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京都大学楽友会館

     

      1925年,京都府京都市左京区,森田慶一,現存(撮影:1994年)

 

 言うまでも無く森田慶一による分離派の建築として知られる建物。ただその森田を分離派結成当時に辿ってみるならば、それを主導した存在とは言えず、誘われるがままに入っていた方なのであった。本人でさえ後に「ぼくは構造にいたんで、どうしてこんな連中に引きづり込まれたか、いまでもわからんです、いつそういうふうになったか」(*1)と述懐していた。しかし時の流れは分からぬもの、そんな事情にもかかわらず今日でも現存する代表的な分離派活動期の建築と言えば、恐らく森田慶一による楽友会館ということになるのではなかろうか。

 

     


 大正期に入ると帝大建築学科のカリキュラムには「構造(甲)」「意匠(乙)」の甲乙2班に分かれる選択授業が組み込まれるようになった。森田の「構造にいたんで」とはこのことを指す。堀口捨己ら「意匠」の数人は、技術と有用性優先の佐野利器を筆頭とするいわゆる構造派が強権を握り野田俊彦が「建築非芸術論」を著す中、それに反発して1920(大正9)年に分離派を旗揚げし建築の芸術性を主張すべく気炎を上げた。そのとき森田慶一は「構造」に属していたにもかかわらず、デザインに秀でた「構造」の人も必要だということになって引き入れられたのが実態なのらしい。

      

       

 

 しかし、そうしたいきさつのせいか分離派の作品集に掲載された森田の論考は異彩を放つ、ある意味で鋭いものがあった。最初の論考「構造派について」(1920年)では、他の分離派の面々が揃って構造派批判に腐心する中、森田にあっては西欧近代建築の構造合理主義的な傾向を把握しつつ、どちらかといえば肯定的であった。問題はこれをどのように新しい芸術として受け止めるかに過ぎないということに気付いていた。

 

  「構造派は決して建築非芸術を標榜して居るのではない。こんな事

        は其作品を見れば一遍にわかる事である。」(*2)

 

そして力学的に純粋な構造と、芸術としての構造との違いについて自らの観点から言及する。

 

  「建築が芸術である為には其建築には表現された生命がなければな

        らぬ、・・・」(*2)

 

 森田は「生命」の概念を持ち出したが、そこから連想するのはリップスやヴォリンガー(*3)らウィーン学派の美学である。(ここではその説明は避けるとして)そのよく知られる二つの概念すなわち「感情移入」についてはギリシャ古典建築をもって説明され、「抽象衝動」についてはエジプトを例にとり、さらにゴシック芸術については特に念入りに『ゴシック美術形式論』によって説明がなされた。

 森田の場合も然りであった。後年ヴィトルヴィウス建築論の訳出などギリシャ古典建築を究めたことはよく知られているが、分離派時代の論考においては様々な歴史様式からP・ベーレンスの作品までを引き合いに出していた。中でもとりわけ1921年の「工人的表現」などゴシックの工人についての記述は、その当時の森田の思索の核心であったように思われる。


 構造に着目しつつも構造の純粋性だけでは足らず、森田は芸術足り得るかの分かれ目を「生命の表現」の有無にあるとした。論考「工人的表現」ではさらに、芸術足り得る構造について、自己の表現を内在させた「構立て(くみたて)」なる呼称を用い、それは例えばゴシックの「工人」達がイメージに向けて一途に石を積み上げるような、そのような表現への意志が欠かせないものであった(*4)。

 

       


 さて、楽友会館を見てみると、正面玄関中央の庇はゴシック建築風の尖頭アーチが並びアクセントとなっている。ゴシックへの憧憬あるいは森田の思索をシンボリックに表明したものであろうか(この他、森田による農学部門ではより大胆に尖頭アーチが用いられた)。そして白壁に穿たれた窓のリズミカルな配列は、当時の分離派の仲間の関心と同様、音楽をヒントにしたようなロマンチックな主観性を漂わせている。

 

 下図は『建築画報』(1923.9月掲載)の初期の楽友会館模型である。基本的なイメージはそのまま維持され竣工に至ったことが分かる。翌年の分離派の作品集第3刊(1924年)においては図面が掲載され、第5回作品展(『建築新潮』1926.3月掲載)において竣工した建物が掲載された。

 

       

 

                    ****

 

 ところで楽友会館の構造について、その実際の適用に関する気になる文章をみつけた。それは『建築雑誌』誌の記事「座談会・大正の建築を語る」(*5)の中の一部である(下記引用 太字筆者)。

 

 堀口:・・・後藤さんという人は不思議な偉さを持った人のように思い

            ますね。ぼくのクラスの森田(慶一)君など非常に心酔をして、

            ああいう無筋コンクリートをやってみたいというので、京都大

            学に行ってからですよ。京都大学の同窓会館がありますね。森

            田君の設計で。
 高杉:楽友会館です。
 堀口:あれが無筋です。
 山下:床は鉄筋コンクリートですか。
 堀口:床と梁だけが鉄筋で、あとは無筋です。これなど一番感心をしたほうでしょうが。

 

 楽友会館は公式には全体が鉄筋コンクリート造とされているが、堀口の話からすると壁(柱も?)が無筋コンクリートということであり、しかもそれは後藤慶二が無筋コンクリートで設計した東京区裁判所の影響による、とのことらしい。

 他にも無筋コンクリートをほのめかす資料がある。楽友会館竣工時の記念絵葉書セットに付された概要書(▼(傍線筆者))であり、構造を記述した部分では「コンクリート造」と「鉄筋コンクリート造」とをわざわざ書き分けている。

 

      

 

 正直言って無筋コンクリートという言葉には一瞬驚いた。しかし、よくよく考えてみるならば、耐震壁が考案される以前の初期の鉄筋コンクリート造の建物では、壁が煉瓦で出来ている事例があった位なので、力学上のことだけを考慮に入れるならば、確かに無筋の壁に限っては造られたとしても不思議ではないのかもしれない。勿論今日ではあり得ないことは分かっていても、無筋コンクリートという後藤慶二のDNAがもしもここに息づいていたとすれば、そのこと自体とても意義深いことなのではなかろうか。
 現在ある建物は実際どのように施工されたのだろうか。興味がつのるところではある。

 

                     ****

 

 最後にこの絵葉書セットから、竣工時の内部の様子を2枚ほどお目にかけて終わりにする(▼)。ここにみられる家具は森谷延雄が担当した。アーチの右に見える円形花台は近年現存が確認され、松戸市が所有している。

 

             

 

         

 

 *1:『建築記録/東京中央電信局』(「座談会」より 1968)
 *2:『分離派建築会 宣言と作品』(「構造派について」より 森田慶一 1920)
 *3:W・ヴォリンガーの著作には「抽象と感情移入」「ゴシック美術形式論」がある。
 *4:この頃の森田の思索の流れについては京都大学の田路貴浩氏により研究されている。
 *5:『建築雑誌』(「座談会・大正の建築を語る」より 1970年1月,堀口=堀口捨己,高杉=高杉造酒太郎,山下=山下寿郎)

 

 

 

 

 

 

| 1920年− | 16:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
石本喜久治のブルーノ・タウト会見ルポルタージュ(1922.11 於ドイツ マグデブルク) (後編)

      

 

■5.色彩都市マグデブルクの感激
 前回から続く。早速『サンデー毎日』1923(大正12)年5月27日号「表現派の建築」の記事の内容に移りたい。(掲載の画像は記事残りの下段部分です)

 記事はタウトに面会し都市計画の全体像を説明された後、その第一歩である鮮やかに塗られた街並みを助手のカール・クライルの案内により見学、それに対して石本が感想を述べる形で書かれていた。市庁舎、郊外の工場、共同住宅群、クライルの住む田園住宅群と同氏の家のインテリアを案内され、クライル宅のインテリアの写真については3枚ほど記事に挿入された。まず市庁舎を見て石本は感心する。(以下青文字部分は『サンデー毎日』記事から引用)。

 

  屋根は緑、軒蛇腹は黄色、胴蛇腹は紫、壁は白に、柱型は赤色・・・内部も同様
  繰型どほりに色をちがへて、赤青黄紫黒などゝ階段室も広間も廊下も天井床壁
  腰羽目扉窓枠入口廻りなにもかも思ひつきてあゝもやれたものだと感心する。

 

 案内するクライルは大通りの建物をあれこれ指さしては「イミタチオン」とあざ笑ったことが書かれているが、これはタウトの影響であろう。後年来日したタウトは洗練されていない模倣建築をあれこれ拾い上げては「いかもの(=imitation)」と嘲笑っていたが、ドイツ時代から既に助手に伝染していたほどだったとは・・・。

 数件の建物を案内された後、最後にクライルの家に案内され、その内装を見た石本は以下のような言葉で締めくくっている。

 

  広間も階段も支那料理屋のそれよりも激しい色。・・・その前にあるテーブルから

  二三脚ある椅子、左手に飾られてる戸棚、家具、悉くが極彩色。勢ひあまって床

  にまで及んでいるのには唖然たらざるを得ない。家具類は一切手製で思ひきつ

  たその彩色に劣らず極めて突飛な形をしているが色と形とが気持ちよく調和し

     実に面白い。

 

 「実に面白い」―石本は極彩色の内装に驚きつつ、正直な気持ちで好感をもって受け止めていた。否、よほど印象深かったのか、石本の洋行記録『建築譜』の巻頭にも、クライルから贈られたのであろう同氏作の色鮮やかなドローイングが唯一カラー画像として掲載されていた(▼左:『建築譜』表紙,▼右:巻頭頁クライルのドローイング《composition》)。そして同著書序文において石本氏は、派手に塗られた震災バラックの建物に触れ「所謂バラツク芸術の出現に当面して非常な感激を受けつつある」と称賛した。他の分離派建築家ら多くはバラック装飾に否定的であった中において。

 

      

 

 

 また、同行した仲田定之助も日記の中にマグデブルクについて記している。なかなか面白いことをやっているとしながらも、石本とはやや異なる印象を受けたようである(以下赤文字部分は仲田日記より)

 

  Krayl氏の考えでは全市を色でぬりつぶすらしい。Alte Magdeburgは慄えて

  いると云った、慄へる筈だ。この人達は一種の色魔だ(文字通りの)(*1)

 

 

■6.敗戦後の心理、表現主義の色彩
 しかし石本がマグデブルクの彩色を肯定的に見ていたのは、本人の主観的嗜好だけでない。ドイツに赴いたからこそ肌で感じ取ったであろう第一次大戦敗戦後の暗く絶望的な心理とそれが引き起こす反発力、生命の爆発的発露に対する理解と同情の念が多分にあった。従って、外壁の色彩化自体を建築の究極的な終着点とは考えておらず、クライル氏が自らの置かれたやむなき一時的な状況として「建物塗師(ハウスマーラー)」と自嘲していたことを、石本は忘れずに言い添えた。

 尤もこうした感想は、後で述べるように、石本自身が考える本来の建築的理想とは異なるという前提に立った上で示したものであったことにも注意しておく必要があろう。(その意味では、後の白木屋など石本の作品に見られるモダニズムときらびやかな装飾が同居する二面性を、この記事が既に暗示していたのかもしれない。)

 

      たゞ止むをえないがゆえに、古い建物をぬりかへて、せめて色彩のうへからで

      も新しい気分が味はひたいといふ今の場合は全く例外で、その建物は一つの画

      布(カンバス)にすぎず、その塗られたものは建築的にはなんの意味をもたな

      い一つの絵画として見られるべきものであらう。氏は不平と謙遜とから『自分

      は建築家よりも建物塗師(ハウスマーラー)』といつているが気の毒ながら今

  のところ全くそのとほりである。   (カッコ内は筆者補足)

 

      


■7.洋行と石本の建築観
 このように石本はマグデブルクに率直に魅せられ、あるいは敗戦後の一時的な対処としての「色彩都市」に対して一旦は理解を示した。しかし自身の思考の中で理性的に建築の向かうべき方向を見定めるもうひとりの石本は、建物を塗り込めることに不賛成の意思を示した。つまり日本の分離派のひとりとして、建築を自立した芸術と考える石本からすれば、建築を絵画的二次元芸術のためのキャンバスも同然の存在に追いやる扱いを許すことはできなかった。そして表面的付加的な色彩(=装飾)は建築にとって無意味であるとし、それを否定する考え方につながっていた。結局のところ(「色彩宣言」で示されていたにもかかわらず)鮮やかな色彩を、タウトの建築における本質的なこだわりとして見ることはできなかったようなのである。

 

 

      しかしこんな調子に建築を一ツの画布と心得てそれに描き、または塗りた

      てることには賛成出来ない。・・・建築的にはなんの意味をもたない一つの

      絵画として見られるべきものであらう。

 

 そして建築のあるべき姿として次のように述べた。

 

      地球もしくは宇宙そのものを画布(カンバス)もしくは土台としてそのうへ

      に建築的に描きかつ刻むのでなければならない。さうしてやがては、絵画も

      彫刻も音楽までもが、それぞれの境界を撤してとけあひ、そこに渾然たる真

      義の綜合芸術が生れいでんことを究竟(きゅうきょう)の理想とする。

                                                                         (カッコ内は筆者補足)

 総合芸術として建築を捉え直し、付加的要素としてではなく絵画彫刻音楽までをも有機的に統合された姿としての建築を理想と語ったのは、恐らく石本にとってこれが初めてであろう。ただしかし、壮大なスケールからそう思えるだけかもしれないが、どこか「アルプス建築」「宇宙建築師」などブルーノ・タウトが夢見たユートピアの影響下で発せられた言葉であるような印象を受けなくもない。この時点では、石本の建築観というよりも、ドイツ表現主義に身を浸し興奮さめやらぬ中で発せられた言葉であったのだろうか。

 

■8.放浪者(Vagabond)

 石本は刻々変転する近代建築運動の渦中に直に身を投ずる旅を行った。そしてドイツの建築動向を『建築譜』で整理しつつもさ迷う心中を率直に認め、解説の締めくくりで自らを「放浪者(Vagavond)」と喩えた。「Gropiusに参じて主義に斃(たおれ)るべきか Poelzigに就いて趣味に溺(おぼれ)るべきか Tautに倣って空想に終わるべきか。Vagavondは所詮 Vagavondである。」  (カッコ内は筆者補足)

 『サンデー毎日』の記事はまさに近代建築運動を直に体験した直後の興奮、放浪する石本の生の心を写し取った一文であったように思える。

 

 

  *1:「仲田定之助日記(1922−1923)抄」(寺門臨太郎,山本佐恵,江口みなみ 2016年 美術批評家著作全集第18巻 仲田定之助所収 ゆまに書房)

 

 

| 1920年− | 15:23 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
石本喜久治のブルーノ・タウト会見ルポルタージュ(1922.11 於ドイツ マグデブルク) (前編)

                       

■1 日本建築家初のタウト面会者として

 石本喜久治発見報告その2
 『サンデー毎日』1923(大正12)年5月27日号に、分離派建築家石本喜久治自らによる「表現派の建築」と題された記事があるのをみつけた。1ページの記事の中には石本喜久治がドイツ マグデブルク市に赴き、同市建築課長であり「色彩宣言」を発表した建築家ブルーノ・タウトとの面会を果たした際のことが詳細に綴られていた。特にタウトの助手カール・クライルから鮮やかな色彩に塗られた建物を案内された際の石本の感想など、興味深いものがある。

(画像は1ページを「上,中,下」3段に分割し、前編には「上,中」まで載せた)

 

     

 

 石本は1922(大正11)年5月に出港し翌1923年5月末頃に帰国するまでの約1年間、欧米を旅した。帰国後は『建築譜』と題する著書を刊行し、そこに建物の写真やドローイング自らのドイツ建築最新傾向の小論を掲載した。その著書にもマグデブルクのタウトを訪ねたことを短く触れてはいるが、文面からは実際タウトに面会したのか判然としない。今回みつけた『サンデー毎日』の石本の記事によって初めて実際に面会していた事実が明らかとなった。(以下青文字部分は『サンデー毎日』記事からの引用)

 

  タウト氏はいかにも穏かな優しい容貌と態度と言葉とで初対面とは思はれない

  くつろぎを私にあたへながら大きな製図台の回りで二人は親しく語り始めた。

 

■2 マグデブルクを訪れた建築関係日本人
 石本以外にマグデブルクを訪れた日本人建築家として思い浮かぶのは堀口捨己である。しかし時期的には石本が帰国した後入れ替わるように1923年7月に日本を発ったのであり、『近代建築の目撃者』(佐々木宏編(*1))には、同地に赴くもタウトには会えず助手のクライルから建物を案内されたことが書かれていた。
 他には三浦耀(*2)と藤島亥治郎(*3)もマグデブルクを訪れたことが本人らの著書に書かれているが、それらを読んでもタウトと面会した形跡はない。本野精吾のベルリン滞在は1909〜11年なので早すぎる。

 

 以上のようなことからして、私はタウトに初めて会った出会った日本人建築家はこの記事を書いた石本喜久治であろうと考えている。しかしなぜそんなに初めて会った日本人建築家にそんなにこだわるのか、と問われるかもしれないが、理由は簡単である。
 言うまでもなくブルーノ・タウトは表現主義の建築家としてドイツでは最も影響力のある建築家のひとりであっただけでなく、ナチス・ドイツから逃れるべく1933(昭和8)年に「日本インターナショナル建築会」の招待を頼りに来日したこともよく知られている。そうしたタウトの日本との関係が形づくられた源泉、きっかけについてはやはり関心が持たれて然るべきと思うからなのである。

 石本も「日本インターナショナル建築会」に参加していたので、想像を逞しくして言えば、恐らく1922(大正11)年11月の段階でタウトが既に日本人との面識を得ていたことも、日本からの招聘受け容れの判断をし易くした要因のひとつとなったのかもしれない(もっとも、来日後にタウトが石本に内心抱いていた感情は芳しいとは言えなかったようだが)。

 

      

 

■3 「仲田日記」に書かれていたタウトとの面会時期
 1922年11月という面会の日付は、実は『サンデー毎日』記事にも『建築譜』にも書かれていない。そんな折、訪問時期を知る手掛かりは『仲田定之助のベルリン日記(上,下)』(寺門臨太郎(*4))が与えてくれた。実は『サンデー毎日』に石本が寄稿した件も、この日記の記述から見出したものである。

 

 仲田定之助は帰国後、実際に作品を創り、また美術評論家として知られた人物である。石本とは洋行の客船に偶々同船していたことから知り合いとなり、共々ベルリンに到着した後も芸術家との面会など行動を共にすることが多く、頻繁に情報を交換し合っていた。それを仲田は几帳面に日記に記し、例えば行動派の石本はヨーロッパのあちこちに出掛けては旅先から仲田に宛ててに葉書を送ったことなども、その都度日記に記していた。そのようなわけで仲田の日記から石本の行動がある程度窺い知られるのである。ただ公にされた1923年分が手元にあるのみで、日本を発った1922年分は注釈に書かれた内容から察するしかないと思っていた。
 1923年の仲田日記を読むと、帰国する同年5月末までの石本の行動は相当広範囲で慌ただしかった。恐らくその期間にタウトと面会する時間的余裕はほとんど考えらず、またタウトへの言及もみられないので、やはりドイツに到着した1922年後半にマグデブルクのタウトを訪ねていたと推測したのである。・・・・と、そこまで書いてブログにUPした。

 だがブログを上げた日に、1922年分の日記(*6)が発刊されたばかりであることに気が付き急いで取り寄せた。その結果、私の推測通り1922年11月2日に石本は仲田を誘って二人でマグデブルクのタウトを訪れていたことが日記にはっきりと書かれているのを目にすることができた。そればかりでなく仲田は「アトリエ」(1934.1)にもその日のことを記事にしていた(下記赤色は「アトリエ」の引用)。

 

   私が石本喜久治に誘われてマグデブルク市にブルノ・タウトを訪れたのは一九

   二二年の秋だった。・・・伯林から汽車程二時間余、車窓からどんよりとした灰色

   の曇日のもとに、赤や青の原色に塗られた小住宅がチラホラ眺められたので早

   くもマグデブルク市に近づいた事を知った。

 

 

    

 

 

■4 世界一周していた石本喜久治
 ちなみに仲田日記から読み取られる石本の翌1923年の1月から5月末までの行動は、以下のようなものである。まず2月頃ベルリンからイタリア南部シチリア島まで南下の旅を行い、戻ればハンブルクの港を出港、アメリカ大陸サウサンプトンに到着してニューヨーク、ナイアガラの滝など東海岸から仲田に宛てて葉書を送った。その後カリフォルニアなど西海岸からも葉書を送り(さらに石本が撮ったと思われるライトの住宅の写真が『建築譜』にある)そして日本に帰国した。ヨーロッパからアメリカに渡って帰国したということは、どうやらアジア滞在こそなかったもののジュール・ベルヌの小説よろしく形の上では世界一周の旅を敢行していたようである。(石本が後に「コスモポリタン」を自称した(*5)理由がこの辺りにあるのかもしれない)


 さて話が脇道に反れてあまりに長くなってしまった。記事の内容などについては後編に譲ることとします。(つづく)

 

 

  *1:『近代建築の目撃者』(佐々木宏 1977年 新建築社)

  *2:『建築・風景』(三浦耀 1931年 岩波書店)

  *3:『ブルーノ・タウト 近代建築家第3』(藤島亥治郎 1953年 彰国社)

  *4:『未公刊資料ー仲田定之助のベルリン日記(上,下)』(寺門臨太郎 現代芸術研究1998年,1999年 筑波大学芸術学系五十殿研究室)

  *5:「建築のファシズム」其他(石本喜久治 『建築新潮』1927.2分離派建築会第六回展覧会号所収)

  *6:「仲田定之助日記(1922−1923)抄」(寺門臨太郎,山本佐恵,江口みなみ 2016年 美術批評家著作全集第18巻 仲田定之助所収 ゆまに書房)

 

 

 

| 1920年− | 14:38 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧東京朝日新聞社・・・計画時のパース2題

最近、分離派建築家のうち石本喜久治について気になっている。特に1922〜23(大正11〜12)年の渡欧外遊前後の資料はないかと思っている。石本氏は帰国後に渡欧の記録を『建築譜』(1924年5月)にまとめドイツの建築動向を解説し、また竹中工務店に所属しながら東京朝日新聞社社屋を設計しており1927(昭和2)年に竣工した。その間いくつかの論文や小規模な建物の設計をしたのは分かっているとしても、今ひとつリアルな側面が見えてこない・・・
そんなことを思いつつ、あちこち調べてみつけた発見報告を2回に分けてご紹介したい。(いつもの建物紹介とは違っていますが悪しからず。また異常な長文、お許しを。)

 

 

    

    建物竣工1927年,東京都千代田区,竹中工務店(石本喜久治),非現存

 

【パース画その1】

まずはこれ(▲)。大正期のアサヒグラフなどに有楽町の東京朝日新聞新築を予告するものが何か出ていないだろうか、と予想して誌面をめくってみたら、本当にあったのでびっくり。絵には正面中央最上部に大きな無線用の鉄塔が鎮座していて2度びっくりした。有楽町の朝日新聞社新社屋の提案時のパースのようである。鉄塔は大阪で設計されたせいなのか、私としては初代通天閣の風情なきにしも非ずといった感じである。1925(大正14)年7月に発行された同誌に2度同じ内容で掲載されていた。


左下には"TAKENAKA KOMUTEN  OSAKA JAPAN"と装飾書体で書かれている。右上にもドイツ語で書かれているが判然としない。

パースを眺めてみると、建物部分については実際に建った建物と比べて向って、当初は左側が少し大きかったことが分かる。しかし竣工した建物と造形上の基本的な違いは感じられない。石本の説明によれば左側の外壁が削られたようにセットバックしているのは市街地建築物法の規制による高さ制限を逆手にとった造形であるとのこと。私には苦しい説明だと思えてしまうのだが、一方で石本は「市街地建築物法への抗議案として」と名付けたミースのガラス摩天楼を模したような模型を、同時期の分離派展に出品している。

大きなマッスにバルコニーや庇がバランスよく張り出すのは竣工建物と同じである。コーナーが曲面であるなどやはりメンデルゾーンの影響とりわけベルリナー・ターゲブラット新聞社屋の参照が濃厚だろうか。特に地階右側の窓はメンデルゾーンの帽子工場を思わせる。比較のため竣工時の建物画像(『建築世界』1927.5より)を下に載せてみる(▼)。

 

このパース画は元々着彩画であったようである。(理由はレタリング文字の不明瞭さ。文字と背景とを異なる色相で表現したためではないか)竣工建物の外壁は3階から上と下を境に黄色と青緑色で塗り分けられていたそうだが、外壁塗り分けのアイデアはこのパースの段階で提案されていたことが分かる。カラーで見たかったものだ。こうしたポリクロミーの派手な塗り分けを自作に応用したのは、ドイツ マグデブルクで見た町並みが関係するのかもしれない。

 

因みに分離派の会員特に瀧澤真弓は、震災直後の今和次郎らバラック装飾社のペンキ装飾を批判していたが、しかし石本だけは「所謂バラツク芸術の出現に当面して非常な感激を受けつゝあるのである(*1)」と肯定的であった。それは恐らく実際に大元のマグデブルクで見た塗装外壁を「馬鹿々々しくも滑稽には違いないが、今の彼等にとつては実に止むに止まれぬ生命の強力的な爆裂(*2)」とし、大戦で疲弊しつつも放つ表現主義の光に対して、実見の上敢えて理解を示すことができたからなのかもしれない。そして自ら「Vagabond(放浪者)」(*1)と吐露したように、それ以降も合理主義的で純粋な芸術としての建築を目指す建築家石本と、一方で装飾に魅せられた石本とをひとりの人間の中に併せ持ちさまよう。(その詳細は次回)

 

話をパース画に戻そう。外壁各階の窓の窓台のレベルにはすべて細い帯状の水平ラインで結ばれており、何列もの水平線で水平性が強調されていた。水平ラインの意味については、『東京朝日新聞小観』の中で、一般向けではあるが意匠上の説明(恐らく設計者石本が書いた説明に間違いなかろう)でも以下のように述べられている。大戦後とはもちろん第一次世界大戦のことであり、文章の背後にヨーロッパに自ら赴いた者としての自信が感じられる。

「窓の窓台がそれぞれ水平線によつて結ばれていることは、大戦後に於けるヨーロッパの諸建築でもさうである様に、一つの安定した静かな気持を社会感情として各人が抱くことを表現せしめたのである。(*3)」

だがどういう事情によるのか、その水平ラインは下(▼)の実際に建った建物では、中層まででストップしており半楕円窓の部分には付けられなかった。

          

 

パース画の無線鉄塔について注意して見るべきは、大きさを強調するためにその部分だけ透視図法を無視し立面を貼りこむように描かれていることであろう。図法に沿って描いたら鉄塔は足元部分が見えず奥に小さく見えるだけになってしまう。つまり目立たせたかったようである。

そしてこれは蛇足だが、鉄塔には螺旋階段が描かれているのが見える。そのせいか、戦後の山田守による東海大校舎を思い起こした。


パース画に付された説明文には「昨年末京橋数寄屋橋畔千三十坪の地に新社屋を建設することとなり・・・」とある。「昨年末」とは1924(大正13)年末であり、他の記録によれば起工は1925(大正14)3月である。そこで設計時期を推定してみるならば、新築決定の1924年末から翌年3月の起工までの間では設計期間が少なすぎるので、やはり1924(大正13)年前半には設計が開始されていたのではなかろうか。伝説として伝わる社内コンペもその頃行われたのだろう。それはちょうど『建築譜』が刊行された頃、つまり渡欧の余韻がまだ残る時期にあたる。恐らく「昨年末」(1924年末)に決定された内容とは、設計案の承認かあるいは請負契約の締結を指すのではないだろうか、と推測する。

 

次に、1926(大正15)年1月の分離派第5回展出品の公開済の各面連続の立面図を見てみたい(▼)。これは工事のための実施設計図とみられ、この図の段階では既に大無線鉄塔は消えている。つまり最初のパースから次の段階に至って無線塔のデザインは保留状態になったらしいことが読み取れる。正面から見て左のセットバック部は実際に建った建物と同じになった。この段階では各階窓の水平ラインは石本の意図通り、最上段まできっちり描き込まれているので、中層階で終わってしまったのは現場での変更だったことがわかる。

 

      

 

【パース画その2】

さて、もうひとつ下は写真絵葉書に描かれてたもうひとつの外観パース(▼)をご紹介したい。これは先日ネットオークションでみつけて安く手に入れたもの。
こちらは、無線鉄塔は竣工時のものと同様のデザインがなされ、屋上階段室の上部に細長く突き出すように取り付けられた。玄関正面を避け構成主義的な造形に組み入れられている。やはり断然モダンでスマートである。
 

    

屋上階段室や無線鉄塔の設計に関しては、『東京朝日新聞小観』において以下のように正面から側面の階段室上部に移った試行の経緯が、そのまま造形上の説明として語られている。

「・・・これにも相当の考慮が払われている。この建物が水平線に延びんとする外郭を有するに当って、これに垂直な高塔が建物の正面の狭い面に垂直にあることは、建物全体としての釣合ひをとる上から言つても余り面白くないので、殊更に正面を避けた側面に持つて行つて、川に面する側の大きな面、中央の面、他の側の低い面との釣合をとる様にしたものである。(*3)」

また窓台の水平ラインについてはこのパース画においても立面図同様最上段まで描かれている。従って恐らくこの絵葉書のパースも、大切なデザインのポイントである水平ラインを全て盛り込んであることから、石本氏が描いたものであろうと思われる。さらにパースのタッチは白木屋などその後の石本作品のタッチにも似通っている。

 

そのようなわけで、他にも気になる点があるのだが、あまりに長くなってしまったので、そろそろこの辺で・・・・。

 

   *1:『建築譜』 より(石本喜久治 1924)

   *2:『分離派建築会作品 第三』所収「タウト一派の傾向価値」より(石本喜久治 1924) 

   *3:『東京朝日新聞小観』  「二 新社屋の設計」より(1927 東京朝日新聞発行所)

 

 

 

| 1920年− | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
星薬科大学(旧・星商業学校)

           

1924年,東京都,A・レーモンド,現存(撮影:2016年)

 

今年の春、アントニン・レーモンドの初期の名作である星薬科大(旧星商業学校)の見学会が行われた。壮観な大講堂など高密度の素晴らしい空間を体験することができた。(今回、建物の良さを積極的に知らせてよいとの大学側のご説明があったことから、内部の画像をこうして掲載した。)

 

レーモンドについては既に多くの方がご存じのように、F.L.ライトの下で帝国ホテルの建設のために1919年に来日、そのまま日本に残って独立し事務所を開設し作品を発表し続けた。そして戦時中を除いて長年日本に滞在し、近代建築普及の始祖的な役割を担った建築家である。


この建物がまさしくそうであるように、レーモンドの初期の作品には師匠ライトの個性的な作風の影響から抜け出せない苦悩の跡が残っている。正面のデザインはライト風、裏側の立面は故郷チェコで流行ったキュビズムの作風(▼)となるなど、統一されず二面性を持ったデザインとなっている辺りである。

 

        

 

圧倒的な講堂内部の空間(▼)。全体を貫く主たるモチーフは明らか、星の輝き,光の放射を幾何学化にした空間の造形。

昨今、東京女子大などレーモンドの傑作が失われていく中において、このように完全な形で初期の作品に出会えた幸せをつくづく感じ、奇跡のようでさえある。近代性を指向しつつ19世紀の西欧の香りを漂わせる数少ないホールが大切に使われていることも喜ばしい。

 

        

 

        

 

        

 

    

 

上下移動はすべてスロープによる(▼)。下は正面入り口のホール。広い面積を必要とするスロープが空間の性格を決定している。と言うかスロープ空間がホールそのものと言っても過言ではない状況。(後のコルビュジエの空間との接近は、知らず知らずのことながら、この頃から始まっていたということだろうか・・・)

 

             

 

スロープの途中はギャラリーの如く絵画も飾られている。
日本の神話を思わせるので調べてみると、推古時代の薬草や鹿の角などの採集風景をを描いたものとのこと、馬込文士村の画家数人によって昭和18年に完成したと知る。 (詳しくはこちら)

 

     

 

まさに校舎建築のシンボル性を遺憾なく発揮したのお手本であるばかりでなく、日本の近代建築の重要な証し。末永く維持されるよう祈りつつ、建物を後にした。

 

 

             

 

 

 

 

 

 

| 1920年− | 14:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧第一金庫本店

1925年,東京都新宿区,設計不詳,現存(撮影:2014年)

 戦前の建物が急速に姿を消しつつある中で、さらにこのような大正時代の香りを濃厚に漂わせる建物が現役で使われているのを見ると、嬉しさと敬意が同時に込み上げてくる。現在は「ビストロかがり火」という料理店となっている。

 同店の前身「浪漫亭」のHPには建物の沿革も記されていた。それによると1925(大正14)年に建てられたらしく、関東大震災後の復興期の遺構という見方もできようか。震災直後は「バラック装飾社」などをはじめとした芸術家の活動により、斬新なファサードデザインが残骸だらけの街並みに活気を与えていたのだが、そうした歴史を彷彿とさせるに十分なユニークな外観である。 
 また今や周囲の高層建築と比べてスケール的にアンバランスとなりながらも、ひとり健気に昔の街並みスケールの実像を伝える貴重な生き証人のようでもあった。

    

 残念ながら設計者などどうも分からないが、ブログ(あれやこれやの近代建築)が『第一金庫発達史−逞しき戦ひの二十年』と題された戦前の社史を紹介されているのをみつけた。近代デジタルライブラリーの中で公開されている本であり、その中で唯一建物情報として載っていたのが下の1枚の建物のモノクロ画像であった。

    



        




 
| 1920年− | 16:53 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・門司郵便局電話課庁舎(門司電気通信レトロ館)

1924年,福岡県北九州市門司区,逓信省営繕課(山田守),現存(撮影:1993年)

 逓信省営繕課勤務時代の山田守の設計による局舎建築。山田が担当した現存建物としては恐らく最も古い事例であり、つまり分離派として血気盛んなスタートを切った若き山田のエネルギーを、よく伝える建物であるように思う。



 竣工当時つまり大正時代末の逓信省営繕課内部では、電話網の拡張事業によって多数の電話局舎の設置が急がれていた。そんな中でデザインの質を確保するために標準化の縛りがかけられていた。例えば外観については、縦長窓に付け柱を配して様式建築としての威厳を必要最小限確保するようなものであった。また防火仕様として「内田式流水防火装置」なる装備が必須とされた。これは火災時に最上階の外壁窓上枠から水が最下階まで流れ落ちるしくみであり、営繕課長内田四郎の特許によるものであった。

 結局のところこうした標準化は、何の新味もないデザインを大量生産しようとするものであり、この守旧的な上司の発想は山田守ら若手技師の創造意欲を阻む障害以外の何物でもなかった。若い技師たちはそこからすり抜けるためにあれやこれや策を練ったといわれている。山田守からすれば分離派の信念に従い、まさに過去の様式性を加えただけでお茶を濁すような非創造的な設計姿勢をどうにか打破したいところであった。もっと言えば、様式性を排除したシンプルな外観とした上で、さらに自己のこだわりである曲面による流動的な造形をなんとか実現したいところであった。





 さてこの門司の局舎に目を向けると、若き山田が上司に対抗して創造性を発揮しようとした跡が垣間見える。
 まず連続した折れ線アーチや人面のような玄関装飾。これらの要素自体は山田以外の技師による局舎でも既に用いられていたもののようである。つまり既成事実となった上司の許可が得られそうなモチーフを選び、それらを山田が狙ったシンプルでモダンなイメージに捉え直して外観デザインに適用したのではないかと思われる。



 次に、窓の下枠窓台部分である。このお饅頭のように大きいなパーツには恐れ入った。先述の内田式防火装置を用いる場合に限っては(通常なら下枠部分は水切りの機能を持つべきなのだが、全く正反対に)水が外壁を伝って流れるような滑らかな断面形状になっていなければならないとされていた。つまり曲面形状の下枠で水が伝わり易くなっていなければ上司のOKがもらえない。そこでこのことを逆手にとり、曲面に対して偏愛的なまでのこだわりを持つ山田は、ここぞとばかりに曲面状の滑らかで大きな窓台を設計したのではないだろうか。そんな逓信省の製図室の光景が目に浮かぶ。

 その他、裏側を見ると、曲面状にオーバーハングした部分があり(上画像)、戦後の一連の病院や山田自邸などにみられるガラスシリンダー状空間の予兆を既に感じさせる。
 つまり、ここ門司にある最初期の山田守の作品には、生涯通して変わらなかった造形指向が既に見られるのである。








 
| 1920年− | 22:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
久保山墓地納骨堂

            
          1925年,神奈川県横浜市,山本外三郎,現存(撮影:2012年)


 約20年ぶりに再訪した。あの時は半信半疑で『建築新潮』の掲載ページ(最下の画像)と久保山墓地の名を手掛かりに探し歩いたのだった。そして初めて納骨堂の前に行き着いたとき、写真通りの威厳を保ちつつ現実に聳えている姿に感動し、感慨で言葉も無かったのを覚えている。

 霞橋(前項)から坂を上り20分ほど歩いたら、久保山墓地の最奥で今回も以前とほぼ変わらぬ姿に出会った。メンデルゾーンの建築を彷彿とさせる3D曲面の外壁は、こう言っては不謹慎かもしれないがよく出来ている。一点だけ人造石洗い出しの表面が一部剥がれていたのが気になった。建築当初の写真と見比べると入口部分の庇が変化しているのは、過去にここだけ破損し作り直されたということであろう。
                      
           
           

 この納骨堂は無縁仏の遺骨を納めるためのものであり1925(大正14)年に建てられた。およそ以下のような内容の設計者山本外三郎の解説から、その内部空間もある程度想像できる(*1)
 内部は6段の棚が3方にしつらえられ遺骨が積み重ねられており、嵌めこまれたステンドグラスの効果で純白のプラスター塗りの空間が淡緑色の光で彩られ、陰もまた澄んだ淡紫色である、とのことである。 外観の造形については特に触れられてはいない。ただしドーム部分の仕上げ材は「銀灰色のストーンテックス」、下部は「褐色味を帯びた人造石洗い出し」とあるので、当初はツートンカラーだったのかもしれない。

 「私はこの納骨堂の設計をする時、うしろ寒いやうな一寸云うに云われぬ森厳な感動を受けながら鉛筆や定規を動かさねばならなかったことを告白します」 (*1)
 
 設計者は、引き取り手もなく苦難を背負いつつ生涯を終えた者に思いを馳せ、厳粛な気持ちを得たことを吐露した。そして、ここへたどり着いた死者だけに許される贅沢な安住の空間を用意したのである。生きる者の踏み込み得ない封印された場所として。私はここに、大正期独特のロマンチシズムに根ざした建築の発想を見る思いがした。

                                     
                   「建築新潮」(1925年4号)口絵


     *1:「建築新潮」(1925年4号)「久保山納骨堂に就て」山本外三郎




 

| 1920年− | 20:48 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
万国橋ビル


1928年,横浜市中区,設計者不詳,非現存(撮影:2012年10月)

 海岸近くの横浜の北仲通地区では再開発が進行中であり、万国橋ビルのような歴史を感じさせる建物についてもその扱いが検討されていた。しかしここへ来て解体されるとの情報を得るに及び、しかも残された時間もないようなので急きょ出掛けてみることに。10月末のことであった。
 訪れてからほどなくして囲いで覆われたらしく、上には「解体中」と記したもののどうなっていることか・・・ 

     

 その名が示すように万国橋のたもとに建つこの戦前に建てられたオフィスビルは、ことさら際立ったデザインをまとっているわけではないけれど、その端整な外観は、古き良き横浜の街並みの雰囲気を想像させるのに十分な風格と情感とを備えているように思う。
 建物は道路面よりさらに下のレベルまである。橋から見下ろすと、最下層部の荷揚げ口と思しきものが古い石垣の護岸に接しており、つまり船から建物にアプローチも可能だったように見える。

 建物の竣工は1928(昭和3)年とのことなので、現在ある万国橋(昭和15年建立)よりも古い。当初はもっと違った風景が広がっていたそうである。        

        

 エントランスには品よく控え目にアールデコ調の装飾が施されていた。外装は、下の写真に見られるような剥落痕からして、タイル貼りの外壁であったようである。

 






 

| 1920年− | 21:38 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
上野労働相談所

 
1925年,東京都台東区,下谷兵事会,非現存(撮影:1992年頃)

 かつて上野駅の東口に建っていたRC3階建ての建物。上記のデータは『日本近代建築総覧』の内容に倣っているのだが、特にその備考に記されている「S.14年以前は市民食堂」との文言が気にかかった。
 それと言うのもここに記された「市民食堂」とは、大正期以降に設置された東京市営の「公衆食堂」(あるいは「市設食堂」とも称される)のことを指すのではないか、と思ったからである。現存する公衆食堂の建物としては、丸窓が印象的な旧・東京市深川食堂(昭和7(1932)年竣工)が知られ、「深川東京モダン館」としてリニューアル、活用されている。

 公衆食堂とは、大正7(1918)年に富山県で起こった米騒動が引き金となり、その影響がもたらした物価高騰と市民の生活苦に対処するために、東京市が社会政策の一環としてが経営をはじめた食堂である。市内に合計16か所設置され、定食は10〜15銭,カレーライス15銭,コーヒーが5銭であった(*2)。

 そのうちのひとつ上野公衆食堂は、大正9(1920)年という初期に設置された部類の食堂である。所在地は旧住所で「下谷区車坂町25」とある(*1)。この建物の立地と重なるので、おそらくこの建物が旧・上野公衆食堂であったとみて間違いなさそうだ。
 市内の食堂は店によって利用頻度に差が生じて、閉鎖に追い込まれる食堂もあったらしい。上野食堂も何らかの理由で食堂の役目を終え、変転を経て最終的に労働相談所として利用されるようになったようである。

 公衆食堂は、関東大震災以後の復興事業として大正14年に10か所が建設されたという情報もあり、また上野食堂については昭和5年に新設されたとの情報もみられる(*2)。もしや建物はこうした時期のいずれかを節目に、当初の建物からRC造に建て替えられたのであろうか。
 建物の設計が「下谷兵事会」とあるが、これがどういうことなのかは判らず、謎のままである。
 なお、上記の内容と同様の推測が、ブログ「ぼくの近代建築コレクション」の中で既になされている。
 今や推理の範囲でを出ないとはいえ、公衆食堂の歴史を証す建物のひとつが既に失われてしまったことは、大変残念である。


  *1:『下町文化』No.247(市民の食生活を支えた市設食堂) 参照
  *2:
ブログ 宮沢賢治の詩の世界」(大正期東京市の「公衆食堂」) 参照


| 1920年− | 22:38 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
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