収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
過去の川口、街並みスナップ
 1981年頃の埼玉県川口市にて、駅東口側で撮り歩いた画像から(すべて現存しない)。
 そのころはまだキューポラのある町の風情を湛える町工場が点々としていた。しかし現在はものの見事に風景は一変している。マンションが立ち並ぶ一様な風景であり、撮った本人でさえどこを撮ったのか特定できないほどである。

(▼)福禄ストーブ川口工場。粋なフォントの付いたファサードは、レトロなだけでなくよく見ると工場らしからぬちょっと洗練された風情、ということでこの画像は私のお気に入りでありこれまであちこちで何度かUPしてきたもの。
 ある論文(『福禄石炭ストーブの製品開発について』)がネット上に公開されていたので参考にさせて頂くと、この工場建屋はストーブ専門の鋳物工場として昭和10(1935)年に建てられたものらしい。一世を風靡した福禄ストーブは、最盛期の昭和30年代には3つの工場で製造されるほどになった。だがエネルギーの変革を迎え、平成4(1992)年に生産を終えこの工場も閉鎖されたということである。この工場の盛衰は石炭エネルギーの盛衰を物語るものでもある。

       


(▼)恐らく、ではあるが上記工場の裏側。今は無いスーパーの商標もみえる。

       


(▼)夕陽に照り映えるトタンの外壁は、なぜか郷愁を誘う。

       


(▼)「キューポラ」とは恐らくこういうものだろうか、と思いつつ撮った1枚。つまり西欧の教会などのドームを意味する「クーポラ(cupola)」になぞらえて、溶解炉の大きな排煙筒をこのように呼称したものと教えられた記憶がある。そう思うとなんだか崇高な感じがしてきたものである。


       



 
| 街並み | 15:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
大阪の地下風景から
    
 華麗な装飾が印象的な百貨店大丸心斎橋店の美しさもさることながら、実はその百貨店に至る最寄の地下鉄駅から既に、心を浮き立たせてくれるような華やかなデザインで彩られている。
 これは1933(昭和8)年に完成したとされる地下鉄御堂筋線心斎橋駅。湾曲した天井には装飾的にタイルが貼られ、照明器具のデザインも昭和初期のモダンな感覚でデザインされリズミカルに配置されている。デザインは武田五一によるとのことであった。


         
 こうしたモダンデザインの地下鉄駅は他にも梅田駅、淀屋橋駅、天王寺駅などでも行われ、特に天王寺駅では心斎橋と並んで往事のデザインがよく留められているらしいが、今回訪れたのはここだけ。他は次回の楽しみとなった。

         

     *************◆◆*************

 地下街と言えばなんといっても巨大な地下迷宮の様相を呈する梅田の地下街が知られている。JR大阪駅、北新地駅、阪急梅田駅、阪神梅田駅、地下鉄では谷町線東梅田駅、御堂筋線梅田駅、四つ橋線西梅田駅といった交通機関を結ぶ通路がある。さらに「ドージマ地下センター」,「ホワイティうめだ」,「ディアモール大阪」の地下街があり交錯しつつ拡張していったという具合。

 いつしかその「ホワイティうめだ」の東の端に行き着いて驚いた。迷宮の果て、辺境で途方に暮れつつ思いがけず目にしたものは噴水のある泉。妙に明るく湿気を帯びた空気に満たされた空間は、しかし割と心地よい待ち合わせ空間でもあった。


       

 この「泉の広場」が誕生したのは1970年ということなので、大阪万博と何かしら関係しているのだろうか?ちなみに床のモザイクにはイタリアはミラノのガレリアの床モザイクのデザインを取り入れたらしい。

 夜、明るく照らされた行き交う人影は、かえって幻のようにも感じられる。もっともここが明るい空間になったのは1987年に改装されたことにもよるようだ。その前はもっと陰うつな場所だったのだろうか。それゆえなのか都市伝説もあるそうな。
 「赤い服を着た女が出る」云々

       







 
| 街並み | 17:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
日本不燃建築研究所による防火建築帯2題(大宮,亀戸)
 「建設工学研究会」に所属し「沼津本通り防火建築帯」を手掛けた後の1957年、今泉善一は「日本不燃建築研究会」を設立した。ここでは同会が設計した中から2点ばかり拾い上げてみた。もちろんこれらに限らず、今でも防火建築帯はあちこちに現役の建物として残っている。戦後高度成長期にかけての昭和の繁栄の残り香として。


■大宮駅前新共栄ビル(大宮駅前東口防災街区造成事業)(1962年)
 大宮駅東口から東西に伸びる大通りを挟んだ南北にまたがるブロックの防災街区造成事業区域のうち、第1期工事分として1962(昭和37)年に竣工したのが、この新共栄ビルである。

写真手前部分の5階建て地下1階の部分は、7店舗の共同により「オールオープン式の店舗計画(*1)」がなされたとあり、「大一ビル」の部分のことであろう。また写真では左側に見える部分は、連続した1棟のように見えるけれども数軒が縦割り状に連続している。

     

     

     

 外観の現状は看板に覆われ痛々しい。しかし屋上のパラペットの辺りのちょっと凝ったデザインに、不燃建築研究所らしさを垣間見せている。また下の写真のように、地下部分は古びて寂れつつあるが、昭和30年代レトロ感を濃厚に滲ませている。

     

 ひとつここ大宮駅東口の造成事業について注釈しておきたい。全体計画図(『不燃都市』1962.No15掲載,下図)を見たところ予定年度を示したいくつかの区域に区切られ、その中で新共栄ビルは「昭和36年度完成」とされていて当初から道路に面して奥行きの浅い(細長い)建物として計画されていた。これは恐らく従来通りに「耐火建築促進法」に則って路線から奥行11mの範囲で防火性能を備えた「防火建築帯」としたためであろうと考えられる。しかし昭和36年は同法に取って代わり街区全体の防災を旨とする、新しい「防災建築街区造成法」が施行された年でもあった。従ってここ大宮においてもその後の昭和37年以降の区域については、奥行にとらわれずに街区に計画の線引きがなされた。つまり同じ造成事業区域でありながら2つの法律にかかる、移行期の事業であったということが分かった次第である(*4)。

     


                  *****

■亀戸駅北口十三間通りの共同建築(1958年)
 日本不燃建築研究所が東京近郊で関与した事例としては、日本橋横山町、蒲田駅東口、巣鴨地蔵通り、赤羽町、柏、そして亀戸十三間通りなどが挙げられる(*2)。そのうちの亀戸十三間通りの共同建築を直接担当したのは、日本不燃建築研究所の元所員小町治男氏であった。このことについてはHP「建築家山口文象(+初期RIA)アーカイブス」のインタビュー記事「戦後復興期の都市建築をつくった建築家小町治男氏にその時代を聞く」(伊達美徳氏作成)の中で詳しく語られており、また建築当初の写真なども掲載されているので参照されたい。

 下のように2件の建物が残っていた。一見して見分けがついたのだが、それはやはり屋上部分のデザインによる。以前取り上げた沼津の「上土通り」と同様、ここでも屋上部分のデザインで通り全体に統一感を与えようとしたと考えられる。外装は当初と見比べると随分改装されたようである。


     

     

     

     

 初田香成氏の著書『都市の戦後』によれば、「日本不燃建築研究所」はその後「日本不燃開発研究所」を併設し、需要が増す商業コンサルタント業務にも対応するようになったと書かれている。またこのことは成長著しい商店主らの利益追求に応えることを最優先とせざるを得なくなったことをも意味していた。大資本に対抗しつつ公共的な都市計画上の提案を行うなど、建築家が得意とした部分は相対的に二の次となり、次第に防火建築帯に対する建築家の関心は薄らいでいったそうである。池辺陽がかつて言ったように防火建築帯はやはり過渡期のあり方に過ぎなかったのかもしれない。そして日本不燃建築研究所の所員は独立しては去り、結局「今泉だけが残るようになっていった」(*3)。

 本来マルクス主義の建築家の今泉善一にとってみれば、(見方にもよろうが)皮肉な末路を辿ってしまった、ということなのかもしれない。


  *1:『不燃都市』(1962 No.15)による
  *2:『都市の戦後』(初田香成、P.256-257)による
  *3: 同上(P.291-294)による
  *4: 伊達美徳氏からの指摘に従って調べた結果判明した。








 
| 街並み | 19:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
鶴見線沿線散歩
     

 前回ご紹介した国道駅のあるJR鶴見線沿線を、もう少し歩いてみた。鶴見駅から隣の旧・本山(既に廃駅)辺りの線路沿いを歩き、電車に乗って浅野セメント社宅群のある「安善」駅で降りた。


 ●鶴見駅(旧京浜デパート(現京急ストア))
 鶴見臨港鉄道として昭和5年に開通した当時、鶴見駅は仮駅舎のままで少し旧本山駅寄りのところにあったそうだ。その後1934(昭和9)年に省線と一体化した駅舎が完成、下の写真のように外観はモダンで内部が西欧のターミナル駅風な鉄骨建屋の下に「京浜デパート」が設けられ営業を開始した。

        

 「京浜デパート」の発祥についてちょっと辿ってみたところ、思いがけず白木屋デパートが関係してくることを知った。どういうことなのか、簡単に書くと次のようになろうか。
 かつて白木屋は関東大震災による痛手から立ち直るべく、起死回生策として小規模な分店網の展開を企てた。しかし日本百貨店協会が支店開設自粛の協定を作ったことで白木屋の名で支店の店舗展開をすることができなくなり、協定への抵触を避けるべく白木屋の出資を伴わない「京浜デパート」を新たに設立することになったというわけである。ただし社員については白木屋から送り込まれたそうである。
 その時に作られた店舗のひとつが鶴見の京浜デパートであり、他には品川店をはじめ、蒲田、川崎に開店した。『鶴見線物語』(*1)によれば、鶴見臨港鉄道では既に国道駅に開店していた「臨港デパート」の実績が、より規模の大きな京浜デパート開店につながったのではないかとしている。

 しかしながら京浜デパートは地元商店会の反対や戦災などに遭遇し、終戦の時点で品川と鶴見の2店舗だけとなった。戦後は「京急ストア」として店舗を増やしたが、結局発祥時からの京浜デパートの建物は、ここ鶴見が唯一となっている。

        


                
●鶴見〜旧・本山
 鶴見駅から一つ目の駅は「本山」駅であったが駅は無く、現在はホームや階段の痕跡が残るのみである。かつて本山駅は曹洞宗の大本山總持寺への最寄駅として、参詣への便宜が図られていたのである。
 ▼總持寺の参道と鉄道が交差する地点には今でも總持寺架道橋が架かり、テナントの入った高架下の開口部に一対のアーチ形があしらわれている。国道駅同様、アーチを好んだ阿部美樹志のデザインがここにも感じられる。

      

        


 ▼またこの付近の高架下は、主にバスの車庫として利用されている。少し鶴見寄りに戻ってみたところは開業当初、鶴見の仮駅があった辺りである。戦前からのものであろうか、ちょっと古めかしいテナントのデザインが顔を覗かせていた。

      

        


●安善駅を降りて
 さて一気に進んで「安善」駅で下車。「安善」という駅名は鶴見線敷設を財政面からバックアップした安田財閥の安田善次郎の名からとられたのだそうだ。鶴見線の駅名は、鶴見線には関係する人物名からとられた駅名がいくつかある。調べてみたところ、「浅野」駅はもちろん鶴見を開拓し鉄道敷設を主導した浅野総一郎、「武蔵白石」駅は日本鋼管創業者の白石元次郎。「大川」駅は製紙王の大川平三郎、「鶴見小野」駅は地主の小野信行という具合だそうだ。

        

 ▼駅前にはRC造の一戸建ての住宅が立ち並んでいるのだが、良く見ると歴史を感じさせる。最近知ったのだが、これらは浅野セメント社宅群であり、戦前に建てられ、元々は数多くの家が立ち並び街区を成していたというから驚きである。基本的にはモダンなデザインだが、玄関庇の持ち送りなどにチラリと装飾性への意識が少し残っていた。

      

 現在は建て替えが進んだようではあるが当初の壮観さを想像することは今でも可能である。トニー・ガルニエの工業都市のイメージを彷彿とさせると言ったら大げさ過ぎるであろうか。
 各住宅は2階建てと平屋の2種類で統一されていたようである。2階建ての屋根は陸屋根、平屋は勾配屋根なので小屋組みについては木造の可能性も推測されよう。

      

        

           

 ▼さらに「安善湯」というやはりRC造の銭湯も健在である。恐れ入ったことに唐破風をかたどったような曲線までRCで出来ている。これもたぶん浅野セメント社宅と同時期に開業したのではないだろうか。

            
      

 ▼最後はたばこ屋さん。こちらもRC造でなかなか味わい深い店舗である。正面の装飾が半分切れているとことからすると、以前はもっと大きかったのかもしれない。たばこ売り場のブースも今や珍しい。
 古びた外壁にはちょっと鉄筋が顔を覗かせている箇所もあったのだが、かえってただのモルタル塗りではなくRC造の証拠を示しているようでもあった。

      


    

ということで、本日の散歩はここまで。


*1:『鶴見線物語』(サトウマコト,2005,230クラブ)










 
 
| 街並み | 19:33 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
横浜の防火建築帯をめぐる


  最近、横浜で気になっているのは、上と下の画像(長者町8丁目共同ビル,1958年頃竣工(?))のような、昭和20年代末から30年代頃に建てられたと思われるちょっと古びたRC造の建築である。これらは「防火建築帯」を形成する建物として建てられたものであり、横浜市には今でも多数残っている。特に建物が連なる吉田町界隈、それに飲食店として濃厚な賑わいをみせる福富町辺りで見かけた建物スナップをアップしてみた。
 
 「防火建築帯」の名が示すように、ひとつひとつの建物は鉄筋コンクリート造の耐火建築であり、それが街路に沿って連続することにより防火帯としての役目を果たす。また本来こうした目的で形成されたのだが、街路景観として見ても、普通なら個別の建築が乱立し雑然とした印象を与えるのを抑え、長い一棟の建物がある統一性を持つ街並みを作り出している。大抵はモダニズムの造形によるデザインで、新築当時は明るくシャープな印象がより際立っていたことであろう。

 さて、以下に防火建築帯について自分なりにまとめてみたのだが、基本的な内容について、実際に大阪で防火建築帯の計画に携わるなどした伊達美徳氏のHP(*1)をかなり参考にさせて頂いたことを、まずおことわりしておきたい。


 ●「防火建築帯」とは
 昭和27(1952)年、耐火建築の普及と町全体の不燃化を促進するために「耐火建築促進法」が制定されたことが、そもそもの発端である。これは防災上、広い道路に面した街区を連続する耐火建築で囲う(防火建築帯)ことを目論んだ法律であり、地上3階建ての建物を鉄筋コンクリート造などの耐火建築物とする必要があった。対象となる地域は都市計画審議会の議決を経て建設大臣が定めた。また建設費の一部は補助金として地方自治体から建主に交付できるしくみを持っていた。

 そしてこの法律を最初に適用したのは鳥取市だそうである。また沼津市には規模の大きなアーケード方式の建物が出現するなるなど、全国の都市で防火建築帯が建設された。横浜市については、1952年まで続いた占領軍の接収による復興の遅れを取り戻すべく、まず道路と宅地が復旧され、防火建築帯とするべく地域が指定され、数多くの防火帯建築が建築されていった。

 約500棟もの防火帯を成す建築物が建てられ、ある調査によれば約200棟程度が今でも現存しているとのことである(*2)。横浜市は抜きんでて広範囲に防火建築帯が作られた都市ということになるのではないだろうか。

●「防火建築帯」の形式
 複数の地権者が、敷地を出し合いつつ共同で1棟の建物を計画することが基本的な考え方であり、境界線上に壁や柱を立てた連続建築を区分所有するというものであった。
(写真「福富町建物A」はこうした基本的な姿を反映したのか、異なる外装色の壁面が連続している。)
 しかし実際は、下層階ではこうした形式を取りつつも、上層階には共用の廊下と共用階段でつながった賃貸共同住宅が載ることが多かった。(写真「福富町建物A」以外の建物)

 このような形式となる理由は主として建設資金に起因する事情が関係しているらしい。
 伊達氏のHPによれば、地権者らは建設にあたり建築助成公社からの融資を受けることが出来たのだが、それだけでは足りない場合が多かった。そこで県の住宅公社が事業に加わることで、実際に建設を可能とすることができた。つまり公社が賃貸共同住宅の建設を上層階で受け持つことにより、地権者の工事費負担の軽減が図られた。下層部と共同住宅など賃貸の上層部が載ってひとつの建物を成しているのはこのためのようである。
 そして建築後10年を経過した後、上層の住宅を地権者に優先譲渡する約束が結ばれたとのことであるが、時間と共に権利関係は複雑さを増し、どこでも予定どおりに事が運んだかというと、そうでもないらしい。
 恐らく、建物が老朽化したまま修繕などの措置が加えられないでいる建物が多いのも同様の理由によるのではなかろうか。 


●現在の「防火建築帯」の評価など
 伊達氏はHP(*1)の中で、横浜の防火建築帯について、おおむね4つの点で評価されているのだが、ここでごく簡単にかいつまんで引用、紹介させて頂くと以下のようになろうか。
 1:防火建築帯の形成は都市計画上基盤整備のみならず建築物をもコントロールした。不燃化された居住と仕事の場を確保し、戦後復興の遅れを急速に取り戻すきっかけを作った。
2:積極的に住宅を都心に持ち込む政策であったこと。
3:住民参加のまちづくりの始まりであったこと。債務のリスクを恐れず土地を持ち寄って街並みを作りあげた先人の気概、しかも広範囲に渡って行われたことは敬服、賞賛に値する。
4:一定の高さを持つ壁面線が形成され、秩序ある都市景観が形成されたこと。

 こうした点を挙げつつ、同氏は多大な努力を払い官民共同で作りあげた「戦後復興の街並み」に敬意を払い、評価し保全する視点が必要なのではないかとしている。

                     ***

 戦後の昭和期建築が知らぬ間に次々姿を消しつつある昨今である。復興期から高度成長期にかけて建てられた防火建築帯は、昭和の人の営みの歴史の証しであり、しかも今現在そこで人が暮らし活動する生きた建築-都市でもある。歴史を偲ぶとは言っても、決して過去の遺物ではない。
 聞けば、若い人を中心にクリエイティブな活動の拠点として防火建築帯の建物に入居する動きがあるという。様々なアイデアを持つ人々を柔軟に受け入れ、生きた空間として有り続けられれば良いと感じている。また横浜はそういう気風が良く似合う町だと思う。



*1:「まちもり通信G1版 横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか」(伊達美徳)
*2:「関内肝関外地区の防火帯建築など古ビルの再生活用まちづくりの相談態勢づくり」P5(特定非営利活動法人アーバンデザイン研究体)




 

| 街並み | 21:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
国立競技場周辺,明治公園散歩

     
 前回聖火台の話題を書くために国立競技場を訪れた後、新しい国立競技場が建てられたら見られなくなる風景もあるのではないかとばかりに、今更かもしれないが、競技場周辺を少し散策してみた。

     

 遡れば、明治神宮外苑は明治天皇の遺徳を伝えるため、聖徳記念絵画館を中心にスポーツや芸術文化普及の拠点として、旧青山練兵場跡地に各施設が整備されたことが、この地域の特色を形作る源泉となった。
 現在ある正式名称「国立霞ヶ丘競技場」は1958年に建て替えられたものであり、それ以前には1924(大正13)年竣工の「明治神宮競技場」があった。(あの学徒出陣壮行会はここで行われた)

     

 さて、周囲を見回すと競技場をとりまくように、オリンピックの開催に合わせて整備された「明治公園」がある。ちょうど競技場の観客のたまり場のように広がる空地として機能しているようである。ただ競技場と公園のデザイン的な統一感はあまりなく、その点では代々木競技場や駒沢競技場とは異なる。その代りに歴史を感じさせるものが「点」として存在しそれを発見する楽しみがあるようだ。

 まずは1964年東京オリンピックの勝利者の名を刻んだ国立競技場の正面(↑)。オリンピックの開催を記念する最も明確なモニュメントであろう。

 芸術文化普及という神宮外苑の目的と共に、さらに美と力を両輪として尊ぶ古代オリンピックの考え方を反映したためであろうか、彫刻などの芸術作品がそこかしこに数多く展示されている。
下にそのうちの一部を挙げてみる。(左:《よろこび》寺田作雄,中:《青年の像》朝倉文雄,右:《健康美》北村西望)(*1)


     

 競技場の周りにあるバタフライ屋根の建物が、ちょっと昭和の雰囲気を醸し出していた(↓)。「神宮外苑サイクリングセンター」、1968年に開設されたとある。

         

 明治公園のうち霞ヶ丘広場と呼ばれるエリアには、このような半円形の大きなパーゴラがあった(↓)。公園として整備された頃のものであろうか。ここは都心部には貴重な広場で、フリーマーケットなどで賑わうという。

       

 もう一方、国立競技場西側正面に接する明治公園は、和風庭園の趣きがある(↓)。その少し鬱蒼とした雰囲気の中に「クーベルタン男爵」の石碑や「嘉納治五郎」の石碑があってオリンピック開催の歴史を伝えている(↓↓)。

     

       

 明治公園の霞ヶ丘広場に隣接する一帯は都営霞ヶ丘アパートである(↓)。1960年代前半に建設されたというから、ここもオリンピックと同時期に整備されたエリアということになる。昭和30年代的な空気濃厚な雰囲気に出会い心も癒されたと言いたいところだが、実はそんな呑気なことも言っていられないことが起こっている。       

          

                             

 新しい競技場を建設するにあたって、コンペの段階で示された設計のプログラムには、住民が暮らしているこの霞ヶ丘アパートの敷地を、新しい競技場をとりまく滞留空間とするために移転つまり取り壊すことが既に決められていたそうだ。住民への十分な説明が無く理解も得られないままの決定であったようである。もしそれが本当ならば、住む人の身になるならば恐ろしい話である。知らない間に一方的に退去させられることが決まっていたとしたら・・・。
 事態は恐らくこのままでは済まされないのではないか、と心配する。

                     


 以上が私の拙い競技場周辺の風景録だが、このこととは別につい先日発刊の槇文彦氏のJIAへの寄稿「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」(*2)を読んで心を揺さぶられた。ご参照されたし。偉そうなことを言うつもりはないけれど、他人事ではなく自分のこととして多くの人が行動するならばまだ間に合うのかもしれない、という気持ちである。




1:そういえば先日、1936年のベルリンオリンピック芸術競技彫刻部門優勝作品(《ハードル走者》E.シュトール)が、どういうわけか日本の秩父宮記念スポーツ博物館にあるのを見て驚いた。

*2:JIA(295  2013年8月) 





| 街並み | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
横浜トイレ探訪(霞橋公衆便所その他)

      

1.霞橋
 関東大震災復興期に再建された霞橋(1928年,復興局)のたもとで目を惹くデザインの公衆便所をみつけたのは、かれこれ20年ほど前のこと。(分離派HPに掲載)近寄ると昭和の初め頃と思われる歴史の重みがコンクリートから感じられ、便所と橋はほぼ同じ頃に整備されたことが分かる。

             
      (↑ これ1枚のみ1992年撮影写真。改修を受ける以前のモルタル塗りの仕上げ。)

 公衆便所のデザインに注目すれば、正面の壁の曲線や細部のコーナーまで丸みがかっていいるのだが、それらは大正後期から昭和初期にかけて流行った表現主義的の特徴であろう。デザインが凝っているせいか古さを感じさせず、清潔感さえ感じる。

             
     (↑ 震災で架け直された現在の橋より以前の、煉瓦の遺構が残る。2012年撮影)

 『横浜市近代土木・産業遺構調査報告』(*1)によれば、リスト中の霞橋の備考欄に「公衆便所設置」と書かれており、それがこの公衆便所を指すようである。それで私は橋と公衆便所が復興局によって一緒にセットで建造されたと信じ、疑いをはさむことはなかった。
 橋のそばに公衆便所を設置することは、1886年の「街頭便所構造改良法」および「設置個所等通達」によって示され、明治の早い時期から行われていたようである。橋のたもとで用を足す人が多かったのと、屎尿の運搬に便利であったことがその理由らしい。(*2)



              (↑ 改修整備された現在の橋。2012年撮影)

 しかしつい昨年の暮れのこと、FACEBOOKで知り合った横浜在住の方から、「横浜には、霞橋と同様の古い公衆便所がいくつも点在していた」といった話を教えて頂いた。それは私にとって寝耳に水の知らせであり、霞橋のようなトイレが他にもあったと聞いて驚いた。
 もしそういうことであれば、あくまでも可能性としてではあるが、その設置時について、多数の公衆便所が、橋の建設とは特に関わりなく横浜市内に設置されていった、ということだってあり得ると思った。昭和初期の復興都市計画の一環として、ある計画主体の手によって。つまり霞橋の公衆便所も橋の建造とは別に、多くの公衆便所とともに設置されたものだと考えることもできよう。個別の橋と公衆便所が一緒にセットで建てられたと速断してはならないと思った。
 そういうわけなので、とにかく残っているの横浜市内の公衆便所を探し回ってみることにした。

                  

         
      (↑ 天井や壁の入り隅にもアールがとられている。昭和初期的なディテールの扱い)



2.弘明寺
             
                      (↑ 昭和初期の建造と言われている)

               
    (↑ 神々しくも聖なる空間。こんなに発色の良いガラスブロックが昔からあったのだろうか)


3.黄金橋

            
        (↑ 屋根の部分など、ひと目見て後年になってから大きく改造されたことがわかる)


4.鶴巻橋
            
       (↑ 壁の一部が斜めに打ち上がって、以来そのまま数十年(?)。珍しいエラー硬貨
         をみつけたようなものだと思えば許せる)


5.一本橋

            
           (↑ 表面だけ少し古びて見えるが、全くの現役トイレで重宝されている)

6.八幡橋

            
           (↑ 典型的な切妻屋根の形を持つ。ガラスブロックは色つきではない)

        
           (↑ これはおまけで、八幡橋の親柱。放物線の造形があまりにも立派)


7.まとめ

 これら公衆便所の特徴を簡単に挙げてみよう。まず公衆便所の多くは川のそばか橋のたもとに設置されているのがほとんどであったが、弘明寺のようにそうでないものもあった。すべて男女別で正面から見ると左右対称の形のRC造の造りとなっている。切妻屋根であり、多くは天窓採光と天井部分に換気口を持つ。壁にはガラスブロックが嵌められ採光の用をなすと同時に美的効果も高められている。いくつかのガラスブロックは彩色されたものであった。というところであろうか。

 霞橋の公衆便所とその他とを見比べた場合、歴史の重みを感じさせるコンクリート躯体と、左右対称形、壁のガラスブロックという点で共通しているのでそれらとの関連はあると見て良いであろう。しかし違いもある。大半が切妻型で天窓採光型なのに対して、霞橋では天窓採光によらず、その代りなのか自由に曲線を駆使したデザインでは群を抜いている。この違いがどうして生じたのかはよく分からない。恐らく標準パターンの公衆便所があらかじめ設定され、何らかの理由で霞橋の公衆便所では特別に凝ったデザインのバリエーションが与えられたように思われた。

 『横浜市近代土木・産業遺構調査報告』をもう一度見直した。公衆便所付の橋が数件記載されていたものの、しかし霞橋以外はどういうわけか計画者の記載がない。
 ところで横浜市は公衆便所発祥の地と言われる。発端は外国人居留者からのクレームに対処する形で1872年に公衆便所(*3)が83箇所設置され、さらに実業家浅野総一郎は1879年に63箇所の公衆便所を設置し、屎尿を肥料として販売したなどの歴史があるという。
 そのような歴史を勘案しつつ、公衆便所の整備を誇る横浜市が、復興都市計画として独自に多数のRC造のトイレを設置したのだろうか、などと想像を働かせてみたくなる。しかし所詮、証拠資料が見いだせない現在のところは、夢想・妄想の類に過ぎないのである。

  *1:S58.3 横浜開港資料館委託調査
  *2:「震災復興橋詰広場計画の経緯と成立 −旧東京市日本橋区および京橋区をケーススタディーとして−」(伊東
     孝祐,秋山哲男,伊東孝,溝口秀勝 土木史研究第18号 1998年5月) による
  *3:呼び方は 公同便所→共同便所→公衆便所、と変わっていったそうである。







| 街並み | 20:18 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
京成立石北口界隈
  
 葛飾区庁舎への道すがら、京成立石駅北口には昭和の雰囲気を湛えた店も多く、どこか懐かしい感じがした。変に観光化された感じも無い。そしてひときわレトロ感が濃厚なのは「呑んべ横丁」の看板のある飲み屋街。2階建ての建屋の間に屋根が掛け渡されたアーケード街である。狭い路地状の通りから上方を見上げるならば、まるではるか天上の世界から一条の光明が地の底にいる自分に向けて差し込んだ、そんな感覚におそわれる。夜はまた異なった趣きなのだろう。  

 ここはネット上では有名らしく、驚いたことに最初から飲み屋街だったわけではないらしい。調べてみると、昭和29年に建てられた日用品店や食堂が軒を連ねた商店街であり、「立石デパート」と呼ばれていた。それがいつしか飲み屋街に変貌したのだそうである。「紳士服 アカカンバン」と読めるペンキ看板が商店街当時の名残りとして残っていた(右の写真)。
 アーケードのある通りは二筋あって、そのひとつの端部が下の写真である。

 こうした立石のたたずまいは現代の無機質的風情の都市に圧されるように、ひっそりと息を殺しながら生きながらえているような感じを受けた。案の定再開発が予定されているらしく、この稀有な空間が存続し続ける時間もそう長くないらしい。



       

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 下の2枚の写真は、同じ立石北口でもまた別の一画。どうやらかつて赤線であったと伝わるエリア。もちろん今では普通の小料理屋やスナックが軒を連ねている。家の造りを見ると、普通の古い住宅にしては洒落っ気のある造作を施した跡がちらほら見られたりするので、そこにかつての風情が偲ばれる。狭い通りを見るにつけ、建てられたのは終戦後ながら江戸からの路地空間を彷彿とさせるような小ぢんまりとしたスケール感を感じる。やはり今や貴重なたたずまいなのであろう。

    







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浅草六区の映画館



◆1982年撮影、浅草六区の映画館
 その昔、浅草六区は映画館が軒を連ねていた・・・もしやそのように伝説めいて語られる日が来てしまうのだろうか?。最近、最後まで残っていた「浅草新劇場」,「浅草名画座」,「浅草中映劇場」が今年10月21日を最後に閉館されたことが報ぜられた。その後どうなるのかは、今のところ明らかにされていない。

 さて、ここに掲載したのは、右下の2枚(昨年末撮影)を除いて1982(昭和57)年に撮ったありし日の写真である。学生だった頃、確かF先生の設計の授業が突然休講になってしまったので、仕方なく浅草にでも写真を撮りに出掛けようかと思いついた時のもの。今更、先生に感謝。

                                 

 冒頭の画像は「浅草新劇場・世界館」。1937(昭和12)年、加藤秋の設計による。
 既に昭和初期に建てられた映画館はほとんどが消え、戦前からの映画館としては恐らくこの浅草新劇場だけが、右の画像のようにパネルで覆われた状態で残っているようだ。覆われたパネルの内側に、本来のタイル貼りの外壁とともにテラコッタの装飾や女性像が眠っているのだろうか。もしそうなら救いの手が差し伸べられれば良いのにな、などとつい思ってしまう。   

                                 

 そこから雷門通りに向かって少し南下すると、最近まで右のようなネットで覆われた建物が見えていた。ここはかつて「大勝館」が建っていたところである。
 「大勝館」は1908(明治41)年に開館した映画館であるが、さらにその前身は「第一共盛館」という玉乗り興業を行う小屋であったとのこと。
 時を経て戦後1971年に廃業、跡地にはボーリング場が建てられた。しかしそれも閉鎖され放置状態となった。2001年からここで一時期「浅草大勝館」として興業を行ったが再び2007年に閉鎖、右の画像はその最後の姿で、今年になって解体された。商業施設が建つらしい。激しい流転の歴史だけは今も昔も変わらない、ということだろうか。

                                 

 下は「富士館」の外壁。1927(昭和2)年、僊石政太郎の設計による建物。建築当初の全体像はここで見られる。
 「富士館」の起源は1908(明治41)年、日活の封切館であったそうだ。戦後は「浅草日活劇場」と改称し興業を続けたが、1973(昭和48)年に閉館した。その後も新世界のキャバレーがここに入って営業したということなので、写真にも新世界の看板文字がみえる。
 現在のパチンコスロット・パンドラの辺りに建っていた。
        
 拡大してみると女性像のレリーフ装飾が施されており、いかにも昭和初期らしい(下図)。
        

                                 

 以下、一連の「東京クラブ」,「トキワ座」,「浅草ロキシー」は1991(平成3)年に閉鎖され取り壊された。現在ROX3(建替え中)のある辺りに建っていた。
 これらはもともと根岸浜吉が創業した根岸興業部による劇場群であり、映画を含め浅草オペラなどその時々の流行の興業を行った。しかし関東大震災以後は不振となり松竹の傘下となったとある。
 下の写真の3館はいずれも成松建築事務所の設計によって、1931(昭和6)年に建てられたものであり、建物どうしが内部でつながっていたとも言われる。他に成松建築事務所は国際劇場を設計している。

 下の「東京クラブ」は元々1913(大正2)年の開業、その当初から映画上演専門であった。
        

        

        

 当初「常盤座」と称していたこの劇場は、「道化踊」興業のために根岸浜吉による根岸興業部が1887年に開業した浅草六区最初の劇場であり、浅草オペラ発祥の由緒ある小屋であったそうだ。ただ、「道化踊」が何なのか私には見当もつかない。もちろん下図の昭和期の建物は、それより後の浅草オペラ衰退以後に活躍した建物ということになる。また、片仮名の「トキワ座」となったのは1965年とのこと。
        

 「浅草ロキシー」も、当初は「金龍館」として1911(明治44年)開館した。開館早々映画「探偵奇譚ジゴマ」が大ヒット、また浅草オペラの多くがここで上演された。昭和期に入ると下図の建物で主に洋画が上演された。戦後1946(昭和21)年に「浅草ロキシー映画劇場」、1983(昭和58)年「浅草松竹映画劇場」と改称された。
        


 以上、浅草の劇場、映画館の歴史情報の多くはWikipediaに負っていることを付け加えます。
 おしまい。

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横須賀の街並み(2)

      

✱2012年 昭和の残り香
 金星劇場−肩の力を抜いて気楽に昭和30年代の風情に浸りたいとばかりに行ったのだが、外観を見るなり、やはりこの迫力には圧倒されてしまった。それは駅に近くきれいに整った千日通りの繁華街で、たった一軒堂々と孤高を保っているためだろうか。以前素通りしてしまったと思い、気が付いて慌てて行ったのだが、どうやらそれは「既視感」。閉鎖された建物を眺めつつ、開館中であったならば中に入るのにはかなり勇気が必要だったかもしれない、などと思ったり・・・。
          
 その沿革に目を通せば、戦後ストリップを行うキャバレーであったのを昭和30(1955)年にニュース映画専門の映画館に改装、その後成人映画の映画館へ変遷を辿ったとある。今や、これだけ濃い映画館の建物も珍しいのでは?
             

                               

 昭和初期からあるといわれるお店が目を引く(下)。でも看板の横文字を見れば、それは戦後に英語圏の客を意識して作られたもののようにも思えてしまう。 
         
 文字も絵柄も左官のコテ仕事で浅く浮き上がるように造形されているので、消えることがない。時計はいつから12時20分を指し続けているのか。
 薄く色褪せた表面の仕上げ材が、かえっていい味を出している。
         

                                

 大滝町辺りにおいて、大通りから山の側に折れると大滝町名店ビルがある(下)。昭和31年(1956年)年開業したそうで、表通りにあるもっと規模の大きな三笠ビル商店街よりも3年ばかり先に建てられた。横須賀に住んだこともない私なのに、外から見ると、どういうわけか子供の頃母親に連れられて買い物に出掛けたアーケード街や市場の雰囲気がよみがえってくる。2階以上はまさに昭和の飲食店街。
         

    

                               
 
 ちなみに、この建物のある通りをさらに少し行き坂を上ると「聖ヨゼフ病院」に至る。湾曲した立面が美しいこの病院は戦前の「海仁会病院」であり、分離派の建築家石本喜久治の事務所で設計された。またそれは詩人として知られた立原道造(彼は帝大建築科を卒業し同事務所に在籍した)が設計に関与したという意味で唯一の遺構でもある。

                               

 古き日本的な部分とアメリカンテイストが混然一体の街である。(大滝町付近にて)
       

                               

 最後に記しておきたいのは、横須賀市街地近郊「柏木田」にかつて存在していた遊郭街の中で、その名残りをとどめていた唯一の建物「福助ホテル」のこと。看板のキッチュでエキゾチックな印象に負う部分が大きいのだが、建物の雰囲気も良かったようで様々なブログに掲載されている。日本では他にお目にかかれない部類かもしれない(私個人的には、ここでアーサー・キットの曲、例えば「SHO-JO-JI」辺りを聴いたらぴったりくるような・・・とか)。
 しかし、つい数か月前に建物は取り壊された。気が付いた時には遅かった。せめてもの救いは、FACEBOOK上などで記憶をつなぎとめる動きがなされていること。


 以上、脱臭され美化された過去を愛でるのみ、その後ろめたさを省みず、ただ書きました。




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