収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
昭和第一高等学校(旧・昭和第一商業学校)増築部

  

   

 

       

    1937年,東京都文京区,石本喜久治,現存(撮影:2016年)

 

上の画像(▲▲)が現状、上から2番目の画像(▲)は竣工時。
外堀通り沿いに見えるややゴシック風の既存棟(▼)の裏手の同敷地内にモダニズムの棟が増築されていて、それは戦前の石本建築事務所の設計によることが判った。比較して分かるように現在の道路側外壁面には煉瓦色のタイルが貼られ、屋上のパーゴラ風のフレームは取り去られている。(既存建物とは別棟ではあるが、ここでは当時の図面タイトルに合わせて「増築」と称した)


石本建築事務所の『50年の軌跡』巻末の作品年表を見ると「昭和第一商業学校」との記載があり、そのことが以前から気になっていた。そしてつい最近、石本事務所に行って調べる機会があり同事務所で増築工事を担当していたことが判明、海老原一郎の押印のある図面や竣工アルバムが残っているのを見出した。そして了解を得てここに掲載した次第。

 

                   

 

戦前期に石本喜久治が設計した作品は、数が多いにもかかわらず商業系の建物が多かったためか現存建築物は少ない。残っている建物を挙げると、以前取り上げた「旧・白木屋大塚分店(現・大塚ビル)」が外壁表面を金属パネルで覆われつつ残っている他、横須賀の「旧・海仁会病院(現・聖ヨゼフ病院)」は立原道造が計画に関与した建物でもありドコモモの認定建築となっている。他に石本の卒業設計「涙凝れり」の実施版を思わせるコンクリート造の石本家の墓標が大阪にある、といったところであろうか。数年前に解体された芦屋の松橋邸は密度の濃い戦前モダニズム住宅であり、しかも家具、照明器具からカーペットまでアールデコ装飾でデザインされた石本らしさがほぼそのまま残る作品であっただけに大変惜しまれた。


そうした現存状況から考えると、この現昭和第一高校の増設棟は必ずしも凝った作品とは言えないかもしれないが、数少ない現存建物として貴重であろう。特に正面ペントハウスの「塔」が残っていたことは喜ばしい限り。

 

    

 

 

    

 

(上の画像は建物裏側の現状(▲▲)、そしてモノクロ画像(▲)は竣工時のもの。一部再増築されたのがわかる)

 

石本作品の特徴として、戦前のビル建築のには必ずと言ってよいほど「塔」あるいは「搭状のペントハウス」が付いている。どうも旧朝日新聞社屋や日本橋の白木屋以降そうした傾向が続いたようである。

そのようなわけでこの現・昭和第一高等学校においても、見ての通り屋上中央に塔状のペントハウスが残っている。しかも1930年代の石本建築に見られるやや新古典主義風の特徴がここでも示されている。

 

屋上から下をモダニズムのデザインとし、屋上から上の屋根部分を時代状況に合わせ、あるいは施主の好みに合わせて造形上の操作を加えるのは、1930年代以降の民間設計事務所にとって生き残るに必要な道であったのか、と思わずにいられない。あの分離派の闘将石本喜久治でさえも。

 

 

 

 

 

| 1930年− | 11:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
大丸心斎橋店本館
     
1933年,大阪府大阪市中央区,ウィリアム・メレル・ヴォーリズ,現存(撮影:2014年)


 昨年、甲子園へ高校野球の応援に行こうとした時のこと、折悪く台風の直撃に合い数日間関西で足止めとなってしまった。それでも雨の降りしきる中「建物見たい病」の発作に抗することはできず、とりあえず地下鉄に乗った。そして大雨でも内部が見どころ満載の建物をふと思い出した。心斎橋の大丸。もっとも外観も大したものなのだが。

 雨の合い間を縫って撮った外観はゴシック風を基調としているというべきか。もっともデパートということもあってか自由な装飾で肩の凝らない楽しさがある。

  

(▼)これは階段室に掲げられていた竣工当時の写真プレート。見ると低層部、中層部、上層部と塔屋の三段構成のファサードとなっていることが分かる。御影石、タイル、テラコッタ、それぞれ異なる外装材が貼られている。

    

(▼)あの有名なピーコックに遭遇。入口天井にも華やかな装飾。

    

       

 内部はそれこそ目を見張る装飾空間。そのどれもが本物であり、つまりコマーシャリズムの延長線上で一時的に貼りつけたものでは決してない。だから感動も大きい。どこかの宮殿にありそうな、一般には縁遠いであろう質の高い装飾空間を、大阪近辺の人々は80年以上だれでも普通に目にすることができたのであるから羨ましい限り。

 付け加えて言えば、それを易々と建替えてしまおうとする度胸にも驚かされる(精一杯の皮肉を込めて)。教会堂を多数設計したヴォーリズの代表作、ある意味最大規模の聖なる空間がここにあると言えるかもしれないのにもかかわらず。

    

(▼)エレベーターには大胆なアールデコ装飾。ややアラベスク風でもあり、ゴシック風の装飾も

    

      

  

(▼)さらに以前は大きな天窓採光吹き抜け空間があった(階段室掲示の写真プレート)

    








 
| 1930年− | 18:21 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧JR奈良駅舎(奈良市総合観光案内所)
 
1934年,奈良県奈良市,大阪鉄道管理局工務課(柴田四郎,増田誠一),曳家の上保存,現存(撮影:2014年)


 ここからは、久しぶりに関西の建物(特に奈良と大阪の建物を中心に)取り上げてみようかと思う。今年の夏、用事で関西に数日滞在した折に撮った写真であるが、ちょうど台風の襲来と重なり、その間を縫うようにしながら廻れるだけ廻った。

 まずは保存活用叶ったJR奈良駅舎。約20年前にここを訪れた際に撮った写真が家のどこを探しても無いので、再訪しリニューアルした駅舎を撮り直したことになる。   

   

 初めて訪れた時には、なぜか待合室に「サモトラケのニケ」像が置かれており不思議だったことを覚えている。それは「奈良シルクロード博」で展示されたものだったそうなのだが、現在は無かった。ご覧のような新しい用途に合わせて雰囲気を変えていた。

     

 建物の外観は洋風を基本に和風の屋根を載せた、いわゆる和洋折衷のRC造建築という、比較的昭和初期にありがちな形式ではあるが、ここでは古都奈良の地域性を考慮するというはっきりした目的を持ってデザインされている。相輪を載せた屋根は破綻なく全体が調和しており、うまくいった建物だということを再度訪れて確認できた。
 こうした和洋折衷の建物は、軒廻りと柱頭のデザインに作者のセンスが出やすいように思う。強いて言えば「あっさり味」な方だろうか・・・

     

     

     




 
| 1930年− | 18:08 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
JR鶴見線国道駅
     
1930年,神奈川県横浜市鶴見区,阿部美樹志,現存(撮影:2014年)

●戦前からの高架下空間
 ふと戦前の鉄道高架橋下空間の利用について気になったので調べてみたところ、やはり戦前から、賃貸とし高架の建設費を補充するという考え方があったことを、小野田滋氏の論文の中にみつけた(*1)。つまり高架下に人が住み店舗などとして利用されはじめたのは戦後のドサクサが発端だったとは限らない、ということが分かったのである。

 先日、JR鶴見線国道駅とその周辺の高架下を見に行った際にそのような疑問を抱いたわけなのだが、その論文にはさらに重要なことも書かれていた。国道駅やその路線の高架橋などを設計者が、大正から昭和戦前期にかけて鉄筋コンクリートによる建築物や鉄道高架橋など幅広く手掛けた阿部美樹志であったのである。
    

●昭和5年開業、鶴見臨港鉄道「国道駅」
 JR鶴見線は、元々は「鶴見臨港鉄道」の路線であった。まず1926(大正15)年に貨物線として開業、同社は鶴見の仮駅舎から扇町に至る区間に高架橋や橋梁を建設、1930(昭和5)年に旅客輸送を開始した。国道もその時に誕生したのだが、駅名称は第一京浜国道と交差する地点のそばだから、ということらしい(図5)
 その後鶴見臨港鉄道は1943(昭和18)年に戦時買収により国有化され、今日のJR鶴見線となった。国道駅は戦後の1971(昭和46)年には無人駅となりながら今日に至っている。

    

 RC造の高架橋の上が国道駅のホームとなっている。緩いアーチが美しい鉄骨の上屋あるホーム(図6,7)から階段で降りると改札がある(図8,9)。改札口は当初上下線それぞれにあったらしいが、現在は高架下の渡り廊下を通じて一ヶ所の改札から出入りするようになっている。
 高架下空間は結構高さがあり、上階が住宅下階が店舗となったユニットが上下線に沿って並び商店街を成している。そうは言っても現在は、外見上ほとんどの店は閉鎖されたようであった。

●現在の「国道駅」
 現在の高架下は画像の通り暗く寂れていて、それがある意味知る人ぞ知るスポットとなっているらしく、見廻せば数人の人が写真を撮っていた。
 確かに実際に行けば行っただけのことはあった。改札を出て高架下の商店街に足を踏み入れた瞬間、異空間に迷い込んだ感覚に襲われた。古い看板がそのまま残り、ありし昭和の時間がそのまま凍結したかのようであった。心もとない照明に照らされただけの暗闇に、幾重にも重なりあったアーチ構造が浮かび上がり、まるで昭和へと誘うタイムトンネルそのもののといった風情だったのである(図1〜4)





 ネット上にも無数の記事があり、その中に黒澤明の映画「野良犬」(1949年)などロケ地などとして使われたことが書いてあったので、早速その「野良犬」を観てみた。
 この映画には闇市ばかりを映し出す長いシークエンスがあるのだが、それは映画表現として優れているだけでなく当時の風俗記録としても貴重であると、映画通の間で知られているらしい。そこで特にその辺りを中心に見たのだが、何度見返しても国道駅とすぐに判るような空間は現われなかった。長い街路に沿った露店が並ぶシーンがあり「それかな?」と思う位であった。詳しい方に教えて頂きたいところである。

●「臨港デパート」
 国道駅の高架下空間は商店街となっていて、そこはかつて「臨港デパート」と呼ばれていたそうである。その存在を証し立てる往時の画像などには今のところお目にかかっていないのだが、開業当時は高架下商店街として活気に満ちていたことは想像に難くない。以下その理由について、鶴見臨港鉄道からJR鶴見線に至るまで詳細に記された『鶴見線物語』(*2)を参考にしつつまとめてみた。
         

         
 デパートと呼べるような商店街が計画されるほどの乗降客があったとすれば、まず浅野総一郎の埋め立て事業による工場進出がもたらした京浜工業地帯の通勤の足として、基本的に路線そのものの需要が高かったことが理由として挙げられるであろう。そして競合路線である既存の「海岸電気軌道船線」を買収した上で旅客輸送を開始したので、利用客は鶴見臨港鉄道に集中したことも大きな要因であったのでなはなかろうか。
 さらに通勤客のみならず、1916(大正5)年に開園した花月園遊園地や、1911(明治44)年鶴見に移転した曹洞宗大本山總持寺(最寄駅は隣の「本山」、現在は廃止)などが近く、行楽や参詣の人出も大きく作用したことが考えられる。
         
 昭和9年には臨港鉄道の始発鶴見駅の駅舎は省線鶴見駅まで延長され、駅舎の一体化がなされた。集客の成功を裏付けるかのように、両路線の乗り換えの利便性UPが図られた上、鶴見駅には国道駅よりも格段に規模の大きい商業施設「京浜デパート」が建設された。その建物は建物は現在も「京急ストア」として現役である。(これについては後日別稿を設けようかと思う)。

 この頃には「高架線下貸室ご案内」との広告が打たれ、鶴見駅から国道駅に至る間の高架下の範囲でテナント募集が行われていたのだが、「アッという間に埋まってしまった」(*2)とのことである(図14は現在の利用状況)
     

 さて、このようにそれなりの需要が見込まれ当初から臨港デパートは消費を刺激するべく華やいだ商業空間のデザインがなされたのであろうと思うのであるが、私が見た限りでもそのことを窺い知ることができる。
 まずはアーチ。当時流行りのアール・デコ装飾を意識したような幾重にも連続するアーチの幾何学パターンは商店街の広がりとその範囲を示すサインにもなっていよう。また、当初からのものと思われる各戸の入口の木製建具上部の欄間にも、正方形の幾何学格子模様(図10〜12)があしらわれていて、商店街全体をひとつのトーンでまとめようとする意図が感じられる。さらに柱の腰に巻かれたスクラッチタイル(図13など)の使用は、阪急梅田高架橋に通ずる装飾との指摘がある(*1)
 こうしたモダンなデザインとして構想され実現を見たのも、その分野において手馴れた阿部美樹志の関与があったからこそなのであろう。
          

●阿部美樹志の業績
 阿部美樹志(1883−1965)は、戦前の日本における鉄筋コンクリート工学のパイオニアのひとりとして、建築では旧・阪急梅田ビル(第一期1929年),神戸阪急ビル(阪急三宮駅)(1936年)、日比谷映画劇場(1934年)などをはじめとした多数の建築物や鉄道高架橋などを設計、建築−土木の隔てなく活躍した。
 アメリカ留学から帰国後鉄道院に勤務、1920年に独立して設計事務所を経営した他、浅野混凝土専修学校校長、東洋セメント社長などを歴任、戦後は戦災復興院総裁に任じられアパートのRC造化を推進した。

 コンクリート構造が専門であるが意匠性についても力を発揮し、阪急ビルや神戸阪急ビルなどで大きなコンクリートのアーチ空間を創出した。高架橋の構造にもアーチを取り入れることがあり、コンクリートのアーチはいわば阿部美樹志のトレードマークの感がある。国道駅にコンクリートのアーチがみられるのは、必然の成り行きだったようである。

 ここで小野田滋氏の論文の中から、阿部美樹志が手掛けた高架橋からいくつか拾い出してみた。できるだけ現在の路線名に直してみたのが下記なのだが、さて現在どれだけ残っているのだろう。
  ・(JR)東京−万世橋間(1919年)(初のRC造鉄道高架橋)
  ・(阪急)梅田高架橋(1926年)
  ・(東横線)多摩川園−神奈川(1926年)−高島町(1928年)(現状は廃止)
  ・(東横線)渋谷−多摩川(1927年)
  ・(東急大井町線)大井町−大岡山(1927年)
  ・(JR南武線)尻手−浜川崎(1929年)
  ・(阪急神戸線)三宮高架橋(1936年)

 阿部の設計による代表的な建築物の多くが消滅した昨今、高架橋についても少なくなっているようで気にかかる。国道駅は今や貴重な作例と呼んだ方がよいのかもしれない。
       

●歴史が刻んだもの
 国道駅には戦時中の空襲で受けた痛々しい弾痕があちこちに残っている(図15〜17)。この辺り一帯が焼け野原になり果てたころの辛い過去を静にかつ雄弁に、老いた駅舎が語りかけているかのようであった。
 また寂れた風情の国道駅の高架下も、かつては重化学工業の中心地をひた走る路線の駅舎として、いわば繁栄の表舞台に立っていた頃の誇らしい思い出を背後に秘めながら、息をひそめて建ち続けているように思う。この奇跡的に残ったとも言えるような昭和戦前からの遺構を、今後とも大切に継承してゆきたいものである。

          

     



*1:「阿部美樹志とわが国における黎明期の鉄道高架橋」(小野田滋,『土木史研究』第21号,2001.5)) 小野田滋: 工学博士 (財)鉄道総合技術研究所
*2:『鶴見線物語』(サトウマコト,2005,230クラブ)




 
| 1930年− | 20:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
三岸アトリエ
     
1934年,東京都中野区,山脇巌,現存(撮影:2014年)


 昭和初期といえば、明るく透明感のある白い箱のようなモダニズムの建築が登場し、進取の人々を魅了し始めていた。しかしイメージそのままに作られた木造の建物は、か弱い可憐な花のように、大抵の場合そう長くは持ちこたえられず修理の繰り返しを余儀なくされ、あるいは短命に終わったようだ。それでも自然の摂理に敢えて挑戦するように陸屋根と大きな開口部を持つ純白の住宅に住むことは、生活自体が主義主張を行うのと同じ意味を持ち、つまり住み手側にも強い意志が求められていたことを物語っていたのである。
 例えばそうした状態から出発した初期モダニズムによる個人の建物は、今やどれだけの数が生きながらえているのだろうか。

     

 1934(昭和9)年に完成した画家三岸好太郎のアトリエも初期モダニズムの貴重な遺構である。三岸好太郎(1903−1934)は大正から昭和にかけて活躍した画家であり、洒脱で独特の詩情を漂わせる画風の持ち主であった。だから勿論、鬼才の画家三岸好太郎そして妻で女流画家の三岸節子(1905−1999)のアトリエとしての価値も大きいはずである。
 アトリエの現在の姿は、自然の強い力抗しきれなかった結果として各所に綻びを呈し、また修理や増改築を経て当初のままとはいかない現状にある。しかし、かえってそうした建物の姿こそが三岸のアトリエを維持する住み手の強い意志の表れとしてこちらに迫ってくるのであり、語弊があるのを承知で言えば、そこにある美的な感動さえ呼び起させられる。


●三岸アトリエの経緯
 このアトリエは単に画家の仕事場というだけではなく、三岸好太郎にとっての理想的空間イメージの表現でもあったようだ。三岸による計画段階のスケッチなども残されている。三岸が示したアイデアに呼応しつつ、バウハウスに学んだ建築家山脇巌が実際の設計を進めた。

 アトリエのポイントとなるらせん階段はそうした三岸が強くこだわっていた部分である。しかし、その比類なき空間の完成を目にすることなく三岸は急逝した。妻の三岸節子によって建物は完成し、後に洋風の暖炉のある建屋や庭園が加わるなど増改築が重ねられながら、アトリエは守り伝えられてきた。歴史の年輪を積み重ねるように変化する建物は、生きた建築としてあり続けていることを意味するのであり、従って現在も三岸好太郎の魂がそこに息づいているという感覚と感慨に浸ることができるかもしれない。

     

     


●求められる保存措置
 現在、三岸好太郎の孫にあたる山本愛子さんが維持管理に腐心されている。このアトリエの価値を重んじ、区の交流会場(まちなかサロン)絵画教室を開くなど積極的に有効利用を図られている。このブログへの掲載についても、価値ある建物の存在を周知する観点から快く了承して頂いた。ここに掲載した竣工時の写真や資料(資1〜5)も山本さんから提供を受けたデータである。

 前段で歳月を経て綻びつつも力強く建つ貴重なモダニズム建築を讃えたつもりなのだが、それはそれとして、一方で呑気に褒め讃えて済ませられる状態ではない現実もある。老朽化は進んでおり、長く維持しようとするならばそれなりの措置が必要であるとも言われている。山本さんが最も悩んでおられる部分である。先の地震による漆喰壁の剥落は痛々しく、早急な対応が待たれる。ただ一部応急措置が「中野たてもの応援団」により差し伸べられつつあったことは、せめてもの救いに見えた。


     


●アトリエ見学
 6月14,15日の両日、「近代建築探訪メーリングリスト」による「まちかどの近代建築写真展」がここ三岸アトリエで開催された。私もメーリングリストの会員であり、この機会に三岸アトリエを改めて訪問した。今回で2度目の訪問となる。

 建物がどのように増改築や修理を受けてきたのか、当初の資料写真と見比べてみるとなんとなくわかってくる。当初の陸屋根は目立たぬように勾配屋根で作り直されていた。また当初の玄関は、現在収納庫として使われているので入ることは難しい。その代り暖炉のある洋風の部屋が増築され、そちらからアプローチするようになっている。またアトリエ北西側の外壁面全体が幅約1間増築されている。それに伴って北側の大型窓が改修され、天窓はなくなったようである。アトリエ内部の鉄骨らせん階段と2層吹き抜けの大空間は健在なのだが、道路側の大型建具は大幅に改修された。おおまかに言って以上のような変化がある。

    

 しかし細部をよく見ると、当初のままと思しき見どころもある。旧応接スペースや旧玄関を中心に、まるで埋もれた宝石が顔をのぞかせているように残っていた。将来必要に応じて修理され再現されるよう、心の中で祈った。
 例えば旧応接スペースの奥には、黒いタイル貼りの飾り台があった(下の写真)。真鍮のカバーの中にストーブが収納されるようになっていた。資料5の当初の写真の通りモダンで美しい台である。

     

     

 旧玄関のドア脇の球形のペンダント照明は、丸く刳りぬかれた外壁に接しており、外部のポーチ灯を兼ねている(下の写真)。刳りぬかれた丸い穴からは外気が入る、さりげなくも大胆な仕掛けである。夜、絵のモチーフになりそうな蛾が飛来するのを期待したのだろうか・・・などと想像したくなる。

   

         

 旧玄関ホール部分にはグリーンのスチールパイプ棚(下の写真)が、白い壁面のアクセントとして取り付けられていた。

      

 床は土間部分に黒いタイル、靴を脱いで上がった床には白いタイルが貼られている(下の写真)。白いタイルは釉薬がかかった艶付のタイルであり、壁一面の大きなガラスの窓からの光でさぞかし美しく照り映えていたことだろう。

      


 こうした細部のひとつひとつが三岸と山脇によって考え抜かれたアイデアであったはずである。設計は、全体の中で動かしがたいところまで考え抜かれ洗練されていったに違いない。そうしたいわば三次元の美術作品が、いつの日か再現されたらどんなに素晴らしいだろう・・・、とそのようことを勝手に思いつつ建物を後にした。




 
| 1930年− | 19:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・門司信用金庫

1930年,福岡県北九州市,設計不詳,非現存(撮影:1993年)

 あれからもう20年も経ってしまった。当時存亡が危うかった下関第一別館(現・田中絹代ぶんか館)を居ても立ってもいられない思いで見に行き、そのまま門司に渡って逓信省営繕課山田守設計のNTT門司(現・門司電気通信レトロ館)を見学した。
 門司港駅周辺は、当時からレトロ建築の町としての風情を湛える町であった。NTT門司への道すがら、古い建物を目にしつつ、レトロチックというよりはこのちょっと風変わりなアーチのある建物が目に入った。



 大体、新しいのだか古い建物なのか判然としない。それで余計気になった。それもそのはず、後で調べたら旧門司信用組合として昭和5(1930)年に建てられ、さらに某氏からの情報によれば戦後の昭和20年代の改修工事の際に、この印象的なアーチ型の玄関庇が取り付けられたということである。それは関門国道トンネル(1958年開通)の開通を祈念したためだそうで、つまりこれは建築要素としてのアーチというよりは、まさにトンネルをかたどったものが付けられたと言った方が正確なのである。
 因みに某氏から教えて頂いたところでは、竣工当初の写真を見たらもっと緩いカーブの庇が付いていたのだそうである。

 海底を通る関門トンネルが画期的なものとして、当時の期待の高さを物語る証人としての建物ということになろうか。だが建物はタイル貼りから吹付け仕上げの外装へと変わり、名称も「福岡ひびき信用金庫門司港支店」へと変わり業務は移転。2009年に解体され既に無い。







 
| 1930年− | 22:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
名古屋市公会堂
     
1930年,愛知県名古屋市,名古屋市建築課,現存(撮影:2012年)

名古屋の建築(3)
 雄渾に聳え立つ、その気宇壮大な佇まいは名古屋市民の心意気か、昭和天皇御成婚を記念する祝意の表れであったのだろうか。
 ごく個人的な感想で言えば、その巨大スケールのせいなのか、かつての堀口の卒業制作をなんとなく連想したりする。大名古屋鶴舞(つるま)公園に起つ中心建築という具合に。

     

 連想を誘うという意味では、オルブリッヒによるヘッセン大公ルートヴィヒ結婚記念塔の方が、本来近いのであろう。結婚記念という意味合い、それに半円形頂部の塔など共通項からして。そしてモダンな造形に向かっている点においても。

        

 シンメトリーでモニュメンタルなこの大きな建物は、それが昭和以前の設計であったのならば、威圧感を相当与える造形がなされていたであろう。しかし、モダンな造形感覚が取り入れられ、昭和の新しい感覚でモノを見る人々は随分と救われたに違いない。(設計顧問として佐野利器,武田五一,鈴木禎次が関与したとの説もあるそうだ。)

        

 全体はアール付ののっぺりとした表現主義的な壁面で覆われており、(様式的装飾や処理はあるものの)それだけで相当軽快な建物となったように思える。そして部分に目を向けるならば、私は入口のキャノピー(玄関庇)に感心した。(本体とキャノピーを一体化しマッシブな塊りに見せることを極力避け)キャノピーの機能を持つパーツを本体建物と視覚的に分離するという造形操作を行っている。分節を効かせたその結果、全体はさらに軽快感が増す。つまりモダニズムの建築手法である。

              









| 1930年− | 22:43 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・名古屋逓信局(日本郵政グループ名古屋ビル)

 
1938年,愛知県名古屋市中区,逓信省営繕課(中山広吉),現存(撮影:2012年)

名古屋の建築(1) 

 今や数少なくなった戦前の逓信建築の秀作。耐震補強が痛々しいが目をつぶるしかない。設計担当は中山広吉。中山は1920(大正10)年に逓信省営繕課に入省したので、分離派の山田守(大正9年入省)の1年後輩にあたる。戦前の逓信省では山田守や吉田鉄郎が逓信建築に新風を吹き込んでいた中にあって、中山も独自の建築を目指した。

     

 中山広吉の作風は、どちらかと言えば吉田鉄郎寄りの端整さが特徴かもしれない。1927(昭和2)年の東京中央電話局は様式建築の作法をとどめ、山田の代表作東京中央電信局と隣接しつつも対照的であった。1929(昭和4)年の横浜中央電話局(*1)については、「横浜都市発展記念館」として現存している。
 中山の学生時代の卒業設計を見ると、柱型が強調され装飾は最小限に抑えられていて、それは逓信省以後の担当作と似ている。当時の逓信省では外装デザインに柱型を取り入れることが必須であった。柱型は様式建築を簡略化したもので建物外観に最小限の威厳、垂直性を与えるものであったようだ。中山はそこを持ち前のセンスで捉え、上品にまとめたようである。

     

 そして1938(昭和13)年竣工の旧・名古屋逓信局については、向井覚氏が「逓信省の建築家達」という連載記事において、「中山さんのそれまでの集大成であり、薄い軒庇と大きな窓、それに久しぶりで正面ファサードに柱型を出して、垂直の線を強調し・・・」(*2)と書いている。その頃は中山もモダニズムを基本路線とするようになり、同じ頃に建てられた吉田鉄郎の大阪中央郵便局(1939)と近しい造形感覚による。そうした中山の代表作が名古屋逓信局であり、これ以後はデザイナーとしてよりも主に行政官として活躍したそうである。
 尚、こうした庇の建築は戦後の郵政局舎において、各階庇の建物としてさらに普及した。
 

         

 ところで上記の文面にある「久しぶりの柱型の復活」の件についてはちょっとした疑問を感じてしまう。(「久しぶりの柱型」とは、一番上の画像で言えば左側の凹凸のある壁面を指している)ここでは、柱型はかつての様式建築の延長上にある柱型の再現と解釈されているようだが、私が個人的に感じたところでは、そうではなくむしろモダニズムの考え方に倣い、構造体の柱型と梁型を隠さず表わしたものとして見えるのである(しかし、同様かつ最良の参考例であったはずの大阪中央郵便局の建物が既に無く、建物を見比べられないのが残念である)。

     



*1:元々は森泰治の設計で横浜中央電話局が建設されていたが、完成直前に関東大震災で被災、損傷が大きく建替えを余儀なくされた。そこで中山広吉の設計により建て直されたのが現在の建物である。

*2:『電電建築資料』(1968.10)「逓信省の建築家たち〈1〉」(解説:向井覚) 





| 1930年− | 20:21 | comments(6) | trackbacks(0) | pookmark |
正金アパート

 
1931年,東京都中央区,設計者不詳,現存(撮影:2012年)


 都内で戦前期に建てられたアパートは、どの位残っているのだろう。最近、同潤会アパートとして唯一現存する「上野下アパート」の解体が決まった話を思い起こしつつ、ふとそんな思いが頭をよぎった。
 
 調べてみると、新富町の「正金アパート」が威容を保ち続け、勿論現役で住まわれ続けていることを知った。割と知られている建物のようだ。行ってみると、確かに1階は店舗として上階は住戸として使われている。
 外壁表面こそ年輪を感じさせるべくくすんでいるものの、昭和初期のモダニズムの感性を湛えた外観はあくまで無装飾で格好良く、いかにもレトロファンの垂涎の物件といった感じがする。でも外見上はまだまだ丈夫で長持ちしそうであった。

 屋上ペントハウスは洗濯室であった。とりわけ「人研ぎ」の洗濯流しの、デザインの格好良さと造りの巧さに、我が心は今もシビレっ放しなのである。

| 1930年− | 19:11 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
日本基督教団上田新参町教会
 
1935年,長野県上田市,古橋柳太郎,現存(撮影:2006年)

・上田散策(2)
 田園風景にいかにもぴったりしそうな、とんがり屋根の愛らしい教会を発見。明治30年にメソジスト上田教会としてスタートし、昭和10年にこの地に移転新築したのが現在ある教会堂。
 設計者の古橋柳太郎(1882−1961)は、この他にも群馬県に大谷石の安中教会(新島襄記念会堂)(1919)、東京の日本キリスト教団下谷教会(1930,非現存)など教会建築を設計した。あるいは旧・後楽園球場(1937)も古橋の設計とのことで、守備範囲の広さにちょっとびっくり。



| 1930年− | 20:48 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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