収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
木場 洲崎神社の狛犬

   

気まぐれもいいとこなのですが、久々の「狛犬」シリーズ。しかも20世紀近代の建築とは無縁な江東区木場の洲崎神社に鎮座する激しい形相の狛犬に出会って感じたことなど少々。


そもそも公共の場に置かれたモニュメントにメッセージを託すことは石碑に文字で碑文を刻むことで昔から世界中で行われてきたことは言うまでもない。あるいは造形物でメッセージを遺した例もあったのかもしれない。


そして日本の近代に絞って言えば(かなり強引なもっていき方ですね)、近代彫刻の勃興した1920年代には日名子実三ら彫刻家が旧来の内向きの芸術作品を超え、公共的な場においてメッセージを発する造形パブリックモニュメントとしてのあり方を模索しようと「構造社」を組織した。そういえば、そのさきがけ的作品として日名子が1925年にデザインした関東大震災の慰霊塔「蔵魄塔(ぞうはく)塔」も近くに現存する。

 

       

さて、ご覧の通り、この阿吽の形相の一対の狛犬、特に今にも大きな敵に今にも飛び掛からんと臨戦態勢の狛犬(▲▲(仮に狛犬Aとします))の迫力は凄まじい。もう一頭(▼(狛犬B))もこの飛び掛かろうとする狛犬の視線に合わせて振り向こうとしているかのように見える。

 

そして狛犬というある意味定型化した造形表現の中に、昔から人々の特別な意思や願いを込めることがあったのではないか、というのが今回言いたいことである。

 

     

ちなみにこれら石造の狛犬本体はいつ制作されたのかはっきりしないのだが、明治以前に作られたような古めかしさを感じさせる。ただし台座についてはコンクリート製で塗装が施され、恐らく昭和期以降の修復によるものではなかろうか。

 

はっきり言おう。私が思うにこの狛犬は襲い来る敵である大津波(高潮)に向って飛び掛かろうとしているのであり、津波を倒して市井の人々を護ろうと必死になっている姿に見えるのである。

 

     

 

現在の洲崎神社社殿(▲)は、震災や戦災などで昭和43(1968)年に再建されたものである。

創建は元禄13(1700)年に桂昌院が江戸城中紅葉山の弁財天を遷座した弁天社として成立した。当初は埋め立ても進んでおらず海面に浮かぶ小島の弁天社であったらしい。
しかしその後の寛政3(1791)年の津波(正しくは高潮による海面上昇)によりこの周辺の家屋は流され多数の死者が出るに及んだ。幕府は洲崎弁天社から西側一帯の土地を買い上げ居住禁止区域としここを東北端、平久橋の袂を西南端とした津波警告の碑として寛政6(1794)年「波除碑」(▼)を建立、損傷はあるが現在も文化財として存在する。

 

        

 

        

つまり洲崎神社は昔から津波に対する警告の発信地であり続けている。そうした神社の経緯、狛犬の形相とその視線がまさに東京湾の方向(▼)を向いていることなどからして、津波から護ってほしいという庶民の願いが、いつの時代にかこのような狛犬を生んだのではないかと推測している。

 

もしそれが本当なら、なんと頼もしい狛犬、なんとカッコいい狛犬なのだろう・・・

 

    

 

 

 

 

 

 

| パブリックアート | 16:39 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
名曲喫茶ライオン
     
1950年(1926年創建建物を再建),東京都渋谷区,山寺弥之助(初代店主),現存(撮影2015,2016年)


 約半年ご無沙汰してしまいました。忙しい(言い訳)以外に特段どうこうあったわけではないのですが(敢えて言えばinstagramにちょいと浮気してしまったかな)。というわけで再開します。

 再開第1号は渋谷の名曲喫茶「ライオン」。上2枚の中世の古城風の画像はどちらかと言えば裏口側のファサード。

 さて一般に言う「名曲喫茶」の由来とは何なのか。調べるとどうも戦後1950年代頃に高価だったクラシック音楽のレコードを聴かせてくれる喫茶店と言うこと位しかわからない。ちょうど「歌声喫茶」とか「JAZZ喫茶」も同類だろうか、つまり普通の喫茶店に少し付加価値をつけ皆で音楽の楽しみを共有することが戦後のある時期に流行り始めたようである。最近では名曲喫茶なるものも数少なくなりここは貴重な存在として有名である。


          
 ところでこの「ライオン」に限っては成り立ちの上で他にない特徴がある。というのも、この凝ったデザインは初代の店主山寺弥之助が考案し1926年に建てられた。しかし残念なことに1945(昭和20)年の東京大空襲で焼けてしまうのだが、1950(昭和25)年には戦前と同じデザインで建て直されたのだそうである。つまり戦前昭和初期の喫茶店の姿を、再現された建物とはいえ今日に伝えていると言う意味において貴重な存在であろう。
 もう少し詳しく言えば、渋谷「百軒店(ひゃっけんだな)」とは1923年の関東大震災からの復興商店街として開発された地区なのだそうだ。つまり今日この「ライオン」と「千代田稲荷神社」のみが震災復興地区である戦前の百軒店の名残りを伝えているということかもしれない。
 百軒店の歴史を伝えるサイト(*1)に以下のように書かれていた。

そもそも「百軒店」(ひゃっけんだな)は、大正12(1923)年の関東大震災直後、復興にともなう渋谷開発計画によって作られた街でした。箱根土地株式会社(西武グループの中心であったコクドの前身)が中川伯爵(旧・豊前岡藩主家)邸の土地を購入し、そこに百貨店のような空間を出現させるというコンセプトのもと、有名店・老舗を被災した下町から誘致したのです。当時としては非常に画期的な手法でした。・・・(*1)   


       

 上の写真が入り口のある正面のファサード。看板は「名曲喫茶ライオン」である。
 ところで、色々調べたり昔の写真を見てみると、どうも今の建物になる前は初代店主が修行したロンドンのライオンベーカリー直伝の味を伝えるべく店名も「ライオンベーカリー」であったようだ。つまり元々はコーヒーの味が売りの純粋な喫茶店「ライオンベーカリー」が、もしかしたら戦後にはさらにクラシック音楽を聴かせることで有名になり「名曲喫茶ライオン」と称するように変貌していった、ということかもしれない。


           

 外観同様、内部もクラシカルな装飾で満たされ薄暗い中に歴史と重厚さを感じさせる特別な世界が待っていた。どれも初代店主の手になるらしい。内部はまるでオペラ劇場さながらの湾曲した吹き抜け空間があり、その中央の劇場で言えばステージに相当する位置に巨大なスピーカーが鎮座している。(内部は撮影禁止なのでスピーカーの形は最下のイラストから推察して頂きたい)。

 そして定期的にレコードコンサートが催されているのだが、頂いたプログラムもまるで本物のクラシック音楽のコンサートで渡されるものを彷彿とさせる素晴らしいイラストで飾られている。
 なるほど名曲喫茶とは徹底しているものだと感心した。


           

 ところでプログラムに描かれているライオン自慢のスピーカー「立体再生装置」(下図)は、見れば見るほど今日考えるステレオとはかけ離れた不思議なものである。どうもモノラル全盛時代に、音楽を立体的に聴かせるように工夫したものではなかろうか、と思った。向かって右に大きな低音用のスピーカーがある。つまりオーケストラでは上手(客席から向って右側)にコントラバスなど低音系の楽器が配されることが多いのに対応したようだ。そして恐らくこれは「1対」のスピーカーではなく本質的には「1個」のスピーカーであり、巨大であるがゆえに音に広がりを感じさせる。そういう仕掛けなのかな・・・
 などと思いつつ、妙なる調べの流れを、時の流れを忘れて聴き入った。


          



  *1:WEB「渋谷/道玄坂 百軒店商店街」百軒店の歴史 より



 
| 1950年− | 17:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
小野襄のレリーフ
 

 図書館で建物のデータを調べるために古い定期刊行誌をめくっていると、思いがけず目的とは別の面白い建物が目に入り思いがそちらに集中することがあったりする。今回、そのようにしてみつけた作家の作品を取り上げてみたい。(その定期刊行誌の内容については後述することに)
 その造形作家というのは故小野襄(のぼる)であり、現存する作品が日本大学理工学部駿河台校舎5号館建物のレリーフとしてあると知り見に行った次第である。小野襄について日大出身の先生筋に訊いたところでは、小野薫という構造学における昔日の重鎮のご子息であり、また日大生産工学部の教授として日大などで教え、同氏に師事したデザイナーはネット上だけで何人も見受けられた。

 レリーフはコンクリート打ち放しのピロティの壁にあって、大きくダイナミックなものであった。校舎建物は1959(昭和34)年の竣工で宮川英二の設計、2008年に先端技術を取り入れた改修工事が行われたこともあり古さを感じさせない建物であった。


         

         

 実はコンクリートの外壁レリーフについて、これよりさらに大規模な作品が存在していたことに初めて気が付いた。すでに過去形「存在していた」である。それは平塚市庁舎議事堂の巨大コンクリートレリーフ「静と動」、いくつかのネット情報(*1)によれば、庁舎の建て替えにあたり当初は一部保存する話が持ち上がったものの、残念なことに結局解体されてしまったようなのである。(もう一つの小野襄作品の銅板レリーフについてのみ移設保存がなされた)

 これらの作品を見ると、小野襄は「建築」「絵画」「彫刻」などの既存の分野にとらわれない幅広い創造を目指していたようであり、また総合芸術的に建物と一体化させる場合であっても上手さを発揮したと感じた。
  

      


 さて、冒頭で述べた建築の定期刊行誌とは『建築界』(1967.3月)掲載の「ムービー・センター」という新宿区にあった建物である(▼下3枚共)。写真の建物は既に建替え済みで現存しない。私はこれを写真を見て、生命体を思わせる特異な表面のPC版で内外壁が占めらた建物に目を奪われ、またここまで徹底すれば(建築に付属のレリーフではなく)表面が建築の本質を決定付ける一個の建築作品と言ってもよさそうだと感じた。こうして、恐らくは建築をも造形のひとつと捉えているであろう作家の姿勢に興味を覚え、他のいくつかの作品があることを知ったのである。

 作者は雑誌の中で「ONO陣」という独自の造形論を解説していた。そのときは私などでは理解し難い内容だと思い本を閉じたのだが、しかし気になりだすとどうしようもない性分なのか、いずれじっくり読んで理解したいと思っている。


         

         

         




*1:カナコロ 「平塚市の議事堂の解体着手、新庁舎は13年に一部完成/神奈川」(2011.5.23)





 
| パブリックアート | 18:37 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
過去の川口、街並みスナップ
 1981年頃の埼玉県川口市にて、駅東口側で撮り歩いた画像から(すべて現存しない)。
 そのころはまだキューポラのある町の風情を湛える町工場が点々としていた。しかし現在はものの見事に風景は一変している。マンションが立ち並ぶ一様な風景であり、撮った本人でさえどこを撮ったのか特定できないほどである。

(▼)福禄ストーブ川口工場。粋なフォントの付いたファサードは、レトロなだけでなくよく見ると工場らしからぬちょっと洗練された風情、ということでこの画像は私のお気に入りでありこれまであちこちで何度かUPしてきたもの。
 ある論文(『福禄石炭ストーブの製品開発について』)がネット上に公開されていたので参考にさせて頂くと、この工場建屋はストーブ専門の鋳物工場として昭和10(1935)年に建てられたものらしい。一世を風靡した福禄ストーブは、最盛期の昭和30年代には3つの工場で製造されるほどになった。だがエネルギーの変革を迎え、平成4(1992)年に生産を終えこの工場も閉鎖されたということである。この工場の盛衰は石炭エネルギーの盛衰を物語るものでもある。

       


(▼)恐らく、ではあるが上記工場の裏側。今は無いスーパーの商標もみえる。

       


(▼)夕陽に照り映えるトタンの外壁は、なぜか郷愁を誘う。

       


(▼)「キューポラ」とは恐らくこういうものだろうか、と思いつつ撮った1枚。つまり西欧の教会などのドームを意味する「クーポラ(cupola)」になぞらえて、溶解炉の大きな排煙筒をこのように呼称したものと教えられた記憶がある。そう思うとなんだか崇高な感じがしてきたものである。


       



 
| 街並み | 15:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
常滑陶芸研究所
     
     1961年,愛知県常滑市,堀口捨己,現存(撮影:2015年)


 堀口捨己の建築を見たいと思っても、今では現存する建物も少なく、また残っていても気軽に見られる建物はそれほど残っていないようである。そんなことも一つの要因なのか、ことさら堀口建築はどうも敷居が高い建物というイメージもつきまとってしまう。しかし今回、常滑陶芸研究所に出会ったことにより、そうした観念はかなり払拭された(*1)。

 竣工後50年以上を経ても、建物名称通りに陶芸研究や展示の場であり続け、さらに建築当初のオリジナルのままの空間を示していたことにも大きな感動を覚えた。巷に面影を留めぬ位に改装された古い建物が数多い中にあって・・・。


 
          

      

        

 外観は、深い庇や奥行きのあるバルコニーが印象的な、戦後の堀口のRC造建築の典型を行っているようだ。それだけで十分カッコいいのに、紫〜白のグラデーションの色彩を付けたモザイクタイルが外壁を包み込んでいるのには恐れ入った。一歩間違えば柄入りの和服を着せたように見えてしまいかねない危険がある中で、そうならなずに効果を上げる絶妙なラインを計測したかのように色彩付けが敢行されている。またこれは、常滑の建物に相応しく外装タイルの技術上の挑戦でもあったそうである。

        


  内装はさらに艶やかである。よく言われるように絢爛たる色彩は大正期の分離派時代からの堀口建築の大きな特徴であって、戦後の建築に至っても変わらず終始一貫していたことが、この建物を見れば分かる。
 過去の一例として1920年の分離派の会誌の表紙画(▼)(*2)を見てみよう。金色を用いた華やかな作品は若い時代の堀口の作品である。表現主義の時代から色使いは連続している。


                        

(▼)堀口ならではの建築ボキャブラリーが出揃っている。

        

        

 さてこの建物には、その色彩も含めて日本の伝統建築とモダニズムを統合しようとする堀口の姿勢が表れている。

 会誌「分離派建築会の作品」第1刊中の論文「建築に対する私の思想と態度」の中で、堀口は既に日本古来の伝統へのこだわりを延々と述べていた。そういうことであるから、よく言われるように若き分離派時代からずっと変わらずモダニズムの流れと己の血に潜む日本の伝統とを止揚することを、自らの課題とした建築家であった。そのような点に鑑みれば、この建物のように、西欧モダニズムの外観に和の藤紫の色を調和させる着想が生まれるのも分かる気がする。(堀口は戦後になって和風建築を多く残し特に数寄屋の研究の第一人者となった。しかしそうかと言って、単なる老境でモダニズムから和風建築家に転向したというわけでもないことは、一応押えておきたい。)

 分離派以来ずっとと言えば、もうひとつだけ大正期の堀口の論文を挙げてみたい。「芸術と建築との思想」(*3)の中で、(当時跋扈していた)構造派の言う工学的な意義をえる部分認めつつも、抽象芸術としての芸術の可能性を求めるべきという内容のことを述べている。そこで創作する個人の意志、その精神的な欲求を最優先とする態度を強調している。
 このような建築の芸術性を主張した分離派堀口による強いデザイン意志の表れを、その結実した姿としての、常滑陶芸研究所のどこまでも我々を眩惑させる建築空間に見出すことができる。

 さぁ、私の陳腐な解説はもうこの位にして、以下堀口ワールドをお楽しみあれ。


(▼)屋上から見たトップライト。四方から光を取り入れるしくみになっている。

     

(▼)月見台であろうか。

        

(▼)前庭と建物の位置関係

     

(▼)エントランスホールの階段。

        

(▼)エントランスホールと天井

         


        

(▼)トイレの天井までもこの通り・・・

         


(▼)展示室の天井。卍形のパターンからトップライトの光が落ちる。

        

では。

*1:今回、知人がタイルの展覧会(「I LOVE タイルータイルがつなぐ街かど」)を企画した関係で、その会場である常滑の「INAXライブミュージアム」に行った。そこの際、堀口建築にも寄ることになった。
*2:『分離派建築会 宣言と作品』(1920) 表紙の画は堀口による。(「ある会堂」あるいは「美術館への草案(1920),「ある斎場(1920)」とも類似する)
*3:『分離派建築会の作品(第二刊)」(1921)


 
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