収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
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木場 洲崎神社の狛犬

   

気まぐれもいいとこなのですが、久々の「狛犬」シリーズ。しかも20世紀近代の建築とは無縁な江東区木場の洲崎神社に鎮座する激しい形相の狛犬に出会って感じたことなど少々。


そもそも公共の場に置かれたモニュメントにメッセージを託すことは石碑に文字で碑文を刻むことで昔から世界中で行われてきたことは言うまでもない。あるいは造形物でメッセージを遺した例もあったのかもしれない。


そして日本の近代に絞って言えば(かなり強引なもっていき方ですね)、近代彫刻の勃興した1920年代には日名子実三ら彫刻家が旧来の内向きの芸術作品を超え、公共的な場においてメッセージを発する造形パブリックモニュメントとしてのあり方を模索しようと「構造社」を組織した。そういえば、そのさきがけ的作品として日名子が1925年にデザインした関東大震災の慰霊塔「蔵魄塔(ぞうはく)塔」も近くに現存する。

 

       

さて、ご覧の通り、この阿吽の形相の一対の狛犬、特に今にも大きな敵に今にも飛び掛からんと臨戦態勢の狛犬(▲▲(仮に狛犬Aとします))の迫力は凄まじい。もう一頭(▼(狛犬B))もこの飛び掛かろうとする狛犬の視線に合わせて振り向こうとしているかのように見える。

 

そして狛犬というある意味定型化した造形表現の中に、昔から人々の特別な意思や願いを込めることがあったのではないか、というのが今回言いたいことである。

 

     

ちなみにこれら石造の狛犬本体はいつ制作されたのかはっきりしないのだが、明治以前に作られたような古めかしさを感じさせる。ただし台座についてはコンクリート製で塗装が施され、恐らく昭和期以降の修復によるものではなかろうか。

 

はっきり言おう。私が思うにこの狛犬は襲い来る敵である大津波(高潮)に向って飛び掛かろうとしているのであり、津波を倒して市井の人々を護ろうと必死になっている姿に見えるのである。

 

     

 

現在の洲崎神社社殿(▲)は、震災や戦災などで昭和43(1968)年に再建されたものである。

創建は元禄13(1700)年に桂昌院が江戸城中紅葉山の弁財天を遷座した弁天社として成立した。当初は埋め立ても進んでおらず海面に浮かぶ小島の弁天社であったらしい。
しかしその後の寛政3(1791)年の津波(正しくは高潮による海面上昇)によりこの周辺の家屋は流され多数の死者が出るに及んだ。幕府は洲崎弁天社から西側一帯の土地を買い上げ居住禁止区域としここを東北端、平久橋の袂を西南端とした津波警告の碑として寛政6(1794)年「波除碑」(▼)を建立、損傷はあるが現在も文化財として存在する。

 

        

 

        

つまり洲崎神社は昔から津波に対する警告の発信地であり続けている。そうした神社の経緯、狛犬の形相とその視線がまさに東京湾の方向(▼)を向いていることなどからして、津波から護ってほしいという庶民の願いが、いつの時代にかこのような狛犬を生んだのではないかと推測している。

 

もしそれが本当なら、なんと頼もしい狛犬、なんとカッコいい狛犬なのだろう・・・

 

    

 

 

 

 

 

 

| パブリックアート | 16:39 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
小野襄のレリーフ
 

 図書館で建物のデータを調べるために古い定期刊行誌をめくっていると、思いがけず目的とは別の面白い建物が目に入り思いがそちらに集中することがあったりする。今回、そのようにしてみつけた作家の作品を取り上げてみたい。(その定期刊行誌の内容については後述することに)
 その造形作家というのは故小野襄(のぼる)であり、現存する作品が日本大学理工学部駿河台校舎5号館建物のレリーフとしてあると知り見に行った次第である。小野襄について日大出身の先生筋に訊いたところでは、小野薫という構造学における昔日の重鎮のご子息であり、また日大生産工学部の教授として日大などで教え、同氏に師事したデザイナーはネット上だけで何人も見受けられた。

 レリーフはコンクリート打ち放しのピロティの壁にあって、大きくダイナミックなものであった。校舎建物は1959(昭和34)年の竣工で宮川英二の設計、2008年に先端技術を取り入れた改修工事が行われたこともあり古さを感じさせない建物であった。


         

         

 実はコンクリートの外壁レリーフについて、これよりさらに大規模な作品が存在していたことに初めて気が付いた。すでに過去形「存在していた」である。それは平塚市庁舎議事堂の巨大コンクリートレリーフ「静と動」、いくつかのネット情報(*1)によれば、庁舎の建て替えにあたり当初は一部保存する話が持ち上がったものの、残念なことに結局解体されてしまったようなのである。(もう一つの小野襄作品の銅板レリーフについてのみ移設保存がなされた)

 これらの作品を見ると、小野襄は「建築」「絵画」「彫刻」などの既存の分野にとらわれない幅広い創造を目指していたようであり、また総合芸術的に建物と一体化させる場合であっても上手さを発揮したと感じた。
  

      


 さて、冒頭で述べた建築の定期刊行誌とは『建築界』(1967.3月)掲載の「ムービー・センター」という新宿区にあった建物である(▼下3枚共)。写真の建物は既に建替え済みで現存しない。私はこれを写真を見て、生命体を思わせる特異な表面のPC版で内外壁が占めらた建物に目を奪われ、またここまで徹底すれば(建築に付属のレリーフではなく)表面が建築の本質を決定付ける一個の建築作品と言ってもよさそうだと感じた。こうして、恐らくは建築をも造形のひとつと捉えているであろう作家の姿勢に興味を覚え、他のいくつかの作品があることを知ったのである。

 作者は雑誌の中で「ONO陣」という独自の造形論を解説していた。そのときは私などでは理解し難い内容だと思い本を閉じたのだが、しかし気になりだすとどうしようもない性分なのか、いずれじっくり読んで理解したいと思っている。


         

         

         




*1:カナコロ 「平塚市の議事堂の解体着手、新庁舎は13年に一部完成/神奈川」(2011.5.23)





 
| パブリックアート | 18:37 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
軍需生産美術推進隊による像、2点
 福島県いわき市は私が小学校高学年から高校卒業まで暮らした地として思い出深く、実家もそこにある。ただ暮らしていたあの当時、既に常磐炭鉱については既に操業を終え、櫓の廃墟が遠くの山にかすんで見えたかすかな記憶が残る程度なのである。

 さて炭鉱が繁栄した往時の名残りとして、戦時中に戦意高揚を目的として制作されたセメント彫像が2点もいわきに現存しているということを数年前に知り、やっとこの正月の帰省の折に訪れることができた。全国で11か所中9点がレプリカ含めて残っているらしく、そのうちの2点が現存ということはまあまあたいしたものだ。

 それにセメントを用いた彫刻作品というのも、金属を使用することが不可能な時代を象徴する貴重な芸術作品の事例と言えるのではないか(尤も戦時中とは関係なくセメントを素材とした彫刻作品も生み出されたのも事実ではあるが)。
 建築の分野ではセメント、コンクリートの使用は近代を象徴する素材として扱われるが、その素材が他の意味をまとうのも興味深いところである。

         

 訪れたのはいずれも昭和19年4月に結成された「軍需生産美術推進隊」という美術作家らの共同制作による作品であった。しかし当時のこと、モデルの炭鉱夫は戦力エネルギーを担う「産業戦士」であり、そのイメージを作り戦意を鼓舞する人も芸術家ではなく「推進隊」つまり戦士でなければならなかった。国家総動員の時代は誰もが戦争参加者でなければならなかったことを示す、そうした歴史の傷跡を今日に伝えている点も見逃すわけにはいかない。
 前置きが長くなってしまった。


■《産業戦士の像(進発)》(いわき市好間町、旧好間炭礦蠧癲(上画像も同じ))

         


         


          

 「彫塑部隊」は圓鍔勝三、木下繁、中村直人、長沼孝、峰孝の5人であった(*1)。戦後を担う彫刻家ばかりである。

         

         


 この像のある旧好間炭礦は常磐炭田の中でも好間炭礦は専用の鉄道を持ち、現在でも鉄橋の遺構が残っている。そして大正4年から古河鉱業の所有となったそうである(*1)。
 その名残りとして「古河」の文字を刻んだ親柱がぽつんと立っていた(▲)。現在も付近には古河の名を冠した工場がいくつもある。

         

トロッコの鉄道を跨ぐ橋(▲)の先の管理事務所の前(「着到」と呼ばれた(*2))にこの像は立っていた。

         

 周囲の茫洋とした周辺の光景に言葉も無い(▲)。



■《坑夫の像》(いわき市常磐湯本町、いわき市石炭化石館)

         

         

 1984年に開館した常磐炭田と恐竜の化石の博物館「いわき市石炭・化石館」の入口脇にこの像は鎮座する。石炭化石館のある地はもともと常磐炭礦蠅旅8をはじめとした諸施設が密集していた場所であった(*3)。
 台座の裏面(▼)には文字が刻まれていた。

             彫像寄贈製作者
              軍需生産美術推進隊
               中川為延
               林是
               野々村一男
               中野四郎
               清水多嘉示
               古賀忠雄

             昭和19年10月18日

         



                 ****

 これら2点の像は芸術家達が渾身の力を込めて才能を発揮した作品であろうことは間違いないが、国策がきっかけとなって生まれた作品でもある。いわば国粋主義の果てに位置する作品ということになろうか。しかしもしも仮に、何も知らずに見せられた私が共産主義のプロパガンダを目的とした像と言われたとしたらどうであろうか。たぶん何も迷うことなくそう思ってしまったかもしれない。右であろうと左であろうと、対極にある体制を表わすのにモチーフにそう大きな違いはないということか。

 戦時国粋主義は破滅に至り、共産主義国家も今や消えゆく過程にある。さて芸術作品について言えば、そこにまとわりついた制度的背景は廃れようとも、芸術家の純粋な才能の精華だけは真実として消え失せることなく人を感動させ続けるのかもしれない。そうした部分があるからこそ、全国に点在する推進隊のセメント彫刻は生き続けているのではないだろうか。
 


*1:《旧好間炭礦蝓→古河好間炭礦)における炭鉱鉄道などの遺構(小宅幸一)》(PDF)による
*2:ブログ《なごみ亭「いわき市好間町 〜古河好間炭鉱の産業遺産群を中心にして〜」》による
*3:《炭鉱産業遺産関連施設(大谷明)》(PDF)による



 
| パブリックアート | 19:51 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
東郷神社境内の、とある狛犬(?)

 町を飾るパブリックアートのあり方は色々、あまり限定しないようにと考えている。今回このカテゴリーで取り上げたモニュメントは一風変わった「狛犬」、と言うか獅子像(ここでは以下、仮に「狛犬」と称した)。神社の境内で見かける伝統的な狛犬とは異なり、どちらかと言えば近代的な彫刻の方向に振れたような姿がとても気になるのである。

 東京原宿の東郷神社の境内に鎮座しているこれらの像は計2対で4体。うち1対は第二次大戦における潜水艦乗組員の慰霊碑(昭和33年建立)の脇を固めるように配置されている。ただし東郷神社本殿参詣の道筋にはちゃんと「正当な」別の狛犬が置かれているので、ここで取り上げた狛犬はこの神社を護るために作られた狛犬ではないことを、まずおことわりせなばなるまい。

     
 そう言うのも、実はこれらのの狛犬には以下のようないきさつがあるからである。まずはっきりさせておかねばならないことは、元々別の地に鎮座していたということ。
 1921(大正10)年、彫刻家新海(しんかい)竹太郎(1868−1927)により《有栖川宮威仁親王像》が東京築地の海軍大学校の敷地(現在の国立がんセンターの辺り)に作られた。その後、関東大震災を蒙ったことから1928(昭和3)年、伊東忠太の設計による新たな台座に載せられたのだが、その台座の四隅を固めていたのがこれらの狛犬なのであった。

 戦後の1984(昭和59)年、《有栖川宮威仁親王像》本体は福島県の「天鏡閣」に移設された。そこは有栖川宮威仁親王の別邸であり、自らの家にご帰還されたことになろう。そして台座に残された狛犬については、いつどのような経緯を経たのかは明らかにされていないが、ここ東郷神社で海軍と所縁の深い碑の前に落ち着くことになったのである。

     

 いかめしい表情の獅子像は4体とも同じ作りで、直線や面に還元された独特の造形は西洋近代のキュビズム作品的な趣きを感じさせている。しかし直線に込められた勢いや鋭さにより、本体を守護するための日本の狛犬本来が持つ一種の威嚇的な雰囲気を生じさせているようでもある。こうした西洋と日本が奇妙に入り混じったモノに覚える違和感は、私にとっては昭和10年代の日本瓦の載ったいわゆる帝冠様式の建築を見たときの感覚に近いかもしれない。

 それでは、この狛犬をデザインした作者はいったい誰なのだろうか。
 まず、署名らしきものは無いかと観察したが見当たらなかった。その上で、台座を設計した建築家伊東忠太の作品集を見てみると図面(↓)と写真が載っていて、小さくではあるが狛犬までしっかり書き込まれていた。階段を上がったところに狛犬が配置されている。この他、新海竹太郎の彫刻作品を扱った文献にも狛犬がはっきり写っている写真が掲載されていた。


               
 伊東は築地本願寺など自ら設計した建築など狛犬までデザインすることが多い。中でも新潟の弥彦神社の場合は狛犬のデザインを、新海竹太郎(原型)伊東忠太(匠案)両名のコラボレーションという形で実施している。新海と伊東のコンビはこの《有栖川宮威仁親王像》の場合とも似ている。そう考えれば、ここでも伊東忠太のデザインに沿って彫刻家が作りあげた可能性もあり得なくはなさそうだ。ちなみに背筋を伸ばし胸を突きだした姿の狛犬は伊東忠太のものによく見られる。

 ただ問題は、直線や平面に還元するような造形手法をとることがあるのか・・・ここからは全くの想像なのだが、伊東や新海の作風とはちょっと違う気がするので下の世代の若いスタッフが関わったのなのだろうか?
 推測は色々、楽しい想像もこの辺までとしておこう。




     


     



 
| パブリックアート | 20:29 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ピーター・マックスのモザイク壁画 @大宮タカシマヤ


 仕事でとある研修に向かおうと、大宮駅東口を出て大宮タカシマヤの前をそそくさと通り過ぎようとしたその瞬間、建物の壁が妙にサイケデリックなモザイク壁画で彩られていることに気がついた。壁画はほぼ同じ画面(微妙な違いがある)が2面連続している。ということで撮影したのがこれ、今年の1月のこと。


   

 立ち止まってよく見たらピーター・マックス(peter max)のサインがあった。思いがけず、1970年代ヒッピー文化時代を代表するグラフィックデザイナーの作品に出会った。しかしなぜここに?という疑問もわき上がった。
 デパートに入っていきなり案内の女性に壁画のことを尋ねたところ、嫌な顔ひとつせず、電話で事務関係担当の方につないでくれた。そして1970年のデパート開店の時に作品が据えられたことを教えてくれた。ただ分かったのはそれだけであった。1970年とは勿論日本で万国博覧会が開催された年であり、この頃の日本は色々な意味で沸騰していた記憶がある。
  帰宅の後さらに調べてみたところ、ピーター・マックスはグラフィックアーチストである一方、環境保護運動家また人権と動物愛護運動家でもあるそうで・・・云々。

   

 日本をシンボリックに表現したイメージ、背景は何を形象化したものだろうか。この天使はもしや「マグダラのマリア」のポップな表現だろうか(もちろん私の勝手な解釈に過ぎないが)。

   

 これをみつけて、文化の発信拠点でもあるデパートという存在は、その時々の有力な作家の作品を取り入れていて文化の片鱗を垣間見せてくれることを思い出させてくれた次第。ちょっと思い起こしただけでも、この他に日本橋タカシマヤの東郷青児のEV扉絵、同じく笠置季男の外装彫刻、大阪なんばタカシマヤには最近再展示されたらしい岡本太郎の壁画がある。岡本太郎なら横浜そごうの屋上にも作品がある・・・、とまぁ。


 時代を反映したロゴで図案化されたサイン。「Cマーク」までデザインの一部のように付いている辺り、心憎い。

    



 
| パブリックアート | 16:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
青木町公園の「聖火台」

         
        1958年,埼玉県川口市,現存(撮影:2013年)

 つい昨年のこと、金メダリスト室伏広治氏らにより国立競技場の聖火台磨きが行われるなど、製作時の逸話と1964年東京オリンピックで思い出深いこの聖火台がクローズアップさているようだ。また新しい国立競技場の建設を前に、聖火台の去就もにわかに気になり始めたところである。

 実は、そんな国立競技場に据えられた聖火台と瓜二つのレプリカが、この写真のように埼玉県川口市の青木町公園に記念のオブジェとして置かれている。川口といえばこれらの聖火台を製作した鋳物職人が活躍した町であり、およそ以下のような鋳物の町川口の誇りとも言えるエピソードが残る。
      

 今から50有余年遡る1958年のこと、アジア競技大会と東京オリンピックの開催に向けた聖火台の製作を、当時の川口市長が鋳物の町の名誉にかけて引き受けてしまった。とはいえ2mを超える巨大な聖火台の製作は技術的に未知の領域、これが出来るのは鋳物の名工鈴木萬之助氏しかいないということになり、引き受けた萬之助氏は全身全霊を込めて製作に取りかかった。
 ところが名工をしても湯入れの段階で原因不明の爆発が起きてしまい製作に失敗、萬之助氏はショックのあまり倒れ込んでしまった。そこで息子の文吾氏が後を受け、全くの不眠不休で再製作に没頭、その間、父が息を引き取ったことも知らされないまま見事に完成、納期になんとか間に合わせて聖火台を国立競技場の高みに据え付けることに成功した。息子文吾氏は再度失敗したら死ぬと覚悟を決めて再チャレンジに挑んだという。
 父萬之助氏の作として名を刻んだ聖火台は、立派に東京オリンピックの聖火を灯し続けた。名人親子の執念のリレーや天晴れ!というわけである。(下は、萬之助と文吾氏(いずれも故人)を顕彰する碑の写真(青木町公園))

        

 さて、冒頭の写真のような青木町公園の聖火台を、先にレプリカだと述べた。しかしいくつかの情報によれば、ここにあるものこそが萬之助氏が手掛けたオリジナルの作ととも言えるのかもしれない。なぜなら、これこそが損傷し完成に至らなかった萬之助氏の手になる聖火台であり、後にきれいに修復して公園に展示したものだそうだからである(*1)。私が見た位では修復の跡など全く分からなかったのだが、実に見事な鋳鉄のオブジェであった。

 最後にひとつだけ気になっていることを。聖火台の製作者は上記の通りなのだが、それらのデザインを行ったのは、本当のところ一体誰なのだろうか・・・、ということである(調査不足のままで心苦しい限りではあります)(*2)
 もちろん、デザイナーが誰であっても優れた造形作品であることは間違いなかろう。再度の東京オリンピック開催に向けて国立競技場が新たなデザインで生まれ変わろうとも、私としては、現在ある鈴木萬之助文吾親子製作の聖火台、すなわち日本の戦後の歴史を象徴したこの鋳物の聖火台に、末永く聖火を灯し続けて欲しいと願っている。

      
      


*1:HP《eギャラリー川口 川口談義第3回「伝説の鋳物師」》中の鈴木文吾氏による証言:「・・・その駄目になったやつ(聖火台)が、今、川口の青木(公園、陸上競技をするところがある)に飾ってあるんだよね。・・・」がある。
他に、WIKIPEDIAによる「・・・文吾は、もし自分まで失敗したら腹を切って死ぬつもりだったという。 この聖火台は文吾の手により父の製作者名が入れられ現在も国立競技場に置かれている。萬之助の聖火台も修繕をへて作業場のあった川口市に置かれている。」と書かれている。

*2:ある陶芸家の名が挙がっているようである。またある所ではある著名デザイナーの名も見えるようだが・・・。






 

| パブリックアート | 21:52 | comments(5) | trackbacks(0) | pookmark |
西田幾多郎歌碑


1951年,神奈川県鎌倉市,坂倉準三

 建築家坂倉準三と鎌倉の関わりはあの近代美術館だけではない。坂倉による(たぶん)唯一の彫刻作品が七里ヶ浜、国道134号線沿いの鋪道に立っている。

 晩年をここ七里ヶ浜を見渡しながら過ごし1945年に没した西田幾多郎を顕彰する歌碑が、有志の発意によって建てられることとなった。そして坂倉がそのデザインを担当したのである。
 『美術手帖』(1951年8月号)にこの計画の概略と模型写真(下のモノクロ画像)が掲載されていたので、以下に一部引用する。

「・・・鎌倉市姥ヶ谷海岸の砂丘に建築家坂倉準三氏の設計による高さ六尺五寸、幅三尺八寸の歌碑が建立される。この歌碑のフォルムは名著「藝術と道徳」から意味づけられた永遠の美=永遠の女性を象徴しており、由縁ある永眠の地鎌倉で詠んだ歌

  七里浜夕日漂ふ波の上に
  伊豆の山々果し知らずも

の一首が碑の前面に刻まれている。・・・」

 当時は、鎌倉市によって、この碑を中心とした100坪規模の西田記念公園の建設計画があったことも記されていた。

 コルビュジエに師事した坂倉を想起させるというよりは、どことなくアルプの彫刻を思わせるのはなぜだろう。歌を囲んで刻まれている八芒星の意味するところは何であろうか。記事にあるように永遠を意味するのだろうか。私が観る限りでは、色々と謎めいていてそれが魅力となっている。
 
 尚、制作には矢橋六郎が関与していたとの記録があるらしい。矢橋六郎は矢橋大理石商店を興した矢橋亮吉の六男。画家であり、また東京交通会館の《緑の散歩》などモザイク壁画もいくつか手掛けた。
 ただし、この碑は見たところ1本の御影石から出来ている。そんな硬い石から刻み出された柔和で微妙な曲面の造形に、理屈抜きで目を奪われてしまった。

                    

 建立して間もない頃の、砂浜に立つ写真が『建築写真文庫 墓碑と記念碑』(北尾春道,彰国社,1957)に掲載されていた(下1枚)。こういう立地でも様変わりは相当あると感じた。
                                     







| パブリックアート | 20:20 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
蔵魄塔(ぞうはくとう)

《蔵魄塔》,日名子実三,東京都江東区,1925(大正14)年

1.知られざる大震災の慰霊塔
 東日本大震災から半年が過ぎた。しかし惨禍の爪痕はあまりにも大きく、21世紀に遭遇した災害であろうとも苦しみと先の見えない不安などは過去に直面した時と変わろうはずもなく、そんな中で復興への必死の努力が続いている。
 ところで過去の貴重な記録としては、遠く1100年以上も遡る貞観地震の記録「日本三代実録」の存在が報道された。一方、たった88年前の1923(大正12)年の関東大震災の記憶を伝える都市におけるもの、つまり復興小学校など復興期の建物は次々に姿を消しつつある。「忘れた頃にやってくる」天災を忘れないために建造物などが持つ記念性が大切であることを痛感しつつある。
 今から5年前の2006年のこと、私はかつての関東大震災の記憶を伝えるモノがどのように存在しているのかを確かめてみようと都内を訪ね歩き、江東区浄心寺の境内にある《蔵魄塔》に行き当たった。(HPの記事ここ) これは震災の犠牲となり身元も分からぬまま荼毘に付された多くの亡骸を祀る納骨堂を兼ねた慰霊碑として建造された。後に震災記念堂(現・東京都慰霊堂)に亡骸が移されたため現在は空であるらしい。不謹慎のそしりを恐れず言うなれば、目を惹くのは写実的な白セメント仕上げの裸婦像が墳墓を模したであろうドームを抱いているという美しくも芸術的なたたずまいであり、そしてこれが美術館ではなくお寺の境内にあることに驚かされる。されど、それもそのはず、これが慰霊碑として重要なのは勿論のことだが、それだけでなく、パブリックモニュメントとして彫刻を都市に向けて開放したパイオニア日名子実三の最初の実作であることが明らかになったのである。


2.きっかけとしての「帝都復興創案展覧会」
 日名子が都市的な視点に目を開いたきっかけは、関東大震災の直後の「バラック装飾社」に遡るらしい。実際に参加していたという説さえあり、少なくとも当時の『読売新聞』に連載されたコラム「バラック見物 仮装の銀座と浅草」(*1)にバラック建築への強い関心が窺える。
 そして1924(大正13)年4月、「帝都復興創案展覧会」における企画「大震災記念造営物」のコンペにおいて、日名子は《死の塔》,《文化炎上碑》のふたつの記念碑のモデルを提出し後者の《文化炎上碑》がプライズカップを受賞した。このとき今和次郎から次のような賛辞が送られている。
  「懸賞出品の日名子氏の記念碑では彫刻家の建築的努力を忠実に勤めてゐるを見せられ  た。建築家以外の人々の建築芸術への接近として感謝しておかねばならぬ」(*2)
今のこの言葉が自信となり、後の「構造社」結成にまでつながったであろうことは想像に難くない。
さて、小倉右一郎によるそれぞれの作品の解説を記してみよう。《死の塔》は、
  「・・・前方の群集彫刻の辺にて、棺を抱いて慟哭しているところを取り囲んで、立ったり
  座したり、跪いたりせる七人の裸女の、悲痛の情はポーズに依りて、好く現れ纏りも結
  構だと思ひます・・・」(*3)

《文化炎上碑》についても、
  「・・・向かって右寄りの方より見た辺は群がつて昇天する裸体女の姿体が面白く纏つて
  居る・・・」(*3)

と、煙のように舞い上がる裸婦群であることが仄めかされている。《文化炎上碑》は実際の建造物の瓦礫を背景としているようでありアイデアも卓抜だった。そして約1年後に瓦礫を背景とした裸婦像としてではなく、耐震耐火性に優れたコンクリートのドームを抱き悲しみにくれる裸婦となって実施に移されたのがこの《蔵魄塔》なのであった。
 これが完成したのは日名子の師である朝倉文夫の東台彫塑会が解散した年でもあり、朝倉塾で塾頭を務めてきた日名子と朝倉の関係も決裂していた。その背景には応用芸術に視野を拡げる日名子と純粋芸術にこだわる朝倉の確執が見受けられる。そして翌1926年、日名子は齋藤素巌と共に都市や建築と彫刻の融合を目指す研究団体「構造社」を立ち上げ、街を彩るモニュメントの歴史が幕を開けることとなった。
    
  《文化炎上碑》(『建築新潮』1924.6)      《死の塔》(『国民美術』1924.5)

3.震災を伝え続ける《蔵魄塔》
 2008年、日名子実三を長年研究される広田肇一氏による最新の著書『日名子実三の世界−昭和初期彫刻の鬼才』(思文閣出版)が刊行され、初めて《蔵魄塔》が日名子実三作品として取り上げられた。同氏の著書には日名子氏と制作途中の《蔵魄塔》が写った古い写真が掲載されており、これにより《蔵魄塔》の作者が日名子であることはさらに確実となった。(*4) また、「この(《文化炎上碑》)の受賞の実績により浄心寺境内に慰霊塔が建立された」とあり、復興創案展覧会のいわば実施版として建立されたこと、また実作として初の記念碑であることが明言されている。今回の私の記事もこの見方に準じている。
 《蔵魄塔》は都市を彩るパブリックアートを最初に提唱した日名子実三による最初の実施作であり、その原点に位置する作品ということになる。あるいは「帝都復興創案展覧会」の復興提案として実現した唯一の現存例とも言えようか、むろんその価値は小さくは無いはずである。しかし芸術的歴史的な側面だけではなく何よりも重要なのは、私達が自然の脅威に無力な人間であることを伝え見守るべく、いつもうつ伏せで嘆き悲しんでいるひとりの裸婦の思いであろう。このモニュメントから心に直接発信しているメッセージは計り知れない尊さを持つと思われ、震災の脅威の記憶の本質を伝える重要なモニュメントとして幾久しく継承され続けるに違いない。
  
  2011年撮影(白い保護塗装が施されていた)


*1:『読売新聞』1924年3月4〜8日,11〜12日に掲載
*2:『中央美術』1924年6月号
*3:『国民美術』1924年5月号
*4:他にも『日蓮宗新聞』1997年10月20日のコラム「古碑めぐり2 東京深川浄心寺」に作者として日名子実三を指す記述がある。





 
| パブリックアート | 21:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
日名子実三による記念碑2題
 大正末期から昭和前期にかけて活躍した彫刻家日名子実三(1893-1945)による作品から、東京都内で見られる記念碑をふたつほど。日名子実三は大分県出身、上京して東京美術学校に入学しつつ朝倉文夫の彫刻塾の門を叩き塾頭となる鬼才ぶりを発揮した。しかし、純粋芸術としての彫刻に飽き足らず朝倉と袂を分かつことになる。そして都市の一部を構成する公共的モニュメントあるいはレリーフなどによる建築と彫刻の融合を目指し、果てはメダルの制作など応用芸術としての立体造形全般を視野に入れ、1926(大正15)年に研究団体「構造社」を齋藤素巌と共同で発足させた。
 そのようなわけで日名子による記念碑は、単なる偉い人の銅像を超えた、アートとしてのモニュメントのさきがけなのである。例えば宮崎県にある「八紘之基柱(現・平和の塔)」の作者だと言えば思い出される方は少なくないかも知れない。また日本サッカー協会のシンボルである八咫烏(やたがらす)の図案も日名子による。
 そうした日名子実三による作品は、他にも身近なところに存在するのだろうか、少し散策してみよう。
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《来島良亮君記念碑》,東京都豊島区,1934(昭和9)年

 上を目白通り、下に明治通りが走り立体交差を成す千登世橋の脇にこの記念碑がある。戦前の土木技術者来島良亮を顕彰する記念碑であり、東京府土木部長として震災復興期に都市計画諸事業の指揮を執った功績が、この記念碑の建立に至った理由と考えられる。
 実際にスコップを握る人々、都市計画プラン、来島の肖像レリーフという3点の立体造形が結像し、偉大な都市計画事業の達成を祝福するメッセージを発しているかのようだ。
 
 昭和7年に完成した千登世橋と千登世小橋は、都市計画事業を支えた高い技術の証しなのであろう。この鋼製アーチ橋は「東京都の著名橋」に指定され平成2年度に修景が施されたことが近年の碑に記されていた。


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《下丸子耕地整理事業完了記念碑》,東京都大田区,1936(昭和11)年

     天祖神社の境内に建っている。耕地整理施行前の地形と、施行後の碁盤の目状に整然と区画された状況が見比べられるユニークな記念碑。なお、耕地整理とはいえ工場誘致が主目的であったらしい。

 構成主義風の立体造形の上に日本の神話時代の神様が鎮座されている様には、正直言って吹き出しそうになる(すみません)位微笑ましい。それにしてもこの神様は誰なのだろうか。
 後に完成するモニュメントの集大成「八紘之基柱」にはたくさんの神様や神将、埴輪なども据えられるが、この記念碑はその路線の源泉なのであろうか。






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名付けて岡本太郎・都市ギャラリー(PART)
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            《樹霊》 1970年,川崎市岡本太郎美術館

 「1970年大阪万博テーマ館「太陽の塔」の地下展示室「過去・根源の世界」に世界各国から集められた仮面や神像とともに展示された作品。自然に対する畏れと祈りといった人間の初源的かつ根源的な感情を具現化した神像としてつくられた。」(川崎市岡本太郎美術館の作品解説文より)

 戦前、岡本太郎はフランスに渡り、バタイユから強い影響を受けたらしい。

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《太陽の塔》,1970年,大阪府吹田市千里丘陵

 《樹霊》が入っていたリアルタイムの太陽の塔(再掲)。当時、大変な人ごみで中に入ることはできなかった。ただし40年の年月を経て思うに、あの時の混雑同様、岡本太郎と《太陽の塔》に寄せる熱気、世俗的な人気については全く衰えることなく持続しているようなのだ。

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《明日の神話》,1969年,渋谷マークシティ連絡通路

原爆の炸裂―悲劇を超越したその先に見えるのは何か・・・

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《壁画−眼》 1964年,渋谷 国立代々木競技場(第一体育館)内

   
《壁画−足》, 《壁画−競う》

 
《壁画−走る》

                                                           
                               《壁画−手》
    
              

 丹下健三設計の体育館内部のレリーフ。説明のプレートに従うと、「手」「競う」「眼」「走る」「足」というタイトルが付されている。
 体育館自体は屋根の改修工事中。煙突を兼ねた主塔から煙が立ち上っていた。

       

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(了)
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