収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像&その他いろいろblog
旧・日本貿易博覧会芸能(演芸)館 (現・神奈川スケートリンク)

1949年(博覧会開催),1951年(スケートリンク開設),神奈川県横浜市,町田建築事務所(博覧会時),現存(撮影:2014年)


 まだ記憶に新しいソチ冬季五輪、その男子フィギュアスケートで金メダルを獲得した羽生選手も仮の練習拠点にしたことがあるという、神奈川スケートリンク。尖頭アーチ形の屋根を持つ鉄骨建屋部分については、もともと1949(昭和24)年に開催された日本貿易博覧会神奈川会場(=反町会場)の芸能館(演芸館とも称される)を転用したものであり、さらに建屋の骨組みそのものは土浦にあった戦前の飛行場格納庫を移設したものであった(*1)。
   
 日本貿易博覧会は、占領下の日本が経済的な立て直しを図り戦後復興の足掛りを得るために開催した大規模なイベントであった。博覧会終了後の詳しい経緯としては、まず芸能館は体育館に改造され1949年の国体の会場として活用された。そして1951(昭和26)年には体育館と併存した形でスケート場がオープン、そして1959(昭和34)年には単独のスケート場となったそうである。(*2)

 一見どうということもなく見えるスケートリンクは、戦後復興期の博覧会遺構であり、同時に「もっとも古い歴史を持つ」と言われる現役スケートリンク、あるいは戦争遺構としての側面を持ち合わせている。そして何よりも、まともに建築物の建設がなされ得なかった終戦後の数少ない建築活動の一端を示しているように思われたので、ここに取り上げてみたいと思った。ただ近々建て替えが予定されているらしく、忘れないうちにちょっと急いで訪れた。

 


●元飛行機格納庫のスケートリンク
 現在のスケートリンクの建物は、緩いアーチ形の旧芸能館の建屋に対して、切妻屋根の建屋がTの字形に直交するように連結されてひとつの建物を成している。博覧会開催以後に体育館として使用された際にこうした増築がなされたと考えられる。内部はひとつながりの空間でありスケートリンクが収まっている。

 アーチ形屋根の旧芸能館部分は土浦の旧海軍の飛行機格納庫であったとある。そこでHPを辿ってみるとそこは現在の霞ヶ浦駐屯地にあたり、現在も同様の形状の格納庫が使用されていた(*3)。そしての駐屯地の格納庫内部の屋根の鉄骨骨組みはHPの画像(*4)を見た限りダイヤモンドトラス(*5)のようであった。一方神奈川スケートリンクの内部天井を見てみると、銀色の断熱材でくまなく覆われ鉄骨の天井は見えなかったが、霞ヶ浦と同様にダイヤモンドトラスの可能性はありそうだ。

 

 下の画像のように、切妻屋根建屋の観客席下部の部屋には小規模な鉄骨部材が見られた。またエントランス部分など1950〜60年代的なレトロな雰囲気が濃厚であった。内部のベンチも昭和の雰囲気を醸し出している。

 






●「日本貿易博覧会」について
 1949(昭和24)年3月15日から3か月間、横浜市の野毛山会場(第一会場)と反町の神奈川会場(第二会場)で行われた博覧会。入場者数は360万人とされる(*6)。
 GHQによる貿易に関する占領政策では、終戦直後の外国貿易禁止の時期から、徐々に政府間貿易が行われるようになり、民間貿易も制限付きの形で回復していった。そして1949年から翌年にかけて民間による輸出入が解禁となる時期に合せて、この博覧会が開催されたことになる。
 会場となる敷地は野毛山、反町の2か所でありいずれも終戦後にGHQに接収されていた土地であった。反町については、昭和初期までは遊郭街であり、第二次大戦の空襲で焼き尽くされGHQの接収に至った経緯がある。従って今では昭和初期と思しき街並みの片鱗さえ見当たらない。

   

 博覧会パビリオンのデザインについては、蔵田周忠や丹下健三がそれぞれの記事の中で語っている。だが両者共、芝居の書割の乱立のようで統一性に欠け、お祭り気分風情に堕したことを批判している(*7,*8)。その件に関して、1949年に丹下健三が語った言葉を以下に紹介したい。(後の1970年大阪万博で丹下健三が設計する「お祭り広場」を思い浮かべながら読むと面白いかもしれない)

 「博覧会にゆく省線の中から、規格化された鉄骨とワイヤーとカンバスで大きな空間がつくられている米軍の仮設の施設を見かけた。おそらくあの方法で、自由な空間をつくることもできるだらうし、組み立ても分解も容易であらう。この方が余程わたしたちにふさわしい博覧会の建物であるように思える。これは仮設ではあるがほんものの建築である。」(*7)



 また、丹下健三は外国館において「新時代の生活と技術」というテーマの写真パネル展示を行った。渉外部企画顧問の小池新二から展示と構成の一切を任され、コルビュジエの作品などを織り交ぜた新しい都市生活へのメッセージをデザインしたものであった。元々この企画は、外国からの展示物が集まらない事態への備えを兼ねていたらしく、実際にはパネルのいくつかが展示を割愛されたのであった。もっともこれを見た蔵田周忠は、効果的な意匠に「やっと救われた感じがする」(*8)と褒めていた。


●博覧会の後−反町公園として
 博覧会終了後、野毛山会場では動物園が残され、また公園として改修を経ながら今日に至っている。反町の会場についても、しばらくの間は一部のパビリオンが市庁舎として使われ、新市庁舎が完成して移転した1963年に反町公園となった。ジェットコースターやゴーカート、プールを備えるにぎやかな遊園地の様相を呈していたらしい(今ではそれらは皆撤去された)。

 昭和初期の遊郭から空襲、接収を経て博覧会の開催そして公園へ変貌していった経緯を思う時、昭和史の変遷の縮図のような場所だったように思え、そのような変遷を経ながらも唯一の遺構としてスケートリンクがそのシンボルのように残っていることに感慨を覚えざるを得なかった。また外壁に描かれた子供達の壁画(↓)を見た時、それは過去の墓標ではなく未来に向けて開かれているようにも感じた。

 

 帰り際にちょっと古めかしい水の出ない小さな噴水をみつけた(↓)。いつのもので由来がどういうものなのか全く分からない。ただ後で色々調べているうちに、横浜の水道創設記念噴水にやや似ているように感じた。

      



*1:「各館の大きさ、形状、配置等に付いては手持ち資材(富山県下で購入した木造建築物及茨城県下での飛行機格納庫)・・・(中略)・・・に依って左右された」との記述からも移設された建屋によることが示されている。「日本貿易博覧会建物の建設に就いて」(長倉謙介,『建築雑誌』VOL64.752号)
*2:「神奈川スケートリンクの再整備について」(H.25.4.25,市民局)による。
*3:HP「霞ヶ浦海軍航空隊 格納庫跡」
*4:Yamaro.net@blog「陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地見学」
*5:巴組鉄工所(現・巴コーポレーション)によって1932(昭和7)年に開発された鉄骨立体トラス構造。戦前の施工例では「東京書籍印刷 印刷工場」(DOCOMOMO選定建築)などがある。
*6:博覧会記録誌として『貿易と産業 Japan foreign trade fair Yokohama 1949』(日本貿易博覧会,1950)がある。内容のほとんどは英文で書かれている。
*7:「外国館にある新時代の生活と技術の写真展示」(丹下健三,『新建築』1949.5)
*8:「日本貿易博覧会の建築を見る」(蔵田周忠,『建築雑誌』VOL64.752号)




 
| 1940年− | 14:39 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
足利市庁舎別館

     
1953年,栃木県足利市,石本喜久治(石本建築事務所),現存(撮影:2014年)

  私も属する某近代建築愛好会の会員の中で、Oさんは飛びぬけて多くの建物を巡り歩いておられる。先日もフェイスブックに足利市庁舎別館の画像をUPされていたのを拝見した。そして驚いた。
 石本事務所のHPにはちょっと新古典的な外観が一面だけ掲載されており、どちらかといえばおとなしい外観だなと思う位であった。しかし実際のところ、敷地が角地にあることが原因しているせいなのか、それぞれ異なる表情に分節された表側ファサードの各立面が一挙に見渡せるので、一望すると上の画像のようにむしろそのハイブリッドさが強く印象付けられる。まるで時代を間違えて出現したポストモダニズム建築のようにも見えて、正直頭がくらくらする思いだ。

 そんなわけで驚いた私は早速休日を利用して建物を訪れた。余談だが足利は歴史のある見どころの多い町であった。


       

 足利市庁舎別館は設計した石本事務所にとって、戦後の建築として記念碑的な意味合いがあると見える。つまり戦後に組織事務所として再スタートを切る途上にあって、庁舎建築を手広く手を染めるようになるきっかけになった建物のようなのである。

 次のようなエピソードが伝わる。足利市は庁舎の設計者選定にあたってまず建設省営繕局局長川合貞夫に相談した。川合は石本事務所のOBであったので、勿論石本事務所を訪ねるよう勧めた。そこで当時石本喜久治の片腕的な存在の長野八三二専務が、よそを廻らせることなく設計委託を取り付けたのだそうである。因みに長野は後に石本建築事務所の社長を務めた人物。長野と石本喜久治の最初の出会いは、石本が審査員を務める朝日新聞社主催の住宅コンペにおいて、参加した長野が入選を果たしたところから始まったという。

       

 
          

 足利市庁舎別館の全面石貼りで新古典主義的なまた重厚な外観は、戦前のデザインを踏襲しているように感じられた。終戦後いきなり日本の建築デザインがモダニズムに転換したわけではないことを示している。外装石材は、ある人に聞いたら富国石などの擬石ではないかとのことであった。(石本喜久治は分離派建築を発端にモダニズムの建築を受容推進してきたことで知られるが、事務所は経営上様々な仕事を請け負う必要があったので、必ずしもモダンなものばかり設計できたわけではなかったようである。)
 しかし戦前を引きずるこの建物以後は、特に長岡市庁舎など、シャープで軽快なモダニズムの建物がデザインされるようになった。

 正面向かって左側のファサードには、林立する付け柱の間に小さなバルコニーがアクセントとして取り付けられている。この前々年に竣工した「工業繊維大阪支店」(1951)にも同様のものが見られる。
 内部においては最上階の天井が目を惹く位であろうか。天井面に斜め格子のリブが巡らされている。石本が戦前から持ち合わせていた装飾感覚の、数少ない表れだろうか。

       


          

 石本喜久治の建築作品は残存例が少ない。そんな中、石本存命中の建物であり関与の可能性が大きいであろうと考えられる建物がほぼそのまま残っていることは、喜ばしい限りである。築60年を超える庁舎が、しかも現役で使用されていることは素晴らしい。担当した所員が誰なのかについても、ちょっと気になる。
 なにはともあれ、末永く使い続けられることを祈りたい。

       



 
| 1950年− | 17:29 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・足利織物(現・トチセン)より サラン工場,捺染工場,汽罐室


サラン工場及び捺染工場:1913〜1919,汽罐室:1912〜1925(1941年増築),栃木県足利市,現存(撮影:2014年)


 足利は古くからの織物の産地として知られる。織物産業が隆盛を続ける大正2(1913)年、赤煉瓦と鋸屋根が印象的な工場を持つ「足利織物株式会社」が設立された。後に企業名は「明治紡績株式会社」を経てさらに現在は「株式会社トチセン」となるが、営々と繊維関連商品の生産を続けている。

 許可を頂き広大な構内を巡ってみると、歴史を感じさせる煉瓦造の建物や木造の建物で占められており、戦前期に造られた建物が多いのではないか(?)、という印象であった。
 ちょうど構内のある一角で壁の塗り替えがされていた。当たり前のことのように手を入れつつ建物を大切に使おうとしている姿勢を見たような気がして(建替えが頻繁なご時世のせいだろうか)ちょっとした感銘を受けてしまうのだった。
 今回、登録有形文化財に登録されている煉瓦造の3棟の建物をとりあげる。


 
・「サラン工場」 (上図及び下2枚):切妻屋根の長大な建物。石材でできた窓枠による窓が多数並ぶ。上段の窓は後に加えられたもの。(「文化財オンライン」の解説から要約))




 登録有形文化財に登録されている煉瓦造の3棟の建物は産業遺産として貴重であることは言うまでもないが、ここで私が目を奪われたのは、敢えて消さずに残されたとされる戦時中の迷彩塗装であった。そういうわけで迷彩塗装のある壁の画像ばかりをクローズアップしてここに並べてしまったのだが、お許し頂きたい。特に汽罐室の外壁全面に施された激しい模様には唖然としてしまった。
 外壁に迷彩塗装を施した当時のことを想像するならば、描いた人は恐らく意匠的に体裁を整えようなどという意識を持たずに、黒いペンキで一気に塗りたくったのであろう。だが刷毛のおもむくがままの筆致は、かえって潜在意識の奥に潜む戦争の不穏な感情を浮かび上がらせたようでもある。時として建物は設計意図とは別に、社会の流れにまみれて予想だにしないものに変質し、人々の脳裏に何かを刻みつけるようだ。それがほんの表層に描かれたものであっても。付け加えて言えば、この迷彩塗装を見た瞬間、関東大震災直後に「バラック装飾社」が描いたプリミティブな看板模様をふと思い起こしたのだった。


・「捺染工場」 (以下4枚):6連の鋸屋根が架かる長大な建物。煉瓦造の外壁と木造の軸組による。開口部のまぐさ石は1本の石で出来ている。(「文化財オンライン」の解説から要約))







  



・「汽罐室」 (以下5枚):切妻屋根を2連に架け、煉瓦の妻壁は切妻形と四角形の壁が連続して並ぶ。内部にランカシャーボイラーが2基設置されている。(「文化財オンライン」の解説から要約)ランカシャーボイラーとはかつて普及した炉筒が2本ある煉瓦造ボイラーということらしい。)










 




 
| 1910年− | 15:56 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
中村映劇

昭和初期(?),愛知県名古屋市中村区,現存(撮影:2012年)

 前回に引き続き映画館をもう一件。こちらは名古屋市中村区の「中村映劇」。その名が示すように、戦前は芝居小屋であったのを現オーナーの祖父が購入し、戦後に映画館として再興したとのこと(hp「港町キネマ通り」参照)。
 建物は戦前からのものであることは間違いないようである。正確な建築年代は不詳。


 特徴はご覧の通りの屋根形を縁取る帯状の装飾。これについては、あるブログに興味深い発見が記されていた。装飾を良く見ると中央にはムカデの図柄の紋、そして装飾化された「旭座」の文字が見えるというのだ。確かにそう読める。(ブログ「まちかど逍遥」参照)。
 これについてほんのちょっと推理してみたい。調べてみると、映画館が建っている辺りは戦前までは「中村遊郭」と呼ばれ賑わっていた。現在でもそれを偲ばせる雰囲気が、古びて息を潜めながら生き残っている。遡れば中村遊郭は大正12(1923)年に、明治期から栄えた大須観音周辺の「旭遊郭」から集団移転して来た経緯があるとのこと。恐らく移転前の地の「旭」の文字を、移転した中村の芝居小屋の装飾にも使用したのではないだろうか(真偽を示す証拠までは見つからないが)。もし正しければ、大袈裟に言えば、名古屋の花街の変遷史の一端を示す生き証人のひとつなのかもしれない。



 



 この一帯、華やかかりし頃を偲ばせる年老いた昭和の風景(映画館向かいの店(↓),大門横丁(↓↓))は、白昼の下で余計物悲しいものがあった。ただ日が暮れて懐かしいネオンが灯る時刻になれば、成人映画に特化した営業形態の映画館も街も、恐らく生気を取り戻すのであろう。いやそちらが本当の姿であったか。そんなちょっとした期待を抱いてその場を後にした。



    

 
| その他いろいろ(建築探訪) | 16:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
早稲田松竹

1951年,東京都新宿区,設計不詳,現存(撮影:2012年)

 早稲田通りのこの映画館で名画に親しんだ思い出を持つ人は、少なくなかろう。調べてみると、「早稲田松竹」は松竹系の封切館として1951年に開館した。1975年には2本立ての名画座に転身し、さらに時を経て2002年には休館を余儀なくされた。しかし早大生を中心とする復活に向けた活動が実を結び再開、今日に至っているとのことである。さらに戦後昭和の薫りを放つ映画館建築としても、今や希少な存在となっている。

  

 建築物として歴史的に特別際立った建物というわけではないけれども、それでも1951(昭和26)年という戦後まだ間もない時期に、これだけのRC造の映画館が実現したこと自体、ちょっと不思議だとも思うし、それなりの評価があってよいのかもしれないとも思う。
 半円筒状の連続ヴォールト屋根がポイントになったちょっと洒脱なデザイン、これは戦後の新しい息吹を感じさせるものだったであろう。構造的な意味で円筒シェルの先駆けなのかは分からないけれど、見掛けはそれに近い感じもする。
 日本が混乱と窮乏から抜け出せずにいた終戦後の時代にあっても、映画だけはとびきりの名作が次々生み出され娯楽の花形であり続けた。そうした当時の事情があったからこそ建物についても同様に時代を反映し、こうしたちょっとお洒落な映画館が出来上がったということであろうか。そう考えてなんとなく納得してしまいそうである。

 因みに1951年といえば、ご存じ黒澤明の「羅生門」(1950)がヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞した年であり、あるいは小津安二郎の「麦秋」が公開された年であった。
 そんなことを頭の中で巡らせつつ、建物の写真も撮り終えたし、さっそくシートに身を沈め銀幕の別世界へ向かうとする。

  



 
| 1950年− | 17:25 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
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