収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
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小野襄のレリーフ
 

 図書館で建物のデータを調べるために古い定期刊行誌をめくっていると、思いがけず目的とは別の面白い建物が目に入り思いがそちらに集中することがあったりする。今回、そのようにしてみつけた作家の作品を取り上げてみたい。(その定期刊行誌の内容については後述することに)
 その造形作家というのは故小野襄(のぼる)であり、現存する作品が日本大学理工学部駿河台校舎5号館建物のレリーフとしてあると知り見に行った次第である。小野襄について日大出身の先生筋に訊いたところでは、小野薫という構造学における昔日の重鎮のご子息であり、また日大生産工学部の教授として日大などで教え、同氏に師事したデザイナーはネット上だけで何人も見受けられた。

 レリーフはコンクリート打ち放しのピロティの壁にあって、大きくダイナミックなものであった。校舎建物は1959(昭和34)年の竣工で宮川英二の設計、2008年に先端技術を取り入れた改修工事が行われたこともあり古さを感じさせない建物であった。


         

         

 実はコンクリートの外壁レリーフについて、これよりさらに大規模な作品が存在していたことに初めて気が付いた。すでに過去形「存在していた」である。それは平塚市庁舎議事堂の巨大コンクリートレリーフ「静と動」、いくつかのネット情報(*1)によれば、庁舎の建て替えにあたり当初は一部保存する話が持ち上がったものの、残念なことに結局解体されてしまったようなのである。(もう一つの小野襄作品の銅板レリーフについてのみ移設保存がなされた)

 これらの作品を見ると、小野襄は「建築」「絵画」「彫刻」などの既存の分野にとらわれない幅広い創造を目指していたようであり、また総合芸術的に建物と一体化させる場合であっても上手さを発揮したと感じた。
  

      


 さて、冒頭で述べた建築の定期刊行誌とは『建築界』(1967.3月)掲載の「ムービー・センター」という新宿区にあった建物である(▼下3枚共)。写真の建物は既に建替え済みで現存しない。私はこれを写真を見て、生命体を思わせる特異な表面のPC版で内外壁が占めらた建物に目を奪われ、またここまで徹底すれば(建築に付属のレリーフではなく)表面が建築の本質を決定付ける一個の建築作品と言ってもよさそうだと感じた。こうして、恐らくは建築をも造形のひとつと捉えているであろう作家の姿勢に興味を覚え、他のいくつかの作品があることを知ったのである。

 作者は雑誌の中で「ONO陣」という独自の造形論を解説していた。そのときは私などでは理解し難い内容だと思い本を閉じたのだが、しかし気になりだすとどうしようもない性分なのか、いずれじっくり読んで理解したいと思っている。


         

         

         




*1:カナコロ 「平塚市の議事堂の解体着手、新庁舎は13年に一部完成/神奈川」(2011.5.23)





 
| パブリックアート | 18:37 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
過去の川口、街並みスナップ
 1981年頃の埼玉県川口市にて、駅東口側で撮り歩いた画像から(すべて現存しない)。
 そのころはまだキューポラのある町の風情を湛える町工場が点々としていた。しかし現在はものの見事に風景は一変している。マンションが立ち並ぶ一様な風景であり、撮った本人でさえどこを撮ったのか特定できないほどである。

(▼)福禄ストーブ川口工場。粋なフォントの付いたファサードは、レトロなだけでなくよく見ると工場らしからぬちょっと洗練された風情、ということでこの画像は私のお気に入りでありこれまであちこちで何度かUPしてきたもの。
 ある論文(『福禄石炭ストーブの製品開発について』)がネット上に公開されていたので参考にさせて頂くと、この工場建屋はストーブ専門の鋳物工場として昭和10(1935)年に建てられたものらしい。一世を風靡した福禄ストーブは、最盛期の昭和30年代には3つの工場で製造されるほどになった。だがエネルギーの変革を迎え、平成4(1992)年に生産を終えこの工場も閉鎖されたということである。この工場の盛衰は石炭エネルギーの盛衰を物語るものでもある。

       


(▼)恐らく、ではあるが上記工場の裏側。今は無いスーパーの商標もみえる。

       


(▼)夕陽に照り映えるトタンの外壁は、なぜか郷愁を誘う。

       


(▼)「キューポラ」とは恐らくこういうものだろうか、と思いつつ撮った1枚。つまり西欧の教会などのドームを意味する「クーポラ(cupola)」になぞらえて、溶解炉の大きな排煙筒をこのように呼称したものと教えられた記憶がある。そう思うとなんだか崇高な感じがしてきたものである。


       



 
| 街並み | 15:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
常滑陶芸研究所
     
     1961年,愛知県常滑市,堀口捨己,現存(撮影:2015年)


 堀口捨己の建築を見たいと思っても、今では現存する建物も少なく、また残っていても気軽に見られる建物はそれほど残っていないようである。そんなことも一つの要因なのか、ことさら堀口建築はどうも敷居が高い建物というイメージもつきまとってしまう。しかし今回、常滑陶芸研究所に出会ったことにより、そうした観念はかなり払拭された(*1)。

 竣工後50年以上を経ても、建物名称通りに陶芸研究や展示の場であり続け、さらに建築当初のオリジナルのままの空間を示していたことにも大きな感動を覚えた。巷に面影を留めぬ位に改装された古い建物が数多い中にあって・・・。


 
          

      

        

 外観は、深い庇や奥行きのあるバルコニーが印象的な、戦後の堀口のRC造建築の典型を行っているようだ。それだけで十分カッコいいのに、紫〜白のグラデーションの色彩を付けたモザイクタイルが外壁を包み込んでいるのには恐れ入った。一歩間違えば柄入りの和服を着せたように見えてしまいかねない危険がある中で、そうならなずに効果を上げる絶妙なラインを計測したかのように色彩付けが敢行されている。またこれは、常滑の建物に相応しく外装タイルの技術上の挑戦でもあったそうである。

        


  内装はさらに艶やかである。よく言われるように絢爛たる色彩は大正期の分離派時代からの堀口建築の大きな特徴であって、戦後の建築に至っても変わらず終始一貫していたことが、この建物を見れば分かる。
 過去の一例として1920年の分離派の会誌の表紙画(▼)(*2)を見てみよう。金色を用いた華やかな作品は若い時代の堀口の作品である。表現主義の時代から色使いは連続している。


                        

(▼)堀口ならではの建築ボキャブラリーが出揃っている。

        

        

 さてこの建物には、その色彩も含めて日本の伝統建築とモダニズムを統合しようとする堀口の姿勢が表れている。

 会誌「分離派建築会の作品」第1刊中の論文「建築に対する私の思想と態度」の中で、堀口は既に日本古来の伝統へのこだわりを延々と述べていた。そういうことであるから、よく言われるように若き分離派時代からずっと変わらずモダニズムの流れと己の血に潜む日本の伝統とを止揚することを、自らの課題とした建築家であった。そのような点に鑑みれば、この建物のように、西欧モダニズムの外観に和の藤紫の色を調和させる着想が生まれるのも分かる気がする。(堀口は戦後になって和風建築を多く残し特に数寄屋の研究の第一人者となった。しかしそうかと言って、単なる老境でモダニズムから和風建築家に転向したというわけでもないことは、一応押えておきたい。)

 分離派以来ずっとと言えば、もうひとつだけ大正期の堀口の論文を挙げてみたい。「芸術と建築との思想」(*3)の中で、(当時跋扈していた)構造派の言う工学的な意義をえる部分認めつつも、抽象芸術としての芸術の可能性を求めるべきという内容のことを述べている。そこで創作する個人の意志、その精神的な欲求を最優先とする態度を強調している。
 このような建築の芸術性を主張した分離派堀口による強いデザイン意志の表れを、その結実した姿としての、常滑陶芸研究所のどこまでも我々を眩惑させる建築空間に見出すことができる。

 さぁ、私の陳腐な解説はもうこの位にして、以下堀口ワールドをお楽しみあれ。


(▼)屋上から見たトップライト。四方から光を取り入れるしくみになっている。

     

(▼)月見台であろうか。

        

(▼)前庭と建物の位置関係

     

(▼)エントランスホールの階段。

        

(▼)エントランスホールと天井

         


        

(▼)トイレの天井までもこの通り・・・

         


(▼)展示室の天井。卍形のパターンからトップライトの光が落ちる。

        

では。

*1:今回、知人がタイルの展覧会(「I LOVE タイルータイルがつなぐ街かど」)を企画した関係で、その会場である常滑の「INAXライブミュージアム」に行った。そこの際、堀口建築にも寄ることになった。
*2:『分離派建築会 宣言と作品』(1920) 表紙の画は堀口による。(「ある会堂」あるいは「美術館への草案(1920),「ある斎場(1920)」とも類似する)
*3:『分離派建築会の作品(第二刊)」(1921)


 
| 1960年− | 20:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
大和郡山市庁舎と百寿橋
     
     1962年(庁舎),奈良県大和郡山市,山田守,現存(撮影:2014年)

 雨の大和郡山。前も見えない位のどしゃぶりだったのだがやっと小止みになってきた。せっかく約20年ぶりに訪れた私としてはラッキーである。なんとかカメラのシャッターを押すことが叶ったからである(初めて訪れた時の画像はここ)。

 山田守の戦後の作風を示す庁舎建物もさることながら、初めて訪れた時から気になっていたのは、思いがけず目にして驚いた表現主義風のコンクリートの橋の手摺り(▼下3枚)である。いや正確には橋詰め部分の手摺に限って、というべきか。 何とも大正後期からの分離派山田守の作品の亡霊に出喰わしたような感じだったのである。

       

 この部分に限っては恐らく山田守のデザインなのだろうが、今回よく見たところ、やはり橋のすべてが山田守のデザインというわけではないようだ、とも感じた。両端にコンクリート造の親柱がある橋本体の部分は異質でややクラシカルな造形、親柱のうちの2箇所にはお城のモニュメントが載っている。これがどういうことなのか、わけも分からず大和郡山を後にした。

    

 だが最近になって疑問は簡単に氷解した。庁舎正面のこの橋は「百寿橋」と呼ばれ、この橋に関する地元の方々による調査報告を見つけて読んだことによる(*1)。

 それによれば、戦前から郡山城の中堀にあたるこの位置にはかつて木造の庁舎が建っており、中央エンントランスの軸線上にこの橋は架けられていた。そして調査報告には1936(昭和11)年にRC造の新たな橋に架け替えられた頃の記録が記載されていた。その時の橋の図面と現状を見比べると、工事範囲は親柱から対岸の親柱までであり親柱にはお城のモニュメントがデザインされていた。だが表現主義的な手摺は記載されていない。そして図面上の橋と現状とはほぼ変わっていない。

 つまりこういうことであろう。この表現主義的な手摺りは百寿橋とは別物であり、恐らく後に山田守の設計で現在のRC造の庁舎が建てられた時期に、外構工事の一環として橋詰め部分に手摺りを加えたものなのであろう。

    

 山田守は生涯、作品に自由な曲面を多用してきた。戦後のモダニズム建築全盛の時代に入っても、例えば長沢浄水場のように分離派時代を彷彿とさせるようなアーチ窓や曲面の壁をうまく折り合わせて造形している。

 大和郡山市庁舎建物でも、よく見るとコーナーが曲面状のカーテンウォールが使われており(うまく写真に撮れずすいません)、それにこの橋詰めの手摺りなどと上手く折り合わせて一種独特の山田守の世界を創出したのである。


    


    



*1:「大和郡山・百寿橋の系譜と現況に関する研究」(川原賢史,岡田昌彰,服部伊久男)による。尚、橋中央には現状ではスリット付の高欄があるが、オリジナルの図面のデザインと異なるとの指摘がなされている。


 
| 1960年− | 18:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
大阪の地下風景から
    
 華麗な装飾が印象的な百貨店大丸心斎橋店の美しさもさることながら、実はその百貨店に至る最寄の地下鉄駅から既に、心を浮き立たせてくれるような華やかなデザインで彩られている。
 これは1933(昭和8)年に完成したとされる地下鉄御堂筋線心斎橋駅。湾曲した天井には装飾的にタイルが貼られ、照明器具のデザインも昭和初期のモダンな感覚でデザインされリズミカルに配置されている。デザインは武田五一によるとのことであった。


         
 こうしたモダンデザインの地下鉄駅は他にも梅田駅、淀屋橋駅、天王寺駅などでも行われ、特に天王寺駅では心斎橋と並んで往事のデザインがよく留められているらしいが、今回訪れたのはここだけ。他は次回の楽しみとなった。

         

     *************◆◆*************

 地下街と言えばなんといっても巨大な地下迷宮の様相を呈する梅田の地下街が知られている。JR大阪駅、北新地駅、阪急梅田駅、阪神梅田駅、地下鉄では谷町線東梅田駅、御堂筋線梅田駅、四つ橋線西梅田駅といった交通機関を結ぶ通路がある。さらに「ドージマ地下センター」,「ホワイティうめだ」,「ディアモール大阪」の地下街があり交錯しつつ拡張していったという具合。

 いつしかその「ホワイティうめだ」の東の端に行き着いて驚いた。迷宮の果て、辺境で途方に暮れつつ思いがけず目にしたものは噴水のある泉。妙に明るく湿気を帯びた空気に満たされた空間は、しかし割と心地よい待ち合わせ空間でもあった。


       

 この「泉の広場」が誕生したのは1970年ということなので、大阪万博と何かしら関係しているのだろうか?ちなみに床のモザイクにはイタリアはミラノのガレリアの床モザイクのデザインを取り入れたらしい。

 夜、明るく照らされた行き交う人影は、かえって幻のようにも感じられる。もっともここが明るい空間になったのは1987年に改装されたことにもよるようだ。その前はもっと陰うつな場所だったのだろうか。それゆえなのか都市伝説もあるそうな。
 「赤い服を着た女が出る」云々

       







 
| 街並み | 17:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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