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瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」 ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その5)―

5.農民美術研究所の設計と建物

 

 一応これまでに触れた、瀧澤眞弓や農民美術の建築にまつわる点を整理してみた。

 

 、山本が瀧澤を知ったのは、山本が平和記念東京博(1922.3月開催)出品時であった。

   瀧澤は平和記念博のパビリオンをいくつかを設計していた(*5-1)。
 、山本は瀧澤が長野県出身の分離派運動に関わる新進建築家であることを知っていた。

   これらが瀧澤に研究所の設計を依頼した理由と考えられる。
 、1922年2月頃には神川村で山本と瀧澤が設計の打ち合わせをしていたとも言われる

   (*5-2)。
 、瀧澤ら分離派は、旧来の様式性や装飾性を捨てた、新たな創造を目指した。

   そして何より建築は芸術であらねばならなかった
   当時先端的であったドイツ表現主義建築の影響を受けたと言われる。
 、瀧澤は「音楽」と「建築」の関係に関心を抱いていた。

   山本に対して研究所の設計に「建築の形態に音楽性を取り入れたい」と語った。

   (*5-1,5−3)。
 、山本は児童自由画運動を通して、創造性を自由に開花させることの重要性を訴えた。

   これは分離派が、建築の創造を目指していたこととも重なる。
 、山本は北欧やロシアなどの農民美術の先駆例を知っていた

   (タラーシキノの芸術家村)などのような芸術の拠点を目指したのであろうか。

 、瀧澤と自由大学創設に参加した土田杏村の交流は無視できない。

   瀧澤と土田は互いに思考の面でも影響を与え合う関係であったようである。
 、研究所は瀧澤にとって初の建築作品(仮設パビリオンを除き)となった。

   それにも拘らず、結局公の場に発表することはなかった。

 

 特に最後のについては、偶々発表する機会を逸しただけなのか、それとも発表しなかったことに本質的な意味が含まれるのか、私としては大いに気になっている。

 

5−1.農民美術研究所の建設
 農民美術練習所は1919(大正8)年に開設され、小学校や金井家の蚕室など練習場所を変えながら活動した。百貨店の展示即売は好調、農村振興策を探る国の期待もあり、1922年の年明けには平屋の工房、通称「蒼い屋根の工房」が大屋駅北側の高台に完成したのだが、山本の夢はさらに膨らんでいた。それは工房と研究部門を擁した本格的な農民美術の拠点「農民美術研究所」の建設であった。

 

    

5−2. 保存された図面と書簡を見て
 設計を依頼された瀧澤の図面は1922(大正11)年7月に完成した。その図面(Fig.1,2)と工事中に瀧澤が金井に宛てた書簡などは、旧山本鼎記念館に保存され、現在も市立美術館が管理している。図面を拝見することができたので少し説明してみたい。

 まず間取りを見てみると、1階は事務室,食堂と工房(木彫室,染色室,刺繍室,塗術室,機織室)が、2階はデザインと研究に関わる諸室(意匠室,参考品室,生産品室,図書室,寝室)が配置されていた。参考品室とは国内外から収集した作品を保存展示する、農民美術研究所ならではの機能であろう。2階には小さな寝室が3箇所ほどあるのが不思議であったが、これは恐らく東京などから招いた講師が宿泊する部屋であったと考えられる(実際は近隣の農家に宿泊していたという話ではあるが)。そこで生活することを意図した計画ではないようであった。
 全体的に、間取り図としては中廊下を挟んで諸室を配置したありきたりのものであり、その代り外観のデザインに力点が注がれてたようである。特に正面入り口のある立面図は2度修正が加えられていた。

 

           

 

 この建物は急勾配屋根により屋根裏空間はかなり広くなるはずであった。しかし立面図には窓が3層に渡って描かれ3階建てに見えるのに、平面図は2階分しかなかった。この屋根裏らしき空間は実際にどのように扱われていたのか疑問であったが、大勢の講習生がデッサンに励む写真葉書が残されているのをみつけた(Fig.3)。ということは、屋根裏に上がるために、工事中に設計変更されて屋根裏へ上がる階段が設けられたのだろうか?それともこれだけの大人数が、梯子を使って上り下りしていたのだろうか?

  

 工事中の書簡の内容としては、特に二つの点で興味深かった。一つ目は金井の問い合わせに答えたと思われる、室内の明るさチェックの計算書であった。その方法は室内面積に対するその部屋の全窓面積の割合によって評価する簡単なものであり、これは基本的には現行の建築基準法の方法と同様であった。瀧澤はそれが1/7しかない場合「やや暗い」と判定し、最低限の明るさとしていたようであった。二つ目は瀧澤による塗装の指示であった。正面の柱や軒裏の木材などの部材に「赤黒塗装」を施すようにと記されていたのである。「赤黒塗装」が示す意味はどうも判然としないが、少なくとも日本風というよりは洋風のイメージを目指していたたことが判る。

 

5−3. 農家風の建物
 出来上がった建物は、この写真絵葉書(Fig.4)の画像がある。私が初めてこれを見た時は、今日的な目で見たせいか、正直言って白川郷の合掌造の家を思い出し違和感が先に立った。少なくともドイツ表現主義による当時最先端の表現を得意とした瀧澤の作品とはかけ離れていたように思えた。ただ当時の人々の見方ではこうであった。

 

  「ロシアや北欧など雪の多い地方に見られる急勾配の木造建築、・・・

   アンデルセンの童話の挿絵にでも出てきそう洒落た感じ」(*5-1)

 

 日本にはない洋風感覚に溢れた建築として驚きと好感をもって受け入れられたのであった。

 

  

 それではもう少し丁寧に見てみようと、気を取り直して細部に目をやる。すると新しい目を持った建築家瀧澤の感覚が見え始めた。例えば三角形や四角形にはっきりと縁取りされた窓(Fig.5)、それに正三角形に近い破風を持つ屋根などから、シンプルな幾何学形状に還元しようとする瀧澤の意思が漂ってくるのであった。少々調べてみたがこのような急勾配屋根の民家はこの地方のものではないようであり、仮に普通の民家を建てるつもりであったならならば、このような建物とはならなかったはずである。そこでこの幾何学形状について思い出されるのは、瀧澤が「音楽と建築」で述べたくだりである。瀧澤は音楽に数学的な抽象的芸術性を認め、幾何学形態による造形を指向していた。設計に先立って山本に「建築の形態に音楽性を取り入れたい」と語っていたが、こうした三角形や四角形を強調した部分に、自らの主張を幾分なりとも忍び込ませようとしたのかもしれない。

 

  

 

5-4. 仮題としての「デンマークの農家」
 山本は自らが編集を務める形で『農民美術』(Fig.6)という機関誌を発行していたのだが、その次号予告欄(Fig.7)(*5-4)に瀧澤眞弓の執筆で「デンマークの農家」との記事が掲載される予定が掲げられていたのを発見した。これを見た瞬間に大体の察しがついた。

 

            

 

 恐らく山本は瀧澤に原稿を依頼するにあたり、設計を頼んだ時のことを書いてみてはどうかと打診したのではなかろうか。その時山本は実際に目にした農民美術先進国であるデンマークなどの北欧の農家の建物の記憶を瀧澤に伝え、それを日本の農民美術のシンボルとして設計に活かしてほしいと要望したのであろう。そして編集に携わる山本は誌上に「デンマークの農家」という仮題の予告をとりあえず掲げたのではないかと推察された。因みにデンマークの茅葺古民家は素晴らしく(Fig.8)、そうした民家による野外博物館も充実している。
 もしこの推察通りならば、地元の人々による「北欧風」の家という世評は正解ということになろう。設計者瀧澤の立場からすれば、施主山本の要望は受け入れざるを得ないのであって、デンマークの農家風の建物を考案したのであろう。そして細部の要素として「音楽と建築」に由来する幾何学的な造形を取り入れ、自らの創作としての体面を保ったということなのかもしれない。

 

 

     

 

 1925(大正14)年1月の『農民美術』において瀧澤の論考は滞りなく掲載されたのだが、「デンマークの農家」ではなく、結局正式な題名は「田園文化と中世紀主義」(*5-5)とされ、そのドイツの古い農家の写真(Fig.9)が挿入されていた。次回はこの論考は瀧澤が農民美術研究所に関連して語った唯一の言説と考えられるので、これを取り上げてみたい。(つづく)

 

       

 

 


  *5-1:『山本鼎評伝』(小崎軍司,1979)
  *5-2:『夜あけの星』(小崎軍司,1975)
  *5-3:「音楽と建築」(『分離派建築会の作品(第2刊)』,瀧澤眞弓,1921.10)
  *5-4:「農民美術「農村の生活」号予告」(『農民美術』,瀧澤眞弓,1924.12)
  *5-5:「田園文化と中世紀主義」(『農民美術』,瀧澤眞弓,1925.1)

 

  Fig.1〜5:上田市立美術館所蔵資料より

  Fig.6:『農民美術』(1924.9)より

  Fig.7:『農民美術』(1924.12)より

  Fig.8:Wikimedia Commonsより

  Fig.9:『農民美術』(1924.9)「田園文化と中世紀主義」より

 

 

 

 

| 1920年− | 00:40 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」 ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その4)―

 まずは瀧澤眞弓による分離派時代の作品から。

(↓)第1回展《山岳倶楽部》。瀧澤の卒業制作。学生時代に見た青島総督府の強い印象が元になっている。

            

(↓)第2回《山の家》。表現主義的な傾向が強い作品。私見では音楽の流麗さやリズムを建築で表現したものとみている。

         

(↓)第2回展《入口試案》

                             

(↓)第4回展《公館》。「早稲田大学故大隈総長記念大講堂」すなわち大隈講堂のコンペ応募案。コンペの開催は1923年であったが、1924年の第4回展に出品された。

         

(↓)第4回展《野外劇場兼音楽堂》。この頃としては珍しく直方体による幾何学的構成による計画案。

           

 

4.「哲人村」―土田杏村と自由大学

 

4-1.土田杏村の自由大学
 神川村では児童自由画運動や農民美術運動と併行して、さらに自由大学の構想が実現に向けて進められていた。自由大学は今日言う生涯教育の元祖的な存在であり、官製の教育機関とは異なる選択肢として、一般の人々が哲学などの高等教育を自由に学び取る機会として考え出された。
 そのきっかけを作ったのは金井と共に活動していた神川村の山越脩蔵であった。山越は土田杏村に普通選挙に関する講演を依頼し(実現せず)、その後も土田に哲学講義を依頼したところ土田が関心を示し、哲学の出張講義を行った。この人気は高く1921年には内容を充実させた上で「信濃自由大学趣意書」を発表、設立に至った(1924年に「上田自由大学」に名称変更)。

 

 土田杏村(本名茂(つとむ),1891〜1934)(fig.6)は京都帝大出身、西田幾多郎門下に学んだ哲学者であった。新カント派の立場に立ち様々な実社会の事柄についても自説を唱え文明批評家としても活躍した。気鋭の学者として人気は高く、1934(昭和9)年に逝去するまでに遺した著作は膨大であった。日本画家土田麦僊は兄である。


 土田は自由大学と並行して山本鼎らの農民美術運動や児童自由画運動にも強い関心を示しており、それらと村の人々が様々な地域振興策を創造していることなどを紹介する記事を『改造』に寄稿した。その記事「哲人村としての信州神川」(1921(大正10)年夏)は、かつて例を見ない文化活動のメッカとなった神川村を讃え、そのことを初めて紹介したものとなった。

 

   都会文明の堕落に沈み切って居る人達は、かうした機会

   に田舎へ動いて行って、田舎の健全な、又謙遜な、地方

   主義個性主義の空気の洗礼を受けて来るがよい。(*4-1)

 

 土田による神川村に関する功績は、自由大学の構想、児童自由画運動、農民美術運動などを貫く根源的な意義を見通し、ある種の普遍化を与えたことであろう。特に山本が編集発行した『芸術自由教育』誌には土田の論考がいくつも掲載されており、関心の高さが窺われる。
 私なりにごく単純化して土田の考え方を読み取るならば次のようになろうか。土田は現代の機械文明の果てに生じた人間性の疎外、没個性化の弊害からの解放の道として、一般の人々の生活を捉え直すこと「人生=芸術」という視点に立つべきであることを唱えた。もちろん芸術とは言っても無理に贅沢なことを強いるわけでもないし、独善的な芸術至上主義でもない。ルネッサンス以降の天才芸術家による純粋芸術の普及を目指したわけでもない。土田は敢えて歴史的を遡り、理想化された中世文化、中世のゴシック建築やスコラ哲学を例にとり、宗教を基礎とした精神世界と生活の統合完結した共同体を思い描いた。その調和した中世の共同体の人々の生活は悦びに満ちており、現代に欠落したものをそこに感じ取ったのである。しかしルネッサンス以降の時代の変化によって神と決別した現代のことを考えるのであれば、対処もあくまで現代的でなければならず、決して懐古的に立ち戻るべきではなかった。結論としては現代人においても可能な限りイデア(理想)を追求する人生の営み、すなわち芸術をもってあらゆる人にとって人生の悦びとすることを目指すべきとしたのであった。

 

   芸術は贅沢に非ずして人生の理想、光りであり・・・人生全体はその

   統一の側面より見て芸術であると言ふ事が出来る(*4-2)

 

 農民美術、児童自由画、自由大学それぞれ一般民衆を対象としており、その本質は創造行為つまり自由なる精神による理想追求によって本来あるべき悦びのある人間生活を取り戻す実践であったということになろう。確かに前回述べたように、精神を解放され自由を手にした悦びは神川村の人々の心に行き渡ってたようである。先に触れたような男女共々助け合う農民美術の教室の日常、「芸術の日」のイベントなどは、土田がイメージした良き中世文化のエッセンスの現代的な表れであったのかもしれない。

 

4-2.瀧澤眞弓と土田杏村

 1922(大正11)年の早い時期、山本鼎は同年の平和記念東京博に農民美術作品をもって参加、その際に長野県出身で博覧会のパビリオン設計にも関与した「分離派建築会」の建築家瀧澤眞弓(fig.7)の存在を知り、農民美術研究所の建物の設計を依頼した。従って瀧澤と山本鼎や土田杏村らとの関わりも1922年から始まった。

 ところがどういう偶然か、建築家瀧澤眞弓は1922年以前から土田杏村を知っていただけではなく知り合いであったらしい(*4-4)。そして1922年2月頃に行われた土田の哲学講義の場で改めて再会したのであった。しかも両者の関係は単なる知り合いではなく、互いに思想面で影響を及ぼし合う関係だったのであり、つまり瀧澤を知る上で重要な発見ということになるので、以下もう少しこの件について触れておきたい。


 瀧澤が勤務先の学校紙に寄稿した述懐記事によれば、自らの大学進学に際して、芥川龍之介と土田杏村の2人に相談して建築学科に進むべきか決めたという。芥川との関係は、芥川は瀧澤にとって一高時代の先輩であったこと、そして名前への関心がきっかけであった。「瀧澤」は養子入りした後の姓であり実家は「矢羽(やば)」姓であったわけで、芥川は文学者らしく「矢羽眞弓」という旧姓名そのものに興味を感じたのだそうである。そして矢羽眞弓は芥川の学帽を譲り受ける間柄となった。ただ土田杏村との出会いの経緯については特に説明はなかった。記事の中で大学進学前に専攻科目を決めるのにあたって、瀧澤は次のように語った。

 

   私は学校時代から数学、なかんずく計算と云ふものをよく間

   違へる方で始めは電気をやらうと思つていたが、どうも計算

   の方に自信がかへつて絵を書いたりする手先の仕事が巧いの

   で建築の方をやらうかと思つて、芥川さんに相談すると是非

   やれとの事で土田さんも大賛成をして呉れた、私が建築に志

   したといふのは此の二人におだてられて入つた様な形でして

   ね・・・(*4-3) 

 

 またこんな話もある。これは金井正の評伝『夜あけの星』に書かれていた内容である。1922年2月頃、山本鼎が設計を依頼した瀧澤にその構想を話す打合せをしていたところを金井正らが山本宅を訪れ、建築家瀧澤を初めて知ることとなった。金井らは「芸術の日」のイベントを企画し、蓄音機でベートーヴェンやシューベルトのレコードコンサートを行うことが決まり、そのポスター画を山本に依頼しに行ったのであった。山本と瀧澤の打合せが済んだ後、金井はちょうどこれから土田杏村の哲学講義があることを告げたところ、山本が酒でも飲もうと誘ったのを瀧澤は辞退し、土田の講義の聴講を希望したのだそうである。そして講義が終わった後、以下のようにしめくくられていた。

 

   二人は旧知の間柄ででもあったかのように打ち解けて話し合ってい

   た(*4-4)

 

 つまり既に旧知の間柄という事実があり、既にお互いの考えを知った上で話に花を咲かせていたのであろう。

 尚、瀧澤が土田から影響を受けていたことは、早世した土田への瀧澤による追悼記事からも明らかである。

 

   もとより私は杏村を兄とも師とも仰いだ。しかも、私は思想家杏村

   の所説に服するよりも人間杏村に敬慕した。(此の事意外に思ふ人

   もあらう)しかも杏村の懇切な指導がなかつたならば私の専門研究

   も途中で勇気を失つたかも知れない。杏村は私にとつては恩人であ
   る、が同時に私が専門外の畑に脱線する事に拍車をかけるやうにな

   つたのも多分杏村のお蔭である。私は杏村のオダテに乗つたのであ

   る。(*4-5)

 

 

4-3.「音楽と建築」
 瀧澤と土田はほぼ同じ時期に音楽芸術を拠り所とした言説を残している。それが偶然なのかどうかはわからないが。瀧澤は1921年10月の第2回分離派展に合わせて「音楽と建築」という論考を発表した。過去様式の模倣から分離しかつ建築を芸術の一分野であると主張した分離派の建築家達はそれぞれ新しい創造のあり方を模索したが、瀧澤の場合は、単に音楽好きであったのみならずそこに造形の原理を求めた。「音楽と建築」ではまず直感的印象から、建築の造形に置き換えることへの関心が述べられる。(音楽と建築すなわち「時間」と「空間」へのこだわりは本人も言うようにアインシュタインの相対性理論からの影響が強く、瀧澤はその後もこれを起点とした研究を続けた(*4-6))

 

   もし、音楽を汲み立てている、ひとつ一つ一つの音の夫々に、各特

   有の色と共に形とマツスとを与え、音楽の時間的な連続に応じて其

   色、形、マツスを有する立体を、空間的なダイメンションに於いて、

   配列乃至堆積して見るならば、私共は其処に、文字通り、氷結せる

   音楽を作り出す事が出来るであらうと。(*4-7)

 

 ちなみに音楽の流動的でリズミカルな部分を直感的に形に置き換えたものが第2回展に出品した「山の家」のモデルではないかと私はみている(fig.2)。以下に喩えられたように。

 

   音楽は直ちに、美しき線の交錯となり、奇しき立体の集団となり、

   互いに縺れ合ひ、響き合ひ、而も尚ほ其奇麗な組織を失う事なく無

   限の空間に踊る様に感ぜられます(*4-7)

 

 しかしこの論考の後半部分は瀧澤なりの音楽に関する分析であり、その結果として音楽の数学的な抽象的芸術性を論じた。つまりは幾何学形態、瀧澤いわく「豆腐形」立体を最小単位とする造形を打ち出す。純粋幾何学形態によるモダニズム的な指向がこの時には垣間見られる点には驚かされる。ただ「豆腐形」が実を結んだ作例はというと、《野外劇場兼音楽堂》(fig.5)にややそうした傾向を感ずる程度なのだがどうであろうか。

 

 一方、土田杏村も上述の瀧澤の論考に先立つ1921年8月「第二ルネサンスと芸術」の中で音楽と芸術についてこのように語っていた。

 

   すべての芸術は音楽の方向へ憧憬れているといふの

   は、要するに芸術に属する絵画や彫刻や詩やが、す

   べての感覚的要素を罷脱して音楽のそれの如き純粋

   理想形を憧憬れて居る、換言すれば、芸術一般とし

   てのイデアを追ふて居ると言つたのであらう。

   ・・・・その理想図形を追ふこと自身は我々の意識する

   生命活動である。(*4-8)

 

 音楽に代表される理想を求めるギリシャ古典哲学に息づく精神は、(一握りの天才のためではなく)あまねく民衆の生活に浸透したものとして、第二のルネッサンスとして、再度待ち望むという主旨なのであった。

 土田は中世文化を例に挙げたように、本来芸術は民衆の生活に密着したものであるはずであった。しかし産業革命以降の機械時代にあってはそれが生活全体を構成するべきであるとし、昭和期の土田の著書ともなると明確に近代の機械芸術を肯定的に扱うようになった。(逆にその頃発生した「民芸運動」については、手工業による少量生産を範とする懐古主義であり有閑芸術論者の所業と批判した)

 土田は昭和初期の著書の中でコルビュジエの語りのように汽船を賛美したが(*4-9)、実は瀧澤の情報提供によるものであった(本瀧澤本人の弁による)。また私が最近のブログに示したように、瀧澤による土田の著書の装丁デザインを発見した(fig.8)。この希少なグラフィック作例は、何より土田と瀧澤の相互の思考を高め合おうとした絆の証しなのではなかろうか(続く)。

 

 

*4-1:「哲人村としての信州神川」(『改造』,土田杏村, 1921夏季臨時号)
*4-2:「芸術教育論」(『芸術自由教育』,土田杏村,1921.8)
*4-3:「家庭の教授訪問記 学生時代は矢羽根姓を名のり芥川龍之介・土田杏村の奨めで建築に志す 瀧澤教授之巻」(『神戸高工新聞』,1936.11.10)
*4-4:『夜あけの星』(小崎軍司,1975)
*4-5:「土田杏村を憶ふ」(『神戸高工新聞』,1934.5.10) (この記事では土田との出会いを1922年秋の土田講義の時としており、(前掲書(*4-4))と辻褄が合わない。その後の記事(前掲書(*4-3))において訂正したものと解釈した。)
*4-6:時間と空間の相対的な関係への意識は、さらに空間の歪み、ギリシャのパルテノン神殿の視覚補正の探究へとつながった。
*4-7:「音楽と建築」(『分離派建築会の作品』(第二刊),瀧澤眞弓,1921.10)
*4-8:「第二ルネッサンスと芸術」(『中央美術』,土田杏村,1921.8)
*4-9:「モダアニズムと機械時代(一)」(『文明ハ何処へ行ク』,土田杏村,1930)

 

fig.1:『分離派建築会宣言と作品』(1920)より

fig.2,3:『分離派建築会の作品』(第2刊)(1921)より

fig.4,5:『分離派建築会の作品』(第3刊)(1924)より

fig.6:『土田杏村全集』より

fig.7:第1回分離派展開催時の記念写真より

fig.8:筆者所有本

 

 

 

 

 

 

 

 

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瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」 ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その3)―

 農民美術練習所設立頃の練習生による作品から。下の写真は男子による木皿、木鉢、人形白樺巻など。ちょっと見えにくいが、「白樺巻」とは白樺の皮を筒状に巻いて底とふたを付けた細工である(fig.1)

 

      

 同じく下は女子による作品(fig.2,3)。刺繍されたクッション、手提げ袋、テーブルクロスなど。練習生の村人は若い男女が多かったようである。それにしても女子の作品の「かわいい」のセンスは今も昔も変わらないようだ。クッションを見ると、若い二人の男女が仲良く農作業に励む様子がいともさらりと図案化されているように見えるのだが・・・(もしや思いを寄せた男子へのプレゼント?)。

 

 

      

 拡大してみると、以下の通り。

 

         

 下の木彫りの人形は人気の高い「木片人形」。「こっぱ人形」と読む。踊る農民、登山する人、スキーやスケートをする人など、デザインには素朴さや地方色を考慮し、商品性と作品性を兼ね備えることに心血が注がれた(fig.4)

 

     

 

 

3.神川村の芸術運動

 

3-1.農民美術運動と児童自由画運動

 1916(大正5)年の暮れに帰国した山本鼎は、翌年早々父親が開業した医院のある長野県の神川村に向かった。地域振興に意欲を燃やす青年らがロシアの思い出話を聞きたいというのである。富農の家柄に生まれた金井正やその後輩の山越脩蔵らは強い関心持ち、彼らの協力を得て児童画運動や農民美術運動が展開されることになった。特に農民美術においては事実上の片腕として、金井正が経営面で果たした役割は大きかったと言われる。

  1919(大正8)年10月に山本が金井との連名で書き村人に配布した「農民美術運動建業の趣意書」に、農民美術が何であるかが書かれている。

 

   農民の手によって作られた美術工芸品のことであって、民族若しくは地方的な

   意匠、―素朴な細工―作品の堅牢等がその特徴とせらるる・・・(*3-1)

 

 農閑期の副業として手工芸品を制作しそれを販売、副収入を得ることできれば生活も潤う。またそうした発想に加えて「一般の美術趣味の裨益」(*3-1)すなわち生活そもののを創造的で潤いのあるものとすること、芸術は専門の芸術家が独占物ではなく、むしろ普通に暮らす人々にこそ大切な生きる意味をもたらすものとなるという考え方に支えられた運動であったと考えられる。

 芸術を農民ら一般の人々の生活の一部に取り込むとはいえ、何の素養も下地もないところから創作することは無理な話でもあるので、山本を筆頭に専門の講師を招いた教習が行われ、それが「農民美術練習所」の始まりとなった。しかし実際始まってみると農民練習生が自発的に表現し創造性を発揮したので、山本はそれを尊重した。一方で山本自身が手本不要の自由画教育を行ったわけであるから当然とも言える。

 

 農民美術と並行して行われた児童自由画運動(順序としてはこちらが先であったが)も、山本による1918(大正7)年の講演を手始めにスタートした。手本の模倣を強いることは教育的とは言えない。そんな「不自由画」を脱却し自由に創造性を発揮することの意義を浸透させるには実際にやってみるのが効果的であった。つまり児童画展覧会の開催であった。その第1回展では1万点に迫る児童画の応募があったのだが、それを審査した山本は手本を上手に模写した大半の作品を選から外し、自己の思いを直接表出した個性ある作品を入選作とし、人々に衝撃を与えた。

 山本にとって農民美術も児童の自由画も、人に本来備わった自由な精神、創造性を涵養し開放に導くことこそ何にもまして重要であると考えていたことは明らかであり、またそれは他の何物にも優先されるべきものであった。山本はこう語った。

 

     私の理想郷(ユートピア)には、自由を抑制したがる「宗教」もなく、自由を

   圧制したがる「政治」もなく、ただ、自由の生長醇化に到達する「芸術心」の

   支配があるばかりだ(*3-2)

 

 当時の社会は、社会主義など新しい政治思想が流布しつつあった。しかし山本は芸術がそのための道具に陥ることを嫌った。プロレタリア美術運動が政治手段化してしまった当時の傾向を批判したこともある(*3-3)。また高崎で児童画展覧会を企画した際のこと、地元の若き井上房一郎がその趣意書を作成したのだがそこにアナーキズム(無政府社会主義)の提唱者クロポトキンの言葉を引用していた。当時の状況からして、そのことに気付いた県側は警告を発し、結局展覧会の縮小を余儀なくされることとなってしまったわけだが、山本は「過激思想」が引用されたことに不快感を表明した(*3-4)。

 


3-2.農民美術練習所の始動

 募集に応じた練習生は当初神川小学校の教室を練習所として、農閑期の12月から3月までの間にかけて講習と制作を行った。受講料は無料、第一期には男子7人女子13人ほどの男女が集まった(fig.5)

 

      

 

 冒頭で示したように木片人形、彫刻を施した木製の皿具、煙草入れ、白樺巻、刺繍や染色を施した布製品など多数の作品が作られたが、積極的に先行する北欧やロシアなどの事例を参考にしたためか、それらと似たあるいは「意図的に似せた?」作品も作られたようである。純粋な芸術と違い完全なオリジナリティーを追求することについてはやや鷹揚さを許していたようである。

 例えばロシアのある地方で作られている土人形(ディムカヴァ人形)を、山本が「土ひねり人形」と命名してその日本版を作ろうとしていたようである。下のような広告を見ると、北原白秋が歌を付けて商品化してたことが窺われる。(fig.6)   (参考までに、右下はロシア(おそらくソビエト時代頃の)のディムカヴァ人形)(fig.7)

 

  

 

 神川村の農民美術が可能性を実感したのは、東京の三越呉服店における展示即売会の成功であった。最初の練習生のひとり中村實によれば、作品が1日半で約600点もの作品のほとんど売れ、さらに予約注文まで舞い込んだのだそうであった(*3-5)。ともあれ農民は副収入を現実に手にすることができたのである。
 生産組織も整備され、1922(大正11)年に講習を終えた者は「日本農民美術生産組合」に所属することになった。原材料がそこで一括購入され、また売上代金から材料費を清算した上で制作者に報酬を手渡すといったしくみが整えられた(*3-5)。農民美術が普及するにつれ、こうした組合が県内外に相当数が作られるようになった。

 但しこうした運動に対しては、様々な批判が起こるものである。工芸家の高村豊周は、「美術」を標榜する割りには農民美術は力量が伴っていないことに苦言を呈した(*3-6)。また民芸運動の創始者柳宗悦は、農民の副業として始まった農民美術がやがて「専業」化していった状況を捉えて「堕落している」と批判した。これについては農民作家となった中村實が反論した。骨董品を崇めるような民芸運動のあり方に疑問を呈した上で、柳に対して以下のように皮肉まじりに反応したことが述べられている(*3-5)。

 

   「自分では何も作らないくせに、ようしゃべくることが上手な人でごわすなあ」

    (*3-5)

 

 

3-3.「農民美術学校」の構想と芸術村的風景

 山本鼎は農民美術運動を立ち上げて半年を経た1920年には「農民美術学校」として整備する構想を抱ていた(*3-7)。敷地の提供は受けたものの建設資金はなかったので、すぐに行動開始というわけにはいかなかった。しかし山本の胸中には諸工房の他、男女合計約100人を収容し得る教室、他府県からの受講者約20名のための寄宿舎を設け、染料や素材を育成する工芸用庭園の整備するなど、夢は大きく膨らんでいた。寄宿舎つまり生活機能を持たせようとした点は、開かれた形における生活共同体づくりへの指向を、なんとなく匂わせる。
 1921年6月の「芸術自由教育」誌には金井正の設計による新しい練習所の試案が掲載されており、素人ながらその間取りのアイデアはなかなか興味深い(fig.8)。ヨーロッパ中世の修道院に造られた中庭(クロイスター)つまり瞑想のための列柱が並ぶ中庭に見立てた部分を取り囲むように、伝統的な和風の縁側と工房が配置されるという案なのであった。皆が夢や理想を描いた、最も幸福な時期であった。 

        

 1922(大正11)年1月、それまでの神川小学校や金井家の蚕室から、小さな平屋の建物ながらも常設の通称「蒼い屋根の工房」と呼ばれた工房に移った。場所は大屋駅北側の小高い敷地であり、翌年にはその隣に瀧澤の設計による建物が建つことになる。

 練習生の日常風景はと言うと、一応形の上では男子部と女子部とに分けられていたが、講師の村山桂次(村山槐多の弟)によって以下のように描写されている。

 

    「作業に飽きたら男女共々コーラスを歌い、野を散歩し、女子が男子の繕い

     物を手伝えば、雛祭りになると今度は男子が女子のために手料理を振る舞

     うこともあった(*3-8)。」

 

 当時の閉鎖的な男女関係を思えば、農閑期の数か月の生活は練習生達にとってバラ色の別天地であったに違いない。中村實の述懐によればやはり想像通りであり、小学校の教室を借りて「いい年をした男女がキャーキャー騒ぎ」といった状況を横目で見る教師や村人の評判は当然良くはなかったらしい。しかし本人曰く、しっかり良い思いをしていたとのこと。中村は同窓の女子と恋愛結婚に漕ぎつけたとも語っている(*3-5)。
 また1922(大正11)年2月には「芸術の日」と名付けられた催しが行われ、SPレコードのコンサートや寸劇などが披露された。

こうした文化イベントが開催されるなど、短期間のうちに自由な空気が大正時代の一農村を覆い、生活に芸術が結びついていった様には驚くばかりである。山本が日本に紹介したロシアのタラーシキノの芸術家村を彷彿とさせる光景が日本にも芽生え始めていたかのようでもある。

 最後に、山本の甥の村山槐多もこの地で活動し、短くも奔放な生涯を送ったこともここに付け加えておかねばなるまい。

 

 次回から、ようやく建築家瀧澤眞弓が登場する(続く)。

 

 

 

ーーーー最後におまけ画像----

 農民美術研究所は昭和10年には閉鎖されたが、一度燃え盛った創作への思いは途絶えることなく脈々と受け継がれている。今日でも上田近辺では農民美術の流れをくむ工芸品に出会うことができる。例えば下の写真のようなものがある(fig.9)。鳩の青い楊枝入れは、鳩の砂糖壺と共に人気が高いようである。

 

            

 下の木製のペーパーナイフは戦後の作であろうが独特の装飾が彫られており、紙箱の「農美」のシールも雰囲気がある(fig.10)

 

            

 

 

 

  *3-1:「農民美術運動建業之趣意書」(山本鼎,金井正,1919)  
  *3-2:「巻頭言」(『芸術自由教育』,山本鼎,1921.4)
  *3-3:「美術界時評」(『アトリヱ』,山本鼎,1930.1)
  *3-4:「クロポトキンの祟り」(『芸術自由教育』,山本鼎,1921.4)  
  *3-5:「信濃の彫師 中村實」(『技術と人間5』,深沢武雄,1973.4)
  *3-6:「農民美術の価値」(『中央美術』,高村豊周,1921.7)
  *3-7: 「農民美術建業の趣意及其経過(展覧会目録より)」(『みづゑ』,山本鼎,1920.7)
  *3-8:「青屋根以前」(『農民美術』,村山桂次,1926.6)

 

     fig.1-3:『みづゑ』(1920.7)より

     fig.4:『農民美術」(1924.9)より

     fig.5:『農民美術』(1926.6)より

     fig.6:『アトリヱ』(1930.1)掲載の広告から

     fig.7,9,10:筆者所有

     fig.8:『芸術自由教育』(1921.6)より

     

 

 

 

| 1920年− | 23:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」  ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その2)―

2.美術家山本鼎

2-1.山本鼎について
  山本鼎の功績を顕彰し資料を保存する「上田市山本鼎記念館」(fig.1)が、山本勝巳の設計によって上田城公園の一角に建設されたのは1962(昭和37)年であった。最近は新しく建った上田市美術館その機能は移管されたが、現在でも瀧澤による農民美術研究所の図面などを含む多くの資料が保存されている。

 

       

 

 山本鼎関連の情報は本人自身の著作もあり割と充実している。ここではそれに加えて旧山本鼎記念館が発行した山本鼎に関する解説書、小崎軍司による詳細な評伝などを参考にしてその活動の経過について触れてみたい。
 山本鼎は1882(明治15)年に愛知県岡崎市に生まれ1946(昭和21)年に没した。幼少の頃東京に移住して木版工房の徒弟となるが上達ぶりは抜群であり、伝統的な印刷技術としての版画を芸術作品の域に高めた。1904年に『明星』に発表した《漁夫》(fig.2)は版画とはいえ「自画、自刻、自摺」つまり作者がすべての工程を行い、原則ひとつの作品の創作を行う道を編み出した。これは創作版画の起点とされ、あるいは「刀画」とも評された。また雑誌『方寸』を共同で発行し創作版画の普及を図った。この頃より山本が好んで描いた題材には市井に暮らす庶民が多く、この頃から既に後の農民を対象とした美術運動を予感させるものが感じられる。一方絵画の技量にも優れ東京美術学校を卒業している。

 

2-2.ロシアでの経験
 1912(明治45)年、山本はフランスへ渡航しボザールで学んだ。しかし第一次世界大戦が勃発すると戦火はパリにも押し寄せ、やむなく帰国の途についた。北欧を経てモスクワにたどり着いたのは1916(大正5)年、ロシア革命前年のことであった。
 ロシア滞在は山本にとって思いがけず興味深い体験を積む機会となったようであり、平田領事の別荘に起臥し作品を残し、結局短期間の経由地の予定が約5か月間滞在することになったという。例えば片上伸と知り合いトルストイ邸を訪れ夫人との会見を果たした。山本自身あまり言及していないようではあるが、農民の教育を行ったトルストイの人道主義的行動に触れたことは、農民や児童などと共に芸術活動を行う発想の下地となったのではなかろうか。ロシア滞在の記録は山本が著書『美術家の欠伸(あくび)』の一章「農民美術と私」の中で詳細に触れており、とりわけ三つの出来事が印象深かったと記していた。

 まず第一「児童創造展覧会」を見学しロシアの児童が自由に描いた絵画を見学したことであり、これは逆に日本の嘆かわしい図画教育の現状を思い知らされることになった。その当時の日本では「新定画帳」という教科書の絵を手本として上手に模写させることが児童の図画教育とされており、そこに個人の創造性を発揮する余地はほとんどなかった。山本は帰国後、人間の早期段階における創造性の開発の必要性を感じ、「児童自由画運動」としてこれを推進することになった。これについて山本は後に自著の中でトルストイの言葉を引用しながら触れていた。

 

    トルストイは「児童について人の道を学べ、児童は未だけがされず、

      ―彼れ等にとりては人々皆同じ」と云ったが、私は児童等の鮮やかな

    創造力に驚く者だ。日々社の展覧会の時に、石井鶴三君は感嘆してか

    う云った。「・・・子供はみんな天才なんだ」と(*2-1)。

 

 第二「農民美術蒐集館(しゅうしゅうかん)山本の言葉による「クスタリヌイミュゼ」を見学したことであり、農民が副業として制作した工芸品を展示販売するのを目にした。山本は帰途上、ここで買い求めたいくつかの工芸品(fig.3)を眺めつつ日本における農民美術運動を構想した。 

 

 

                  

 

2-3.山本が観た「嫁とり唄」、タラーシキノの芸術村
 三番目の経験は山本の帰国後の行動に直接影響を与えることなはかったが、やや個人的に興味深いエピソードと感じたので敢えてここに記しておきたい。山本いわく、それは「農民音楽」という農民による歌を伴う舞踏であった。ある晩、山本は音楽学校において小ロシアの老若約30名からなる農民の一団による歌と踊りの試演を観覧し、その中でも「嫁とり唄」の舞踏が印象深かったと記している。

 

    彼らの村の婚礼の祝宴をありのままに表したもので、始めに婆さんが唄ひ、

    次いで娘が、左手を腰に支え、右手をかざし、小きざみな脚踏で踊りなが

    ら唄ひ終ると、今度は全部の男女が、皃とろとろ(*2-2)のやうに列になっ

    て大きく輪を描いてめぐり、その廻旋を次第に早めてゆく、すると、酔ひ

    どれに扮した(あの時は多分扮したのだろう)禿頭のおじさんが両手を挙

    げてわめきながら、その輪のなかへよろけ込んで、巧みに一種の調子で人々

    の間を縫いながら踊り合してゆく(*2-3)

 

 この踊りとは別に、農民らによる芸術活動と言えば、例えばモスクワから西へ400劼砲△襯好皀譽鵐好市郊外のタラーシキノにおいてマリア・テニシェワ侯爵夫人が開設した農民美術の芸術村が活動していたことが知られている(fig.4,5) 。そこでは農民によるペザント・アート(Peasant art)の作品が生み出され、またテニシェワ夫人も芸術家のパトロンとしての役割を果たしていた。現在も、そこで教師として活動したマリューチンの設計による以下の美しい建築物が残っている。

 

 

       

 

 山本はタラーシキノを実際に訪れたわけではないもののかなり影響を受けたようであり、帰国した後そこで行われていた農民美術(fig.6,7)について、自ら発行した機関誌『農民美術』において、以下のように『タラスキノ旅行記』の一節を孫引きながら紹介した。農民が彫刻を施した劇場が備えられていること、農民自らが創作オペラ作りなどに没頭する芸術家村らしい光景などが語られている。

 

    タラスキノの小劇場は丈夫な木造りで・・・・面白いことに装飾技手達は、同

    時にその劇場の俳優ともなるのである。「私は蜂の巣を突ついたやうな大

    騒ぎを目撃した。それは田舎での大事件であるところの素人芝居がはじま

    らうとする前の騒ぎであった。相当込み入った「七騎士物語」を出すした

    くで、人々は連合楽譜(*2-4)を作ったり、博物館から借りてきた衣装と

    釣り合いのとれるやうな立派な衣装を新調することで大汗をかいているの

    であつた。アトリエの生徒達は仕事をしまうと、急いで衣装を着け、せり

    ふ稽古にかかり、舞踊を練習し、或は又オーケストラに加わつて手ならし

    をするのであった、―彼らは、夜になつてそれがおしまひになるのを、ひ

    どく悲しがつた」(*2-5)

 

       

 

 ここで私が個人的にちょっと気にかかったのが、山本が実際に見た「嫁とり唄」の舞踊の方である。若い娘による「小刻みな足踏み」や「旋回を早める輪舞」が老婆の踊りと相俟って繰り広げられる土俗的な踊りのせいだろうか、近代音楽の金字塔として名高いストラヴィンスキー作曲のバレエ音楽「春の祭典」(1913年)(fig.8,9)を思い浮かべた。下の写真は初演時頃のものと言われる。これらなどから最近復元された、ニジンスキーによる初演時の振り付けに共通するイメージを感じはしまいか(「Riot at the Rite」という最近制作された再現ドラマの後半、シャンゼリゼ劇場初演のセンセーショナルな場面によく描かれている)。


 「春の祭典」は神に捧げるいけにえに選ばれた少女が息絶えるまで踊る、といった内容のバレエ音楽である。一応作曲の経緯を調べてみたところ、実際にストラヴィンスキーは舞台美術家ニコライ・レーリッヒに呼ばれてタラーシキノを訪れ1911年に両者で「春の祭典」の構想を固めていたことが色々な著書に書かれていた。『ロシアの農民美術』(*2-6) にはテニシェワ侯爵夫人の屋敷に滞在して作曲したともある。しかし「春の祭典」は古代スラブの原始的なイメージから構想されたとされ、音楽もリトアニア民謡などを元に創作されていたことが判明している。

 結局のところ、山本が見た「嫁とり唄」の舞踏イメージとの関係は何も分からなかったが(恐らく直接の関係はないのかもしれないが)、もしかしたらそれと同様の踊りなどの総合的なイメージが振り付けにつながった可能性はなくもないように思えた。何よりも、ほぼ同じ時期にストラヴィンスキーと日本の山本鼎という(超意外な取り合わせの)芸術家が、タラーシキノの芸術村という点で接点があったことはなかなか感慨深いものがある。
 ・・・どうも話が脱線してしまったようなので、今回はここまでにする。(続く)

 

      

 

 *2-1:「自由画教育の要点」(『美術家の欠伸』所収,山本鼎,1921)
 *2-2:「児とろとろ」:不詳、「花いちもんめ」のようなものだろうか?
 *2-3:「農民美術と私」(『美術家の欠伸』所収,山本鼎,1921)
 *2-4:総譜(スコア)を指すのか
 *2-5:「タラスキノの農民美術」(『農民美術』,山本鼎,1924.12)
 *2-6:『ロシアの農民美術』(遠藤三恵子,2007))


 fig.1:筆者撮影(2016年)
 fig.2:『山本鼎』(小崎軍司 山本鼎記念館友の会,1969)より
 fig.3:『農民美術』(1924.9)より
 fig.4,5:wikipedia commonsより
 fig.6,7:『農民美術』(1924.12)より
 fig.8:『ストラヴィンスキーの音楽と舞踊作品研究』(柿沼太郎,1942)より
 fig.9:『ストラヴィンスキイ自伝』(1936)より

 

 

 

 

 

 

 

| 1920年− | 01:17 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」 ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その1)―

1.序

1-1.はじめに

 分離派の建築家瀧澤眞弓が設計した「農民美術研究所」の建物(fig.1)について書こうと思い立ったのは1年位前のことだろうか。実はそう思って調べ始めたところ色々と発見があり、(言い訳がましいのだが)のめりこんでいたらブログも休眠状態となってしまった。そこでこの話題にていざ再開、と思うのだがやはり山本鼎や上田の人々が興した農民美術運動そのものが結構興味深く、また私が思うに分離派瀧澤の思考にとって密接な関係があったという結論に至った。さらにそれらを語る上で、土田杏村という今日ではあまり語られなくなった思想家の存在が欠かせないことにも気付いた。

 そのようなわけで山本の芸術運動と分離派瀧澤の大正時代の営み、この両者を併せて読み物的にまとめてみようと思う。少々長丁場の連載物になることをお許し頂きたい。

 

     

 農民美術運動は当時の長野県小県(ちいさがた)郡の神川(かんがわ)、現在の上田市を舞台として大正中期から昭和初期にかけて興った。山本鼎が主導した農民美術運動児童自由画運動、また土田杏村が中心となって始まった自由大学運動など、大正時代のとある長野県の農村に、閃光ひらめくが如き文化芸術運動が出現していたのだった。尤も神川村は養蚕特に蚕種業などで比較的豊かであり地域振興に意欲的な土地柄という要因が、多少後押ししていたとは思われるが。ちなみに農民美術運動とは、農民が農閑期に工芸品などの制作を通して収入を得ることを目的とし、また同時に一般の人々の生活と芸術の調和を目指した運動でもあり、山本鼎がロシアで直接に見聞した経験をモデルとしつつ、土地の人々と共に進めた営みであった。

 

1-2.農民美術研究所ー建物の概略

 農民美術運動は山本鼎と神川村の金井正とが連名で1919(大正8)年に趣意書が配布した時をもって始まった。もうすぐ発足してから100周年目を迎えることになる。
 山本鼎はその本拠となる建物の設計を、1922(大正11)年の早い時期に瀧澤眞弓に依頼した。同年に開催された平和記念東京博に農民美術作品を出品した際、山本が長野出身でパビリオン(fig.2)の設計に関与した分離派の建築家瀧澤眞弓を知ったことがきっかけであったことが、小崎軍司の『山本鼎評伝』に記されている。またその年の2月頃、山本の家で設計の構想を瀧澤に語り、それが済んだ後瀧澤は地元の金井らと土田杏村の講義を聴講するため上田に出掛けたことも記録されている(*1-1)

 こうして図面は7月に完成し、細川護立らの寄付を得て10月下旬に着工した。年末には外観が姿を見せ、翌年4月にはすべて完成した建物の開所式が盛大に行われた。

 

 建物の外観は一見した限り急勾配屋根のバナキュラーな木造民家風であり、分離派が目指した既成のデザインから離脱した先端的なデザインを思うと拍子抜けするかもしれない。つまり瀧澤の他の作品はドイツ表現主義建築の影響が濃厚であったこともありギャップを感じざるを得ないのである。ただ竣工当時の地元の人々の反応は北欧風のエキゾチックなたたずまいに、西洋風の建築として新鮮な驚きをもって迎えられたとされ、好意的な評判を得ていたようである。

 瀧澤の書簡には木材の一部に「赤黒色」で着彩を施したとの記述があり(*1-2) 、カラーリングした点からして日本の伝統的な農家とは異なる西欧風の印象を与えようとしていたことが判る。また良く見れば近代の新しい目を持った建築家瀧澤の造形感覚も垣間見えてくる。三角形や四角形に縁取りされた窓、何より三角柱に整理された屋根などを見るとシンプルな幾何学形状に還元しようとする意思が感じられる。この点など詳しいことは次回以降に触れてみたい。

 

 農民美術運動そのものはそう長くは続かず、1935(昭和10)年に国からの補助の打ち切りによって頓挫した。しかしながら作品の制作そのものは専門の工芸家としての後の世代に受け継がれ僅かながら命脈を保ち、上田近辺では今日でもその流れを汲む作品を目にすることができる。

 また農民美術研究所の建物も既にない。1940(昭和15)年の時点で建物は売却され大屋区の集会所となり、その後は乳業会社の牛舎として利用された。戦後になると建物の老朽化は目に余るようになり、結局1955(昭和30)年に惜しまれつつも解体された。現在、建物が建っていた辺りは盛土され、コンクリートの擁壁が築かれた上は廃棄物処分場となっている。下段に残る僅かな古い石垣のみが往時を偲ばせている(fig.3,4)。  

 

  

 

 さて瀧澤に限らず分離派の建築家の作品を思い起せば、農民美術研究所同様に田園指向の強い作品を生んだ建築家は意外と存在していたことに気付く。最も有名な作品は堀口捨己による茅葺きの《紫烟荘》(1926年)(fig.5)であろう。民家研究に勤しんだ蔵田周忠も大正期には田園風の住宅をいくつも設計しており、中でも《聖シオン会堂》(1926年)(fig.6)は木造急勾配屋根の特徴的な建物であった。しかしやはり同種の建物の中では瀧澤の建物が最も早く建っていたことになるであろう。これら分離派建築家それぞれの田園住宅を探る事は今後の研究テーマとしても興味深いと思う。

 

     

 

 そこで私が最も不思議に感じたことは、当時新進の若手建築家であった瀧澤にとって農民美術研究所が(仮設のパビリオンを除き)初の本格的な建築の実施作であったのにもかかわらず、建築関係の公の場例えば分離派展などをはじめどこにも発表することがなかったこと、そして殆ど忘れ去られたままであったことである。分離派展なら1923年の第3回展がちょうど良いタイミングだったのだが出展の形跡は見当たらない。このことは色々と憶測を呼ぶ。瀧澤自身がこの建物を発表したくなかった訳があるのだろうか?単にタイミングを逸しただけなのだろうか?


 こうした疑問がきっかけとして、私は瀧澤の農民美術研究所に関する言説の有無を調べてみた。その結果、山本鼎が発行した農民美術研究所の機関誌『農民美術』(1925.1)に寄稿した瀧澤の記事「田園文化と中世紀主義」がほぼ唯一の農民美術に関する論考(ただし建物のことには触れていない)であることを発見した。もちろんほんの1行程度の記載なら他にもあるが、論述したと言えそうなのはこれだけであった。

 この論考から、農民美術運動をきっかけとして、中世文化やゴシック建築を媒介としつつ瀧澤の建築思考につながっていることがみえてきた。次回から農民美術運動を興した山本鼎の行動の概要を振り返ってみたい。(続く)

 

 

    *1-1:『夜あけの星』(小崎軍司,1975)

    *1-2:瀧澤眞弓による金井正宛て書簡(1922.10.20) 「赤黒色」が具体的に示す意味は不明。4本の大柱、大桁、垂木、母屋などに塗るよう指示した。

  

 

| 1920年− | 11:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
京都大学楽友会館

     

      1925年,京都府京都市左京区,森田慶一,現存(撮影:1994年)

 

 言うまでも無く森田慶一による分離派の建築として知られる建物。ただその森田を分離派結成当時に辿ってみるならば、それを主導した存在とは言えず、誘われるがままに入っていた方なのであった。本人でさえ後に「ぼくは構造にいたんで、どうしてこんな連中に引きづり込まれたか、いまでもわからんです、いつそういうふうになったか」(*1)と述懐していた。しかし時の流れは分からぬもの、そんな事情にもかかわらず今日でも現存する代表的な分離派活動期の建築と言えば、恐らく森田慶一による楽友会館ということになるのではなかろうか。

 

     


 大正期に入ると帝大建築学科のカリキュラムには「構造(甲)」「意匠(乙)」の甲乙2班に分かれる選択授業が組み込まれるようになった。森田の「構造にいたんで」とはこのことを指す。堀口捨己ら「意匠」の数人は、技術と有用性優先の佐野利器を筆頭とするいわゆる構造派が強権を握り野田俊彦が「建築非芸術論」を著す中、それに反発して1920(大正9)年に分離派を旗揚げし建築の芸術性を主張すべく気炎を上げた。そのとき森田慶一は「構造」に属していたにもかかわらず、デザインに秀でた「構造」の人も必要だということになって引き入れられたのが実態なのらしい。

      

       

 

 しかし、そうしたいきさつのせいか分離派の作品集に掲載された森田の論考は異彩を放つ、ある意味で鋭いものがあった。最初の論考「構造派について」(1920年)では、他の分離派の面々が揃って構造派批判に腐心する中、森田にあっては西欧近代建築の構造合理主義的な傾向を把握しつつ、どちらかといえば肯定的であった。問題はこれをどのように新しい芸術として受け止めるかに過ぎないということに気付いていた。

 

  「構造派は決して建築非芸術を標榜して居るのではない。こんな事

        は其作品を見れば一遍にわかる事である。」(*2)

 

そして力学的に純粋な構造と、芸術としての構造との違いについて自らの観点から言及する。

 

  「建築が芸術である為には其建築には表現された生命がなければな

        らぬ、・・・」(*2)

 

 森田は「生命」の概念を持ち出したが、そこから連想するのはリップスやヴォリンガー(*3)らウィーン学派の美学である。(ここではその説明は避けるとして)そのよく知られる二つの概念すなわち「感情移入」についてはギリシャ古典建築をもって説明され、「抽象衝動」についてはエジプトを例にとり、さらにゴシック芸術については特に念入りに『ゴシック美術形式論』によって説明がなされた。

 森田の場合も然りであった。後年ヴィトルヴィウス建築論の訳出などギリシャ古典建築を究めたことはよく知られているが、分離派時代の論考においては様々な歴史様式からP・ベーレンスの作品までを引き合いに出していた。中でもとりわけ1921年の「工人的表現」などゴシックの工人についての記述は、その当時の森田の思索の核心であったように思われる。


 構造に着目しつつも構造の純粋性だけでは足らず、森田は芸術足り得るかの分かれ目を「生命の表現」の有無にあるとした。論考「工人的表現」ではさらに、芸術足り得る構造について、自己の表現を内在させた「構立て(くみたて)」なる呼称を用い、それは例えばゴシックの「工人」達がイメージに向けて一途に石を積み上げるような、そのような表現への意志が欠かせないものであった(*4)。

 

       


 さて、楽友会館を見てみると、正面玄関中央の庇はゴシック建築風の尖頭アーチが並びアクセントとなっている。ゴシックへの憧憬あるいは森田の思索をシンボリックに表明したものであろうか(この他、森田による農学部門ではより大胆に尖頭アーチが用いられた)。そして白壁に穿たれた窓のリズミカルな配列は、当時の分離派の仲間の関心と同様、音楽をヒントにしたようなロマンチックな主観性を漂わせている。

 

 下図は『建築画報』(1923.9月掲載)の初期の楽友会館模型である。基本的なイメージはそのまま維持され竣工に至ったことが分かる。翌年の分離派の作品集第3刊(1924年)においては図面が掲載され、第5回作品展(『建築新潮』1926.3月掲載)において竣工した建物が掲載された。

 

       

 

                    ****

 

 ところで楽友会館の構造について、その実際の適用に関する気になる文章をみつけた。それは『建築雑誌』誌の記事「座談会・大正の建築を語る」(*5)の中の一部である(下記引用 太字筆者)。

 

 堀口:・・・後藤さんという人は不思議な偉さを持った人のように思い

            ますね。ぼくのクラスの森田(慶一)君など非常に心酔をして、

            ああいう無筋コンクリートをやってみたいというので、京都大

            学に行ってからですよ。京都大学の同窓会館がありますね。森

            田君の設計で。
 高杉:楽友会館です。
 堀口:あれが無筋です。
 山下:床は鉄筋コンクリートですか。
 堀口:床と梁だけが鉄筋で、あとは無筋です。これなど一番感心をしたほうでしょうが。

 

 楽友会館は公式には全体が鉄筋コンクリート造とされているが、堀口の話からすると壁(柱も?)が無筋コンクリートということであり、しかもそれは後藤慶二が無筋コンクリートで設計した東京区裁判所の影響による、とのことらしい。

 他にも無筋コンクリートをほのめかす資料がある。楽友会館竣工時の記念絵葉書セットに付された概要書(▼(傍線筆者))であり、構造を記述した部分では「コンクリート造」と「鉄筋コンクリート造」とをわざわざ書き分けている。

 

      

 

 正直言って無筋コンクリートという言葉には一瞬驚いた。しかし、よくよく考えてみるならば、耐震壁が考案される以前の初期の鉄筋コンクリート造の建物では、壁が煉瓦で出来ている事例があった位なので、力学上のことだけを考慮に入れるならば、確かに無筋の壁に限っては造られたとしても不思議ではないのかもしれない。勿論今日ではあり得ないことは分かっていても、無筋コンクリートという後藤慶二のDNAがもしもここに息づいていたとすれば、そのこと自体とても意義深いことなのではなかろうか。
 現在ある建物は実際どのように施工されたのだろうか。興味がつのるところではある。

 

                     ****

 

 最後にこの絵葉書セットから、竣工時の内部の様子を2枚ほどお目にかけて終わりにする(▼)。ここにみられる家具は森谷延雄が担当した。アーチの右に見える円形花台は近年現存が確認され、松戸市が所有している。

 

             

 

         

 

 *1:『建築記録/東京中央電信局』(「座談会」より 1968)
 *2:『分離派建築会 宣言と作品』(「構造派について」より 森田慶一 1920)
 *3:W・ヴォリンガーの著作には「抽象と感情移入」「ゴシック美術形式論」がある。
 *4:この頃の森田の思索の流れについては京都大学の田路貴浩氏により研究されている。
 *5:『建築雑誌』(「座談会・大正の建築を語る」より 1970年1月,堀口=堀口捨己,高杉=高杉造酒太郎,山下=山下寿郎)

 

 

 

 

 

 

| 1920年− | 16:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
石本喜久治のブルーノ・タウト会見ルポルタージュ(1922.11 於ドイツ マグデブルク) (後編)

      

 

■5.色彩都市マグデブルクの感激
 前回から続く。早速『サンデー毎日』1923(大正12)年5月27日号「表現派の建築」の記事の内容に移りたい。(掲載の画像は記事残りの下段部分です)

 記事はタウトに面会し都市計画の全体像を説明された後、その第一歩である鮮やかに塗られた街並みを助手のカール・クライルの案内により見学、それに対して石本が感想を述べる形で書かれていた。市庁舎、郊外の工場、共同住宅群、クライルの住む田園住宅群と同氏の家のインテリアを案内され、クライル宅のインテリアの写真については3枚ほど記事に挿入された。まず市庁舎を見て石本は感心する。(以下青文字部分は『サンデー毎日』記事から引用)。

 

  屋根は緑、軒蛇腹は黄色、胴蛇腹は紫、壁は白に、柱型は赤色・・・内部も同様
  繰型どほりに色をちがへて、赤青黄紫黒などゝ階段室も広間も廊下も天井床壁
  腰羽目扉窓枠入口廻りなにもかも思ひつきてあゝもやれたものだと感心する。

 

 案内するクライルは大通りの建物をあれこれ指さしては「イミタチオン」とあざ笑ったことが書かれているが、これはタウトの影響であろう。後年来日したタウトは洗練されていない模倣建築をあれこれ拾い上げては「いかもの(=imitation)」と嘲笑っていたが、ドイツ時代から既に助手に伝染していたほどだったとは・・・。

 数件の建物を案内された後、最後にクライルの家に案内され、その内装を見た石本は以下のような言葉で締めくくっている。

 

  広間も階段も支那料理屋のそれよりも激しい色。・・・その前にあるテーブルから

  二三脚ある椅子、左手に飾られてる戸棚、家具、悉くが極彩色。勢ひあまって床

  にまで及んでいるのには唖然たらざるを得ない。家具類は一切手製で思ひきつ

  たその彩色に劣らず極めて突飛な形をしているが色と形とが気持ちよく調和し

     実に面白い。

 

 「実に面白い」―石本は極彩色の内装に驚きつつ、正直な気持ちで好感をもって受け止めていた。否、よほど印象深かったのか、石本の洋行記録『建築譜』の巻頭にも、クライルから贈られたのであろう同氏作の色鮮やかなドローイングが唯一カラー画像として掲載されていた(▼左:『建築譜』表紙,▼右:巻頭頁クライルのドローイング《composition》)。そして同著書序文において石本氏は、派手に塗られた震災バラックの建物に触れ「所謂バラツク芸術の出現に当面して非常な感激を受けつつある」と称賛した。他の分離派建築家ら多くはバラック装飾に否定的であった中において。

 

      

 

 

 また、同行した仲田定之助も日記の中にマグデブルクについて記している。なかなか面白いことをやっているとしながらも、石本とはやや異なる印象を受けたようである(以下赤文字部分は仲田日記より)

 

  Krayl氏の考えでは全市を色でぬりつぶすらしい。Alte Magdeburgは慄えて

  いると云った、慄へる筈だ。この人達は一種の色魔だ(文字通りの)(*1)

 

 

■6.敗戦後の心理、表現主義の色彩
 しかし石本がマグデブルクの彩色を肯定的に見ていたのは、本人の主観的嗜好だけでない。ドイツに赴いたからこそ肌で感じ取ったであろう第一次大戦敗戦後の暗く絶望的な心理とそれが引き起こす反発力、生命の爆発的発露に対する理解と同情の念が多分にあった。従って、外壁の色彩化自体を建築の究極的な終着点とは考えておらず、クライル氏が自らの置かれたやむなき一時的な状況として「建物塗師(ハウスマーラー)」と自嘲していたことを、石本は忘れずに言い添えた。

 尤もこうした感想は、後で述べるように、石本自身が考える本来の建築的理想とは異なるという前提に立った上で示したものであったことにも注意しておく必要があろう。(その意味では、後の白木屋など石本の作品に見られるモダニズムときらびやかな装飾が同居する二面性を、この記事が既に暗示していたのかもしれない。)

 

      たゞ止むをえないがゆえに、古い建物をぬりかへて、せめて色彩のうへからで

      も新しい気分が味はひたいといふ今の場合は全く例外で、その建物は一つの画

      布(カンバス)にすぎず、その塗られたものは建築的にはなんの意味をもたな

      い一つの絵画として見られるべきものであらう。氏は不平と謙遜とから『自分

      は建築家よりも建物塗師(ハウスマーラー)』といつているが気の毒ながら今

  のところ全くそのとほりである。   (カッコ内は筆者補足)

 

      


■7.洋行と石本の建築観
 このように石本はマグデブルクに率直に魅せられ、あるいは敗戦後の一時的な対処としての「色彩都市」に対して一旦は理解を示した。しかし自身の思考の中で理性的に建築の向かうべき方向を見定めるもうひとりの石本は、建物を塗り込めることに不賛成の意思を示した。つまり日本の分離派のひとりとして、建築を自立した芸術と考える石本からすれば、建築を絵画的二次元芸術のためのキャンバスも同然の存在に追いやる扱いを許すことはできなかった。そして表面的付加的な色彩(=装飾)は建築にとって無意味であるとし、それを否定する考え方につながっていた。結局のところ(「色彩宣言」で示されていたにもかかわらず)鮮やかな色彩を、タウトの建築における本質的なこだわりとして見ることはできなかったようなのである。

 

 

      しかしこんな調子に建築を一ツの画布と心得てそれに描き、または塗りた

      てることには賛成出来ない。・・・建築的にはなんの意味をもたない一つの

      絵画として見られるべきものであらう。

 

 そして建築のあるべき姿として次のように述べた。

 

      地球もしくは宇宙そのものを画布(カンバス)もしくは土台としてそのうへ

      に建築的に描きかつ刻むのでなければならない。さうしてやがては、絵画も

      彫刻も音楽までもが、それぞれの境界を撤してとけあひ、そこに渾然たる真

      義の綜合芸術が生れいでんことを究竟(きゅうきょう)の理想とする。

                                                                         (カッコ内は筆者補足)

 総合芸術として建築を捉え直し、付加的要素としてではなく絵画彫刻音楽までをも有機的に統合された姿としての建築を理想と語ったのは、恐らく石本にとってこれが初めてであろう。ただしかし、壮大なスケールからそう思えるだけかもしれないが、どこか「アルプス建築」「宇宙建築師」などブルーノ・タウトが夢見たユートピアの影響下で発せられた言葉であるような印象を受けなくもない。この時点では、石本の建築観というよりも、ドイツ表現主義に身を浸し興奮さめやらぬ中で発せられた言葉であったのだろうか。

 

■8.放浪者(Vagabond)

 石本は刻々変転する近代建築運動の渦中に直に身を投ずる旅を行った。そしてドイツの建築動向を『建築譜』で整理しつつもさ迷う心中を率直に認め、解説の締めくくりで自らを「放浪者(Vagavond)」と喩えた。「Gropiusに参じて主義に斃(たおれ)るべきか Poelzigに就いて趣味に溺(おぼれ)るべきか Tautに倣って空想に終わるべきか。Vagavondは所詮 Vagavondである。」  (カッコ内は筆者補足)

 『サンデー毎日』の記事はまさに近代建築運動を直に体験した直後の興奮、放浪する石本の生の心を写し取った一文であったように思える。

 

 

  *1:「仲田定之助日記(1922−1923)抄」(寺門臨太郎,山本佐恵,江口みなみ 2016年 美術批評家著作全集第18巻 仲田定之助所収 ゆまに書房)

 

 

| 1920年− | 15:23 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
石本喜久治のブルーノ・タウト会見ルポルタージュ(1922.11 於ドイツ マグデブルク) (前編)

                       

■1 日本建築家初のタウト面会者として

 石本喜久治発見報告その2
 『サンデー毎日』1923(大正12)年5月27日号に、分離派建築家石本喜久治自らによる「表現派の建築」と題された記事があるのをみつけた。1ページの記事の中には石本喜久治がドイツ マグデブルク市に赴き、同市建築課長であり「色彩宣言」を発表した建築家ブルーノ・タウトとの面会を果たした際のことが詳細に綴られていた。特にタウトの助手カール・クライルから鮮やかな色彩に塗られた建物を案内された際の石本の感想など、興味深いものがある。

(画像は1ページを「上,中,下」3段に分割し、前編には「上,中」まで載せた)

 

     

 

 石本は1922(大正11)年5月に出港し翌1923年5月末頃に帰国するまでの約1年間、欧米を旅した。帰国後は『建築譜』と題する著書を刊行し、そこに建物の写真やドローイング自らのドイツ建築最新傾向の小論を掲載した。その著書にもマグデブルクのタウトを訪ねたことを短く触れてはいるが、文面からは実際タウトに面会したのか判然としない。今回みつけた『サンデー毎日』の石本の記事によって初めて実際に面会していた事実が明らかとなった。(以下青文字部分は『サンデー毎日』記事からの引用)

 

  タウト氏はいかにも穏かな優しい容貌と態度と言葉とで初対面とは思はれない

  くつろぎを私にあたへながら大きな製図台の回りで二人は親しく語り始めた。

 

■2 マグデブルクを訪れた建築関係日本人
 石本以外にマグデブルクを訪れた日本人建築家として思い浮かぶのは堀口捨己である。しかし時期的には石本が帰国した後入れ替わるように1923年7月に日本を発ったのであり、『近代建築の目撃者』(佐々木宏編(*1))には、同地に赴くもタウトには会えず助手のクライルから建物を案内されたことが書かれていた。
 他には三浦耀(*2)と藤島亥治郎(*3)もマグデブルクを訪れたことが本人らの著書に書かれているが、それらを読んでもタウトと面会した形跡はない。本野精吾のベルリン滞在は1909〜11年なので早すぎる。

 

 以上のようなことからして、私はタウトに初めて会った出会った日本人建築家はこの記事を書いた石本喜久治であろうと考えている。しかしなぜそんなに初めて会った日本人建築家にそんなにこだわるのか、と問われるかもしれないが、理由は簡単である。
 言うまでもなくブルーノ・タウトは表現主義の建築家としてドイツでは最も影響力のある建築家のひとりであっただけでなく、ナチス・ドイツから逃れるべく1933(昭和8)年に「日本インターナショナル建築会」の招待を頼りに来日したこともよく知られている。そうしたタウトの日本との関係が形づくられた源泉、きっかけについてはやはり関心が持たれて然るべきと思うからなのである。

 石本も「日本インターナショナル建築会」に参加していたので、想像を逞しくして言えば、恐らく1922(大正11)年11月の段階でタウトが既に日本人との面識を得ていたことも、日本からの招聘受け容れの判断をし易くした要因のひとつとなったのかもしれない(もっとも、来日後にタウトが石本に内心抱いていた感情は芳しいとは言えなかったようだが)。

 

      

 

■3 「仲田日記」に書かれていたタウトとの面会時期
 1922年11月という面会の日付は、実は『サンデー毎日』記事にも『建築譜』にも書かれていない。そんな折、訪問時期を知る手掛かりは『仲田定之助のベルリン日記(上,下)』(寺門臨太郎(*4))が与えてくれた。実は『サンデー毎日』に石本が寄稿した件も、この日記の記述から見出したものである。

 

 仲田定之助は帰国後、実際に作品を創り、また美術評論家として知られた人物である。石本とは洋行の客船に偶々同船していたことから知り合いとなり、共々ベルリンに到着した後も芸術家との面会など行動を共にすることが多く、頻繁に情報を交換し合っていた。それを仲田は几帳面に日記に記し、例えば行動派の石本はヨーロッパのあちこちに出掛けては旅先から仲田に宛ててに葉書を送ったことなども、その都度日記に記していた。そのようなわけで仲田の日記から石本の行動がある程度窺い知られるのである。ただ公にされた1923年分が手元にあるのみで、日本を発った1922年分は注釈に書かれた内容から察するしかないと思っていた。
 1923年の仲田日記を読むと、帰国する同年5月末までの石本の行動は相当広範囲で慌ただしかった。恐らくその期間にタウトと面会する時間的余裕はほとんど考えらず、またタウトへの言及もみられないので、やはりドイツに到着した1922年後半にマグデブルクのタウトを訪ねていたと推測したのである。・・・・と、そこまで書いてブログにUPした。

 だがブログを上げた日に、1922年分の日記(*6)が発刊されたばかりであることに気が付き急いで取り寄せた。その結果、私の推測通り1922年11月2日に石本は仲田を誘って二人でマグデブルクのタウトを訪れていたことが日記にはっきりと書かれているのを目にすることができた。そればかりでなく仲田は「アトリエ」(1934.1)にもその日のことを記事にしていた(下記赤色は「アトリエ」の引用)。

 

   私が石本喜久治に誘われてマグデブルク市にブルノ・タウトを訪れたのは一九

   二二年の秋だった。・・・伯林から汽車程二時間余、車窓からどんよりとした灰色

   の曇日のもとに、赤や青の原色に塗られた小住宅がチラホラ眺められたので早

   くもマグデブルク市に近づいた事を知った。

 

 

    

 

 

■4 世界一周していた石本喜久治
 ちなみに仲田日記から読み取られる石本の翌1923年の1月から5月末までの行動は、以下のようなものである。まず2月頃ベルリンからイタリア南部シチリア島まで南下の旅を行い、戻ればハンブルクの港を出港、アメリカ大陸サウサンプトンに到着してニューヨーク、ナイアガラの滝など東海岸から仲田に宛てて葉書を送った。その後カリフォルニアなど西海岸からも葉書を送り(さらに石本が撮ったと思われるライトの住宅の写真が『建築譜』にある)そして日本に帰国した。ヨーロッパからアメリカに渡って帰国したということは、どうやらアジア滞在こそなかったもののジュール・ベルヌの小説よろしく形の上では世界一周の旅を敢行していたようである。(石本が後に「コスモポリタン」を自称した(*5)理由がこの辺りにあるのかもしれない)


 さて話が脇道に反れてあまりに長くなってしまった。記事の内容などについては後編に譲ることとします。(つづく)

 

 

  *1:『近代建築の目撃者』(佐々木宏 1977年 新建築社)

  *2:『建築・風景』(三浦耀 1931年 岩波書店)

  *3:『ブルーノ・タウト 近代建築家第3』(藤島亥治郎 1953年 彰国社)

  *4:『未公刊資料ー仲田定之助のベルリン日記(上,下)』(寺門臨太郎 現代芸術研究1998年,1999年 筑波大学芸術学系五十殿研究室)

  *5:「建築のファシズム」其他(石本喜久治 『建築新潮』1927.2分離派建築会第六回展覧会号所収)

  *6:「仲田定之助日記(1922−1923)抄」(寺門臨太郎,山本佐恵,江口みなみ 2016年 美術批評家著作全集第18巻 仲田定之助所収 ゆまに書房)

 

 

 

| 1920年− | 14:38 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧東京朝日新聞社・・・計画時のパース2題

最近、分離派建築家のうち石本喜久治について気になっている。特に1922〜23(大正11〜12)年の渡欧外遊前後の資料はないかと思っている。石本氏は帰国後に渡欧の記録を『建築譜』(1924年5月)にまとめドイツの建築動向を解説し、また竹中工務店に所属しながら東京朝日新聞社社屋を設計しており1927(昭和2)年に竣工した。その間いくつかの論文や小規模な建物の設計をしたのは分かっているとしても、今ひとつリアルな側面が見えてこない・・・
そんなことを思いつつ、あちこち調べてみつけた発見報告を2回に分けてご紹介したい。(いつもの建物紹介とは違っていますが悪しからず。また異常な長文、お許しを。)

 

 

    

    建物竣工1927年,東京都千代田区,竹中工務店(石本喜久治),非現存

 

【パース画その1】

まずはこれ(▲)。大正期のアサヒグラフなどに有楽町の東京朝日新聞新築を予告するものが何か出ていないだろうか、と予想して誌面をめくってみたら、本当にあったのでびっくり。絵には正面中央最上部に大きな無線用の鉄塔が鎮座していて2度びっくりした。有楽町の朝日新聞社新社屋の提案時のパースのようである。鉄塔は大阪で設計されたせいなのか、私としては初代通天閣の風情なきにしも非ずといった感じである。1925(大正14)年7月に発行された同誌に2度同じ内容で掲載されていた。


左下には"TAKENAKA KOMUTEN  OSAKA JAPAN"と装飾書体で書かれている。右上にもドイツ語で書かれているが判然としない。

パースを眺めてみると、建物部分については実際に建った建物と比べて向って、当初は左側が少し大きかったことが分かる。しかし竣工した建物と造形上の基本的な違いは感じられない。石本の説明によれば左側の外壁が削られたようにセットバックしているのは市街地建築物法の規制による高さ制限を逆手にとった造形であるとのこと。私には苦しい説明だと思えてしまうのだが、一方で石本は「市街地建築物法への抗議案として」と名付けたミースのガラス摩天楼を模したような模型を、同時期の分離派展に出品している。

大きなマッスにバルコニーや庇がバランスよく張り出すのは竣工建物と同じである。コーナーが曲面であるなどやはりメンデルゾーンの影響とりわけベルリナー・ターゲブラット新聞社屋の参照が濃厚だろうか。特に地階右側の窓はメンデルゾーンの帽子工場を思わせる。比較のため竣工時の建物画像(『建築世界』1927.5より)を下に載せてみる(▼)。

 

このパース画は元々着彩画であったようである。(理由はレタリング文字の不明瞭さ。文字と背景とを異なる色相で表現したためではないか)竣工建物の外壁は3階から上と下を境に黄色と青緑色で塗り分けられていたそうだが、外壁塗り分けのアイデアはこのパースの段階で提案されていたことが分かる。カラーで見たかったものだ。こうしたポリクロミーの派手な塗り分けを自作に応用したのは、ドイツ マグデブルクで見た町並みが関係するのかもしれない。

 

因みに分離派の会員特に瀧澤真弓は、震災直後の今和次郎らバラック装飾社のペンキ装飾を批判していたが、しかし石本だけは「所謂バラツク芸術の出現に当面して非常な感激を受けつゝあるのである(*1)」と肯定的であった。それは恐らく実際に大元のマグデブルクで見た塗装外壁を「馬鹿々々しくも滑稽には違いないが、今の彼等にとつては実に止むに止まれぬ生命の強力的な爆裂(*2)」とし、大戦で疲弊しつつも放つ表現主義の光に対して、実見の上敢えて理解を示すことができたからなのかもしれない。そして自ら「Vagabond(放浪者)」(*1)と吐露したように、それ以降も合理主義的で純粋な芸術としての建築を目指す建築家石本と、一方で装飾に魅せられた石本とをひとりの人間の中に併せ持ちさまよう。(その詳細は次回)

 

話をパース画に戻そう。外壁各階の窓の窓台のレベルにはすべて細い帯状の水平ラインで結ばれており、何列もの水平線で水平性が強調されていた。水平ラインの意味については、『東京朝日新聞小観』の中で、一般向けではあるが意匠上の説明(恐らく設計者石本が書いた説明に間違いなかろう)でも以下のように述べられている。大戦後とはもちろん第一次世界大戦のことであり、文章の背後にヨーロッパに自ら赴いた者としての自信が感じられる。

「窓の窓台がそれぞれ水平線によつて結ばれていることは、大戦後に於けるヨーロッパの諸建築でもさうである様に、一つの安定した静かな気持を社会感情として各人が抱くことを表現せしめたのである。(*3)」

だがどういう事情によるのか、その水平ラインは下(▼)の実際に建った建物では、中層まででストップしており半楕円窓の部分には付けられなかった。

          

 

パース画の無線鉄塔について注意して見るべきは、大きさを強調するためにその部分だけ透視図法を無視し立面を貼りこむように描かれていることであろう。図法に沿って描いたら鉄塔は足元部分が見えず奥に小さく見えるだけになってしまう。つまり目立たせたかったようである。

そしてこれは蛇足だが、鉄塔には螺旋階段が描かれているのが見える。そのせいか、戦後の山田守による東海大校舎を思い起こした。


パース画に付された説明文には「昨年末京橋数寄屋橋畔千三十坪の地に新社屋を建設することとなり・・・」とある。「昨年末」とは1924(大正13)年末であり、他の記録によれば起工は1925(大正14)3月である。そこで設計時期を推定してみるならば、新築決定の1924年末から翌年3月の起工までの間では設計期間が少なすぎるので、やはり1924(大正13)年前半には設計が開始されていたのではなかろうか。伝説として伝わる社内コンペもその頃行われたのだろう。それはちょうど『建築譜』が刊行された頃、つまり渡欧の余韻がまだ残る時期にあたる。恐らく「昨年末」(1924年末)に決定された内容とは、設計案の承認かあるいは請負契約の締結を指すのではないだろうか、と推測する。

 

次に、1926(大正15)年1月の分離派第5回展出品の公開済の各面連続の立面図を見てみたい(▼)。これは工事のための実施設計図とみられ、この図の段階では既に大無線鉄塔は消えている。つまり最初のパースから次の段階に至って無線塔のデザインは保留状態になったらしいことが読み取れる。正面から見て左のセットバック部は実際に建った建物と同じになった。この段階では各階窓の水平ラインは石本の意図通り、最上段まできっちり描き込まれているので、中層階で終わってしまったのは現場での変更だったことがわかる。

 

      

 

【パース画その2】

さて、もうひとつ下は写真絵葉書に描かれてたもうひとつの外観パース(▼)をご紹介したい。これは先日ネットオークションでみつけて安く手に入れたもの。
こちらは、無線鉄塔は竣工時のものと同様のデザインがなされ、屋上階段室の上部に細長く突き出すように取り付けられた。玄関正面を避け構成主義的な造形に組み入れられている。やはり断然モダンでスマートである。
 

    

屋上階段室や無線鉄塔の設計に関しては、『東京朝日新聞小観』において以下のように正面から側面の階段室上部に移った試行の経緯が、そのまま造形上の説明として語られている。

「・・・これにも相当の考慮が払われている。この建物が水平線に延びんとする外郭を有するに当って、これに垂直な高塔が建物の正面の狭い面に垂直にあることは、建物全体としての釣合ひをとる上から言つても余り面白くないので、殊更に正面を避けた側面に持つて行つて、川に面する側の大きな面、中央の面、他の側の低い面との釣合をとる様にしたものである。(*3)」

また窓台の水平ラインについてはこのパース画においても立面図同様最上段まで描かれている。従って恐らくこの絵葉書のパースも、大切なデザインのポイントである水平ラインを全て盛り込んであることから、石本氏が描いたものであろうと思われる。さらにパースのタッチは白木屋などその後の石本作品のタッチにも似通っている。

 

そのようなわけで、他にも気になる点があるのだが、あまりに長くなってしまったので、そろそろこの辺で・・・・。

 

   *1:『建築譜』 より(石本喜久治 1924)

   *2:『分離派建築会作品 第三』所収「タウト一派の傾向価値」より(石本喜久治 1924) 

   *3:『東京朝日新聞小観』  「二 新社屋の設計」より(1927 東京朝日新聞発行所)

 

 

 

| 1920年− | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
星薬科大学(旧・星商業学校)

           

1924年,東京都,A・レーモンド,現存(撮影:2016年)

 

今年の春、アントニン・レーモンドの初期の名作である星薬科大(旧星商業学校)の見学会が行われた。壮観な大講堂など高密度の素晴らしい空間を体験することができた。(今回、建物の良さを積極的に知らせてよいとの大学側のご説明があったことから、内部の画像をこうして掲載した。)

 

レーモンドについては既に多くの方がご存じのように、F.L.ライトの下で帝国ホテルの建設のために1919年に来日、そのまま日本に残って独立し事務所を開設し作品を発表し続けた。そして戦時中を除いて長年日本に滞在し、近代建築普及の始祖的な役割を担った建築家である。


この建物がまさしくそうであるように、レーモンドの初期の作品には師匠ライトの個性的な作風の影響から抜け出せない苦悩の跡が残っている。正面のデザインはライト風、裏側の立面は故郷チェコで流行ったキュビズムの作風(▼)となるなど、統一されず二面性を持ったデザインとなっている辺りである。

 

        

 

圧倒的な講堂内部の空間(▼)。全体を貫く主たるモチーフは明らか、星の輝き,光の放射を幾何学化にした空間の造形。

昨今、東京女子大などレーモンドの傑作が失われていく中において、このように完全な形で初期の作品に出会えた幸せをつくづく感じ、奇跡のようでさえある。近代性を指向しつつ19世紀の西欧の香りを漂わせる数少ないホールが大切に使われていることも喜ばしい。

 

        

 

        

 

        

 

    

 

上下移動はすべてスロープによる(▼)。下は正面入り口のホール。広い面積を必要とするスロープが空間の性格を決定している。と言うかスロープ空間がホールそのものと言っても過言ではない状況。(後のコルビュジエの空間との接近は、知らず知らずのことながら、この頃から始まっていたということだろうか・・・)

 

             

 

スロープの途中はギャラリーの如く絵画も飾られている。
日本の神話を思わせるので調べてみると、推古時代の薬草や鹿の角などの採集風景をを描いたものとのこと、馬込文士村の画家数人によって昭和18年に完成したと知る。 (詳しくはこちら)

 

     

 

まさに校舎建築のシンボル性を遺憾なく発揮したのお手本であるばかりでなく、日本の近代建築の重要な証し。末永く維持されるよう祈りつつ、建物を後にした。

 

 

             

 

 

 

 

 

 

| 1920年− | 14:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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