収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
日本基督教団千葉教会


1895年,千葉県千葉市,R・ゼール,現存(撮影:2008年)

 1895(明治28)年竣工の千葉教会は、ドイツ人建築家リヒャルト・ゼールの設計によると伝えられる。
 当初の教会堂の姿を示す模型写真(*1)を見ると、入口の辺りに元々は高い鐘楼があったようである。しかしそれは1911(明治44)年の台風によって惜しくも倒壊してしまったとのこと。また関東大震災では壁の一部が剥落することはあったものの、ともあれ震災や戦災を潜り抜け適切な改修を受けるなどして、現在も往時の雰囲気を十分とどめつつ、営々と教会としての役目を担い続けている。しかも都市部に明治期の建物がひっそりとたたずんでいるせいなのか、色々と調べるうちに余計に驚きとある尊敬の念を覚えずにはいられないのだった。

 ゼールは、ドイツのエンデ&ベックマン建築事務所の所員であり、1888年に来日、全権委任者として司法省(現・法務省旧本館)東京裁判所の工事にあたった。
 明治政府との雇用契約終了以降も日本にとどまり、1903年に帰国するまでの間に「同志社神学館(現・クラーク記念館)」(1892〜1893年),「明治学院ミラー記念礼拝堂」(1903年)をはじめとした建築の設計を手がけた。(*2)千葉教会もそのひとつである。一説には「三田美以(みい)教会」(1895)の図面をもとに左右反転して建てられたとも伝えられている(*1)。

 私は数年前の暮れの時期に、ほとんど偶然に近いかたちで、初めてこの由緒ある教会の存在を知り外観の写真を数枚撮って過ぎ去った。実は内部は明治期以来の雰囲気をさらに保っているようであるがそうとも知らずにいたのだ。
 内部の天井部分、特に「ハンマービーム」と呼ばれる木造の小屋組みが良く残っているそうでこれを見なかったことは悔やまれる。いつかきっと見に行きたい。(ハンマービームについてはここにとても良い図解があった(*3)。
 今は、入口付近の風格を感じされる木製部材の写真(右)を眺めつつ、そうした内部空間に思いを馳せるばかりであった。



*1:HP「日本キリスト教団千葉教会―文化財の教会堂」を参照
*2:『リヒャルト・ゼールの経歴ならびに建築作品について―R.ゼール研究 その1』
(堀内正昭 山田利行  2002年)を参照
*3:HP「山田利行研究室―ハンマービームを訪ねて」





| −1899年 | 20:28 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
三凾座

1897年以降(?),福島県いわき市,非現存(撮影:2011年)

 明治30年代に芝居小屋として建てられ大正7年には活動写真館としても使用されたと伝えられる「三凾座」、それは日本の近代化を支えた石炭産業で活況を呈していた当時の湯本温泉の町における娯楽の殿堂であった。
 そして戦後も映画館として繁栄が続いたのだが炭鉱の衰退と歩調を合わせるように1982年には閉館、以後長らく放置状態だったようである。
 建物の年齢は少なくとも100歳を超えながら今も健在ということになる。

 私もいわきに住んでいた時期があったのだが「三凾座」のことは気付かずに過ごしてしまった。数年前にはじめて知り、3.11の震災でも無傷で耐えたと知るや一目見たいとの思いが頭を持ち上げ、やっと数日前に初対面が叶った。
 ちなみに、確かこの辺りの地名を「さはこ」と呼んでいたように記憶するが、この建物に
ついては「みはこ座」と読むようになったそうである。
 
 細い路地の突き当たりに目をやった瞬間、つまり「三凾座」と座名がストレートかつ堂々と墨書されたているのを目の当たりにすれば忘れがたい印象をそのファサードから受ける。看板建築と言って片付けてしまえばそれまでだが、いやそんな呼び方を凌駕する迫力があると言うか最盛期の町の繁栄を偲ばせるような力強い息づかいを感じさせてくれる証人なのである。
 また郷土史料をいくつか紐解いてみると、なぜか独特な半円屋根型を基本とするファサードデザインの芝居小屋はかつて隣の町(村)にもいくつか存在していたことが判る。活動写真の「平館」(1917)、それに「四倉座」であり、同類のデザインの複数の小屋が存在していたことに不思議さと関心を覚えたことも付記しておく。
 
 最近では地元の人々が核となって建物を守り伝えるべく活動を開始されておられ、心強い限りである。狭い路地の奥に立地している条件などをはじめ現行法上はそのまま再開館するのは難しい状況だが、何らかの活路を見出されるよう切に願っている。
 また「三凾座」の活動などが掲載されたサイト「ふくしまの近代化産業遺産」には、他にも古い芝居小屋など興味深い建造物があることを知った。いずれ訪ねてみたいと思う。







 
| −1899年 | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・西田川郡役所
 
1881年,山形県鶴岡市,高橋兼吉+石井竹次郎,現存(撮影:1981年)

致道博物館とその周辺の建物2題 (1)

 「東北がんばれ」と一括して言われる昨今なのだが、言うまでもなく東北は広く山形県など日本海側方面では殆んど被害の話など聞かないのである。こうした地域ならば自粛ムードなどどこ吹く風というノリで、この連休古い建物を訪ねてみることの方がむしろ色々な意味で元気も出るし良いのかもしれない。

 山形県鶴岡市の「致道博物館」とは、旧庄内藩主家であった酒井家が土地建物や文化財を寄付して1950(昭和25)年に財団法人以文会として登録したことを起源とする博物館。庭園や建物も展示の対象であるせいかミニ明治村的な感じがする。
 「致道」の名は、1805(文化2)年に開かれた庄内藩の藩校「致道館」に由来する。ちなみにこの藩校を持つ庄内藩も、先に「さざえ堂」の記事に書いた会津藩と同盟を結び戊辰戦争を戦った関係にあったのだそうだ。

 そして庄内藩が官軍の前に降伏した後、明治維新後の廃藩置県において初代県令三島通庸の命で建てられた郡役所が旧・西田川郡役所である。明治天皇行幸の際は行在所の役目も果たした。
 入母屋造りの建物の中央に時計のある楼閣を取り付け、下見板張りと上げ下げ窓などが洋風の雰囲気を作り出している。1972(昭和47)年に博物館内に移築され資料館となっている。





| −1899年 | 20:47 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・富岡製糸場


 1872年,群馬県富岡市,E.A.バスチャン,現存(撮影:1981年)

 有名な明治初期の建物は一度見ておかねば、と期待たっぷりに訪れたら、普通に操業中だった(撮影当時のこと)。とうに立派にお化粧直しされた史跡か記念物に納まっているか、ことによったら廃屋同然に・・・、などと変な想像を巡らせてていたのだが、特段ほころびた様子もなく、築100年以上経過しているとは思えないほど綺麗であった。失礼ながら拍子抜けした。表面的な見栄えだけではなく全体がしっかりしている。これよりも後に建ったもののボロボロの末期を迎えた他の建築との違いは一体何なのだろうか?

        

 言い換えれば、木と煉瓦の建物が、なぜ長寿を保つか? 調査研究は様々あろうが、私個人が見ても、いくつか要点が思い浮かぶ。
 ここはまず、明治政府の模範工場なのに主体構造は木材のようである。石造の高い基礎の上に30センチ角はありそうな太い柱が林立し、柱を挟む太い梁が架け渡され、小屋組みは洋式の木製トラス(三角形の組合せ形状)が、強さを発揮する。でも、どんなに太くても木材で大丈夫か、という疑問が沸いてしまう。木材については、法隆寺のように千数百年経ても大丈夫という話も聞けば、高度成長期以降頃の木造住宅のように、きっかり25年で寿命を向かえた、という現実もよくある話しだ。
 この疑問への答えのヒントのひとつとして、「製糸場」という建物用途が大きく関係しているのかも知れない。つまり蚕糸製造に必要な「換気」が、建物の維持にとっても好条件に働いたのではないか、と推測する。バスチャンの設計では、換気と採光を調節出来るように、外側を鉄扉とした二重窓がたくさん取り付けられた。また、壁をなす煉瓦という熱容量の大きい(熱しにくく冷めにくい)性質が、ある意味で断熱材のような効果を発揮したのだろう。これで湿気が抑えられ、腐朽の阻止につながったのではなかろうか。但し、これも人間によって建物が「使われ続ける」ことが大前提。もちろん、大きな地震災害などに見舞われなかったということもあろうが、最もラッキーだったのは、製糸場が当初は官営でありながら、民営化後も用途をあまり変えず、ずっと操業され続けた点が大きい、と思う。
 さらに大切なのは、今話したいわば換気による「建物の健康維持」とほぼ同じことが、建物内部で生活する「人の健康維持」にも言えることを、強調したい。

             

 昭和14年以降、富岡製糸場は片倉製糸紡績会社(現・片倉工業蝓砲砲茲辰徳犇箸気譴拭J卅匚業といえば、かつて埼玉の大宮にも工場を所有し、現在はコクーン新都心となっている。ネーミングが「コクーン」(COCOON=繭) なのも、これで納得がいく。
 私が勤める住宅会社も、この一角の住宅展示場に小さなモデルハウスを持っているので、週に何度か、新都心に通う。こういう住宅を企画する、こういう同僚がいる会社で、健康な暮らしを求めるお客様との打合せも楽しく、結構充実している。

| −1899年 | 19:47 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
韮山反射炉
                
1857年,静岡県伊豆の国市,江川太郎左衛門,現存(撮影:1981年)

 どんどん時を遡り、日本の近代技術導入の発端を目指すと、例えば軍事関連の遺構に行き当る。幕末期の大砲製造のための施設の一部として、また、入手困難だった西洋の技術を試行錯誤をもって導入した貴重な証しとして韮山の反射炉が残る。
 「反射炉」とは、炎熱を炉に反射,集中させて高温を作り出す炉を意味する。鄙びた美しい質感の耐火煉瓦も、その目的で開発された結果としての風合いなのだろうか。ここで製造された大砲は品川の台場に配備されたそうだ。



 さらに調べると、明治期には既に放置されていた反射炉に対して、日露戦争終結の1905年頃に保存を求める機運が高まり、1909年には保存措置が完了したことが分かった。ある意味で最初期の保存運動の成果なのかも知れないのだが、恐らく保存を求める目的は自国の栄誉と戦意の高揚辺りにあったのではなかろうか。
 煉瓦の壁体に鉄骨の補強が廻されたのもこの頃のころらしい。また、見えにくいかもしれないが、画像にあるように鉄柵が周囲に巡らされており、それは日露戦争の戦利品であったロシアの銃身であった。保存整備ひとつとってみても、その発想にも時代を感じさせるものがあるようだ。
| −1899年 | 21:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
法務省旧本館(旧・司法省庁舎)

1895年,東京都千代田区,ヘルマン・エンデ+ウィルヘルム・ベックマン(実施設計 河合浩蔵),現存(撮影(上):2006年現況,(右下):1981年改修前),*国指定重要文化財
 
 また表題に反して20世紀以前の建築を取り上げてしまう。 
  さて、今回は旧司法省庁舎の新・旧写真を並べた。 明治新政府の依頼を受けたドイツのエンデ&ベックマンによる、官庁集中計画案に基づく唯一の現存建物である。1994年に復原改修工事が行われ、ネオ・バロック様式の勇壮で豪華な外観を取り戻して今に至っている。この建築も、やはり外壁を残して戦災で失われたので、長らくは右のような姿であった。
 こうして比べてみると、いかに屋根のデザインが全体の雰囲気に影響するかが分かる。特に復原された屋根形などちょっと特異で興味をそそり、ドイツ人から見た東洋的デザイン―多分に異国趣味的な―が珍しくも楽しい。あるいは18世紀の宮廷建築家エルラッハのテイスト(ややタイの王宮的な)と言ったら良いのだろうか、そんなオリエンタルな雰囲気が官庁街霞ヶ関にそこはかとなく香る。


| −1899年 | 15:01 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
モリソン商会(居留地48番館)
        

1883年,神奈川県横浜市,設計者不詳,保存措置済(撮影:1991年),*神奈川県指定重要文化財        

        


  私も所属している日本近代建築メーリングリストのメンバーによるエピソードの中で、有名な快挙を紹介したい。
 7年ほど前のこと、ちょうど昭和初期の集合住宅ヘルムハウス解体の悲報に気をとられていた頃、メーリングリスト会員でもあり横浜の建築に詳しいNickeyさん(ハンドルネーム)が、それまではもう残っていないとされていた山下の居留地館の遺構を発見した。当時ヘルムハウスに隣接していた写真のような物置小屋(上2枚の写真)を見て、外人居留地館48番館「モリソン商会」の遺構の一部を含んでいると見破ったのである。彼は下図の居留地館の銅板画と照らし合わせることにより、これが関東大震災の被災で残った48番館のキーストーン(右)や一部残ったアーチ付煉瓦壁に上塗りを施して再利用した建物と推測、地図による立地からもこの建物が48番館の一部であろうと考えた。
 解体の期日が刻々迫る中、彼はすぐさまこのことを市側へ連絡、ぎりぎりのところで専門家の調査が入り、推測通りに銅板画の外観と同様のアーチ付き煉瓦壁が確認された。そして早急に保存措置が講じられるに至った。あっぱれな話である!。

   上左右右下:「日本絵入り商人録」より)

 一方、当時の私もこの件からさらに10年前に、ここに掲載しているようななんとなく風変わりはな物置小屋を撮影していた。しかしNHKの全国ニュースでこの幻の横浜の居留地館発見の報に接してはじめて、これが貴重な遺構であることを知ったのである。不勉強な私は、毛筆書体が刻まれたキーストーンが入り混じる建物を奇異に感じながらも、写真に撮っただけで事足れりとしてしまっていたことに反省しきり。それにしてもNickeyさんの慧眼には頭が上がらない思いである。

        
 この建物をはじめとする横浜の数々の建築についてはNickeyさんが主宰する横浜近代建築アーカイブクラブの「神奈川の近代建築」にある。上の写真は遺構を「さや堂」式に保護している現状。最近も、周辺一帯の開発に伴う発掘調査により、居留地館時代の遺構の断片が次々発見されている。




| −1899年 | 23:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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