2023.05.10 Wednesday

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    2020.06.22 Monday

    聖シオン会堂(蔵田周忠設計)と家具のこと

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      1926年、東京都渋谷区、蔵田周忠、建物現存(家具など数点保存。撮影:1992年)

      モノクロ画像は『建築画報』(vol.17 1926.5)より。

       

      分離派の建築家蔵田周忠は日本聖公会聖シオン会堂を設計し、急勾配の木造トラスの小屋組を持つ質素な建物と家具類などが1926年(大正15)年5月の『建築画報』に掲載された。
      私がその建物の現状を確認しに行ったのは確か1992年頃であった。戦後に渋谷聖ミカエル教会と改称され、建物はRC造の教会に建て替えられていたが、蔵田自身がデザインしたステンドグラスや家具類、とりわけ「会衆席」と呼ばれる長椅子が2脚現在の建物に現存しているのを発見した。貴重な遺品として伝えられている状況を確認することができたのは喜びであった。
       

       

            

       


                     

      『建築画報』には口絵に建物と家具類が多数掲載され、蔵田の解説にも建物のことのみならず教会独特の家具類などについても記されており、建物から家具まで総合的にデザインするよう任され意欲を傾けた時の心境を滲ませている。その部分を下に抜き書きする。

       


          「家具は高等工芸の森谷教授が心配して下さって、芝の宮澤工作所で作ってもら

             いました。「しぶく、丈夫に、鉄のような感じに」という私の注文を諒として

             よき特別の塗り方を見せてもらいました。歴史的様式に見る家具の彫刻やモー

             ルディングを全く避けて、率直に組立てそのもの、一塊形としてどうっしりと

             据えたいというのが私の希いでした。それはよくはたされています。その様に

             家具までを全部一任されるということは、建築家にとって重い任務であると同

             時に、現今の状態では実にそうなくては全体としてよいものができない有様で

             すから、私にとっては愉快な仕事であったのです。」

       


                                       

       

       

         

       

      当時は例えばバウハウスが設立当初に中世を参照しつつ、建築を頂点とし絵画工芸を含む総合芸術を志向していたように、近代のひとつの目標としての総合芸術への志向は、蔵田の心をも捉えていたのではなかろうか。
      蔵田自身、その後の昭和3年には「型而工房」組織しその指導的立場として近代家具の規格化の研究に携わったのだが、シオン会堂の経験はそのひとつの端緒であったと推察される。


      上記蔵田の文中の「森谷教授」とは、蔵田が教鞭を執る東京高等工芸学校の同僚で木材工芸教授であった森谷延雄のことである。文面からすると、蔵田はデザインしたシオン会堂家具の製作について、森谷から宮澤製作所を紹介してもらい、また塗装に関する提案を受けたようである。

       

                                                            ***

       

      ところで、ここではっきりさせて置かねばならないことがある。

      確か2007年頃に森谷延雄の展覧会が開催された折り、私が情報提供したこともあって、旧シオン会堂家具の現存する「会衆席」が出品されていた。しかしどういうわけか森谷のデザインによる作品として展示され、印刷媒体にもそのように紹介されていたのでとても驚いた。勿論これは誤りであり、家具の設計は上述したように蔵田であり、森谷はアドバイスを与えただけなのである。

       

      私は今後のこともあるので、森谷延雄展を企画したの学芸員にその件について質問したところ、森谷の現存する家具があまりに乏しかったので、解説文にあるように少しでも関与した旧シオン会堂の長椅子を出品しただけだとのことであった。(ならばそのように注記すべきだと思うが。)そして学芸員に改めてこれら家具を蔵田がデザインした作品としてよいか質問したところ、蔵田のデザインとして間違いない、との返事であった

      ・・・蔵田は冥界でどう思っていることだろう。   

       

       
                        

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      2019.10.04 Friday

      京都大学市川記念館(旧施設部電気掛事務室)

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        1925年,京都府京都市左京区, 武田五一,永瀬狂三, 現存(撮影:2018年)

         

        京都大学吉田キャンパスに目立たずひっそりと建つ旧施設部電気掛事務室の建物は、一見して1920年代の風情を漂わせている。現在は市川記念館とされている。『京都大学百年史』―「京都大学キャンパスと建築の百年」を参照したところ、ゼセッション風と記されていたが、さらにコーナー部のアールなどから表現主義的な特徴が感じられる。

         

        設計者は武田五一と永瀬狂三の二人とされている。永瀬狂三は、辰野・片岡設計事務所を経て1909(明治42)年〜1929(昭和4)年まで京都帝大建築学部に勤務し、施設の建築を多く手掛けた。時代の傾向を積極的に取り入れる姿勢が窺われ、例えば旧阿蘇火山研究所(現京都大学火山研究センター)(現存)は永瀬の設計による1929年の建物である。

        武田五一は夙に知られる建築家だが、京都大学との関連としては建築学科の創設に関わり、旧建築学教室本館(1922)や旧本部本館(現百周年時計台記念館)(1925)のような京都大学のシンボル的な建物などを設計した。

         

         

             

         

         

         

         

          

         

         

         

         

         

        2019.09.18 Wednesday

        京都大学農学部表門および門衛所

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          1924年,京都府京都市左京区,森田慶一,現存(撮影:2018年)

           

          これから京都大学内外をはじめとした、京都の建築をシリーズ的に取り上げてみたい。

           

          この農学部の表門は、京都大学に赴任した森田が最初に完成させた建物であり、また控え目ながらも忘れ難い魅力がある。

          ところで構造体を偽らず表現することは近代建築のひとつの教義的な価値観として今日でも有効性を保っているが、その日本における問題意識の発祥は、おそらく大正初期のいわゆる「虚偽論争」に遡るであろう。
          分離派森田慶一も「工人的表現」という1921(大正10)年の論考の中で、その材料に必然的な「構立て(くみたて)」に建築の基本的な部分があるとし、それは抽象的な構造というよりは現実の構築性を指していたようであった。さらに自己の表現を込めるべきとの考え方を示し、それが単なる構造物と美的な建築との境界であることを仄めかした。初期の森田はこうした「工人的傾向」に自らの方向性を打ち出そうとしたのである。

           

           

          この農学部の門もシンプルな柱と梁の構造を示しているが、さらに最小限の表現で建築美への昇華を図ろうとする意思も感じられる。その要素とは菱形断面の柱と、不思議な曲線の尖頭アーチである。それらはゴシック建築のイメージをそこはかとなく醸し出しているようだが、過去ゴシックの組積構造が建築美そのものを形成していたことを象徴的に示したかったからなのであろうか・・・。

           

           

          特にアーチはやはり不思議である。たった今ゴシック的と言ってしまったが、より正確に言えば森田独自のものと言うべきであった。これと同じアーチは、森田の卒業設計《屠場》(▽)の中央の塔にも見られ、農学部表門の後の《楽友会館》(▽▽(竣工時の絵葉書))のエントランスにも登場するものである。もしもゴシック的なアーチであれば装飾的な窓にいわゆる片側が「S字形」曲線を組み合わせた窓、フランボワイヤン(火焔)形ということになるのであろう。もし円弧であれば片側に2つの中心がある。あるいはこうした曲線をオージー曲線とも呼ぶらしい。

                      

           

                      

          ところがし森田のアーチを、目を凝らしてよく見ると、どれも「S字形」とは言い難く、微妙で緩やかではあるがS字形よりも膨らみがもう一つ多い。円による弧とするならば片側3か所、計6か所の中心を持つ緩やかながら複雑な曲線によってアーチが描かれている。因みに下図は卒業設計に見られるアーチから円弧を取り出してみたものである。表門と楽友会館の円弧はもっと緩いが原理は同じようである。さてこれをどう理解すべきなのであろう。

           

               

           

          尤もこれもゴシックのボキャブラリーをよく調べればあるのかもしれないが、今のところは以下のように考えておきたい。つまり非構造的な壁の部分であることを曲線窓によって指し示しているのか。あるいは「構立て」の構想に埋め込まれた森田という自己の表現であるのだろうか。


                 

           

                 

           

           

           

           

           

           

           

          2018.04.28 Saturday

          瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」 ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その5)―

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            5.農民美術研究所の設計と建物

             

             一応これまでに触れた、瀧澤眞弓や農民美術の建築にまつわる点を整理してみた。

             

             、山本が瀧澤を知ったのは、山本が平和記念東京博(1922.3月開催)出品時であった。

               瀧澤は平和記念博のパビリオンをいくつかを設計していた(*5-1)。
             、山本は瀧澤が長野県出身の分離派運動に関わる新進建築家であることを知っていた。

               これらが瀧澤に研究所の設計を依頼した理由と考えられる。
             、1922年2月頃には神川村で山本と瀧澤が設計の打ち合わせをしていたとも言われる

               (*5-2)。
             、瀧澤ら分離派は、旧来の様式性や装飾性を捨てた、新たな創造を目指した。

               そして何より建築は芸術であらねばならなかった
               当時先端的であったドイツ表現主義建築の影響を受けたと言われる。
             、瀧澤は「音楽」と「建築」の関係に関心を抱いていた。

               山本に対して研究所の設計に「建築の形態に音楽性を取り入れたい」と語った。

               (*5-1,5−3)。
             、山本は児童自由画運動を通して、創造性を自由に開花させることの重要性を訴えた。

               これは分離派が、建築の創造を目指していたこととも重なる。
             、山本は北欧やロシアなどの農民美術の先駆例を知っていた

               (タラーシキノの芸術家村)などのような芸術の拠点を目指したのであろうか。

             、瀧澤と自由大学創設に参加した土田杏村の交流は無視できない。

               瀧澤と土田は互いに思考の面でも影響を与え合う関係であったようである。
             、研究所は瀧澤にとって初の建築作品(仮設パビリオンを除き)となった。

               それにも拘らず、結局公の場に発表することはなかった。

             

             特に最後のについては、偶々発表する機会を逸しただけなのか、それとも発表しなかったことに本質的な意味が含まれるのか、私としては大いに気になっている。

             

            5−1.農民美術研究所の建設
             農民美術練習所は1919(大正8)年に開設され、小学校や金井家の蚕室など練習場所を変えながら活動した。百貨店の展示即売は好調、農村振興策を探る国の期待もあり、1922年の年明けには平屋の工房、通称「蒼い屋根の工房」が大屋駅北側の高台に完成したのだが、山本の夢はさらに膨らんでいた。それは工房と研究部門を擁した本格的な農民美術の拠点「農民美術研究所」の建設であった。

             

                

            5−2. 保存された図面と書簡を見て
             設計を依頼された瀧澤の図面は1922(大正11)年7月に完成した。その図面(Fig.1,2)と工事中に瀧澤が金井に宛てた書簡などは、旧山本鼎記念館に保存され、現在も市立美術館が管理している。図面を拝見することができたので少し説明してみたい。

             まず間取りを見てみると、1階は事務室,食堂と工房(木彫室,染色室,刺繍室,塗術室,機織室)が、2階はデザインと研究に関わる諸室(意匠室,参考品室,生産品室,図書室,寝室)が配置されていた。参考品室とは国内外から収集した作品を保存展示する、農民美術研究所ならではの機能であろう。2階には小さな寝室が3箇所ほどあるのが不思議であったが、これは恐らく東京などから招いた講師が宿泊する部屋であったと考えられる(実際は近隣の農家に宿泊していたという話ではあるが)。そこで生活することを意図した計画ではないようであった。
             全体的に、間取り図としては中廊下を挟んで諸室を配置したありきたりのものであり、その代り外観のデザインに力点が注がれてたようである。特に正面入り口のある立面図は2度修正が加えられていた。

             

                       

             

             この建物は急勾配屋根により屋根裏空間はかなり広くなるはずであった。しかし立面図には窓が3層に渡って描かれ3階建てに見えるのに、平面図は2階分しかなかった。この屋根裏らしき空間は実際にどのように扱われていたのか疑問であったが、大勢の講習生がデッサンに励む写真葉書が残されているのをみつけた(Fig.3)。ということは、屋根裏に上がるために、工事中に設計変更されて屋根裏へ上がる階段が設けられたのだろうか?それともこれだけの大人数が、梯子を使って上り下りしていたのだろうか?

              

             工事中の書簡の内容としては、特に二つの点で興味深かった。一つ目は金井の問い合わせに答えたと思われる、室内の明るさチェックの計算書であった。その方法は室内面積に対するその部屋の全窓面積の割合によって評価する簡単なものであり、これは基本的には現行の建築基準法の方法と同様であった。瀧澤はそれが1/7しかない場合「やや暗い」と判定し、最低限の明るさとしていたようであった。二つ目は瀧澤による塗装の指示であった。正面の柱や軒裏の木材などの部材に「赤黒塗装」を施すようにと記されていたのである。「赤黒塗装」が示す意味はどうも判然としないが、少なくとも日本風というよりは洋風のイメージを目指していたたことが判る。

             

            5−3. 農家風の建物
             出来上がった建物は、この写真絵葉書(Fig.4)の画像がある。私が初めてこれを見た時は、今日的な目で見たせいか、正直言って白川郷の合掌造の家を思い出し違和感が先に立った。少なくともドイツ表現主義による当時最先端の表現を得意とした瀧澤の作品とはかけ離れていたように思えた。ただ当時の人々の見方ではこうであった。

             

              「ロシアや北欧など雪の多い地方に見られる急勾配の木造建築、・・・

               アンデルセンの童話の挿絵にでも出てきそう洒落た感じ」(*5-1)

             

             日本にはない洋風感覚に溢れた建築として驚きと好感をもって受け入れられたのであった。

             

              

             それではもう少し丁寧に見てみようと、気を取り直して細部に目をやる。すると新しい目を持った建築家瀧澤の感覚が見え始めた。例えば三角形や四角形にはっきりと縁取りされた窓(Fig.5)、それに正三角形に近い破風を持つ屋根などから、シンプルな幾何学形状に還元しようとする瀧澤の意思が漂ってくるのであった。少々調べてみたがこのような急勾配屋根の民家はこの地方のものではないようであり、仮に普通の民家を建てるつもりであったならならば、このような建物とはならなかったはずである。そこでこの幾何学形状について思い出されるのは、瀧澤が「音楽と建築」で述べたくだりである。瀧澤は音楽に数学的な抽象的芸術性を認め、幾何学形態による造形を指向していた。設計に先立って山本に「建築の形態に音楽性を取り入れたい」と語っていたが、こうした三角形や四角形を強調した部分に、自らの主張を幾分なりとも忍び込ませようとしたのかもしれない。

             

              

             

            5-4. 仮題としての「デンマークの農家」
             山本は自らが編集を務める形で『農民美術』(Fig.6)という機関誌を発行していたのだが、その次号予告欄(Fig.7)(*5-4)に瀧澤眞弓の執筆で「デンマークの農家」との記事が掲載される予定が掲げられていたのを発見した。これを見た瞬間に大体の察しがついた。

             

                        

             

             恐らく山本は瀧澤に原稿を依頼するにあたり、設計を頼んだ時のことを書いてみてはどうかと打診したのではなかろうか。その時山本は実際に目にした農民美術先進国であるデンマークなどの北欧の農家の建物の記憶を瀧澤に伝え、それを日本の農民美術のシンボルとして設計に活かしてほしいと要望したのであろう。そして編集に携わる山本は誌上に「デンマークの農家」という仮題の予告をとりあえず掲げたのではないかと推察された。因みにデンマークの茅葺古民家は素晴らしく(Fig.8)、そうした民家による野外博物館も充実している。
             もしこの推察通りならば、地元の人々による「北欧風」の家という世評は正解ということになろう。設計者瀧澤の立場からすれば、施主山本の要望は受け入れざるを得ないのであって、デンマークの農家風の建物を考案したのであろう。そして細部の要素として「音楽と建築」に由来する幾何学的な造形を取り入れ、自らの創作としての体面を保ったということなのかもしれない。

             

             

                 

             

             1925(大正14)年1月の『農民美術』において瀧澤の論考は滞りなく掲載されたのだが、「デンマークの農家」ではなく、結局正式な題名は「田園文化と中世紀主義」(*5-5)とされ、そのドイツの古い農家の写真(Fig.9)が挿入されていた。次回はこの論考は瀧澤が農民美術研究所に関連して語った唯一の言説と考えられるので、これを取り上げてみたい。(つづく)

             

                   

             

             


              *5-1:『山本鼎評伝』(小崎軍司,1979)
              *5-2:『夜あけの星』(小崎軍司,1975)
              *5-3:「音楽と建築」(『分離派建築会の作品(第2刊)』,瀧澤眞弓,1921.10)
              *5-4:「農民美術「農村の生活」号予告」(『農民美術』,瀧澤眞弓,1924.12)
              *5-5:「田園文化と中世紀主義」(『農民美術』,瀧澤眞弓,1925.1)

             

              Fig.1〜5:上田市立美術館所蔵資料より

              Fig.6:『農民美術』(1924.9)より

              Fig.7:『農民美術』(1924.12)より

              Fig.8:Wikimedia Commonsより

              Fig.9:『農民美術』(1924.9)「田園文化と中世紀主義」より

             

             

             

             

            2018.02.24 Saturday

            瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」 ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その4)―

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               まずは瀧澤眞弓による分離派時代の作品から。

              (↓)第1回展《山岳倶楽部》。瀧澤の卒業制作。学生時代に見た青島総督府の強い印象が元になっている。

                          

              (↓)第2回《山の家》。表現主義的な傾向が強い作品。私見では音楽の流麗さやリズムを建築で表現したものとみている。

                       

              (↓)第2回展《入口試案》

                                           

              (↓)第4回展《公館》。「早稲田大学故大隈総長記念大講堂」すなわち大隈講堂のコンペ応募案。コンペの開催は1923年であったが、1924年の第4回展に出品された。

                       

              (↓)第4回展《野外劇場兼音楽堂》。この頃としては珍しく直方体による幾何学的構成による計画案。

                         

               

              4.「哲人村」―土田杏村と自由大学

               

              4-1.土田杏村の自由大学
               神川村では児童自由画運動や農民美術運動と併行して、さらに自由大学の構想が実現に向けて進められていた。自由大学は今日言う生涯教育の元祖的な存在であり、官製の教育機関とは異なる選択肢として、一般の人々が哲学などの高等教育を自由に学び取る機会として考え出された。
               そのきっかけを作ったのは金井と共に活動していた神川村の山越脩蔵であった。山越は土田杏村に普通選挙に関する講演を依頼し(実現せず)、その後も土田に哲学講義を依頼したところ土田が関心を示し、哲学の出張講義を行った。この人気は高く1921年には内容を充実させた上で「信濃自由大学趣意書」を発表、設立に至った(1924年に「上田自由大学」に名称変更)。

               

               土田杏村(本名茂(つとむ),1891〜1934)(fig.6)は京都帝大出身、西田幾多郎門下に学んだ哲学者であった。新カント派の立場に立ち様々な実社会の事柄についても自説を唱え文明批評家としても活躍した。気鋭の学者として人気は高く、1934(昭和9)年に逝去するまでに遺した著作は膨大であった。日本画家土田麦僊は兄である。


               土田は自由大学と並行して山本鼎らの農民美術運動や児童自由画運動にも強い関心を示しており、それらと村の人々が様々な地域振興策を創造していることなどを紹介する記事を『改造』に寄稿した。その記事「哲人村としての信州神川」(1921(大正10)年夏)は、かつて例を見ない文化活動のメッカとなった神川村を讃え、そのことを初めて紹介したものとなった。

               

                 都会文明の堕落に沈み切って居る人達は、かうした機会

                 に田舎へ動いて行って、田舎の健全な、又謙遜な、地方

                 主義個性主義の空気の洗礼を受けて来るがよい。(*4-1)

               

               土田による神川村に関する功績は、自由大学の構想、児童自由画運動、農民美術運動などを貫く根源的な意義を見通し、ある種の普遍化を与えたことであろう。特に山本が編集発行した『芸術自由教育』誌には土田の論考がいくつも掲載されており、関心の高さが窺われる。
               私なりにごく単純化して土田の考え方を読み取るならば次のようになろうか。土田は現代の機械文明の果てに生じた人間性の疎外、没個性化の弊害からの解放の道として、一般の人々の生活を捉え直すこと「人生=芸術」という視点に立つべきであることを唱えた。もちろん芸術とは言っても無理に贅沢なことを強いるわけでもないし、独善的な芸術至上主義でもない。ルネッサンス以降の天才芸術家による純粋芸術の普及を目指したわけでもない。土田は敢えて歴史的を遡り、理想化された中世文化、中世のゴシック建築やスコラ哲学を例にとり、宗教を基礎とした精神世界と生活の統合完結した共同体を思い描いた。その調和した中世の共同体の人々の生活は悦びに満ちており、現代に欠落したものをそこに感じ取ったのである。しかしルネッサンス以降の時代の変化によって神と決別した現代のことを考えるのであれば、対処もあくまで現代的でなければならず、決して懐古的に立ち戻るべきではなかった。結論としては現代人においても可能な限りイデア(理想)を追求する人生の営み、すなわち芸術をもってあらゆる人にとって人生の悦びとすることを目指すべきとしたのであった。

               

                 芸術は贅沢に非ずして人生の理想、光りであり・・・人生全体はその

                 統一の側面より見て芸術であると言ふ事が出来る(*4-2)

               

               農民美術、児童自由画、自由大学それぞれ一般民衆を対象としており、その本質は創造行為つまり自由なる精神による理想追求によって本来あるべき悦びのある人間生活を取り戻す実践であったということになろう。確かに前回述べたように、精神を解放され自由を手にした悦びは神川村の人々の心に行き渡ってたようである。先に触れたような男女共々助け合う農民美術の教室の日常、「芸術の日」のイベントなどは、土田がイメージした良き中世文化のエッセンスの現代的な表れであったのかもしれない。

               

              4-2.瀧澤眞弓と土田杏村

               1922(大正11)年の早い時期、山本鼎は同年の平和記念東京博に農民美術作品をもって参加、その際に長野県出身で博覧会のパビリオン設計にも関与した「分離派建築会」の建築家瀧澤眞弓(fig.7)の存在を知り、農民美術研究所の建物の設計を依頼した。従って瀧澤と山本鼎や土田杏村らとの関わりも1922年から始まった。

               ところがどういう偶然か、建築家瀧澤眞弓は1922年以前から土田杏村を知っていただけではなく知り合いであったらしい(*4-4)。そして1922年2月頃に行われた土田の哲学講義の場で改めて再会したのであった。しかも両者の関係は単なる知り合いではなく、互いに思想面で影響を及ぼし合う関係だったのであり、つまり瀧澤を知る上で重要な発見ということになるので、以下もう少しこの件について触れておきたい。


               瀧澤が勤務先の学校紙に寄稿した述懐記事によれば、自らの大学進学に際して、芥川龍之介と土田杏村の2人に相談して建築学科に進むべきか決めたという。芥川との関係は、芥川は瀧澤にとって一高時代の先輩であったこと、そして名前への関心がきっかけであった。「瀧澤」は養子入りした後の姓であり実家は「矢羽(やば)」姓であったわけで、芥川は文学者らしく「矢羽眞弓」という旧姓名そのものに興味を感じたのだそうである。そして矢羽眞弓は芥川の学帽を譲り受ける間柄となった。ただ土田杏村との出会いの経緯については特に説明はなかった。記事の中で大学進学前に専攻科目を決めるのにあたって、瀧澤は次のように語った。

               

                 私は学校時代から数学、なかんずく計算と云ふものをよく間

                 違へる方で始めは電気をやらうと思つていたが、どうも計算

                 の方に自信がかへつて絵を書いたりする手先の仕事が巧いの

                 で建築の方をやらうかと思つて、芥川さんに相談すると是非

                 やれとの事で土田さんも大賛成をして呉れた、私が建築に志

                 したといふのは此の二人におだてられて入つた様な形でして

                 ね・・・(*4-3) 

               

               またこんな話もある。これは金井正の評伝『夜あけの星』に書かれていた内容である。1922年2月頃、山本鼎が設計を依頼した瀧澤にその構想を話す打合せをしていたところを金井正らが山本宅を訪れ、建築家瀧澤を初めて知ることとなった。金井らは「芸術の日」のイベントを企画し、蓄音機でベートーヴェンやシューベルトのレコードコンサートを行うことが決まり、そのポスター画を山本に依頼しに行ったのであった。山本と瀧澤の打合せが済んだ後、金井はちょうどこれから土田杏村の哲学講義があることを告げたところ、山本が酒でも飲もうと誘ったのを瀧澤は辞退し、土田の講義の聴講を希望したのだそうである。そして講義が終わった後、以下のようにしめくくられていた。

               

                 二人は旧知の間柄ででもあったかのように打ち解けて話し合ってい

                 た(*4-4)

               

               つまり既に旧知の間柄という事実があり、既にお互いの考えを知った上で話に花を咲かせていたのであろう。

               尚、瀧澤が土田から影響を受けていたことは、早世した土田への瀧澤による追悼記事からも明らかである。

               

                 もとより私は杏村を兄とも師とも仰いだ。しかも、私は思想家杏村

                 の所説に服するよりも人間杏村に敬慕した。(此の事意外に思ふ人

                 もあらう)しかも杏村の懇切な指導がなかつたならば私の専門研究

                 も途中で勇気を失つたかも知れない。杏村は私にとつては恩人であ
                 る、が同時に私が専門外の畑に脱線する事に拍車をかけるやうにな

                 つたのも多分杏村のお蔭である。私は杏村のオダテに乗つたのであ

                 る。(*4-5)

               

               

              4-3.「音楽と建築」
               瀧澤と土田はほぼ同じ時期に音楽芸術を拠り所とした言説を残している。それが偶然なのかどうかはわからないが。瀧澤は1921年10月の第2回分離派展に合わせて「音楽と建築」という論考を発表した。過去様式の模倣から分離しかつ建築を芸術の一分野であると主張した分離派の建築家達はそれぞれ新しい創造のあり方を模索したが、瀧澤の場合は、単に音楽好きであったのみならずそこに造形の原理を求めた。「音楽と建築」ではまず直感的印象から、建築の造形に置き換えることへの関心が述べられる。(音楽と建築すなわち「時間」と「空間」へのこだわりは本人も言うようにアインシュタインの相対性理論からの影響が強く、瀧澤はその後もこれを起点とした研究を続けた(*4-6))

               

                 もし、音楽を汲み立てている、ひとつ一つ一つの音の夫々に、各特

                 有の色と共に形とマツスとを与え、音楽の時間的な連続に応じて其

                 色、形、マツスを有する立体を、空間的なダイメンションに於いて、

                 配列乃至堆積して見るならば、私共は其処に、文字通り、氷結せる

                 音楽を作り出す事が出来るであらうと。(*4-7)

               

               ちなみに音楽の流動的でリズミカルな部分を直感的に形に置き換えたものが第2回展に出品した「山の家」のモデルではないかと私はみている(fig.2)。以下に喩えられたように。

               

                 音楽は直ちに、美しき線の交錯となり、奇しき立体の集団となり、

                 互いに縺れ合ひ、響き合ひ、而も尚ほ其奇麗な組織を失う事なく無

                 限の空間に踊る様に感ぜられます(*4-7)

               

               しかしこの論考の後半部分は瀧澤なりの音楽に関する分析であり、その結果として音楽の数学的な抽象的芸術性を論じた。つまりは幾何学形態、瀧澤いわく「豆腐形」立体を最小単位とする造形を打ち出す。純粋幾何学形態によるモダニズム的な指向がこの時には垣間見られる点には驚かされる。ただ「豆腐形」が実を結んだ作例はというと、《野外劇場兼音楽堂》(fig.5)にややそうした傾向を感ずる程度なのだがどうであろうか。

               

               一方、土田杏村も上述の瀧澤の論考に先立つ1921年8月「第二ルネサンスと芸術」の中で音楽と芸術についてこのように語っていた。

               

                 すべての芸術は音楽の方向へ憧憬れているといふの

                 は、要するに芸術に属する絵画や彫刻や詩やが、す

                 べての感覚的要素を罷脱して音楽のそれの如き純粋

                 理想形を憧憬れて居る、換言すれば、芸術一般とし

                 てのイデアを追ふて居ると言つたのであらう。

                 ・・・・その理想図形を追ふこと自身は我々の意識する

                 生命活動である。(*4-8)

               

               音楽に代表される理想を求めるギリシャ古典哲学に息づく精神は、(一握りの天才のためではなく)あまねく民衆の生活に浸透したものとして、第二のルネッサンスとして、再度待ち望むという主旨なのであった。

               土田は中世文化を例に挙げたように、本来芸術は民衆の生活に密着したものであるはずであった。しかし産業革命以降の機械時代にあってはそれが生活全体を構成するべきであるとし、昭和期の土田の著書ともなると明確に近代の機械芸術を肯定的に扱うようになった。(逆にその頃発生した「民芸運動」については、手工業による少量生産を範とする懐古主義であり有閑芸術論者の所業と批判した)

               土田は昭和初期の著書の中でコルビュジエの語りのように汽船を賛美したが(*4-9)、実は瀧澤の情報提供によるものであった(本瀧澤本人の弁による)。また私が最近のブログに示したように、瀧澤による土田の著書の装丁デザインを発見した(fig.8)。この希少なグラフィック作例は、何より土田と瀧澤の相互の思考を高め合おうとした絆の証しなのではなかろうか(続く)。

               

               

              *4-1:「哲人村としての信州神川」(『改造』,土田杏村, 1921夏季臨時号)
              *4-2:「芸術教育論」(『芸術自由教育』,土田杏村,1921.8)
              *4-3:「家庭の教授訪問記 学生時代は矢羽根姓を名のり芥川龍之介・土田杏村の奨めで建築に志す 瀧澤教授之巻」(『神戸高工新聞』,1936.11.10)
              *4-4:『夜あけの星』(小崎軍司,1975)
              *4-5:「土田杏村を憶ふ」(『神戸高工新聞』,1934.5.10) (この記事では土田との出会いを1922年秋の土田講義の時としており、(前掲書(*4-4))と辻褄が合わない。その後の記事(前掲書(*4-3))において訂正したものと解釈した。)
              *4-6:時間と空間の相対的な関係への意識は、さらに空間の歪み、ギリシャのパルテノン神殿の視覚補正の探究へとつながった。
              *4-7:「音楽と建築」(『分離派建築会の作品』(第二刊),瀧澤眞弓,1921.10)
              *4-8:「第二ルネッサンスと芸術」(『中央美術』,土田杏村,1921.8)
              *4-9:「モダアニズムと機械時代(一)」(『文明ハ何処へ行ク』,土田杏村,1930)

               

              fig.1:『分離派建築会宣言と作品』(1920)より

              fig.2,3:『分離派建築会の作品』(第2刊)(1921)より

              fig.4,5:『分離派建築会の作品』(第3刊)(1924)より

              fig.6:『土田杏村全集』より

              fig.7:第1回分離派展開催時の記念写真より

              fig.8:筆者所有本

               

               

               

               

               

               

               

               

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