収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
沼津市上土通りの防火建築帯(沼津センター街)
  
1960年,静岡県沼津市,日本不燃建築研究所(所長:今泉善一),現存(撮影:2014年)


 前項で沼津本通り防火建築帯を取り上げたが、その完成に続いて、本通りのすぐそばに並行する道沿いの伝統ある商店街、上土(あげつち)通り商店街おいて、不燃化と店舗の共同化が行われた。設計は本通り防火建築帯に携わった今泉善一が組織した日本不燃建築研究所による。

    

 上土通りで防火建築帯が作られた理由は、完成によって売上げを飛躍的に伸ばした本通り商店街と、駅前の大手デパートの進出に対抗する気運が高まったことによる。この計画が立案されたのは1956(昭和31)年のことであった。完成と営業開始は地元商業界史(*1)によるところ1960(昭和35)年であり、営業開始後に完成した建物もあったらしい。
 その実現に向けて利害関係などの調整に苦労が付きまとったのは、ここ上土通りも例外ではなかったらしく、産みの苦しみから営業を開始し大幅な売り上げ増加が実現するまでの経緯は、機関紙『不燃都市』(1966.No4)に記録されていた。

 こうした記録を読むと、不燃化商店街の形成は、実は全国各地で始まっていて、不思議なことに今日まであまり語られてこなかった、もうひとつの戦後の日本の建築の発達の流れを見るような思いがした。

    

 上土通りの新たな工夫としては、個々の店舗間の仕切り壁が取り払われ(シャッターで開閉可)、一続きの店内で買い物を楽しめる部分が設けられたことがまず挙げられる。またアーケードは2階が遊歩道となっていて、2階に店を構えることが出来るように設計されていた。現在のアーケードを見ると、なるほど歩くことができるようになっている。

 外観は、写真でも一目瞭然だが、屋上部分がフラットルーフによる独特のモダンなデザインであり、これが商店街としての統一感を醸成している。 また、各地に残る今泉ら不燃建築研究所の建物を見ると、上土通り同様、フラットルーフの屋上部分にモダンなデザインを施すことは、よく行われていたようである。

 そうした上土通りのファサードを眺めると、戦前に今泉が初めて創宇社の展覧会に出展した「連続住宅」(下図)をなんとなく想起させる。しかし戦前の計画案と戦後の建物との関係などの詳細については、今のところ明らかにされていない。

     

    

 かつては通りを挟んで東西にこうしたモダンな商店街が立ち並んでいたようであるが、現在は主に西側にその多くが残っている。
 洗練されたファサードのデザインは、あまり昭和30年代という古さを感じさせず、むしろ新鮮な印象を得たほどであった。最近、一般に再開発などで大きな箱のようなテナントビルに多数の店舗が収容される場合があるが、街路の散策を楽しみながらのショッピングということを思うならば、上土通りのケースは将来の商店街像へのヒントを含んでいるようにさえ思えてくるのであった。

    


 *1:「簡略 沼津商業界昭和戦後史」による


 
| 1960年− | 16:16 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
沼津市本通防火建築帯(沼津アーケード名店街)


西側竣工1953年,東側竣工1954年,静岡県沼津市,建設工学研究会(池辺陽,今泉善一,坪井善勝(構造)他),現存(撮影:2014年)

 以前、横浜の「防火建築帯」を取り上げた。今回はRC造の店舗併用住宅を共同化し、新しくもユニークな空間形式の商店街として話題を集めた、静岡県沼津市の「沼津市本通(ほんどおり)防火建築帯」を取り上げたい。またここは「防火建築帯」としても最初期の規模の大きな事例として知られ、民と行政が力を合わせて建設を成し遂げた功績に対して、1954(昭和29)年度の建築学会賞が授与されている。

 「防火建築帯」とは、防火壁の役目を担うために帯状に建て並べられた3階建て以上の建築群を指す。根拠となる法律は1952年に施行の「耐火建築促進法」であり、あらかじめ都市の必要箇所の道路に沿って防火帯を指定、建築にあたっては補助金の交付が可能となった。既にこの法律自体は役目を終えたが、終戦後の復興都市を形作る上で大きな役割を果たした制度であり、地方都市に建てられた数多くの防火建築帯は、現在でも相当数残っているようである。


「有階アーケード」の商店街
 この計画が実現するまでには越えねばならない問題があった。
 終戦後、木造商店が立ち並んでいた元の本通り商店街には、復興計画として道路の拡幅計画があり、それは既存の12.5mの道路の両側を3.75mずつ拡幅して計20mとしようというものであった。しかし拡幅予定部分には、既にRC造4階建ての百貨店が建つことが決まっていて計画は進まなかった。
 1952年に住民らが防火建築帯への編入を求め、市側もこれに賛同したことがきっかけとなり状況は動き始めた。一旦道路拡幅計画が中止された上で、両サイド3.75mの拡幅予定地を市所有の公共用歩廊とし、その上空は住戸建物用に無償貸与とするという打開案でまとまった。つまり、公共のアーケードの上に2階以上の建物が3.75mほど張り出すことになり、それが商店街空間の基本的な骨格をなすことになった。
 しかしこうした公共用地と民間の建物との重合は、普通はあり得ない。ここでは特に「建築協定」を結び「美観地区(*1)」指定を受け、建物の構造や形態、設備、色彩、看板などを細かく取り決めることを条件に認められたのである。例えば電線は背後に隠し、電話線を地中埋設することなどがあり、全国初の試みもあった(*2)。結果的にではあるが、コンクリートによるモダニズム建築が美観地区の指定を受けた例は、ここ沼津が唯一であった(*3)。


    
    
■竣工した「沼津本通防火建築帯」
 こうして建物群は2階建て一部3階又は4階として完成した。各住戸多くは1階を店舗、2階以上を住居としていた。ここで言う建物の「共同化」とは、RC造住戸を長屋状に連続させて1棟の建物としたものであり、これにより敷地の利用率は高まり防火上の安全性も確保された。ただ隣地境界線上にそのまま壁や柱を建てる場合が多く、各戸の間口寸法は皆一定とは限らなかった。
 問題の既存RC造百貨店も、一部を削って歩道とする形で建てられることで解決したそうである。

 有階アーケードはすべての棟に適用され、実際の構造はキャンティレバーという張出しによる部分と、そこにピン支柱が添えられた部分との2通りがある。
 構造について付け加えれば、防火建築帯は3階以上が基本なので、当初2階建てで建てられた部分も、あらかじめ、3階建てに増築することが可能となるように設計された。構造設計の担当者は坪井善勝である。

      
       
 RC造の新しい商店街は、南北の通りの東西に計7棟の建物が並び、その総延長距離は344mという、当時としてはかなりの規模を持つショッピングセンターとなった。「横のデパート」とも称され驚きを持って迎えられ、売り上げが6割伸びたとの記述もみられる(*3)
 もちろん規模だけでなくデザインも特筆に値する。アーケードでセットバックした建物はあたかもピロティ状にも見え、上階は連続窓が続く1棟の統一体としてまとまったデザインのファサードの様相を呈し、当時の人々に鮮烈な印象を与えた。この洗練されたモダニズム建築は、池辺陽や今泉善一らの設計力が発揮された結果なのである。

    

    
■池辺陽と今泉善一らの「建設工学研究所」
 まず設計者今泉善一の経歴について触れておきたい。
 戦前、今泉は大蔵省で製図工として勤めるかたわら、山口文象(岡村蚊象)が組織した「創宇社建築会」に参加出展していた。作品は、第7回(1929年)に「印刷工場」「連続住宅」,第8回(1930)に「共同組合アパートメントハウス」(道明栄次と合作)であった。1931年に共産党入党、翌年銀行襲撃に加わったとして逮捕投獄、1944年に出所し前川國男事務所に勤務、プレモスの開発を担当した。そして1947年、「新日本建築家集団(NAU)」結成に参加、NAU集団設計委員会において池辺陽に出会い親交を深めた(*2,*6による)。

 一方、坪井善勝や池辺陽らが運営する東大第二工学部の外郭団体「建設工学研究会」では、沼津市より防火建築帯の設計の相談を受けていた。そこで坪井が実務経験に長じた今泉善一を建設工学研究会に引き入れ、今泉を中心とした沼津の設計体制が出来上がった(*2による)。ただ恐らくは池辺と今泉のNAUにおける出合いがあったからこそ、こうした流れになったものと考えられる。
 池辺による商店建築の共同化の考え方は、特にモダニズムの考え方による統一したファサードの美を強調する方向に向いていた(*4)。その意味において沼津の有階アーケードは、建築がアーケードの機能を内包しており(仮設的な後付けアーケードと異なり)、池辺の考え方に適うものであった。

    

    
■池辺陽と今泉善一の「沼津以後」
 本通防火建築帯の完成以後は、池辺は防火建築帯の制度を(既存の街路に手を加えるにとどまるので)抜本的な将来の都市計画と比べて過渡的なものと位置付けるようになり、徐々に防火建築帯の計画から遠ざかるようになったという。
 しかしこれとは対照的に、今泉善一は沼津市本通防火建築帯を出発点として旺盛な設計活動を展開、1957年に「日本不燃建築研究所」を組織して全国各都市の防火建築帯を多数手掛けた。(後に、今泉は「本通り」の隣の「上土(あげつち)通り」でも防火建築帯の設計を行った)

    
    

■現在の沼津本通防火建築帯
 「アーケード名店街」という看板が立つ現地に私が初めて沼津に赴いたのは、昨年末のこと。当初は2階建てが多くを占めた商店街も、現在はほとんどが3階建て以上に増築され、全体的に見れば、ファサードのデザインはある程度統一感を損なう形で改装が加えられていた。ただ数か所旧態をとどめる箇所も残っており、特にアーケード北の入口のカーブした壁面に縦長窓が連続する当初の外観はなかなか印象的である。

 有階アーケードも商店街全体に渡ってほぼそのままの形で機能しており、当初からの建物の構造体がそのまま使われ続けている様子を窺わせていた。築後60年以上経過する大規模な建築群なのだが、現在取り壊されて失われた部分はほんの一部であり、間口距離にして約95%が現存するという計算である(下図2枚は、その時私が撮影した街並みの写真をつないで、現況ファサード図としてみたものである)。

 しかし驚くべきは店舗のほとんどが稼働中で、私が見たところでは空家は1軒のみだったことである。全国的な「シャッター街」化問題とは様相を異にしているように思えたが、やはりこれには理由があるらしかった。町づくりのアドバイザーとして長く商店街に根をおろして活動されているNPOの方の話によれば、やはり10年前には3割位が空家だったのだが、しかしある原因に気付いて対処したところ空家がほとんど無くなったということであった。お話を伺いつつ、粘り強く町づくりに尽力されている姿勢に大変感銘を受けた。

     

     

■生き続ける熱い志
 現地で何人かのお話しを聞いた。まず、当初から営まれているある商店の年輩の女性は、店主である亡きご主人手作りの店舗内装をひとつひとつ説明して下さった。
 先ほどのNPOの方の話によれば、この防火帯としての商店街が完成した頃は相当繁盛したこと、視察も相次ぎ、有名タレントを招いてのイベントが繰り返し催された時期があったことなどを話して頂いた。過去の繁栄だけでなく、これからの町づくりについても頻繁に会合が持たれているとのことであった。

 この戦後復興期の商店街の成功を「学民官三者協働の成果」と評する言葉を見かけたが(*5)、数時間滞在し地元の方と接触しただけでも、「民」である居住者の方の誇りと熱い志の灯が生き続けていることを実感することができた。



 *1:美観地区:「市街地の美観を維持するために定める地区」として1918(大正7)年施行。昭和8年に皇居周辺が指定、その他倉敷などが指定を受けた。平成16年景観法施行により廃止、美観地区は景観地区へ移行した。
 *2:『都市の戦後−雑踏のなかの都市計画と建築』(初田香成 2011年,東京大学出版会)
 *3:「美観地区に関する史的研究」(澤田充生,岸井隆幸 『土木史研究』16号1996年)
 *4:「商店建築の共同化について」(池辺陽,『建築界』1955年5月)
 *5:HP「沼津アーケード名店街」
 *6:「大森事件のことなど」(今泉善一(聞き手:本多昭一,藤森照信),『建築雑誌』1985年1月)




 
| 1950年− | 20:52 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
城内学園(きうちファッションカレッジ)
  
  1961年,静岡県沼津市,沖種郎,現存(撮影:2014年)

 丹下研出身の沖種郎による、都市デザインの延長線上にあって、都市と建築との融合をめざした計画の実例。あるいはそのモデルとしての建物と言えるのかもしれない。

    

 1960年代当時、「メタボリズム」に代表されるように、急激な人口増加への対応あるいは急速な高度成長の問題に対する解決策を求めて、都市デザイン的な提案が盛り上がりを見せていた。
 沖種郎は1961年2月の『建築』誌上において、「ジャングルジム・システム」とのタイトルを付した提案を行い、いくつかの計画案と実施作として「宮津市庁舎」と、この「城内学園」を掲載した。

    

       

 提案の中で、まず沖は近代技術がもたらす「人間疎外」を問題視し、そこで人間の生活と有機的に関連付けることが可能な都市のシステムを模索した。提案のタイトルに「建築デザインから都市デザインへの接近」と添え書きされているように、沖はマクロスケールの都市と生活する人間スケールの建築との融合によって解決を図ろうとした。
 具体的には、林立する大規模なコア柱とその間に架かり水平に延びる巨大な梁を恒久的な巨大なメジャーストラクチャーとし、そこに更新可能で人間スケールのマイナーストラクチャーの建築を取り付けるという二重構造による(この二重構造自体は、当時、割と普及した考え方ではあった)。
 このようにして多種多様な建築空間が生み出されるジャングルジムのようなシステムと、残された屋外空間とが有機的な関係を持ちながら結合することが可能になるわけで、この点がこの提案の核心となっているようである。
 「淀橋浄水場開発計画案」の例を挙げれば、上空を上述したようなジャングルジム状としオフィス空間として利用、跡地として残された地面は分譲され住宅地として活かされる、というものであった。
 おおよそこのような提案の内容であろうか。

    

    

 城内学園は、都市的視点からすれば小規模なモデルかもしれない。ひとつのコアから延びるRCの構造体があり、余白の部分は教室や執務空間となっている。またそこにはプレキャストコンクリートによる外壁という更新可能な部品が取り付けられているのが特徴となっている。またRC構造フレームのヴォイドな部分は、屋外の広場空間のように機能している。

 写真ではわかりにくいが、プレキャスト部材は木造家屋で見かける「南京下見板張り」をヒントにした水切りの工夫がなされていたそうである。内側には凹みが付けられ棚として利用が可能とのことである。

       

       



 
| 1960年− | 19:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・奈良県物産陳列所
  
  1902年,奈良県奈良市,関野貞,現存(撮影:2014年)


 明治期の建築物産展示販売のための施設。現在は奈良国立博物館の仏教美術センターとなっている。

 設計者関野貞(せきのただす)は、内務省技師として奈良県の古社寺建造物修理に尽力した建築学者。調査保存修理数々の成果を挙げた。「法隆寺再建非再建論争」においては、非再建側に立って論争を引き起こしたことでも知られる。

    

 調べてみるとこの建築は、関野の平等院鳳凰堂研究の成果が反映された建物なのだそうである。確かにそのように見える。ただ私が最初に見た印象では、日本の伝統的な木造建築を用いながら、西欧の様式建築に一般的なシンメトリーの立面との融合を試みたようにも見えた。

 正面に唐破風を取り入れつつ窓廻りにイスラム風の装飾を取り入れるなど、今日的な目からするとかなり特異な外観が目を惹くのだが、大胆に新しい試みを行う明治時代の意気込みとして理解したいところ。似た試みを行ったことでは伊東忠太がよく知られるが、因みに伊東の生年は1867年、関野は1868年生まれ。同分野で活躍した同世代の二人がこれだけ共通したアプローチとなった辺りも興味深い。

      

    



 
| 1900年− | 10:31 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
旧奈良監獄(奈良少年刑務所)
   
1908年,奈良県奈良市,司法省営繕課(山下啓次郎),現存(撮影:2014年)


 奈良県庁の東の交差点からの道をとぼとぼ歩き、坂道を登りつめた辺りに中世の城郭を思わせる煉瓦を主体に石材も用いた表門が立ち現われた。なかなか感動的であった。本物の煉瓦造とはこういうものだったのか、と思わせてくれる。
 この表門(ひょうもん)を含め塀の建物も大体そのまま100年以上実用に供されているとのことであり、このように当初の姿を留めるのは、明治期の五大監獄の中でもここだけという。

   

 塀の内部はいわゆる「パノプティコン」という一望監視システムに即しており、建物が放射状に配置されている。J.ベンサムが考案したパノプティコンとは、神でも王でもないシステムが人を管理することを示す近代の権力機構のあり方を示すひとつのモデルとして引き合いに出される。これについてはかつてM.フーコーが論じていた。西欧化を推進した明治期の日本が取り入れた大規模な実例が、ここにあるというわけだ。

      


               ***

 さて、奈良はさすが色々と興味深い建物がひしめいている。折角なので、奈良県庁の東の交差点からここに歩いて辿り着くまでの道行きで出会った建物を簡単にご紹介しようか。

▼およそ100年前の明治近代の建物について上述したのだが、それよりもはるか昔、日本最初の近代化とも言る奈良時代の建築、築1200年を経て建つ国宝「東大寺 転害門」を見た。天平文化に思いを馳せ眺めていると、時間が経つのを忘れてしまいそうになる。デザインも面白い。

   

▼そして「北山十八間戸」という、忍性の開設によるハンセン病救済施設を見た、というか初めて知った。鎌倉時代に開設され江戸時代の終わりまで機能したそうで、ここにある建物は江戸時代に旧状そのままに修築されたものだそうである。
もしや遥か光明皇后の施薬院に起源を発するのかなとも思ったが、どうもそれは違うらしい。しかし医療史上の記念碑的な建物が何気なく現存しているあたり、さすが古都奈良である。

   

▼そのそばにある、煉瓦造の「奈良市水道局計測室」は小さいながらも凝ったデザインであった。ちょっと朽ちかけていたようだがもったいないと感じた。

   



 
| 1900年− | 18:14 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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