収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
明石小学校の近況に
 ここ東京都中央区には、大正末期から昭和初期に建てられた復興小学校が7校舎現存しており、そのうちの3校(明石小、中央小、明正小)については建て替えの方針が示されている。この明石小学校は来月にも解体される予定と聞く。
 そうした折、再び明石小学校の周囲を散策して、そしてふたつの考えがよぎった。

             
  
 関東大震災からの復興事業の中でも、小学校の建設は特に復興事業のシンボル的意味合いを持っていた。次世代を担う若者の教育の復興こそかなめだったのであろう。
 今日、残存する復興小学校が少なくなってしまったが、先人の知恵と苦労の結晶である校舎を前にするとやはり尊ぶべきものを感じる。単なるコンクリート構造物と割り切れない何かがある。
 校舎はその成立時の歴史が人々の誇りとなり、そこで生活を営む人個々の自己形成にまで深く立ち入ってきたに違いない。禍転じて得られた白亜の近代建築は、当時の児童らを驚かせたと聞く。建物とその中での生活がもたらした自己形成の営みは、多数の人々に共有され幾世代に渡って続く。校舎はいわば歴史そのものであり、また同時に教育上欠かせない「生きた教材」としての役目を担い続けてきたのであろうと感じた。
 もしこの見方が正しければ、校舎は将来に渡って「実物」そのものが受け継がれなければ意味が無いだろう。記録や一部のイメージでは本質的な部分は伝えられない。なぜなら、校舎の建物は常に身体の延長として共有されているのだから、という説明の仕方もあろうか。
 恐らく現代において、この「生きた教材」は次のような設問を発しているだろう。いまだ老朽化とは程遠い校舎をいかにして守り次世代に継承していくべきかを探求せよ、と。ただ念のために、その逆も想像しておこう。仮に建物を安易に壊せば、それは自己形成の基盤を自ら破壊する行為であり、さらに地球環境にまで多大な負荷を与える。全く愚かな仕業であることが誰にでも分かる。
    

                             

 7月9日、日本建築学会による見解が発表された。各校舎の文化財としての価値に言及した見解である。(東京都中央区に現存する復興小学校7 校舎の保存要望書)中でも、特に明石小学校については「重要文化財にふさわしい価値を備えていると考えられる。詳細な調査を実施した上で、その文化的価値にふさわしい保存・活用方法を慎重に検討することが期待される。」とある。
 ここまで、重要文化財としての可能性がほのめかされており嬉しい限りであるが、ここで区の対応が注目される。
 これをあえて別な喩えで申せば、建築業者が埋蔵文化財の試掘を指示された事態にやや似ている。私のように民間で建築に携わる者は、もしも建物を新築しようとする際、あらかじめその地下に文化財が埋まっている可能性を教育委員会から指摘されたならば、試掘などの調査に応じなければならない。もし従わなければ処罰されてしまうだろう。
 それはそれとして、明石小の場合、地下はともかく地上の文化財について日本建築学会という権威ある団体から重要文化財の可能性にまで踏み込んだ見解が発せられた。ここでの規準は究極的には「良識」しか無く、周囲からの注視の度合いも日に日に高まる。形式的手続きに終始することの無いよう、そして必ずや今後の範ともなるような良識をもった対応がなされるであろうと、あくまでも希望を捨てずに見守りたい。
 国家的レベルでの財産の可能性を秘めた建物の存亡は、地域の首長の判断ひとつにかかっているようなのだ。
     

【緊急追記1】 8月8日13:00~ TBS「噂の東京マガジン」の「噂の現場」にて、明石小学校のことを放送予定とのこと。情報源はこちら。ブログ「中央区立明石小学校の保存活動」

【緊急追記2】 上記放映と同時に、「保存を望む会」によるUstreamの配信が予定されています。

【緊急追記3】 全国の有識者らにより、8/5「明石小学校を重文にする会」が設立され、緊急要望書が提出されました。(東京新聞8月6日)
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イベント開催のお知らせ―「検見川送信所は何を伝えたか?」
 「検見川送信所を知る会」主催第6回イベントが開催されます。
 「検見川送信所を知る」というキーワードから始まった、誰でも参加自由の交流の機会もいつの間にか第6回を迎えることになりました。

 今回のテーマは、映像。「建築」関連部分と「無線通信」に関わる部分について、バランスを考慮した企画となっております。
 「建築」では昨年10月の送信所内部の映像の上映やシンポジウム、「無線通信」では元送信所職員によるパワーポイントを用いた解説が行なわれる予定です。

【日時】2010年2月7日(日) 
14:00〜16:30
【場所】千葉市検見川公民館
(千葉市花見川区検見川町3-322-25)

詳細は「知る会」HPトップより「イベント情報」をご参照ください。
プレイベントとして11:00〜12:00まで送信所見学を予定しております。(外観のみの見学です)


・そうそう、上記イベントとは無関係の情報ですが、2月4日放送予定の『空から日本を見てみよう』(テレビ東京系、19:58〜21:00)にて、検見川送信所が取り上げられるそうです。

・画像は昨年撮影の検見川送信所正面。
仕上げ材の剥落が、はからずも手の込んだ下地を露呈しています。庇のエッジ部分にアールを作り出すために、あらかじめコンクリートが丁寧にはつり落とされていた様子が分かります(左画像凹凸の部分)。

 
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【資料画像】検見川送信所
 この際なので、前回に一部をお目にかけた資料画像をまとめて紹介したい。ある「検見川送信所を知る会」の会員が譲り受けた写真である。(この貴重な資料の公表を快く認めて頂いたことについて、この場にて感謝申し上げます。)


 大正15年に竣工した検見川送信所全景。
 『電信電話事業史5』などの文献から推察して、本館を中心に、手前の小さな平屋部分は倉庫(非現存)。奥にあるのはポンプ室(現存)。空中線を支持する鉄塔は、東京帝大の草間教授の設計によると記されていた。


 上の画像を拡大。あらゆるエッジが丸みを帯び、白亜の建物が不思議な陰影を呈している。


 職方らしき人物を交えた記念写真なので、竣工直後の写真であろう。中央の人物は、工事監理にあたった新作義信氏とのこと。
 パラボラ形状があしらわれたエントランスのドアは印象的で、若き吉田鉄郎の作風の一面を垣間見させる。


 ここからは、昭和12年12月19日との日付がある「東京中央電信局検見川送信所増築其他工事竣功写真」。
 奥に見えるのが元の送信所本館の北側に位置する送信施設、手前に見える東側の建物については、元職員であった岩佐さんの資料によれば「非常用発電室」とされる。最盛期には送信機は50台近くが稼動し、アンテナも50面に及んだとのこと。


 2階窓上に多数の丸い穴が見える。推察するに、これらはケーブルの出し入れを便利にするためにあらかじめあけられたスリーブであろうか。意匠的にも面白い。

 
 同じ建物の北面。大阪中央郵便局を髣髴とさせる外観。




 こちらはある意味で参考。山田守の設計により1924年に竣功した岩槻受信所の画像。また、一方で東京通信所(東京無線局)として業務を統括した部門も1925年に竣功した東京中央電信局内に置かれ、これも山田守による有名なパラボラアーチの建物であった。これらと検見川送信所の3者が有線で結ばれて通信業務が成立していた。岩佐氏の説明によれば、強い電波の影響を避けるためにそれぞれの施設が離れていた、とのことである。
 それぞれ離れて建っていたが、建物のデザインは、どれも丸みを帯びた点で統一された。それは山田による建物だけならまだしも、最後に建てられた検見川送信所までもが、敢えて山田守の作風を取り入れることで成し遂げられた統一感なのである。
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【記録】検見川送信所内部視察記(3)
 今回も、まず前段で資料画像をお見せしたい。と、あっさり言うけれど、下のモノクロ画像はまさしく第一級資料で、3ヶ月ほど前に初めて目にした時は随分と驚いた。ある「知る会」会員の仲間が勤務先のOBの方から譲り受けた写真とのこと。逓信建築のために役立つならば、とのことで公開は了承されている。他にもあるので追々紹介させて頂きたい。

 下の画像は、ほぼ大正15年竣工当時と思われる送信所の北東側。送信機が置かれ、当初「発振室」と呼ばれていた部分の外観。内部中央には吹抜け空間があり、そこにある北側外壁の2階分通しのユニークなデザインの大型アーチ窓がくっきりと写っている。3ヶ所のうち左右2ヵ所の窓が、いわゆるカーテンウォール状の造りであり、木製建具によって成されているからさらに驚きである。(以前の記事で、吉田がこうしたカーテンウォール状の窓をデザインした経緯を推理した。
 北側中央のドアの上には、図面通り半円形の庇が存在していたことが判る。
 また、東側外壁のケーブルの出入り口の開口に付いた支えのような仕掛けが興味深い。
 こうして見ると窓の数がやけに多い。「知る会」会員で元送信所職員の岩佐さんによると、送信機のエネルギーのロス率は50%あまり。高出力の送信機は相当な熱を損失分として放出したとのことなのだから、多くの窓を設けて開放し放熱するのは当然というか、まず基本だったのだろう。
      
 下は、昭和12年に増設拡張された際の写真。これら増設棟も吉田鉄郎の設計によるので、時を経た吉田の作風の変遷が一望できる。増設された建物は、大阪中央郵便局にも似て柱と梁が強調された建物だった。
 この時、北側に増設された棟との連絡のために、元の建物の北側吹抜け部分には木製の床が張られ、さらに3箇所のうちの真ん中の大型アーチ窓はドアに取替えられたので消えた。増設棟へつながる渡り廊下の出入口ドアとなったのだ。
          

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 さて、当初北側の吹抜け空間に存在していた木製大型アーチ窓の現状は、以下のようであった。昭和12年の拡張の際に張られた木製の床の上、つまり2階から左右2ヶ所の大型アーチ窓の「上半分」が見える。埃がすぐにカメラのレンズを覆ってしまう。レンズを拭きながらどうにか撮影。
 木製建具の状態は、「上半分」は割りと良い方なのかも知れない。ただ、繊細で美しい横棧が見当たらないのが気掛かりだ。(ベニヤと鉄板の間に横棧が挟まれているのだろうか?)
          
 中央の割と幅広の大型アーチ窓については、その痕跡が残っていた。現状の四角いドアとの間をコンクリートで埋めたために生じた境目の線として。
 個人的には、この大型アーチ窓が3ヶ所とも吹き抜け空間とともに復原されたら素晴らしいなぁ、と思った。吉田鉄郎の建築は、本人曰くの禁欲的な設計姿勢はそうであるとしても、私が思うに、実際の建物は十分ドラマチックな空間だ。再現されたらきっと素晴らしい場所になるに違いない。
 勝手な想像ながら、蘇った吹き抜け空間において、あるときは小編成のオーケストラのコンサートホールとして、あるいは小さなオペラが演じられている情景を何度となくイメージしてしまうのだった・・・。
 ところが・・・、である。甘い夢を見ていられる状況ではないかもしれない。下の画像、1階の木製大型窓の「下半分」とその周囲については、正直言って不安がよぎった。
 全体的には一応頑丈さを保っているように見えた建物なのだが、1階北側の足元に近い部分の壁面については湿気を帯びているようにさえ感じた。床面に薄っすらと残る土埃は、もしや雨天時に開口部から流入した泥が乾いたものではないだろうか。
 このまま放って置くことによって、例えば足元の構造躯体の鉄筋が錆びて爆裂が生ずるのではないか、と懸念された。中性化の程度や如何。構造躯体を常に水分と接触させるような状況は、今すぐ回避しなけなければならない。
 
 ただし、この原因は建物自身によるのではなく人為的な経緯による。それは、周辺で行なわれた区画整理の造成による残土が、3メートル位の高さで送信所建物すれすれにまで運ばれ押し寄せたためであった。その結果、建物の1階部分外周は谷底のような状態となり、常に湿った状態に置かれた。さらに大雨の時は、床面付近から泥水が内部に流れ込んでもおかしくない状態となっている。
 検見川送信所の建築としての価値が認められた現在でもこの状況が変わらないことから、実は、今回の内部視察の際、JIA関東甲信越支部と「検見川送信所を知る会」は市長に緊急対策を要望した。排水設備などの対応策が考えられるが費用の問題があり簡単ではないのかもしれない。しかし、早急かつ出来る限りの善処を求めたいところである。

 (右画像は、2007年秋撮影の建物東側。1階がほとんど地中に埋まったかのように見える)









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【記録】検見川送信所内部視察記(2)


 引き続き検見川送信所内部の画像をご紹介する前に、一応、間取りを示したい。上図は、唯一伝わる古い1枚の平面図に基づいて作ったものであり、従って図面に書かれていた室名は、送信所が業務を始めた当初の頃のものということになる。恐らく、当初の室名通りに使用された期間はそう長くは無かったはずで、新技術の導入による内部の改造と共に変化していった。
 ある程度目立った改変部分としては、北側の機械室の吹抜けの空間が床で塞がれた点が挙げられよう。吹抜けであった範囲は2階レベルの板張りの床となり、北側中央の開口から、昭和12年築の棟(これも吉田鉄郎の設計による。非現存)に渡り廊下で結ばれた。現在も、ところどころ穴の開いた木の床が残っていてとても危険な状態であった。
 前回の記事(1)で示した画像は、2階の廊下、2階の真空管倉庫の出入口、1階便所の窓、2階発振室付近であった。
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 左上の画像は階下の発振室、つまり1階の窓。窓の上部に、碍子が残っている。通信施設らしさを名残りとして留めているのは、これが唯一かも知れない。右上の画像は2階の発振室だが、この小さな開口部から外の空中線につながるケーブルの束が送り出されていたらしい。つまり、ここから世界に向けて「声」が放たれていった。

 右は天井の詳細。全てではないが、梁にこうした繰り形風の縁取りがある。恐らく当時の電話局など他の建物で常套的なデザインだったのだろう。
 細かいところで様式的な部分が残っているあたり、時期的にはモダニズムへの過渡期であったことを示しているように思う。
 それにしても、施工の良さには感心してしまう。「機械が住むための建築」であるにもかかわらず。

 下の2枚は、階段室付近の腰壁手摺。最近の建物では見かけなくなった現場砥ぎテラゾーで仕上げられている。人の手などが直接接触する部分だからなのか、とても滑らかに仕上られている。天端部分の断面形状まで、パラボラ(放物線)形になっている。
 右下の1階階段の足元部分は、巾木などもカーブを描きつつ、きっちり納まっていて気持ちが良い。建物の本当の価値は、このように要素が混み入った細部が雑然とするか、きれいに納まっているかで決まると教えられたものだが、まさにその通りだと思った。

              

 2階のメインの入口扉。当初の写真では半円窓が多数あしらわれたデザインだったので、この扉は2代目以後のものだろうか。扉はこうした窓付きで淡緑色のタテ羽目板張りが基本だったようである。
 吉田鉄郎は、戦時色が強まり資材統制が行なわれた時期に、いくつかの木造建築物を羽目板張りの外装で設計していた。もしも、それらとこの扉のデザインとの間に共通した部分が見出せたら、どんなにか素晴らしいだろう。

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【記録】検見川送信所内部視察記(1)
   
 10月30日、かねてより要望されていた検見川送信所(設計:吉田鉄郎,竣工:1926年)の内部見学が、熊谷俊人千葉市長による内部視察という形で実現した。普段は、防犯上の理由から鉄板で開口部が封鎖されており内部に入ることは出来ないが、昨年末に一部の専門家による内部見学が実施されて以来2度目の鉄板外し(画像左上)となった。
 熊谷市長は、既に議員時代から「検見川送信所を知る会」のイベントにまめに参加され、もとより保存と利活用には強い関心を示されていた。そして今年の選挙を経て市長就任し、今回は市長という重い立場で改めて送信所建物の保存と利活用を明言しつつ視察する運びとなった。視察直後、「聞いていたのと実際見るのとでは大違い」との率直な感想が示され、また内部から見て老朽化はさほどではなくしっかりしていること、内部空間はまとまった広さを持ち壁などをあまりいじらずに利活用が可能ではないか、などの感想が披露された。
 なお、当日の詳しい内容は「検見川送信所を知る会」サイト−(終了イベント)に、市長へのインタビューについては同サイト−(ニュース)に、また翌日の新聞各紙にも大きく取り上げられており各記事が同サイト−(メディア・レポート)にまとめられている。関心お持ちの方は参照されたい。
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 「知る会」のメンバーの私も当然、送信所内部を見学するのは、初めてである。以下、内部の画像を紹介しつつ私の思ったことなどを記しておきたい。

 右は、2階の中廊下、突き当たりは送信機機械室で、当初は2層吹抜けの大空間であった。放物線状のアーチが見られるが、ちょうど部門の境目に設けられていたのだろうか。
間仕切り壁は木製ではなく、すべてコンクリート(或いは一部煉瓦か?)のようであった。ひび割れなどは見られず、老朽化の様子は感じられない。ただ表面の塗装が剥がれている位か。

 中廊下を挟んで各室が配置されている。入口のどれもが、左の画像のように扉上部には欄間があり、さらに左右にガラス入りの回転窓が付いている。私は、ここにも吉田鉄郎らしさを直感した。
 暗くなりがちな中廊下に、各室を通した光を呼び込むため、わざわざこうした仕掛けが作られたのだろう。東京や大阪の中央郵便局の外壁一面の大窓に至る発想の種子が、この窓だらけの扉なのかも知れない。

 右画像は1階トイレの窓。とても繊細な造りの放物線形の窓。左の窓には細い組子が残っている。右の窓にも同様の放物線形組子が付いていたはずだ。是非ともきちんと復原されねばならない。






 どの部屋の天井も、左の画像のように、コンクリートスラブ(床板)と梁とが現わされている。機械空調が行なわれ配管を吊天井の裏に隠すようになる時代以前の建物は、このように、梁もきれいにデザインされていた。躯体そのものによる空間の美しさが体感できる。もちろん傷みは見られない。
 特に梁とスラブは曲面により滑らかに一体化されている辺りの特徴は、他に東京中央電信局(山田守,非現存)、や旧・下関電話分室(逓信省,現存)の階段室など逓信省の建物にも見られる。

(つづく)
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検見川送信所シンポジウム@さや堂

     

 2月14日、千葉市美術館講堂で行われたシンポジウムは、「指定文化財」か「登録文化財」かを論点として展開され、こうしたテーマに、あるいは奇異に感じられた方も多かったかも知れない。ただ、こうなったことには、ちょっとしたいきさつがある。
 千葉建築家協会では、昨年7月に、検見川送信所を「千葉市指定文化財」に指定することを千葉市に要望し、書面を提出していた。意図とするところは、所有する市が責任をもって建物の保存、活用に最大限の努力を払うことにあり、この唯一無二の貴重な建物については、安易に流され、気付いた時には残らないに等しいような、うわべだけの保存に行き着いてしまうことだけは絶対に避けなければならない、との考えに基づくのだった。もちろん、建物は十分生かして後世に伝える前提の上でのことである。
 しかし、その後の経過では、案の定、市としての、ほとんどどうにでも融通が利く国登録文化財への登録で済ませたいとする考え方が漏れ伝わる。千葉市指定文化財に指定したら「釘1本さえ打てなくなる」という理屈らしい。
 そこで、このシンポジウムの場で識者の見解を仰ぐことになった。ただ、答えは明らかで、元文化庁主任文化財調査官であった堀勇良氏によれば、国指定の文化財ですら建物に「釘1本打てない」などナンセンスな話というか、ありえない。そのような捉えられ方自体「心外」と、あっさり斬り捨てる。所定の手続きを踏めば、迅速な建物の修理なども可能とのこと。

 問題の本質は、きちんとした調査を行い、様々な面からの検討を尽くした上で将来に伝えるために、広い敷地全体を視野に入れた計画を入念に立て遂行する、そうした保存活用主体の自覚の醸成に尽きるようだ。この日は同時に、地域住民レベルでのコンセンサス形成も、まだまだこれからの段階であることも浮き彫りとなった。(もしこれらが達成されるならば、「文化財がどうの」という議論が、むしろどうでも良いことは、実は、皆、承知している。)
 ちなみに他方、国指定重文に値する吉田鉄郎の代表作ですら、所有者の姿勢次第であっさり壊されてしまう昨今なのだ。
 シンポには聴衆として、DOCOMOMO Japanから兼松幹事長も参加、送信所がDOCOMOMO選選定に至った件に触れる中で、日本唯一の、モダニズム建築としての送信所を宝物とし、「どんなことがあっても守っていく」というベース、確固たる基本姿勢の必要性を強く訴えた。

 
 ところで、私はシンポジウム当日の午前中、送信所に立ち寄った。外装仕上げのモルタルの剥落が進んでいるように感じた。しかし、この洗い出し仕上げの微妙な曲面は、送信所の命でもあり、一度失ったら、まず再現は不可能であろう。現在は、浮いたモルタルの剥落を食い止める様々な技術も開発されており、早急かつ適切な対処が必要であろうと感じた。また裏を返して言えば、対処さえすれば建物の保護と同時に、人への危険性も抑えられるということ。仮にこの先「立ち入り禁止」の看板を作る予算が行政サイドにあるのなら、その前に考えて欲しいところ。
 立ち寄ったもうひとつの目的は、コーナーのアール形状を実測するためだった。ある吉田鉄郎研究家によるならば、タイル貼りの建物の役物タイルのかどの先端の形にまで、吉田は細かくこだわっていたとのこと。そうした話を聞いた折、「水かきのような」との形容の仕方に、私はどういうことだか分からず、少なくとも真円ではないようなら、例えばパラボラ形なのか?などとも想像したりした。そんな疑問を払拭する手掛かりを得るために、また送信所のコーナーについても特殊なアールが指示されていた可能性を感じたため、建物を傷めずに数箇所のアール形状を採取することを思い立った。
 曲面を計測するための写真のような手製の器具は、主に100均で揃えた材料による。(竹串,ストロー)。この器具のヒントは、もちろん昨年の村野藤吾展。そこで展示されていた、村野がスタディした粘土模型を測るために所員が作った道具である。
 測定結果のお伝えは、まだ先になりそう。

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検見川送信所の木製大型アーチ窓

      
 検見川送信所に関する動きが11月後半に相次いだ。そのいずれにも、私は都合で立ち会うことはできなかったが、特筆すべき進展として記したい。鉄の扉で封鎖され確認できなかった部分が見え出した。
 最初の動きは11月19日、千葉市が保有する図面資料(市に移管された後作成されたと思われる現況図など)が開示された。
 もうひとつの動きは、11月26日のJIAによる建物内外部の見学会。この模様はHP「検見川送信所を知る会」に掲載されている。JIA千葉の安達文宏氏の詳しい報告もある。
 内部は、いくつものパラボラアーチ状の下がり壁があり、どれも端部を左官仕事の完璧な鏝さばきでアール状に仕上げられている。少ないデザイン要素を用いてデザインの端々にまで気を配る吉田鉄郎らしさが、ビデオからも十分に伝わってくる。

 図面によれば送信所の北側最奥部には、機械室と称された大きな吹抜け空間があった。そこには1〜2階を通して連続した、長くて大きなアーチ付の窓が二つあった。見学会の写真では吹抜けではなくなっているが、後になって2階部分に床が張られたとのこと。元々大きな窓なので、木枠は今もしっかりしているように見える。
 私は、この大きな窓については特に興味をそそられるので、これに関連して少々書いてみたい。というのも、吉田鉄郎や分離派の山田守らが逓信省営繕課に入省して、まだ年月も浅い頃の、省内の有名な逸話を思い起こさせるからである。(下2枚は、1992年頃の大型アーチ窓の状況)
          

  大正10年前後、当時の逓信省営繕課内部はてんやわんやの状態だった。主に電話事業の大幅拡張、あるいは無線通信など新技術の導入による局舎建設需要の増大などに効率的な対応を図るために、和田信夫係長は建築仕様やデザインの標準規格化を進めていた。これは、和田自身にとっても自身の業績をにらんだ大仕事と受止めていたフシがある。
 そこへきて、東京中央電信局の設計を任された若き山田守は、例のパラボラアーチを載せたカーテンウォールのある素案を上司の和田係長に提出した(「あるオフィスビルディングの草案」)。標準規格デザインを大きく外れた案に対して和田は憤慨、一説には「もうひとつ、まじめな案を。」と山田にやり直しを命じるも、山田もカチンと来て「私に二案など無い!」とばかりに、辞表を懐にしつつ上司を相手に大太刀回りを演じた、という騒動が伝わっている。結局、さらに上席の内田四郎課長の裁定を仰ぐことになり、カーテンウォールは却下されて通常の窓とされたことなど以外は、山田守の原案通りに進めることで、事は一応丸く収まった。ただ、和田係長は、「もう二度と分離派の奴は採らん。」と、こぼしたそうだが・・・。かくして震災後の1925年に、逓信省の手によって分離派建築の金字塔が竣工してしまった。(*1)
        
 ちなみに「カーテンウォール」は、モダニズム建築普及以降、今日ではビル建築でよく目にするものだが、大正中期頃はまだ、技術的には確立されていなかったようであり、殆んどみられない。

 さて、山田と机を並べる吉田鉄郎にとって、この一件を知らぬはずが無かろうし、吉田は、山田とは対照的な造形指向を持ちつつも、進取の方向性で意気投合する間柄だった。両人とも、和田係長が推進する標準化をすり抜けるための手練手管を弄することに苦心していたようだ。
 簡単に言うと、縦長窓を規則的に並べるのが特に震災以後の標準デザイン局舎の基本のようで、吉田の場合、窓の縁にアールを取り入れたり窓の棧にこだわる、雨樋にこだわる、など細かいところで自分の個性を発揮していたようだ。 また、今回の送信所見学会では、内部の方がよくデザインされている印象を受けたと聞く。これは想像に過ぎないが、内部の立面を示す展開図などの図面は(当時のこと)作成せずに、つまり計画段階で、手間のかかるデザインを出来るだけ表に見せずに上司の承認をさっさと得て、現場での指示の機会も活用して内部のアーチなどを造形した可能性も、考えられなくはない。
 さらに、東京中央電信局とは用途的にも一体の関係を持つ検見川送信所の設計を担当することになった吉田鉄郎は、同僚山田が成し得なかった、あの「パラボラアーチ付カーテンウォール」を送信所の吹抜けの窓でなんとか実現しようとしたのではないか・・・、という想像が私の中を去来する。もちろん吉田自身の個性も注ぎ込みつつ。

 よく見ると、検見川送信所のこの二つの大きな窓の頂部は、なぜか平らだ。しかし意図的にデザインされたに違いない。
 これも私の個人的な見方だが、オランダ アムステルダム派の建築に見られるような煉瓦造に木枠の繊細な棧を持つ建物、とりわけデ・クラークの「エイヘンハールトの集合住宅」のような、バリエーションに富んだ窓のことを吉田は、しっかりと勉強していた可能性が考えられる。 あるいは、オランダ、コートワイクの送信所背面のパラボラアーチの大窓のことも知っていたかも知れない。

 「デザインにはトラ(虎の巻)がある」と言い、先例の研究を怠らず自らの作品に昇華させた吉田鉄郎のこと、窓ひとつ観察してみても、彼の信条を裏付けているように思えてならない。

 (*1)参考書籍:『建築家 山田守』,『建築記録/東京中央電信局』座談会 など


   《次のシンポジウムが、企画準備中です。近々公表できると思いますのでお楽しみに。》

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『検見川送信所を知る会』第3回イベント
 8月30日に『検見川送信所を知る会』による第3回のイベントが開催された。
 2月に行われた前回のイベントから送信所をめぐる状況も変化しており、まずDOCOMOMO Japanの2007年度選定建築物に加わり、日本建築家協会関東甲信越支部からも文化財指定を求める要望書が千葉市に提出された。送信所の現状は区画整理地域内における中学校用予定地のままだが、市側も現状では中学校建設の必要性は薄いとして計画見直しの意向を示している。今後は保存活用のあり方が課題となることを見据えつつ、文化遺産としての継承を宣言するイベントであった。
 今回、保存要望はもとより利活用や周辺環境整備を求める要望書が、提出に先立って披露された。送信所は劣化が進み適切で早急な補修が必要だが、なによりも周辺で暮らす人々にとって安全な環境作りが切実な問題であることを、送信所に固有の事情として重視している。もともと送信所と近隣住民との繋がりはあまり濃いものだったとは言えず、さらに空き家として放置されたままの昨今の状況は不安をもたらしても仕方ない状態にあり、その改善は必須だ。
 だからこそ今、『知る会』としても地元の人々に思いを致し、融和を大切にしたいと考えている。

 『知る会』代表の仲佐秀雄氏は、地元在住ながら放送通信関係の学術的な専門家でもある。これまで地元の小学生たちとのふれあいを通して検見川送信所のことを伝える活動を積まれてきたが、今回、そうした活動を振り返りつつ仲佐氏自ら作られた送信所一帯のモデルが披露された。鉄塔や空中線の配置が再現されている。私のような者にとってはこうした機械的な部分についてはその意味合いや本当の価値は分からないのかもしれないが、それでも相当な範囲で設備機器が広がるあたりから、国際通信を目指す施設とはこのように壮大なものであったと思い知らされた。
 さらに送信所OBの岩佐氏も登壇して解説も交えながら職員当時のことを語られた。通信にかけた技術者の熱い思いが伝わってきた。

 私もこれに刺激されたのか、『検見川無線30年史』に掲載されていた昭和14年当時の指向性空中線の配置図を下敷きに、鉄塔や木柱を赤丸で、鉄塔間に張られ電波を発する空中線を赤線でなぞってみた(下図)。大きな赤丸ほど高い塔で90mほどあり、低いものでも30mある。ここから海外の様々な地域に信号が届けられたのだが、空中線それぞれがひとつの地域の方角に対応するようなのだ。まるで送信所建物を中心としたミニチュアの世界のようにも見える。
 吉田鉄郎も、人々の様々な思いが空中高く放たれていく様を心に思い描きながら、建物をデザインしていたのだろうか。
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叢書・近代日本のデザイン 25 [大正篇]
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分離派建築会,関西分離派建築会
「分離派建築会」作品集3刊の、初の復刻本が刊行されました。末尾の解説文は私が担当しました。
収蔵庫・壱號館
ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
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