過去の川口、街並みスナップ
そのころはまだキューポラのある町の風情を湛える町工場が点々としていた。しかし現在はものの見事に風景は一変している。マンションが立ち並ぶ一様な風景であり、撮った本人でさえどこを撮ったのか特定できないほどである。
(▼)福禄ストーブ川口工場。粋なフォントの付いたファサードは、レトロなだけでなくよく見ると工場らしからぬちょっと洗練された風情、ということでこの画像は私のお気に入りでありこれまであちこちで何度かUPしてきたもの。
ある論文(『福禄石炭ストーブの製品開発について』)がネット上に公開されていたので参考にさせて頂くと、この工場建屋はストーブ専門の鋳物工場として昭和10(1935)年に建てられたものらしい。一世を風靡した福禄ストーブは、最盛期の昭和30年代には3つの工場で製造されるほどになった。だがエネルギーの変革を迎え、平成4(1992)年に生産を終えこの工場も閉鎖されたということである。この工場の盛衰は石炭エネルギーの盛衰を物語るものでもある。
(▼)恐らく、ではあるが上記工場の裏側。今は無いスーパーの商標もみえる。
(▼)夕陽に照り映えるトタンの外壁は、なぜか郷愁を誘う。
(▼)「キューポラ」とは恐らくこういうものだろうか、と思いつつ撮った1枚。つまり西欧の教会などのドームを意味する「クーポラ(cupola)」になぞらえて、溶解炉の大きな排煙筒をこのように呼称したものと教えられた記憶がある。そう思うとなんだか崇高な感じがしてきたものである。
大阪の地下風景から
華麗な装飾が印象的な百貨店大丸心斎橋店の美しさもさることながら、実はその百貨店に至る最寄の地下鉄駅から既に、心を浮き立たせてくれるような華やかなデザインで彩られている。
これは1933(昭和8)年に完成したとされる地下鉄御堂筋線心斎橋駅。湾曲した天井には装飾的にタイルが貼られ、照明器具のデザインも昭和初期のモダンな感覚でデザインされリズミカルに配置されている。デザインは武田五一によるとのことであった。
こうしたモダンデザインの地下鉄駅は他にも梅田駅、淀屋橋駅、天王寺駅などでも行われ、特に天王寺駅では心斎橋と並んで往事のデザインがよく留められているらしいが、今回訪れたのはここだけ。他は次回の楽しみとなった。
*************◆◆*************
地下街と言えばなんといっても巨大な地下迷宮の様相を呈する梅田の地下街が知られている。JR大阪駅、北新地駅、阪急梅田駅、阪神梅田駅、地下鉄では谷町線東梅田駅、御堂筋線梅田駅、四つ橋線西梅田駅といった交通機関を結ぶ通路がある。さらに「ドージマ地下センター」,「ホワイティうめだ」,「ディアモール大阪」の地下街があり交錯しつつ拡張していったという具合。
いつしかその「ホワイティうめだ」の東の端に行き着いて驚いた。迷宮の果て、辺境で途方に暮れつつ思いがけず目にしたものは噴水のある泉。妙に明るく湿気を帯びた空気に満たされた空間は、しかし割と心地よい待ち合わせ空間でもあった。
この「泉の広場」が誕生したのは1970年ということなので、大阪万博と何かしら関係しているのだろうか?ちなみに床のモザイクにはイタリアはミラノのガレリアの床モザイクのデザインを取り入れたらしい。
夜、明るく照らされた行き交う人影は、かえって幻のようにも感じられる。もっともここが明るい空間になったのは1987年に改装されたことにもよるようだ。その前はもっと陰うつな場所だったのだろうか。それゆえなのか都市伝説もあるそうな。
「赤い服を着た女が出る」云々
日本不燃建築研究所による防火建築帯2題(大宮,亀戸)
■大宮駅前新共栄ビル(大宮駅前東口防災街区造成事業)(1962年)
大宮駅東口から東西に伸びる大通りを挟んだ南北にまたがるブロックの防災街区造成事業区域のうち、第1期工事分として1962(昭和37)年に竣工したのが、この新共栄ビルである。
写真手前部分の5階建て地下1階の部分は、7店舗の共同により「オールオープン式の店舗計画(*1)」がなされたとあり、「大一ビル」の部分のことであろう。また写真では左側に見える部分は、連続した1棟のように見えるけれども数軒が縦割り状に連続している。
外観の現状は看板に覆われ痛々しい。しかし屋上のパラペットの辺りのちょっと凝ったデザインに、不燃建築研究所らしさを垣間見せている。また下の写真のように、地下部分は古びて寂れつつあるが、昭和30年代レトロ感を濃厚に滲ませている。
ひとつここ大宮駅東口の造成事業について注釈しておきたい。全体計画図(『不燃都市』1962.No15掲載,下図)を見たところ予定年度を示したいくつかの区域に区切られ、その中で新共栄ビルは「昭和36年度完成」とされていて当初から道路に面して奥行きの浅い(細長い)建物として計画されていた。これは恐らく従来通りに「耐火建築促進法」に則って路線から奥行11mの範囲で防火性能を備えた「防火建築帯」としたためであろうと考えられる。しかし昭和36年は同法に取って代わり街区全体の防災を旨とする、新しい「防災建築街区造成法」が施行された年でもあった。従ってここ大宮においてもその後の昭和37年以降の区域については、奥行にとらわれずに街区に計画の線引きがなされた。つまり同じ造成事業区域でありながら2つの法律にかかる、移行期の事業であったということが分かった次第である(*4)。
*****
■亀戸駅北口十三間通りの共同建築(1958年)
日本不燃建築研究所が東京近郊で関与した事例としては、日本橋横山町、蒲田駅東口、巣鴨地蔵通り、赤羽町、柏、そして亀戸十三間通りなどが挙げられる(*2)。そのうちの亀戸十三間通りの共同建築を直接担当したのは、日本不燃建築研究所の元所員小町治男氏であった。このことについてはHP「建築家山口文象(+初期RIA)アーカイブス」のインタビュー記事「戦後復興期の都市建築をつくった建築家小町治男氏にその時代を聞く」(伊達美徳氏作成)の中で詳しく語られており、また建築当初の写真なども掲載されているので参照されたい。
下のように2件の建物が残っていた。一見して見分けがついたのだが、それはやはり屋上部分のデザインによる。以前取り上げた沼津の「上土通り」と同様、ここでも屋上部分のデザインで通り全体に統一感を与えようとしたと考えられる。外装は当初と見比べると随分改装されたようである。
初田香成氏の著書『都市の戦後』によれば、「日本不燃建築研究所」はその後「日本不燃開発研究所」を併設し、需要が増す商業コンサルタント業務にも対応するようになったと書かれている。またこのことは成長著しい商店主らの利益追求に応えることを最優先とせざるを得なくなったことをも意味していた。大資本に対抗しつつ公共的な都市計画上の提案を行うなど、建築家が得意とした部分は相対的に二の次となり、次第に防火建築帯に対する建築家の関心は薄らいでいったそうである。池辺陽がかつて言ったように防火建築帯はやはり過渡期のあり方に過ぎなかったのかもしれない。そして日本不燃建築研究所の所員は独立しては去り、結局「今泉だけが残るようになっていった」(*3)。
本来マルクス主義の建築家の今泉善一にとってみれば、(見方にもよろうが)皮肉な末路を辿ってしまった、ということなのかもしれない。
*1:『不燃都市』(1962 No.15)による
*2:『都市の戦後』(初田香成、P.256-257)による
*3: 同上(P.291-294)による
*4: 伊達美徳氏からの指摘に従って調べた結果判明した。
鶴見線沿線散歩
前回ご紹介した国道駅のあるJR鶴見線沿線を、もう少し歩いてみた。鶴見駅から隣の旧・本山(既に廃駅)辺りの線路沿いを歩き、電車に乗って浅野セメント社宅群のある「安善」駅で降りた。
●鶴見駅(旧京浜デパート(現京急ストア))
鶴見臨港鉄道として昭和5年に開通した当時、鶴見駅は仮駅舎のままで少し旧本山駅寄りのところにあったそうだ。その後1934(昭和9)年に省線と一体化した駅舎が完成、下の写真のように外観はモダンで内部が西欧のターミナル駅風な鉄骨建屋の下に「京浜デパート」が設けられ営業を開始した。
「京浜デパート」の発祥についてちょっと辿ってみたところ、思いがけず白木屋デパートが関係してくることを知った。どういうことなのか、簡単に書くと次のようになろうか。
かつて白木屋は関東大震災による痛手から立ち直るべく、起死回生策として小規模な分店網の展開を企てた。しかし日本百貨店協会が支店開設自粛の協定を作ったことで白木屋の名で支店の店舗展開をすることができなくなり、協定への抵触を避けるべく白木屋の出資を伴わない「京浜デパート」を新たに設立することになったというわけである。ただし社員については白木屋から送り込まれたそうである。
その時に作られた店舗のひとつが鶴見の京浜デパートであり、他には品川店をはじめ、蒲田、川崎に開店した。『鶴見線物語』(*1)によれば、鶴見臨港鉄道では既に国道駅に開店していた「臨港デパート」の実績が、より規模の大きな京浜デパート開店につながったのではないかとしている。
しかしながら京浜デパートは地元商店会の反対や戦災などに遭遇し、終戦の時点で品川と鶴見の2店舗だけとなった。戦後は「京急ストア」として店舗を増やしたが、結局発祥時からの京浜デパートの建物は、ここ鶴見が唯一となっている。
●鶴見〜旧・本山
鶴見駅から一つ目の駅は「本山」駅であったが駅は無く、現在はホームや階段の痕跡が残るのみである。かつて本山駅は曹洞宗の大本山總持寺への最寄駅として、参詣への便宜が図られていたのである。
▼總持寺の参道と鉄道が交差する地点には今でも總持寺架道橋が架かり、テナントの入った高架下の開口部に一対のアーチ形があしらわれている。国道駅同様、アーチを好んだ阿部美樹志のデザインがここにも感じられる。
▼またこの付近の高架下は、主にバスの車庫として利用されている。少し鶴見寄りに戻ってみたところは開業当初、鶴見の仮駅があった辺りである。戦前からのものであろうか、ちょっと古めかしいテナントのデザインが顔を覗かせていた。
●安善駅を降りて
さて一気に進んで「安善」駅で下車。「安善」という駅名は鶴見線敷設を財政面からバックアップした安田財閥の安田善次郎の名からとられたのだそうだ。鶴見線の駅名は、鶴見線には関係する人物名からとられた駅名がいくつかある。調べてみたところ、「浅野」駅はもちろん鶴見を開拓し鉄道敷設を主導した浅野総一郎、「武蔵白石」駅は日本鋼管創業者の白石元次郎。「大川」駅は製紙王の大川平三郎、「鶴見小野」駅は地主の小野信行という具合だそうだ。
▼駅前にはRC造の一戸建ての住宅が立ち並んでいるのだが、良く見ると歴史を感じさせる。最近知ったのだが、これらは浅野セメント社宅群であり、戦前に建てられ、元々は数多くの家が立ち並び街区を成していたというから驚きである。基本的にはモダンなデザインだが、玄関庇の持ち送りなどにチラリと装飾性への意識が少し残っていた。
現在は建て替えが進んだようではあるが当初の壮観さを想像することは今でも可能である。トニー・ガルニエの工業都市のイメージを彷彿とさせると言ったら大げさ過ぎるであろうか。
各住宅は2階建てと平屋の2種類で統一されていたようである。2階建ての屋根は陸屋根、平屋は勾配屋根なので小屋組みについては木造の可能性も推測されよう。
▼さらに「安善湯」というやはりRC造の銭湯も健在である。恐れ入ったことに唐破風をかたどったような曲線までRCで出来ている。これもたぶん浅野セメント社宅と同時期に開業したのではないだろうか。
▼最後はたばこ屋さん。こちらもRC造でなかなか味わい深い店舗である。正面の装飾が半分切れているとことからすると、以前はもっと大きかったのかもしれない。たばこ売り場のブースも今や珍しい。
古びた外壁にはちょっと鉄筋が顔を覗かせている箇所もあったのだが、かえってただのモルタル塗りではなくRC造の証拠を示しているようでもあった。
ということで、本日の散歩はここまで。
*1:『鶴見線物語』(サトウマコト,2005,230クラブ)
横浜の防火建築帯をめぐる
最近、横浜で気になっているのは、上と下の画像(長者町8丁目共同ビル,1958年頃竣工(?))のような、昭和20年代末から30年代頃に建てられたと思われるちょっと古びたRC造の建築である。これらは「防火建築帯」を形成する建物として建てられたものであり、横浜市には今でも多数残っている。特に建物が連なる吉田町界隈、それに飲食店として濃厚な賑わいをみせる福富町辺りで見かけた建物スナップをアップしてみた。
「防火建築帯」の名が示すように、ひとつひとつの建物は鉄筋コンクリート造の耐火建築であり、それが街路に沿って連続することにより防火帯としての役目を果たす。また本来こうした目的で形成されたのだが、街路景観として見ても、普通なら個別の建築が乱立し雑然とした印象を与えるのを抑え、長い一棟の建物がある統一性を持つ街並みを作り出している。大抵はモダニズムの造形によるデザインで、新築当時は明るくシャープな印象がより際立っていたことであろう。
さて、以下に防火建築帯について自分なりにまとめてみたのだが、基本的な内容について、実際に大阪で防火建築帯の計画に携わるなどした伊達美徳氏のHP(*1)をかなり参考にさせて頂いたことを、まずおことわりしておきたい。
●「防火建築帯」とは
昭和27(1952)年、耐火建築の普及と町全体の不燃化を促進するために「耐火建築促進法」が制定されたことが、そもそもの発端である。これは防災上、広い道路に面した街区を連続する耐火建築で囲う(防火建築帯)ことを目論んだ法律であり、地上3階建ての建物を鉄筋コンクリート造などの耐火建築物とする必要があった。対象となる地域は都市計画審議会の議決を経て建設大臣が定めた。また建設費の一部は補助金として地方自治体から建主に交付できるしくみを持っていた。
そしてこの法律を最初に適用したのは鳥取市だそうである。また沼津市には規模の大きなアーケード方式の建物が出現するなるなど、全国の都市で防火建築帯が建設された。横浜市については、1952年まで続いた占領軍の接収による復興の遅れを取り戻すべく、まず道路と宅地が復旧され、防火建築帯とするべく地域が指定され、数多くの防火帯建築が建築されていった。
約500棟もの防火帯を成す建築物が建てられ、ある調査によれば約200棟程度が今でも現存しているとのことである(*2)。横浜市は抜きんでて広範囲に防火建築帯が作られた都市ということになるのではないだろうか。
●「防火建築帯」の形式
複数の地権者が、敷地を出し合いつつ共同で1棟の建物を計画することが基本的な考え方であり、境界線上に壁や柱を立てた連続建築を区分所有するというものであった。
(写真「福富町建物A」はこうした基本的な姿を反映したのか、異なる外装色の壁面が連続している。)
しかし実際は、下層階ではこうした形式を取りつつも、上層階には共用の廊下と共用階段でつながった賃貸共同住宅が載ることが多かった。(写真「福富町建物A」以外の建物)
このような形式となる理由は主として建設資金に起因する事情が関係しているらしい。
伊達氏のHPによれば、地権者らは建設にあたり建築助成公社からの融資を受けることが出来たのだが、それだけでは足りない場合が多かった。そこで県の住宅公社が事業に加わることで、実際に建設を可能とすることができた。つまり公社が賃貸共同住宅の建設を上層階で受け持つことにより、地権者の工事費負担の軽減が図られた。下層部と共同住宅など賃貸の上層部が載ってひとつの建物を成しているのはこのためのようである。
そして建築後10年を経過した後、上層の住宅を地権者に優先譲渡する約束が結ばれたとのことであるが、時間と共に権利関係は複雑さを増し、どこでも予定どおりに事が運んだかというと、そうでもないらしい。
恐らく、建物が老朽化したまま修繕などの措置が加えられないでいる建物が多いのも同様の理由によるのではなかろうか。
●現在の「防火建築帯」の評価など
伊達氏はHP(*1)の中で、横浜の防火建築帯について、おおむね4つの点で評価されているのだが、ここでごく簡単にかいつまんで引用、紹介させて頂くと以下のようになろうか。
1:防火建築帯の形成は都市計画上基盤整備のみならず建築物をもコントロールした。不燃化された居住と仕事の場を確保し、戦後復興の遅れを急速に取り戻すきっかけを作った。
2:積極的に住宅を都心に持ち込む政策であったこと。
3:住民参加のまちづくりの始まりであったこと。債務のリスクを恐れず土地を持ち寄って街並みを作りあげた先人の気概、しかも広範囲に渡って行われたことは敬服、賞賛に値する。
4:一定の高さを持つ壁面線が形成され、秩序ある都市景観が形成されたこと。
こうした点を挙げつつ、同氏は多大な努力を払い官民共同で作りあげた「戦後復興の街並み」に敬意を払い、評価し保全する視点が必要なのではないかとしている。
***
戦後の昭和期建築が知らぬ間に次々姿を消しつつある昨今である。復興期から高度成長期にかけて建てられた防火建築帯は、昭和の人の営みの歴史の証しであり、しかも今現在そこで人が暮らし活動する生きた建築-都市でもある。歴史を偲ぶとは言っても、決して過去の遺物ではない。
聞けば、若い人を中心にクリエイティブな活動の拠点として防火建築帯の建物に入居する動きがあるという。様々なアイデアを持つ人々を柔軟に受け入れ、生きた空間として有り続けられれば良いと感じている。また横浜はそういう気風が良く似合う町だと思う。
*1:「まちもり通信G1版 横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか」(伊達美徳)
*2:「関内肝関外地区の防火帯建築など古ビルの再生活用まちづくりの相談態勢づくり」P5(特定非営利活動法人アーバンデザイン研究体)
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