収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
『ロダン以後』−建築と彫刻の邂逅(2)
 前記事に続いて、彫刻と建築の関わりについてさらにこだわってみたい(どうか飽きずに)。
前回、彫刻家の側から新たな建築表現を開拓に関与した場合、あるいは、建築家の側から彫刻的要素を取り込みつつ新たな建築表現を開拓した場合があったようだ、という見方を述べた。だが、双方の場合ともに日本固有の現象ではなく、海外の大きな現象として先鞭が付けられていたようなので、その辺りの事例を当時の書籍の図版などから、2例ほど振り返ってみたい。

                           ***

A.「建築彫刻家としてのイヴァン・メシュトロヴィッチ」
 
まず、クロアチア出身の稀有な彫刻家が建築に歩み寄った事例から。
 ロダン以後を担う代表的な彫刻家としてのイヴァン・メシュトロヴィッチの存在については、大正時代の日本で既に紹介されていた。そして陽咸二をはじめ近代的指向を持つ日本の若き彫刻家達に大きな影響を与えたことについても、近年、専門家により指摘されている。(*2)
 しかし、メシュトロヴィッチは、彫刻家のみならず若い建築家らにとっても示唆を与えずにはおかない存在であったようだ。上記の小タイトルは、『建築新潮』誌上に諏訪森之助が寄せた記事のタイトルほぼそのままであり、彫刻と建築の融合の試みへの賞賛を含んでいる。(*3)
 この、建築的な彫刻をはっきりと示した作品が、《コソボの寺院》の木製モデルである。これは1914年のベネツィア・ビエンナーレを機会に発表された。「コソボの戦い」を題材とした民族の抵抗運動へのメッセージを込めた作品であり、建物の輪郭を部分的に彫刻群が構成している。その後の、いわば彫刻と建築の融合体の実現版と目される建物(=彫刻作品)が、右図の《カヴタット岬の納骨堂》であり、すべてメシュトロヴィッチの手になる。
 ところで、コソボの寺院の原寸大の内部空間を断片的に示す彫刻群―それは列柱群と化した女性像やスフィンクスからなる―は、遡ること1911年のローマ万博において最高賞を得ていた。これら《カリアティード》あるいは《スフィンクス》と題された群像こそ、若き堀口捨己が衝撃を受けた作品であったと推察されている(*4)。
 そこで(前記事に続いて)再度、『ロダン以後』に採録されていた堀口の言葉の一部を引用してみよう
「・・・どれもが皆悲痛な顔をして、何物かに壓迫せられている不安と焦心とで心を碎いて堪へてゐるけれども、その苦痛が自然に顔に溢れて来ずには居られなかったやうである。・・・私の驚いたのはこればかりではない。それは非常に建築的の美しさを持ってゐたことである。・・・・建築的の配置と取り扱ひで計画されて、その一つ一つが恐ろしく表現的な彫刻であり、それらが皆有機的に連って、音律的な統一された美を構成してゐたことである。・・・」

 メシュトロヴィッチの作風は、土俗的な力強さと、古代エジプトの神殿内の列柱や浅浮き彫りのようなアルカイックな要素を巧みに取り入れつつ独特の抽象化を行い、内面性を強く滲ませている。これが、分離派建築会を結成するなど様式的な装飾性とは異なる新たな建築表現への突破口を模索していた堀口にとって、格好のヒントになり得たであろうことについては、容易に想像がつく。因みに、堀口にとっての処女作たる平和記念東京博覧会の「機械館」内部には、メシュトロヴィッチの影響下の長谷川栄作による彫刻作品が据えられたと言われる。(*4)                    

B.総合芸術への指向―グロピウスのバウハウス
 右下の写真は、1914年に開催されたドイツ工作連盟展の《モデル工場》の入口部分。W.グロピウスとA.マイヤーの設計による、カーテンウォールやガラスシリンダーをふんだんに取り入れた造形の先駆として有名な建物である。しかし細部の写真は珍しく、これは仲田定之助が『建築新潮』誌上でグロピウスを紹介した際のものである。
 鉄とガラスによるヴォイドな部分に対して、写真のような煉瓦模様のソリッドな入口部分においては、働く男のレリーフが建物の機能を表示している。この頃既に、建築家グロピウスは、彫刻を建築に組み入れる試みを率先して行なっていたことになる。
 グロピウスは、後の1919年に、ヴァイマールのバウハウスを立ち上げた。その理念は、大聖堂の建築になぞらえた中世の職工のギルドへの憧憬に根ざしており、絵画、工芸など諸芸術は最終目標としての建築への統合に至らしめられることとした。
 建築をヒエラルキーの頂点に位置させる考え方の問題はさておくとしても、近代的な表現を目指す中で、彫刻などの芸術と建築との有機的な結びつきを積極的に認めたのはグロピウスのバウハウスからであった。また、諸芸術に携わる者の協同、いわばタテ割りの垣根をはずした総合芸術的な考え方も、ここから提唱された。もちろん、このバウハウスが日本の芸術活動全般に大きな影響を与えたことについては、今更否定しようもない事実である。

                              ***

 右の画像は、私が以前記事とした村野藤吾の《渡辺翁記念会館(宇部市民会館)》入口レリーフ。
 昭和12(1937)年の竣工なので、上図モデル工場より時期が下るが、働く男を入口に掲げている点で共通しているので、再度アップした。でも、こうして眺めて見ると、なぜか明治期の絵画、青木繁の《海の幸》を薄っすら思い起こしてしまう。(やはり日本的なのか?)
 ついでながら、渡辺翁記念館の前面には、何ら機能を持たない巨大な6本の柱がシンボリックにそそり立つ。しかしこれこそが、建物との緊張関係を漲らせた彫刻的要素であり、かつ建築を構成する要素と見て間違いないであろう。

 *1:「メストロウィッチの彫刻集」(1923,森口多里監修,洪洋社)より
 *2:まず、伊豆井秀一による「陽咸二と『構造社』」(1995,「埼玉県立近代美術館紀要」第2号)が挙げられる。
 *3:この「建築新潮」(1925,10)は、同著者により「イヴァン・メストロヴィッチ」(1926,洪洋社)として出版
 *4:齊藤祐子「『構造社』研究-イワン・メストロヴィッチとその影響-」(2002,眞保亨先生古希記念論文集「芸術学の視座」)   による。

| その他いろいろ(書籍から) | 19:29 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
『ロダン以後』−建築と彫刻の邂逅(1)

 「分離派建築博物館」なる1920年代建築のHPを始めてから随分と日が経ったが、その割りには一向にまとまる気配も無い。ただ、ちょっと興味深い時代の特質を発見、というと大げさだけれど、少しだけ気付いたことがあり、それが私にとってのささやかな収穫かなぁ、と感じることがある。

 そのことを下に書いてみたいのだが、まずは簡単な前置きを。
 日本の西欧建築の導入は、明治期からの西欧様式建築の学習を経ていた。そして、大正期にさしかかる頃には日本独自の問題意識や個性をベースに建築を思考する機運が高まりはじめた。西欧におけるリアルタイムの近代的建築動向にも視線が向けられはじめ、西欧モダニズムとの「合流」とは言えぬまでも、ほぼ日本でも1920年代には足並みを揃えようとする指向は顕在化した。こうした経過に沿いつつ、歴史様式に基いた既成の(アカデミックな)建築表現の枠組みから離脱する動きは、―例えば分離派のように―あるべき「創造」を勝ち得るために、まがりなりにも個々の精神性に根ざした思考をもとに、建築の造形性を根底から組み立て直したいと欲する者が現れた。また、それが可能な時代の初到来でもあった。あるいは、彼らの先輩の岩元禄の場合のように、彫塑的なデザインを組み入れるなど芸術分野を横断する総合性を持つ者も現れた。言わば、旧来的な建築の概念を打破し拡張を目指す動きが、若い建築家の間で芽生え始めた。・・・と、ここまでが、およその前置きであった(はぁ〜、長過ぎた)。
 さて、その上で私が思い至った点というのは、、建築にとっての概念の拡張の動きが、ひとり建築界の側からだけではなく、例えば諸芸術分野の側からも、建築を視野に入れた創造へと積極的に視線が投げかけられ、行動に移されていたようだ、ということである。分かりやすい事例として、「バラック装飾社」が(賛否あったが)思い浮かぶ。さらに、「構造社」のようにパブリックアートをイメージしつつ、建築との融合をはっきりと目的として掲げた彫刻界の動きには、特に見逃せない。
 つまり既存の創造領域に存在したアカデミックな従来の殻から離脱する格好で、建築の側からだけでなく、彫刻界などの建築以外の領域からも、近代的な価値観に基づいて新たな建築という概念の開拓が試みられていた、そんな時代であったようなのだ。
 
もちろん、この成果を明快に答えることは困難であり、そもそも建築領域外からの作品にしてみれんば、正統な建築としての認知云々さえ無い。しかし、建築家と彫刻家の協働や、双方から互いに視線を向け合ってきた状況、そして諍いまでも含めてある種の芸術的交流が存在したことについて、どういう意義が潜んでいるのであろうか。この時代の特質としてさらに関心が持たれても良いのではないか、とも感じている。今日のアートシーンの前ぶれの如く、大正末期に既に、建築家と彫刻家との間では、相互交流で沸き立っていたのだろうか・・・。
 かくして、仰々しい表題まで付した、このいくつかの事例を、今後取り上げてみたい。

                           ***

  建築家の側から彫刻に対して関心の視線を投げかけた好例として、分離派の蔵田周忠(くらた ちかただ)が、大正15(1926)年に『ロダン以後』(中央美術社刊)を著し、世界の新傾向の彫刻を紹介したことが挙げられよう。彫刻すなわち建築とも共通する三次元造形の中に、新しい時代の精神を見出し、その近代的意義を解き明かそうとした著作である。
 彫刻に注目した建築家は、蔵田が初めてではない。既に彫刻への人気はある程度あった。また、この著書の中で、早くも堀口捨己が気鋭の彫刻家イヴァン・メシュトロヴィッチの建築的モデル作品《コソボ寺の断片》(1911)(題名は本文のまま)を、雑誌で見た際の衝撃について、数ページを割いて引用している。端的に−どんなに驚いたろう−との言葉に、若い堀口の直観力が示されている。

 ここで蔵田周忠という人物についてもごく簡単に触れておく。もちろん、大正末期を起点とする建築家であったであったのと併行して、同時に建築ジャーナリストとしての活動をも行っていた。結成された分離派建築会に興味を抱いてアプローチしたら自身が会員となってのめり込む、あるいは、実際にドイツに渡ってホットな近代建築の動向をルポルタージュした。一方、東京高等工芸学校を手始めに後進の指導にもあたり、「型而工房」を結成して工芸研究にも乗り出した。いや他にもあるらしい・・・、とにかく何役もの仕事を八面六臂の「超人的」行動力でこなした人物である。そして、決して当時のエリートコースを歩んだわけではないのだが、人一倍の研鑽による成果はそれをカバーして余りあった。著作や訳出も多く、この『ロダン以後』も、彫刻への蔵田なりの分析の成果である。(*1)
             
 本をめくってみる。数えてみたら29名の作家の彫刻あるいはデッサンの図版が掲載され、丁寧に作品の意義について解説されている。私が彫刻については詳しくないからだろう、聞きなれない作家の名を見ると、ナチスによって退廃芸術の烙印とともに葬り去られたのでは・・・、などとつい思う。
 先述の天才イヴァン・メシュトロヴィッチはもちろんだが、蔵田自身は、特にフランツ・メッツナーを好んだことを吐露している。モニュメント隆盛時代のドイツにあって、《ライプツィヒ国民戦争記念塔》(1913)内部に据えられた《戦士》の像では、あくまで力強く猛々しくあるべきところ、実際は、うつむいて悲痛な瞑想に沈んでいる。あくまで内省的であって、どちらかち言えば悲劇的な精神性の表現が主であり、肉体の表現はそのことを支援するために従属した役割にあって抽象化される。ルネサンス以後ロダンまでの旧来の時代との大きな違いがここにある。
                   
 もはやルネサンス的な人間賛美・信奉の破綻の果てに待つものが、絶望と破滅の憂目であったとした場合、蔵田は、「魂は再び超感覚的な実在によりすがる。それをウィルヘルム・レームブルックは代表する」との言辞をもって彼を、「この新芸術の入口に立つ、極めて精神的な作家である」と評した。(因みに石本喜久治は渡欧の際、実際にレームブルックの作品を購入し日本に持ち帰った)

 以下、その他の作品についても簡単に記す。
 ベルンハルト・ヘットガーの《眠り》は、ダルムシュタットの芸術家村に据えられたレリーフであり、またこの作者はその後表現主義建築家としても活動の場を広げた。
 オスカー・シュレンマーは、バウハウスで教鞭を執った。また、人体を機械のように抽象化した《トリアディック・バレエ》が知られる。『ロダン以後』において、《レリーフJ.G.》など機械のようなレリーフは、1919年頃には多く作り出されていたことが記されている。

                   ***

 右の画像は、蔵田周忠の設計により大正15年に竣工した『聖シオン会堂』内部の、蔵田がデザインしたステンドグラス。(第5回分離派展出展)今も、同地の『聖ミカエル教会』に残っている。
 うつむいたキリスト。『ロダン以後』を執筆しつつデザインしたのであろうか・・・・。

              
*1:蔵田周忠については、『日本建築家山脈』−"蔵田周忠を育てた人々” (村松貞次郎,鹿島出版会から復刻出版,2005)に詳述されている。

注:この記事における人名表記は、適宜現代的に改めています。

| その他いろいろ(書籍から) | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
CALENDAR
S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< March 2017 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
叢書・近代日本のデザイン 25 [大正篇]
叢書・近代日本のデザイン 25 [大正篇] (JUGEMレビュー »)
分離派建築会,関西分離派建築会
「分離派建築会」作品集3刊の、初の復刻本が刊行されました。末尾の解説文は私が担当しました。
収蔵庫・壱號館
ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE