2023.05.10 Wednesday

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    2016.11.05 Saturday

    林芙美子邸(現・林芙美子記念館)

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            1941年,東京都新宿区,山口文象,現存(撮影:2016年)

       

       戦前の日本でモダニズムを指向した建築家には、二通りあったように思う。もちろんはっきり分けられるものではないけれど、ひとつは西欧のモダニズムを比較的素直に受入れ根付かせようとした建築家。レーモンドやコルビュジエの弟子前川國男、それからここに挙げた挙げた山口文象もバウハウス帰りの建築家という意味であてはまるかもしれない。
       そしてもう一方は、モダニズムを単に受け入れるだけでなく日本の伝統建築との融合を試みた建築家。堀口捨己、吉田五十八、白井晟一、藤井厚二と結構多い。吉田鉄郎もこちらの仲間かもしれない。

       

       わざわざこういう見方をしたのは、こうすることで林芙美子邸の位置が見えてくるかもしれないと思ったからである。前者の建築家の立場からすれば伝統的和風建築の仕事はあまり表に出したくないなずで、「余技」「建築家のたしなみ」としておくことが多かったようである。山口自身、この建物を建築誌上に発表しなかったそうである。

       

           

       施主の林芙美子は200冊近く参考書を買い入れ京都へ赴くなど住宅造りに執念を燃やしていた。山口は専門家的な立場でアドバイスを行い、施主を立て趣味に沿いつつ設計したようである(特に諸事情を逆手に取り込み、2棟の建屋を中庭を介して配置した山口の構想には巧みさを感ずる)。

       しかしその結果の産物としてのこの住宅は、どこを取っても構成感覚みなぎる住宅であり、モダニズムと身に付いた伝統とが無意識のうちに混然一体となった傑作として見えてくる。こういう和風モダン住宅のあり方もあるのだろう。知らず知らず、後者の堀口や吉田の道を別ルートでアプローチしていた建築と言ったらほめ過ぎか。

       

           

       

       

       

       

       

       内外問わず見られる抽象的な線と面の構成。その意図は「太鼓張り」の障子(▼)からも明らかである。

       

              

       

              

       林の好みによる印度更紗貼りの襖(▼)が艶やか。戦後に堀口が八勝館御幸の間で行ったのを、どうしても思い起こさせる。
       

              

       

       機能に沿って造られたと思われる人研ぎの流し台(▼)は、どことなくシステムキッチン的なものの萌芽を感じさせる。他に水洗トイレなど近代的な設備が完備されていた。注目すべきは使用人室の二段ベッド(▼)。「創宇社」を結成した山口らしさがちらほらと・・。プロレタリアートのための機能的な寝室のようにも見える(この機械的なしつらえは確か列車の二段ベッドがヒントになったとか)。

       

       

       

       アトリエ(▼)は大空間に太鼓張り障子の大採光窓とトップライトを備えた、ドラマチックな木造モダニズムの空間であった。しかしこの部屋だけが各要素をシンメトリーに配した空間であることも少し気にかかる。和室が非対称の面のコンポジションを強調するのに対して洋室のアトリエは左右対称、この「転倒」が何を意味するのか、答えはみつからない。だが少なくとも、山口独特の大胆で潔いモダニズムの造形をここに感じ取ることができる。

       

              

       

           

       

           

       こうして1940年代の物資統制下における、時代の困難を克服して建つ和風モダン住宅が、ほぼ完全な形で残っていて私達の目を楽しませてくれることは、とてもラッキーなことだと感じた。

       

       

       

       

       

      2014.04.12 Saturday

      旧・日本貿易博覧会芸能(演芸)館 (現・神奈川スケートリンク)

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        1949年(博覧会開催),1951年(スケートリンク開設),神奈川県横浜市,町田建築事務所(博覧会時),非現存(撮影:2014.4)


         まだ記憶に新しいソチ冬季五輪、その男子フィギュアスケートで金メダルを獲得した羽生選手も仮の練習拠点にしたことがあるという、神奈川スケートリンク。尖頭アーチ形の屋根を持つ鉄骨建屋部分については、もともと1949(昭和24)年に開催された日本貿易博覧会神奈川会場(=反町会場)の芸能館(演芸館とも称される)を転用したものであり、さらに建屋の骨組みそのものは土浦にあった戦前の飛行場格納庫を移設したものであった(*1)。
           
         日本貿易博覧会は、占領下の日本が経済的な立て直しを図り戦後復興の足掛りを得るために開催した大規模なイベントであった。博覧会終了後の詳しい経緯としては、まず芸能館は体育館に改造され1949年の国体の会場として活用された。そして1951(昭和26)年には体育館と併存した形でスケート場がオープン、そして1959(昭和34)年には単独のスケート場となったそうである。(*2)

         一見どうということもなく見えるスケートリンクは、戦後復興期の博覧会遺構であり、同時に「もっとも古い歴史を持つ」と言われる現役スケートリンク、あるいは戦争遺構としての側面を持ち合わせている。そして何よりも、まともに建築物の建設がなされ得なかった終戦後の数少ない建築活動の一端を示しているように思われたので、ここに取り上げてみたいと思った。ただ近々建て替えが予定されているらしく、忘れないうちにちょっと急いで訪れた。

         


        ●元飛行機格納庫のスケートリンク
         現在のスケートリンクの建物は、緩いアーチ形の旧芸能館の建屋に対して、切妻屋根の建屋がTの字形に直交するように連結されてひとつの建物を成している。博覧会開催以後に体育館として使用された際にこうした増築がなされたと考えられる。内部はひとつながりの空間でありスケートリンクが収まっている。

         アーチ形屋根の旧芸能館部分は土浦の旧海軍の飛行機格納庫であったとある。そこでHPを辿ってみるとそこは現在の霞ヶ浦駐屯地にあたり、現在も同様の形状の格納庫が使用されていた(*3)。そしての駐屯地の格納庫内部の屋根の鉄骨骨組みはHPの画像(*4)を見た限りダイヤモンドトラス(*5)のようであった。一方神奈川スケートリンクの内部天井を見てみると、銀色の断熱材でくまなく覆われ鉄骨の天井は見えなかったが、霞ヶ浦と同様にダイヤモンドトラスの可能性はありそうだ。

         

         下の画像のように、切妻屋根建屋の観客席下部の部屋には小規模な鉄骨部材が見られた。またエントランス部分など1950〜60年代的なレトロな雰囲気が濃厚であった。内部のベンチも昭和の雰囲気を醸し出している。

         






        ●「日本貿易博覧会」について
         1949(昭和24)年3月15日から3か月間、横浜市の野毛山会場(第一会場)と反町の神奈川会場(第二会場)で行われた博覧会。入場者数は360万人とされる(*6)。
         GHQによる貿易に関する占領政策では、終戦直後の外国貿易禁止の時期から、徐々に政府間貿易が行われるようになり、民間貿易も制限付きの形で回復していった。そして1949年から翌年にかけて民間による輸出入が解禁となる時期に合せて、この博覧会が開催されたことになる。
         会場となる敷地は野毛山、反町の2か所でありいずれも終戦後にGHQに接収されていた土地であった。反町については、昭和初期までは遊郭街であり、第二次大戦の空襲で焼き尽くされGHQの接収に至った経緯がある。従って今では昭和初期と思しき街並みの片鱗さえ見当たらない。

           

         博覧会パビリオンのデザインについては、蔵田周忠や丹下健三がそれぞれの記事の中で語っている。だが両者共、芝居の書割の乱立のようで統一性に欠け、お祭り気分風情に堕したことを批判している(*7,*8)。その件に関して、1949年に丹下健三が語った言葉を以下に紹介したい。(後の1970年大阪万博で丹下健三が設計する「お祭り広場」を思い浮かべながら読むと面白いかもしれない)

         「博覧会にゆく省線の中から、規格化された鉄骨とワイヤーとカンバスで大きな空間がつくられている米軍の仮設の施設を見かけた。おそらくあの方法で、自由な空間をつくることもできるだらうし、組み立ても分解も容易であらう。この方が余程わたしたちにふさわしい博覧会の建物であるように思える。これは仮設ではあるがほんものの建築である。」(*7)



         また、丹下健三は外国館において「新時代の生活と技術」というテーマの写真パネル展示を行った。渉外部企画顧問の小池新二から展示と構成の一切を任され、コルビュジエの作品などを織り交ぜた新しい都市生活へのメッセージをデザインしたものであった。元々この企画は、外国からの展示物が集まらない事態への備えを兼ねていたらしく、実際にはパネルのいくつかが展示を割愛されたのであった。もっともこれを見た蔵田周忠は、効果的な意匠に「やっと救われた感じがする」(*8)と褒めていた。


        ●博覧会の後−反町公園として
         博覧会終了後、野毛山会場では動物園が残され、また公園として改修を経ながら今日に至っている。反町の会場についても、しばらくの間は一部のパビリオンが市庁舎として使われ、新市庁舎が完成して移転した1963年に反町公園となった。ジェットコースターやゴーカート、プールを備えるにぎやかな遊園地の様相を呈していたらしい(今ではそれらは皆撤去された)。

         昭和初期の遊郭から空襲、接収を経て博覧会の開催そして公園へ変貌していった経緯を思う時、昭和史の変遷の縮図のような場所だったように思え、そのような変遷を経ながらも唯一の遺構としてスケートリンクがそのシンボルのように残っていることに感慨を覚えざるを得なかった。また外壁に描かれた子供達の壁画(↓)を見た時、それは過去の墓標ではなく未来に向けて開かれているようにも感じた。

         

         帰り際にちょっと古めかしい水の出ない小さな噴水をみつけた(↓)。いつのもので由来がどういうものなのか全く分からない。ただ後で色々調べているうちに、横浜の水道創設記念噴水にやや似ているように感じた。

              



        *1:「各館の大きさ、形状、配置等に付いては手持ち資材(富山県下で購入した木造建築物及茨城県下での飛行機格納庫)・・・(中略)・・・に依って左右された」との記述からも移設された建屋によることが示されている。「日本貿易博覧会建物の建設に就いて」(長倉謙介,『建築雑誌』VOL64.752号)
        *2:「神奈川スケートリンクの再整備について」(H.25.4.25,市民局)による。
        *3:HP「霞ヶ浦海軍航空隊 格納庫跡」
        *4:Yamaro.net@blog「陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地見学」
        *5:巴組鉄工所(現・巴コーポレーション)によって1932(昭和7)年に開発された鉄骨立体トラス構造。戦前の施工例では「東京書籍印刷 印刷工場」(DOCOMOMO選定建築)などがある。
        *6:博覧会記録誌として『貿易と産業 Japan foreign trade fair Yokohama 1949』(日本貿易博覧会,1950)がある。内容のほとんどは英文で書かれている。
        *7:「外国館にある新時代の生活と技術の写真展示」(丹下健三,『新建築』1949.5)
        *8:「日本貿易博覧会の建築を見る」(蔵田周忠,『建築雑誌』VOL64.752号)




         
        2012.09.20 Thursday

        明治天皇聖蹟記念碑

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          1943年,東京都江東区,作者不詳,現存(撮影:2012年)


           この付近が越中島調練場であった明治初期に明治天皇が行幸閲兵されたことを記念して、後に建立された。紀元2600年記念事業の一環として、昭和18(1943)年11月3日に竣工したと刻まれているが、除幕式は翌昭和19(1944)年6月に行われたようである(ちなみに神武皇即位2600年は昭和15(1940)年と定められていた)。
           相生橋と東京海洋大学の間に建っている。

           私はこのモニュメントを見るなり、当時の国威発揚を狙った記念碑にありがちな、無愛想で威厳を誇示するだけの石碑とはかなり異質なものを感じた。と言うか、墓石のような石碑とはかけ離れた、あからさまにモダンで抽象幾何学的による造形意志を湛えたデザインにやや驚いた。


           誰が何を考えてこのような形を創造したのか興味が沸くのだが、それを知る手がかりはどこにも無さそうだ。

            


              
          2012.08.10 Friday

          オリンピック記念宿舎(旧・ワシントンハイツ家族用住宅)

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            1947年,東京都渋谷区,米太平洋総司令部技術本部設計課,現存(撮影:2012年)

             連日オリンピックにおける日本選手の活躍が続いている。私の頭の中もそれに占められているせいか、かこつけた話題となってしまうこと、心苦しいがお許し願いたい。
             1964(昭和39)年に開催された東京オリンピック、その選手村の宿舎がたった1棟、ほぼ当時のまま緑豊かな代々木公園の片隅に保存されている。オランダ選手の宿舎であったらしい。平屋にセメント瓦、ペンキ仕上げの木製建具は米軍住宅の典型のようであり良い雰囲気だが、内部に立ち入ることはできない。
             東京オリンピックの開催以前、この一帯はワシントンハイツと呼ばれアメリカ占領軍のための諸施設が立ち並んでいた。駐留は占領終了後も継続されたが東京オリンピック開催の機会に返還され、住宅はそのまま選手村の宿舎として利用された。そのようなわけで、これはワシントンハイツにおけるアメリカ軍将校の扶養家族用住宅、いわゆるデペンデントハウス(dependents housing)唯一の遺構でもある。

             デペンデントハウスについては、『占領軍住宅の記録(上),(下)』に詳しい。同書によれば第二次世界大戦敗戦後の昭和20年9月、GHQはアメリカ占領軍用の諸施設の建設を命ずる予告を日本政府に対して発し、翌年早々約2万戸の住宅建設を命じた。代々木練兵場であった敷地を用いて、ワシントンハイツ(27.7万坪)として827戸の住宅建設を昭和21年8月に起工、昭和22年9月に竣工した。他にも規模の大きなグラントハイツ、あるいは本牧、立川、根岸など各地で建設が進められた(*1)。                      

             デペンデントハウスは勿論アメリカ人専用の住宅であった。しかしそれを日本に建設することにより、家父長制の根強いそれまでの日本人の生活に取って代わるアメリカ式の新しい生活スタイルを植え付けるきっかけとする狙いが隠されていたのではないかと、この本を読むことによって感じ取ることができた。またそれは日本の在来工法を全く排除することなく、ある程度実情に合わせながら進められていたようでもある。こうして建設されたデペンデントハウスの建築技術などは、少々大袈裟な言い方かもしれないが、戦後日本の住宅の発達の原点に位置しているようにも思えてきた。

                               

            【戦後の壁工法の変遷のこと (しっくい→石膏プラスター→石膏ボード)】
             さて、デペンデントハウスが戦後の日本の住宅工法に変革をもたらすきっかけとなったのではないかという見方について、その一例として内装壁材については少しばかり思い当たる部分があるので触れてみたい。つまり室内の「塗り壁材」の戦後の変遷のことである。
             デペンデントハウスの図面(*1)を見ると、壁などの仕上げ材を“PLASTER”と指定した書き込み箇所がみつかった。それを普通に訳せば「塗り壁」と広く解釈されるが、実際のところ「石膏プラスター」を指していた可能性が高いようである。その理由は、ある石膏製品の会社の社史に次のような内容の記述があるのをみつけたからである(*2)。すなわち昭和21年11月にGHQから全国焼石膏協議会に対してアメリカ占領軍のデペンデントハウス建設の目的で、2万トンの石膏プラスター製造の指示があったということである。
             漆喰よりも硬化の発現が早い石膏プラスターは工期短縮に向いているので、占領軍の大量の住宅建設にとって理にかなう。但し100%石膏を用いるのではなく、それは施工の際に「石灰クリーム」つまり漆喰の塗り材を混和させてから塗る石膏プラスターであり「クリーム用石膏プラスター」(所謂「純石膏プラスター」と同じ内容)と称された。成分は焼石膏に硬化時間調整用の凝固遅延材を加えたもので、純度は上塗り用で60.5%以上との指定が付いていた。
             こうしたGHQの指示は、伝統的な土壁漆喰仕上げ一辺倒であった日本の壁工法の職能依存体制に対して、ある部分一石を投ずるきっかけになったのではないかと、私は推察している。

             アメリカでは天然石膏を豊富に産出していたが、日本では天然石膏の産出量は僅かしかなく、大量納入の要請に対して苦慮したことは想像に難くない。しかも建材用の石膏は、戦前から薄い石膏ボードが生産され、あるいは高級な洋館の装飾用の石膏が用いられたが一般的な建材というには程遠く、要するに石膏プラスター建材そのものが日本においてはほとんど未知の材料に近いものであった。
             それでも昭和23年までの間に石膏業界各社が協力して政府の特別調達庁に「クリーム用石膏プラスター」を納入し、デペンデントハウスにおいて戦後最初の石膏プラスターによる壁が作られた。

             こうした経験はその後の復興需要や高度成長期の建築需要に応えるための重要な経験となった。伝統的な木舞や木摺りを組んで土壁を塗りさらに漆喰で仕上げるには1か月を超える工期を要し、短期間で大量の住宅を完成させようにもこれでは到底追いつかない。数時間で硬化が発現する石膏プラスターが有効であることを、上述の経験で認識したのである。もちろん変革が必要であったとはいえ抵抗も根強く、伝統ある「土壁漆喰仕上げ」一辺倒からの脱却は、一朝一夕で進むものでもなかった。
             その後、徐々にではあるが石膏プラスターは徐々に土壁漆喰仕上げに取って代わるべく進化した。昭和20年代における現場で石灰クリームを調合する「純石膏プラスター」の使用を起点として、消石灰があらかじめレディーミックスされた「混合石膏プラスター」(*3)が開発され、さらに昭和30年には石灰成分を全く含まない、石膏成分だけによる画期的な壁材料「ボード用石膏プラスター」(*4)が出現した。これは画期的な製品であり、アメリカからの技術供与を受けて開発にこぎ着けたものである。木舞いや木摺りいらずで、石膏ボード(ニュー・ラスボード等)を貼った上に砂と水だけを加えた石膏プラスターを直接塗る、すなわちラス&プラスター工法として高度成長期を中心に住宅の内壁用として広く普及した。

             この普及の背景として、国内の石膏の資源不足を補うための、燐酸肥料の工場から大量に副生する燐酸石膏の有効利用が進んだことが大きな要因となっている。全国各地の肥料工場に隣接して石膏工場も建設される、といった協力関係が形成されたのである(*5)。また石膏が成分中に2つの水分子(CaSO4・2H2O)を含み、防火性能を発揮する材料であることが広く知られたことも普及の大きな要因である。しかし、高度成長期の終焉と同調するかたちで左官工事を伴う石膏プラスターの使用は減少に転じ、石膏ボードにクロスなどを貼るだけの完全な乾式工法が主流の時代へと移行して今日に至る(その反動として、最近ではしっくいをはじめとした塗り壁の良さが再び見直されつつある)。

             ここでは室内壁工法だけをとって、私独自の変遷の流れの一端をここに示してみたわけだが、こうして戦後の住宅建設の変遷についてデペンデントハウスの存在を起点として据えてみたとき、伝統的な湿式工法からプラスターとボードの併用による(いわば半乾式)そして乾式工法へ至るアウトラインがくっきりと浮かび上がってくる。


              *1:『占領軍住宅の記録(上),(下)』(小泉和子,内田青蔵,高薮昭 住まい学大系,1999)
              *2:『吉野石膏百十年史』(吉野石膏株式会社,2010)
              *3:しっくいの塗り易さを維持するために石灰成分が混和されたが、改良が何度か行われ添加成分は変遷した。(念のため、「混合」とは言っても、某社の細骨材入りプラスター「B-DRY」とは内容が異なる)
              *4:某社製品「BーYNプラスター」のこと
              *5:原料調達は、その後「排煙脱硫石膏」そしてリサイクル材も加わり現在に至る

            2010.05.22 Saturday

            皋水記念図書館(旧・水沢市立図書館)

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              1941年,岩手県奥州市,森泰治(宮内省内匠寮),現存(撮影:2010年)

               それは予想通り、斎藤實(まこと)記念館の隣で閉鎖されて久しい古びた空家として存在していた。もちろん非公開なので要ご注意を。
               私はこの5月の連休に岩手県奥州市に足を運んで、宮内省内匠寮の森泰治が設計したと伝えられる皋水(こうすい)記念図書館(旧・水沢市立図書館)の存在を確認した。1941(昭和16)年竣工の、何のことは無さそうな木造平屋の建物だが、奥州市(旧・水沢市)にとっては公共図書館の源泉に相当する。戦前の政治家斎藤實の雅号「皋水」を図書館の名称に取り入れ設立された。
               元々は、水沢出身の斎藤實の自宅のある所有地であった場所の一画を買い受けて図書館を設立したため、この旧図書館付近に斎藤實自邸、書庫、記念館など所縁の施設がまとまっている。

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              1.謎の設計者 森泰治について
               この図書館は、宮内省内匠(たくみ)寮の森泰治によって設計された。森が宮内省に移ったのは1926(大正15)年であり、それ以前は逓信省営繕課の技師であった。
               森泰治は、帝大を卒業した1920(大正9)年に逓信省営繕課に入省したが、やはり同年に入省して分離派建築会の旗揚げで勢い盛んな山田守と同じ職場で席を並べることとなった。
               分離派の山田守の他にも吉田鉄郎、彼らの先輩の岩元禄など逓信省内は既に個性派揃いであったことは良く知られるところだが、近年、大正10年代に建てられた局舎の中には設計担当者を判別し難い建物がいくつか存在していることに気付いた小原誠氏によって森泰治の存在が掘り起こされた。そして逓信省在籍中、森は「大阪中央電話局難波分局」(1924)や「横浜中央電話局」(1923但し竣工成らず)などを設計していたことが明らかにされた。やや様式性を残しながらユーゲントシュティル的とも言えそうな自由な感覚によるデザインは、私が見ても十分個性的であり、さすが逓信省営繕課の一員、との感想を抱かせるに足るのだが現存する建物はひとつも無い。「下関電話課庁舎(現・田中絹代ぶんか館)」(1924)への関わりについては確証を与えるものは無いのだが、営繕課組織による建築としての関与は考えられなくもない。
               森が逓信省を去った理由は、一説には同期の山田守と反りが合わなかったからだとも囁かれたそうで、逓信省内で存在感を強める山田守の陰で森泰治の存在は作品と共に忘れ去られたのだろう。 宮内省に転籍して以降の森泰治の設計活動については、一層謎のヴェールに包まれている。昭和18年には内匠寮工務部工務課長に任じられ昭和20年8月に辞職、昭和26年4月逝去とある。(*1)担当したのは「多摩御陵」(1927)、そして「学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)」(1928)の関与が僅かに知られる程度であった。

              2.皋水記念図書館の由来
               冒頭で述べたように、斎藤實(1858−1936)の雅号「皋水」を冠して、斎藤を記念する図書館の名称とした。斎藤實自身の詳しい業績については、記念館サイトのご参照を。
               幼少期の斎藤は寺子屋の師匠である父から漢学の手ほどきを受け、四書五経を10歳にして読み終えたと伝わる秀才であった。やがてその才能は国家を治めるために発揮され、軍人としての経歴を歩み海軍大将まで登りつめる。また、軍人とはいえアメリカ留学の経験を持ち語学も達者であり、国際感覚を身に付けた政治家として1927(昭和2)年のジュネーブ海軍軍縮会議全権を務めた。
               さらに5.15事件後、軍部の台頭する困難の中あえて総理大臣の職を引き受けたのだが、1936(昭和11)年に内大臣として天皇を補佐する職務に就いていた折、親英米で国際協調派のシンボル的存在とみなされた斎藤は、2.26事件の凶弾に倒れ生涯を閉じる。
               生前、斎藤は郷里にあって自宅と煉瓦造の書庫(斎藤文庫)を建て、それを渡り廊下で結び勉強熱心な地元の人々のために開放していた。(1932(昭和7)年築の自宅と書庫は共に現地で公開されている。)
               斎藤の逝去後まもなく「斎藤子爵記念会」が発足し、斎藤の遺徳を顕彰する目的で伝記の編纂とともに郷里水沢に遺した斎藤文庫の公開を目的とした図書館の建設計画が持ち上がった。その過程では陳列所や演武場を伴う施設の希望も出されたが、最終的には純然たる図書館を建設することで話しがまとまった。用地は1939年に水沢町が斎藤家より取得、1941(昭和16)年11月3日の竣工式同日に建物は水沢町に寄付され町営図書館の誕生となった。
               以上が、斎藤實を記念した図書館設立に至ったおよその経緯である。
               余談ではあるが、近くに住む後藤新平と斎藤とは幼少時からの友人であったそうだ。水沢を訪れると感じるのだが、斎藤のみならずあの後藤新平や高野長英の旧宅や記念館などが集中しており、偉人達がひとかたまりに輩出した奇跡のような界隈には驚かされる。一見した限りは、つつましやかな東北の一商都に過ぎないのだが。

              3.図書館設立の記念誌
               私の相変わらずのアポなし訪問癖にも関わらず、斎藤實記念館の学芸員の方は、図書館に関する問い合わせ、特に設計者についての資料を求めていることにも面倒がらず協力して下さった。まずお礼を申し上げたい。
               以前、私が森泰治が設計した建物があるらしいと気付いたのは、既に消えた地域紹介HPの記述を見た記憶のみであり、是非とも根拠資料を見つけて確実なものとしたかった。
               そして学芸員の方が示した本棚の中に無造作に積まれた『水沢市立図書館のあゆみ−創立30周年記念誌』(1972,水沢市教育委員会)を見るや、「まさしくこれだ!」と思った。その冊子を手に取ると「・・・宮内省技師森泰治氏の設計に依り、15年に入り、同県黒沢尻町の高田弥市と請負契約を締結し岩手県技師川村清次郎監督の下に、工事に着手し、16年5月を以って竣成、図書等を備付け、皋水記念図書館と命名した。」と、森泰治が設計したことが確かに書かれていた。この他、学士会館において森技師や岩手県の川村技師その他主要な関係者によって開館に向けた協議がなされたとの内容の記述も見られた。
               また竣工当初の写真と見比べて、現状との違いは入口向って右側に張り出した事務室の増築以外
              は大きな改変が無さそうであることも判った。図面は、残念ながら見つけ出すには至らなかった。

              4.昭和16年−木造平屋の文化施設
               宮内省がこの図書館の設計を行なうに至ったのは、恐らくは天皇の補佐役でもあった生前の斎藤との信頼関係に起因しているのだろう。そして実際の設計は宮内省技師である森泰治に任された、という筋道が考えられる。
               しかしその当時は、思うにまかせるような建物が可能な時期でもなかった。見ての通り記念図書館と称された割にはあまりにも質素な建物は、一見しただけでは失礼ながら拍子抜けしてしまう。
               昭和12年の大陸侵攻をきっかけに(それこそ斎藤實の命懸けの努力も空しく)事態は一直線に戦争遂行へと向かい、資材統制によって小規模な木造以外は事実上建設不可能な時期に入っていた。昭和16年11月3日に皋水記念図書館の竣工式が挙行されてから約一ヵ月後には、日本は真珠湾攻撃の暴挙に及んだ。そんな中で図書館という戦争とは無縁の文化施設が実現したことは異例中の異例と考えた方がむしろ自然であって、皇室との関連無くして成り立ち得なかった稀有な事例であったのだろう。

               いくつか建物の特徴を拾い上げてみたい。
               まず、入口のある正面ファサード。素っ気無い切妻形そのままながら、窓の配置や真壁風の束柱
              などにより西欧的なシンメトリーの構成に整えられている。(当初は向って右側の張り出しは無かった)また、縦羽目板の外壁が上端の高さの位置で水平に見切られ漆喰塗りの屋根形と分節されている点も、西欧的なデザインの感性があればこそ行ない得たものであろう。
               そして、入口の2本の寺院風の円柱とその柱頭など都合3ヶ所(当初は4箇所と推定される)の風変わりな肘木による柱頭装飾が、シンボリックで強い印象を与えている。入口周辺は、格天井のホールと併せて日本の伝統的意匠が意識的に集中されている。
                       
               平面計画は、玄関ホール、閲覧室、書庫の順に南面して一直線に配置されており、北側には並行
              する廊下を介してバックヤードを持つシンプルなものである。外から見ると、諸室の機能の違いを反映した窓の種類の違いが立面に最小限の変化を与えていた。例えば、大きな採光用の窓は閲覧室のものであり、逆に日射を遮るガラリ付きの窓は奥の書庫、といった具合である。
               内部の天井の意匠は部屋ごとに異なっていた。玄関ホールは格天井、廊下は竿縁天井、書庫の天井は板張り、そして閲覧室は白く塗装された吸音テックス張りなのだが継ぎ目に竹が用いられており驚いた。細部の意匠上の配慮が興味深い。
               森も恐らく国情を踏まえ、無駄は許されず必要最小限でなければならなかったことを十分考慮した上で設計に取り組んだに違いない。しかし、そのような目で建物を捉えてもなお、最小限のピンポイント的な意匠配置、高価な材料によらずなされた細部の意匠の工夫、さらに無駄の許されざることを逆手に取った合理主義的な発想で捉え返しているようでもあった。
               このように、良く見るとそこかしこにデザイナー魂の発露のようなものが発揮され、私にとっては感動的でさえあった。

                                          ***

               数年前、私は一度だけ小原誠氏にお会いしたことがある。その折に、森泰治のご子息による父についての伝聞を教えて頂いた。それによれば宮内省時代の森泰治は朝香宮邸を設計していた権藤要吉と良く打合せをしていたなど同僚との良好な関係に恵まれ、趣味を楽しむなど生活をエンジョイしていたらしいとのことであった。心機一転、恐らく設計業務の上でも伸び伸びと腕を振るっていたであろうと想像された。
               ここで初めて目にした森泰治による建物を見ても、深刻さを増す国内の状況とは一線を画し、むしろ与条件を逆手に取った発想を愉しむ設計者像がやはり目に浮かぶ。見え掛かり上伝統性が打ち出されてはいるものの、逓信省時代からの持ち味である、様式を自由にアレンジしてしまう手腕は健在であり、さらに合理主義思考への展開を予兆しているようにも感じられた。
               私は、周辺の状況変化にめげることも無くデザイナーとしての心を維持し研鑽を続ける森泰治への面会が叶ったかのような、ちょっと嬉しい気分をお土産に水沢を後にした。

              *1:『「分離派風局舎」と逓信省営繕の建築 −大正後期の逓信省建築に関する研究その2−』 (小原誠,丹羽和彦)より

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