収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
聖シオン会堂(蔵田周忠設計)と家具のこと

  

1926年、東京都渋谷区、蔵田周忠、建物現存(家具など数点保存。撮影:1992年)

モノクロ画像は『建築画報』(vol.17 1926.5)より。

 

分離派の建築家蔵田周忠は日本聖公会聖シオン会堂を設計し、急勾配の木造トラスの小屋組を持つ質素な建物と家具類などが1926年(大正15)年5月の『建築画報』に掲載された。
私がその建物の現状を確認しに行ったのは確か1992年頃であった。戦後に渋谷聖ミカエル教会と改称され、建物はRC造の教会に建て替えられていたが、蔵田自身がデザインしたステンドグラスや家具類、とりわけ「会衆席」と呼ばれる長椅子が2脚現在の建物に現存しているのを発見した。貴重な遺品として伝えられている状況を確認することができたのは喜びであった。
 

 

      

 


               

『建築画報』には口絵に建物と家具類が多数掲載され、蔵田の解説にも建物のことのみならず教会独特の家具類などについても記されており、建物から家具まで総合的にデザインするよう任され意欲を傾けた時の心境を滲ませている。その部分を下に抜き書きする。

 


    「家具は高等工芸の森谷教授が心配して下さって、芝の宮澤工作所で作ってもら

       いました。「しぶく、丈夫に、鉄のような感じに」という私の注文を諒として

       よき特別の塗り方を見せてもらいました。歴史的様式に見る家具の彫刻やモー

       ルディングを全く避けて、率直に組立てそのもの、一塊形としてどうっしりと

       据えたいというのが私の希いでした。それはよくはたされています。その様に

       家具までを全部一任されるということは、建築家にとって重い任務であると同

       時に、現今の状態では実にそうなくては全体としてよいものができない有様で

       すから、私にとっては愉快な仕事であったのです。」

 


                                 

 

 

   

 

当時は例えばバウハウスが設立当初に中世を参照しつつ、建築を頂点とし絵画工芸を含む総合芸術を志向していたように、近代のひとつの目標としての総合芸術への志向は、蔵田の心をも捉えていたのではなかろうか。
蔵田自身、その後の昭和3年には「型而工房」組織しその指導的立場として近代家具の規格化の研究に携わったのだが、シオン会堂の経験はそのひとつの端緒であったと推察される。


上記蔵田の文中の「森谷教授」とは、蔵田が教鞭を執る東京高等工芸学校の同僚で木材工芸教授であった森谷延雄のことである。文面からすると、蔵田はデザインしたシオン会堂家具の製作について、森谷から宮澤製作所を紹介してもらい、また塗装に関する提案を受けたようである。

 

                                                      ***

 

ところで、ここではっきりさせて置かねばならないことがある。

確か2007年頃に森谷延雄の展覧会が開催された折り、私が情報提供したこともあって、旧シオン会堂家具の現存する「会衆席」が出品されていた。しかしどういうわけか森谷のデザインによる作品として展示され、印刷媒体にもそのように紹介されていたのでとても驚いた。勿論これは誤りであり、家具の設計は上述したように蔵田であり、森谷はアドバイスを与えただけなのである。

 

私は今後のこともあるので、森谷延雄展を企画したの学芸員にその件について質問したところ、森谷の現存する家具があまりに乏しかったので、解説文にあるように少しでも関与した旧シオン会堂の長椅子を出品しただけだとのことであった。(ならばそのように注記すべきだと思うが。)そして学芸員に改めてこれら家具を蔵田がデザインした作品としてよいか質問したところ、蔵田のデザインとして間違いない、との返事であった

・・・蔵田は冥界でどう思っていることだろう。   

 

 
                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 1920年− | 22:47 | comments(0) | - | pookmark |
旧多摩聖蹟記念館

  

1930年,東京都多摩市,関根要太郎(担当:蔵田周忠),現存(撮影2019年)

 

  

明治天皇の行幸を記念して建てられた建物。楕円同心円が重なる平面であり、その中心部には明治天皇の騎馬像が展示されている。

外観は列柱が威容を示している。


先ごろ開催された関根要太郎展で展示された計画案パースを見たところ、長大なアプローチの先に仰ぎ見るような神殿風のイメージが示されており、私の見るところでは、さながら表現主義建築家ハンス・ペルツィッヒのザルツブルク祝祭劇場第一次案をほうふつとさせるものがあった。


分離派の建築家として知られる蔵田周忠は三橋建築事務所時代の関根の後輩であり、関根事務所の作品を多く担当した。この聖蹟記念館も同氏が関与したとされる。

    

 

  

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

| 1930年− | 23:05 | comments(0) | - | pookmark |
GUNKAN東新宿(旧ニュースカイビル,旧第3スカイビル)

1970年,東京都新宿区,渡邊洋治,現存(撮影:2018年)

 

最近のリニューアルまでに建物名称も何度か変遷したが、ニックネーム「軍艦マンション」でずっと通っていることは間違いなさそうである。

私が学生の頃に遠目で見た外観は、多数の金属製ユニットを思わせるパネルのせいか、メタボリズム系の建物かと思っていた。しかしそれはどうも違っていたようだ。イメージ先行。むしろニックネーム「軍艦」の戦闘的なイメージこそが建物デザインの本質であったようである。1960年代末期の沸騰の時代が形になったと言うべきか。ガチガチの機能主義信奉のただ中にあって、時代精神を造形化することは当時にあっては異端の為せる業、冒険であったかもしれない。ただそうしたことを想像できる私のような年配者もだんだん少なくなった。そういうご時世であるようだ。

 

それから私にとっては映画「マルサの女」のロケ地としての記憶もある・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 1970年− | 22:59 | comments(0) | - | pookmark |
プーク人形劇場

   

1971年,東京都渋谷区,設計:不詳,現存(撮影2015年)

 

人形劇団の歴史や信念がコンクリート打ち放しのファサードいっぱいに刻み込まれ、それらが放つ意志そのものがひとつの建築に昇華したかのようにみえる、稀有な建物かもしれない。

 

   

 

沿革を辿ってみると人形劇の活動は大正末期に遡り1929年に人形クラブを意味するエスペラント語“LA PUPA KLUBO”として出発、略してPUK(プーク)となり、人形劇団プークと称することになったのだそうである。創立者にして夭折した川尻東次の志を受け継ぎ、戦中戦後の苦難の道程にも活動の灯を絶やすことなく、その結実として1971年に日本初の人形劇専門劇場が誕生した。HPを拝見すれば、その活動史には自分自身も小さい頃にテレビで見た演目もある。

 

劇場の建物は子供たちを夢の世界へ導く入り口、「重たい」歴史を感じさせず、明るい感覚とうまくバランスしているところもさすがなのかもしれない。

 

 

     

 

  

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

| 1970年− | 00:04 | comments(0) | - | pookmark |
【展覧会のお知らせ】農民美術児童自由画100年展

 

   

当ブログでも何度かご紹介した、1919年に山本鼎の提唱により開始された農民美術運動、及び児童自由画運動の100年記念展覧会が長野県上田市立美術館(サントミューゼ)で開催されています。

農閑期に農民が工芸品を生み出し精神的にも実生活にも豊かさを得るように、また子供たちが手本丸写しの図工の授業から解放され創造性を発揮できる場とするよう訴えたのでした。100年前の時代状況においてこうした理想を現実のものとした画期的な出来事に対して、改めて思いを馳せてみようということなのです。

 

また長野県出身で分離派建築会のメンバーであった建築家瀧澤眞弓は、山本鼎の求めに応じて農民美術の工房と研究を行う本拠建物「農民美術研究所」を1922年に設計、翌1923年に竣工しました。それは北欧の茅葺き農家をモデルにしたなかなか斬新な建築なのでした。そこで私も、今はなき建物を図面を基に1/50のスケールで再現した模型を製作(↓画像)、この展覧会で展示される運びとなりました。

 

    

 

下の画像は農民美術の代表的工芸品いわゆる木片(こっぱ)人形をもとに、現代の地元の若い人の感性によって創られた人形たちです。

このように、農民美術は山本が目指した100年前の目的を変容させながら、今も地域の人々による自由で高い質を持つ工芸として継承されていることを知る機会となっている、そうした点もこの展覧会の大きなみどころです。

 

    

 

(↓)特別に許可を頂いて撮った、展示中の農民美術研究所の模型です。

 

 

 

当時は、農民美術の練習場所として、また自由画の展覧会場として地元の小学校が使用されていました。美術館を出たあと小学校に行ってみると中川一政が揮毫した記念碑(↓)がありました。また山本鼎記念室もありました。地元にとってかけがえのない人物として現在も変わらず尊敬されていることが分かりました。

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

| お知らせ | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
CALENDAR
S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< July 2020 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
叢書・近代日本のデザイン 25 [大正篇]
叢書・近代日本のデザイン 25 [大正篇] (JUGEMレビュー »)
分離派建築会,関西分離派建築会
「分離派建築会」作品集3刊の、初の復刻本が刊行されました。末尾の解説文は私が担当しました。
収蔵庫・壱號館
ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE