方が先輩か)。

  


  


  


   


      

(続く)






 
| その他いろいろ(建築探訪) | 20:23 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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