収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
名曲喫茶ライオン
     
1950年(1926年創建建物を再建),東京都渋谷区,山寺弥之助(初代店主),現存(撮影2015,2016年)


 約半年ご無沙汰してしまいました。忙しい(言い訳)以外に特段どうこうあったわけではないのですが(敢えて言えばinstagramにちょいと浮気してしまったかな)。というわけで再開します。

 再開第1号は渋谷の名曲喫茶「ライオン」。上2枚の中世の古城風の画像はどちらかと言えば裏口側のファサード。

 さて一般に言う「名曲喫茶」の由来とは何なのか。調べるとどうも戦後1950年代頃に高価だったクラシック音楽のレコードを聴かせてくれる喫茶店と言うこと位しかわからない。ちょうど「歌声喫茶」とか「JAZZ喫茶」も同類だろうか、つまり普通の喫茶店に少し付加価値をつけ皆で音楽の楽しみを共有することが戦後のある時期に流行り始めたようである。最近では名曲喫茶なるものも数少なくなりここは貴重な存在として有名である。


          
 ところでこの「ライオン」に限っては成り立ちの上で他にない特徴がある。というのも、この凝ったデザインは初代の店主山寺弥之助が考案し1926年に建てられた。しかし残念なことに1945(昭和20)年の東京大空襲で焼けてしまうのだが、1950(昭和25)年には戦前と同じデザインで建て直されたのだそうである。つまり戦前昭和初期の喫茶店の姿を、再現された建物とはいえ今日に伝えていると言う意味において貴重な存在であろう。
 もう少し詳しく言えば、渋谷「百軒店(ひゃっけんだな)」とは1923年の関東大震災からの復興商店街として開発された地区なのだそうだ。つまり今日この「ライオン」と「千代田稲荷神社」のみが震災復興地区である戦前の百軒店の名残りを伝えているということかもしれない。
 百軒店の歴史を伝えるサイト(*1)に以下のように書かれていた。

そもそも「百軒店」(ひゃっけんだな)は、大正12(1923)年の関東大震災直後、復興にともなう渋谷開発計画によって作られた街でした。箱根土地株式会社(西武グループの中心であったコクドの前身)が中川伯爵(旧・豊前岡藩主家)邸の土地を購入し、そこに百貨店のような空間を出現させるというコンセプトのもと、有名店・老舗を被災した下町から誘致したのです。当時としては非常に画期的な手法でした。・・・(*1)   


       

 上の写真が入り口のある正面のファサード。看板は「名曲喫茶ライオン」である。
 ところで、色々調べたり昔の写真を見てみると、どうも今の建物になる前は初代店主が修行したロンドンのライオンベーカリー直伝の味を伝えるべく店名も「ライオンベーカリー」であったようだ。つまり元々はコーヒーの味が売りの純粋な喫茶店「ライオンベーカリー」が、もしかしたら戦後にはさらにクラシック音楽を聴かせることで有名になり「名曲喫茶ライオン」と称するように変貌していった、ということかもしれない。


           

 外観同様、内部もクラシカルな装飾で満たされ薄暗い中に歴史と重厚さを感じさせる特別な世界が待っていた。どれも初代店主の手になるらしい。内部はまるでオペラ劇場さながらの湾曲した吹き抜け空間があり、その中央の劇場で言えばステージに相当する位置に巨大なスピーカーが鎮座している。(内部は撮影禁止なのでスピーカーの形は最下のイラストから推察して頂きたい)。

 そして定期的にレコードコンサートが催されているのだが、頂いたプログラムもまるで本物のクラシック音楽のコンサートで渡されるものを彷彿とさせる素晴らしいイラストで飾られている。
 なるほど名曲喫茶とは徹底しているものだと感心した。


           

 ところでプログラムに描かれているライオン自慢のスピーカー「立体再生装置」(下図)は、見れば見るほど今日考えるステレオとはかけ離れた不思議なものである。どうもモノラル全盛時代に、音楽を立体的に聴かせるように工夫したものではなかろうか、と思った。向かって右に大きな低音用のスピーカーがある。つまりオーケストラでは上手(客席から向って右側)にコントラバスなど低音系の楽器が配されることが多いのに対応したようだ。そして恐らくこれは「1対」のスピーカーではなく本質的には「1個」のスピーカーであり、巨大であるがゆえに音に広がりを感じさせる。そういう仕掛けなのかな・・・
 などと思いつつ、妙なる調べの流れを、時の流れを忘れて聴き入った。


          



  *1:WEB「渋谷/道玄坂 百軒店商店街」百軒店の歴史 より



 
| 1950年− | 17:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
横須賀の防火建築帯(三笠ビル)
   
1959年,神奈川県横須賀市,日本不燃建築研究所(所長:今泉善一),現存(撮影:2014年)


 このRC造のビルとなる以前、三笠通り商店街は背後に丘陵を背負う位置に木造の店舗がひしめき合い、もしも一度火災となれば海岸からの風を受けて大惨事となることが心配される状況にあった(*1)。そこで市制50周年の協賛事業の話をきっかけに不燃化の街づくりが開始され、こうした戦艦の威容をも感じさせる大規模な防火建築帯が誕生するに至った。

     

     

                   

 三笠ビルには他の防火建築帯にはない、立地状況に起因する大きな特徴がある。
 元々の三笠商店街は、緩やかに「くの字」状に折れた市道(三笠通り)を挟む両側に商店が立ち並んでいたのだが、不燃化事業においてもその骨格は活かされ、両側の商店街と道路を含む全体が事業対象となった。
 具体的に言うと、新しい建物においては4.5mの幅を持つ道(市道としては廃止)のあった場所に沿うようにコンクリート造の屋根が架けられ、中廊下状に「屋内化」した共用の歩廊となった。その両側にRC造の店舗など住戸が並ぶアーケード街が作られたのである。

       

      

 要するに、一つのビルの中に公道を内包したようなイメージの空間ができあがったと言えばよいのだろうか。しかし車が通る県道と別の「人専用」の道なので、人々はよりショッピングに専念できる環境を手に入れたというわけである。
 下の写真(▼)は、このように元々は市道だったアーケードの、現在の姿。

        

 さらに地上階のコンクリートの屋根の真上、すなわち2階にも開店が可能なように共用の歩廊が設けられた(▼下2枚)。しかし実際の現状は地上階の賑わいとは裏腹の別世界。無人の共用空間が不思議な雰囲気を漂わせていた。

        

     

 元々道路であったことを示す名残りも残っていた。「豊川稲荷」参道へ通ずる曲がり角があった地点には、下の写真のような豊川稲荷参道への出入り口が設けられた(▼)。こうした配慮を見ると、三笠ビルには、単体の商業ビル建築にはない街づくりへの視点が働いていたことが分かる。

          

 石段の参道から三笠ビルの裏側を見下ろす(▼)。県道側のファサードとは雰囲気を異にする、山の斜面ぎりぎりにまで迫った複雑な建物なのである。

     

 三笠ビルには、通りに面した線状の防火帯を作るだけではなく、街区単位で防火仕様とする考え方への萌芽がみられるという(*2)。その他共用の無料休息室、事務室、会議室、電話交換設備、一括共同受電の変電室が設けられ(*2)、区分所有の登記もなされるなど、進化した内容を持つ防火建築帯の共同建築であった。


 *1:『不燃都市』(1961 No.6)による
 *2:『不燃都市』(1962  No.15)による







 
| 1950年− | 16:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
沼津市本通の 防火建築帯(沼津アーケード名店街)


西側竣工1953年,東側竣工1954年,静岡県沼津市,建設工学研究会(池辺陽,今泉善一,坪井善勝(構造)他),現存(撮影:2014年)

 以前、横浜の「防火建築帯」を取り上げた。今回はRC造の店舗併用住宅を共同化し、新しくもユニークな空間形式の商店街として話題を集めた、静岡県沼津市の「沼津市本通(ほんどおり)防火建築帯」を取り上げたい。またここは「防火建築帯」としても最初期の規模の大きな事例として知られ、民と行政が力を合わせて建設を成し遂げた功績に対して、1954(昭和29)年度の建築学会賞が授与されている。

 「防火建築帯」とは、防火壁の役目を担うために帯状に建て並べられた3階建て以上の建築群を指す。根拠となる法律は1952年に施行の「耐火建築促進法」であり、あらかじめ都市の必要箇所の道路に沿って防火帯を指定、建築にあたっては補助金の交付が可能となった。既にこの法律自体は役目を終えたが、終戦後の復興都市を形作る上で大きな役割を果たした制度であり、地方都市に建てられた数多くの防火建築帯は、現在でも相当数残っているようである。


「有階アーケード」の商店街
 この計画が実現するまでには越えねばならない問題があった。
 終戦後、木造商店が立ち並んでいた元の本通り商店街には、復興計画として道路の拡幅計画があり、それは既存の12.5mの道路の両側を3.75mずつ拡幅して計20mとしようというものであった。しかし拡幅予定部分には、既にRC造4階建ての百貨店が建つことが決まっていて計画は進まなかった。
 1952年に住民らが防火建築帯への編入を求め、市側もこれに賛同したことがきっかけとなり状況は動き始めた。一旦道路拡幅計画が中止された上で、両サイド3.75mの拡幅予定地を市所有の公共用歩廊とし、その上空は住戸建物用に無償貸与とするという打開案でまとまった。つまり、公共のアーケードの上に2階以上の建物が3.75mほど張り出すことになり、それが商店街空間の基本的な骨格をなすことになった。
 しかしこうした公共用地と民間の建物との重合は、普通はあり得ない。ここでは特に「建築協定」を結び「美観地区(*1)」指定を受け、建物の構造や形態、設備、色彩、看板などを細かく取り決めることを条件に認められたのである。例えば電線は背後に隠し、電話線を地中埋設することなどがあり、全国初の試みもあった(*2)。結果的にではあるが、コンクリートによるモダニズム建築が美観地区の指定を受けた例は、ここ沼津が唯一であった(*3)。


    
    
■竣工した「沼津本通防火建築帯」
 こうして建物群は2階建て一部3階又は4階として完成した。各住戸多くは1階を店舗、2階以上を住居としていた。ここで言う建物の「共同化」とは、RC造住戸を長屋状に連続させて1棟の建物としたものであり、これにより敷地の利用率は高まり防火上の安全性も確保された。ただ隣地境界線上にそのまま壁や柱を建てる場合が多く、各戸の間口寸法は皆一定とは限らなかった。
 問題の既存RC造百貨店も、一部を削って歩道とする形で建てられることで解決したそうである。

 有階アーケードはすべての棟に適用され、実際の構造はキャンティレバーという張出しによる部分と、そこにピン支柱が添えられた部分との2通りがある。
 構造について付け加えれば、防火建築帯は3階以上が基本なので、当初2階建てで建てられた部分も、あらかじめ、3階建てに増築することが可能となるように設計された。構造設計の担当者は坪井善勝である。

      
       
 RC造の新しい商店街は、南北の通りの東西に計7棟の建物が並び、その総延長距離は344mという、当時としてはかなりの規模を持つショッピングセンターとなった。「横のデパート」とも称され驚きを持って迎えられ、売り上げが6割伸びたとの記述もみられる(*3)
 もちろん規模だけでなくデザインも特筆に値する。アーケードでセットバックした建物はあたかもピロティ状にも見え、上階は連続窓が続く1棟の統一体としてまとまったデザインのファサードの様相を呈し、当時の人々に鮮烈な印象を与えた。この洗練されたモダニズム建築は、池辺陽や今泉善一らの設計力が発揮された結果なのである。

    

    
■池辺陽と今泉善一らの「建設工学研究所」
 まず設計者今泉善一の経歴について触れておきたい。
 戦前、今泉は大蔵省で製図工として勤めるかたわら、山口文象(岡村蚊象)が組織した「創宇社建築会」に参加出展していた。作品は、第7回(1929年)に「印刷工場」「連続住宅」,第8回(1930)に「共同組合アパートメントハウス」(道明栄次と合作)であった。1931年に共産党入党、翌年銀行襲撃に加わったとして逮捕投獄、1944年に出所し前川國男事務所に勤務、プレモスの開発を担当した。そして1947年、「新日本建築家集団(NAU)」結成に参加、NAU集団設計委員会において池辺陽に出会い親交を深めた(*2,*6による)。

 一方、坪井善勝や池辺陽らが運営する東大第二工学部の外郭団体「建設工学研究会」では、沼津市より防火建築帯の設計の相談を受けていた。そこで坪井が実務経験に長じた今泉善一を建設工学研究会に引き入れ、今泉を中心とした沼津の設計体制が出来上がった(*2による)。ただ恐らくは池辺と今泉のNAUにおける出合いがあったからこそ、こうした流れになったものと考えられる。
 池辺による商店建築の共同化の考え方は、特にモダニズムの考え方による統一したファサードの美を強調する方向に向いていた(*4)。その意味において沼津の有階アーケードは、建築がアーケードの機能を内包しており(仮設的な後付けアーケードと異なり)、池辺の考え方に適うものであった。

    

    
■池辺陽と今泉善一の「沼津以後」
 本通防火建築帯の完成以後は、池辺は防火建築帯の制度を(既存の街路に手を加えるにとどまるので)抜本的な将来の都市計画と比べて過渡的なものと位置付けるようになり、徐々に防火建築帯の計画から遠ざかるようになったという。
 しかしこれとは対照的に、今泉善一は沼津市本通防火建築帯を出発点として旺盛な設計活動を展開、1957年に「日本不燃建築研究所」を組織して全国各都市の防火建築帯を多数手掛けた。(後に、今泉は「本通り」の隣の「上土(あげつち)通り」でも防火建築帯の設計を行った)

    
    

■現在の沼津本通防火建築帯
 「アーケード名店街」という看板が立つ現地に私が初めて沼津に赴いたのは、昨年末のこと。当初は2階建てが多くを占めた商店街も、現在はほとんどが3階建て以上に増築され、全体的に見れば、ファサードのデザインはある程度統一感を損なう形で改装が加えられていた。ただ数か所旧態をとどめる箇所も残っており、特にアーケード北の入口のカーブした壁面に縦長窓が連続する当初の外観はなかなか印象的である。

 有階アーケードも商店街全体に渡ってほぼそのままの形で機能しており、当初からの建物の構造体がそのまま使われ続けている様子を窺わせていた。築後60年以上経過する大規模な建築群なのだが、現在取り壊されて失われた部分はほんの一部であり、間口距離にして約95%が現存するという計算である(下図2枚は、その時私が撮影した街並みの写真をつないで、現況ファサード図としてみたものである)。

 しかし驚くべきは店舗のほとんどが稼働中で、私が見たところでは空家は1軒のみだったことである。全国的な「シャッター街」化問題とは様相を異にしているように思えたが、やはりこれには理由があるらしかった。町づくりのアドバイザーとして長く商店街に根をおろして活動されているNPOの方の話によれば、やはり10年前には3割位が空家だったのだが、しかしある原因に気付いて対処したところ空家がほとんど無くなったということであった。お話を伺いつつ、粘り強く町づくりに尽力されている姿勢に大変感銘を受けた。

     

     

■生き続ける熱い志
 現地で何人かのお話しを聞いた。まず、当初から営まれているある商店の年輩の女性は、店主である亡きご主人手作りの店舗内装をひとつひとつ説明して下さった。
 先ほどのNPOの方の話によれば、この防火帯としての商店街が完成した頃は相当繁盛したこと、視察も相次ぎ、有名タレントを招いてのイベントが繰り返し催された時期があったことなどを話して頂いた。過去の繁栄だけでなく、これからの町づくりについても頻繁に会合が持たれているとのことであった。

 この戦後復興期の商店街の成功を「学民官三者協働の成果」と評する言葉を見かけたが(*5)、数時間滞在し地元の方と接触しただけでも、「民」である居住者の方の誇りと熱い志の灯が生き続けていることを実感することができた。



 *1:美観地区:「市街地の美観を維持するために定める地区」として1918(大正7)年施行。昭和8年に皇居周辺が指定、その他倉敷などが指定を受けた。平成16年景観法施行により廃止、美観地区は景観地区へ移行した。
 *2:『都市の戦後−雑踏のなかの都市計画と建築』(初田香成 2011年,東京大学出版会)
 *3:「美観地区に関する史的研究」(澤田充生,岸井隆幸 『土木史研究』16号1996年)
 *4:「商店建築の共同化について」(池辺陽,『建築界』1955年5月)
 *5:HP「沼津アーケード名店街」
 *6:「大森事件のことなど」(今泉善一(聞き手:本多昭一,藤森照信),『建築雑誌』1985年1月)




 
| 1950年− | 20:52 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
川崎市体育館
   
1956年,神奈川県川崎市川崎区,川崎市建設部建築課(原壽幸),現存(撮影:2014年)


 昭和期を中心に数多くの試合が行われたプロレスや女子プロレスのメッカ、川崎市体育館である。
 テレビ中継でつとに知られた建物は、行ってみれば期待にたがわずモダニズムによる外観で、これぞ昭和のシンボルといった風情を感じた。しかしそのようなオジサン世代の郷愁をよそに、無情にも建物は本年末をもって閉館、取り壊されたのち新たな建物に生まれ変わることになっている。
     
 1955(昭和30)年の神奈川国体開催に合わせて建設された建物は、計画段階から2000人の大規模な客席と舞台、映写装置を備えるなど多目的な内容とされ、当初は「市民会館」として開館した。恐らくそうした意欲的な施設内容がプロレス興行などでも頻繁に使われる一要因となったのではないかと察せられる。

 また個人利用が可能であるなど市民に開放された体育館として愛され続けており、そんな単なる箱モノを超えた面があるからなのか、建て替えを惜しむ声を予想してか、下記のHPに素敵なアーカイブスの動画がアップされていた。特に設計者へのインタビューは貴重で興味深い。

    川崎市民ニュース ・・・「川崎市施設映像―体育館」(YOUTUBE)


     
 動画の中で、設計した原壽幸氏は2つの点で工夫したことを語っておられる。
 第一は床である。体育館にとって特に大切な床が湿気で傷むのを防ぐため、床下空間を強制換気し床面にアスファルト防水を行ったとのことである。当時としてはなかなかここまで至れり尽くせりの仕様とすることは少なかったのであろう。
 第二点目は屋根である。大空間を覆う屋根の構造について、設計者が戦時中に宇都宮航空隊に所属していた折に見た飛行機の格納庫を思い出し、「ダイヤモンドトラス」という構造を取り入れることを思いついた。そして事前に木製の美しいダイヤモンドトラスの実例を見た上で、体育館の屋根を鉄骨によるダイヤモンドトラスとすることを決めたとのことである。

 「ダイヤモンドトラス」とは巴組鐵鋼所(現・蠻奪魁璽櫂譟璽轡腑鵝砲量釼薫賚困戦前に開発した立体トラスの鉄骨架構で、独特の美しい構造を持ち、戦前に建てられた建物の現存例では、「東京書籍印刷工場」(1936)のようにDocomomo Japan選定の建物もある。

 内部の天井を撮影しようとしたのだが、残念ながら真っ暗であった。

     

  動画には下図のようにダイヤモンドトラスの様子がはっきり映っていた(下図)。
       
        
               

 飾り気もなく清々しいばかりの昭和のモダニズムの建物がまたひとつ、表舞台から消え去ろうとしている。
 


 
| 1950年− | 19:23 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
足利市庁舎別館

     
1953年,栃木県足利市,石本喜久治(石本建築事務所),現存(撮影:2014年)

  私も属する某近代建築愛好会の会員の中で、Oさんは飛びぬけて多くの建物を巡り歩いておられる。先日もフェイスブックに足利市庁舎別館の画像をUPされていたのを拝見した。そして驚いた。
 石本事務所のHPにはちょっと新古典的な外観が一面だけ掲載されており、どちらかといえばおとなしい外観だなと思う位であった。しかし実際のところ、敷地が角地にあることが原因しているせいなのか、それぞれ異なる表情に分節された表側ファサードの各立面が一挙に見渡せるので、一望すると上の画像のようにむしろそのハイブリッドさが強く印象付けられる。まるで時代を間違えて出現したポストモダニズム建築のようにも見えて、正直頭がくらくらする思いだ。

 そんなわけで驚いた私は早速休日を利用して建物を訪れた。余談だが足利は歴史のある見どころの多い町であった。


       

 足利市庁舎別館は設計した石本事務所にとって、戦後の建築として記念碑的な意味合いがあると見える。つまり戦後に組織事務所として再スタートを切る途上にあって、庁舎建築を手広く手を染めるようになるきっかけになった建物のようなのである。

 次のようなエピソードが伝わる。足利市は庁舎の設計者選定にあたってまず建設省営繕局局長川合貞夫に相談した。川合は石本事務所のOBであったので、勿論石本事務所を訪ねるよう勧めた。そこで当時石本喜久治の片腕的な存在の長野八三二専務が、よそを廻らせることなく設計委託を取り付けたのだそうである。因みに長野は後に石本建築事務所の社長を務めた人物。長野と石本喜久治の最初の出会いは、石本が審査員を務める朝日新聞社主催の住宅コンペにおいて、参加した長野が入選を果たしたところから始まったという。

       

 
          

 足利市庁舎別館の全面石貼りで新古典主義的なまた重厚な外観は、戦前のデザインを踏襲しているように感じられた。終戦後いきなり日本の建築デザインがモダニズムに転換したわけではないことを示している。外装石材は、ある人に聞いたら富国石などの擬石ではないかとのことであった。(石本喜久治は分離派建築を発端にモダニズムの建築を受容推進してきたことで知られるが、事務所は経営上様々な仕事を請け負う必要があったので、必ずしもモダンなものばかり設計できたわけではなかったようである。)
 しかし戦前を引きずるこの建物以後は、特に長岡市庁舎など、シャープで軽快なモダニズムの建物がデザインされるようになった。

 正面向かって左側のファサードには、林立する付け柱の間に小さなバルコニーがアクセントとして取り付けられている。この前々年に竣工した「工業繊維大阪支店」(1951)にも同様のものが見られる。
 内部においては最上階の天井が目を惹く位であろうか。天井面に斜め格子のリブが巡らされている。石本が戦前から持ち合わせていた装飾感覚の、数少ない表れだろうか。

       


          

 石本喜久治の建築作品は残存例が少ない。そんな中、石本存命中の建物であり関与の可能性が大きいであろうと考えられる建物がほぼそのまま残っていることは、喜ばしい限りである。築60年を超える庁舎が、しかも現役で使用されていることは素晴らしい。担当した所員が誰なのかについても、ちょっと気になる。
 なにはともあれ、末永く使い続けられることを祈りたい。

       



 
| 1950年− | 17:29 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
早稲田松竹

1951年,東京都新宿区,設計不詳,現存(撮影:2012年)

 早稲田通りのこの映画館で名画に親しんだ思い出を持つ人は、少なくなかろう。調べてみると、「早稲田松竹」は松竹系の封切館として1951年に開館した。1975年には2本立ての名画座に転身し、さらに時を経て2002年には休館を余儀なくされた。しかし早大生を中心とする復活に向けた活動が実を結び再開、今日に至っているとのことである。さらに戦後昭和の薫りを放つ映画館建築としても、今や希少な存在となっている。

  

 建築物として歴史的に特別際立った建物というわけではないけれども、それでも1951(昭和26)年という戦後まだ間もない時期に、これだけのRC造の映画館が実現したこと自体、ちょっと不思議だとも思うし、それなりの評価があってよいのかもしれないとも思う。
 半円筒状の連続ヴォールト屋根がポイントになったちょっと洒脱なデザイン、これは戦後の新しい息吹を感じさせるものだったであろう。構造的な意味で円筒シェルの先駆けなのかは分からないけれど、見掛けはそれに近い感じもする。
 日本が混乱と窮乏から抜け出せずにいた終戦後の時代にあっても、映画だけはとびきりの名作が次々生み出され娯楽の花形であり続けた。そうした当時の事情があったからこそ建物についても同様に時代を反映し、こうしたちょっとお洒落な映画館が出来上がったということであろうか。そう考えてなんとなく納得してしまいそうである。

 因みに1951年といえば、ご存じ黒澤明の「羅生門」(1950)がヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞した年であり、あるいは小津安二郎の「麦秋」が公開された年であった。
 そんなことを頭の中で巡らせつつ、建物の写真も撮り終えたし、さっそくシートに身を沈め銀幕の別世界へ向かうとする。

  



 
| 1950年− | 17:25 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
十六銀行熱田支店
    
    1956年,愛知県名古屋市,森田慶一,現存(撮影:2012年)

名古屋の建築(2)
 名古屋探訪の第一のお目当ては、この十六銀行熱田支店であった。
 十六銀行熱田支店は森田にとって戦後の設計であり、湯川記念館などと同様、RCの柱と梁による構造体そのものを強調、シンメトリーで均整のとれた立面を指向している。
      
 現在はふさがれているが、図面を見る限り、当初は正面中央に入口があったようである。
 装飾は最小限に抑えられているが、それでも様式建築の軒蛇腹を単純化したような軒庇を見ると、森田の古典主義建築への強い思い入れを感じざるを得ない。
      
 彫りの深い立面にしばし見惚れる。確か当初の図面には石を割り付けたような目地が入っていた。以前の建物はさらに風格ある立面を呈していたはずである。
      


      







 
| 1950年− | 22:14 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
妙経寺

     
    1959年,東京都台東区,川島甲士,現存(撮影:2012年) 

       

 津山文化センター(1965)の設計で知られる川島甲士が設計した妙経寺。やはりコンクリートによる造形が冴えわたっていた。

 『建築文化』(1960年5月)によればその掲載データには芝浦工大川島研究室の川島氏の設計とあり、担当者として石川洋美氏の名も見える。余談ながら我が母校で教をとった建築家の作と知り、ちょっと嬉しい気分になった。

 以下『建築文化』氏に寄せた川島氏の記事によれば、設計依頼時の条件として、不燃耐火は勿論さらに山口智光師の言葉「・・・伽藍とはガランドウ―すなわち広い空間への謂いであります・・・」が示すように、従来の権威がかった威圧的な寺とは逆に、講演、展覧会、結婚式、子供会など民衆に開放され気兼ねなく集まれる公共空間が求められた。
 そのようなわけで折版構造の屋根が提案された。
 一方、この個性的な鐘楼も外向的に「天に向かってはね上がる」精神的指向を表したかたち、あるいは仏教発祥の地インドの水牛の角のイメージかもしれないそうである。

         

 境内を歩くと鐘楼付近には区による説明板が掲げられていた。その内容を要約すれば、寿量山妙経寺は日蓮宗の寺院。1535(天文4)年に武蔵国芝崎村(現千代田区大手町)に創建、1611(慶長16)年に当地に移転したそうである。銅鐘は四代西村和泉守政時による1763(宝歴13)年の作。西村家は江戸中期か
ら大正期にかけて、鋳物師と して名工を輩出した家柄とのこと。




| 1950年− | 21:36 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
海岸通団地

1958年,横浜市中区,日本住宅公団(現・UR都市機構),解体中(撮影2012年)

 万国橋ビルへの道すがら、横浜で昭和30年代を偲ばせるものは何であろうか、などという思いがなぜか頭をよぎった。そうしたら昭和30年代の団地に遭遇した。しかも建替えによる解体工事が行われようとしているところであった。



 ここ公団海岸通団地は昭和33年の入居開始、貴重な初期の団地である。しかし数年前に半分以上が解体され、残った4棟がまさに消えようとしているところなのであった。

 当初は単身者向けの住戸や集会室などもあり、なかなか変化に富んだ設計の団地であった。活気ある都市型住空間であったに違いない。しかし現在、この囲いと足場で覆われつつある状況下では、残念ながら往時の団地界隈の生活のにぎわいを想像することは難しかった。



 上の画像は、生糸検査所倉庫の側から望んだ団地。



 









| 1950年− | 21:34 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
行徳可動堰


1957年,千葉県市川市,建設省(当時),現存(撮影:2012年)

 江戸川放水路が開削されたのは大正8(1919)年のこと(現在ではこの放水路側を正式な江戸川としている)。この放水路側の分岐点に固定の堰が作られ治水が行われた。もう一方の旧江戸川側にも江戸川水閘門(1943年竣工)が作られ現在も現役である。

 戦後1947年に襲来したカスリーン台風の被害を教訓に流下能力を高めて河川の氾濫を防止し、また下流からの塩水の遡上を食い止めさらに江戸川水閘門と連動して水位を一定に調節し安定した取水を行う目的から、この可動堰が建設された。
 工事には1950(昭和25)年から1957(昭和32)年までの期間を要し、その開閉のしくみはローリングゲートと称される巨大なドラムが回転しながら上下するというものであった。通常は閉鎖した状態である。
 「清水建設二百年作品集」のサイトに竣工時の写真が掲載されていた。

 偶然かあるいは意図をもったデザインへの配慮があったのかは分からないものの、純粋で迫力ある造形の中に、かつてイタリア未来派が予言したイメージを見る思いがした。
 そして最近リニューアル工事が始まったようだが、どうなるのかちょっと心配な気もする。









| 1950年− | 19:18 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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