収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
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旧マミ会館(マミフラワーデザインスクール)

       

    (1968年,東京都,岡本太郎,非現存(2002年建替え済)

 

 この冒頭の画像(▲)は現在のマミ会館(マミフラワーデザインスクール)のショップで頂いた、旧建物の写真絵葉書の画像である。
 実は私が学生の頃、2年ばかりこの近くに住んでいたので大森駅に出る時はいつも旧マミ会館の前を通り過ぎていた。大森駅の線路を挟んだ反対側からも高台にツノ状のものが聳えるのが見えた。だがなぜか写真の1枚も撮ることをせず、最近になって建物のことを思い出して気になりだしたのだが後の祭り、既に取り壊され道を挟んだ場所に建て替えられたということで悔しい思いをした。
 そしてつい最近大森に寄ったので、建て替えられた建物内にあるショップの女性にそうしたことを話し記憶のよすがを求めたところ、私に旧建物の少し古くなったという絵葉書をくれた。懐かしい画像を前に心の中で密かに狂喜乱舞した、そしてここに載せた、というわけである。

 

 以下の画像3点(▼)は、その時撮った建替え後の現在の建物の様子である。穏健な普通の建物ではあるが、旧建物の青いタイルが再利用されているとのこと、それに置いてあった岡本太郎の「座ることを拒絶する椅子」など、恐らく以前からと思しきものも見受けられた。
 

 

 

 

         

 

 さて、私はなぜ最近になってなぜ旧建物に惹きつけられ、心躍る思いをしたのだろうか。
 まずは岡本太郎唯一の居住機能を持つ建築作品と知って、その貴重な記録欲しさが昂じたということだろうか。

 それから「座ることを拒絶する椅子」と同様、建築物に対する安易な既成概念を打ちのめすほどのもの、建築であることへの異議を呼び起す何ものかを敢えて作り出し露呈させる(これが岡本の「対極主義」か)姿勢が見て取られるからであった。しかも雄々しく聳えるツノ状の物質やフニャフニャした物質などからは原始的な叫びが聞こえそうなほどである。

 ただこうした岡本流「反建築」を突き付けられてはいるのだが、私個人としては、それが独自の要素を独自の統辞法で構成しているように見えてしまうところが特に興味深い。(岡本の挑発的意図に反して)つまり正直に言ってしまえば妙に「建築的」な感じがする。例えば、いたずらに奇をてらっただけの一時期のポストモダン建築と比べるならば、時期的に先行しつつかつ、確かに同列にできない何かが備わっている(と、最近思うようになった)。
 因みに、私がこうした感覚を覚える作品として、建築ではないが「岡本かの子文学碑「誇り」」(1962,台座設計:丹下健三)(▼)があるので再掲したい。(こう言われるのを岡本は嫌うのだろうが)妙に上手いと思う。

 

        

 

 

 

| 1960年− | 19:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
常滑陶芸研究所
     
     1961年,愛知県常滑市,堀口捨己,現存(撮影:2015年)


 堀口捨己の建築を見たいと思っても、今では現存する建物も少なく、また残っていても気軽に見られる建物はそれほど残っていないようである。そんなことも一つの要因なのか、ことさら堀口建築はどうも敷居が高い建物というイメージもつきまとってしまう。しかし今回、常滑陶芸研究所に出会ったことにより、そうした観念はかなり払拭された(*1)。

 竣工後50年以上を経ても、建物名称通りに陶芸研究や展示の場であり続け、さらに建築当初のオリジナルのままの空間を示していたことにも大きな感動を覚えた。巷に面影を留めぬ位に改装された古い建物が数多い中にあって・・・。


 
          

      

        

 外観は、深い庇や奥行きのあるバルコニーが印象的な、戦後の堀口のRC造建築の典型を行っているようだ。それだけで十分カッコいいのに、紫〜白のグラデーションの色彩を付けたモザイクタイルが外壁を包み込んでいるのには恐れ入った。一歩間違えば柄入りの和服を着せたように見えてしまいかねない危険がある中で、そうならなずに効果を上げる絶妙なラインを計測したかのように色彩付けが敢行されている。またこれは、常滑の建物に相応しく外装タイルの技術上の挑戦でもあったそうである。

        


  内装はさらに艶やかである。よく言われるように絢爛たる色彩は大正期の分離派時代からの堀口建築の大きな特徴であって、戦後の建築に至っても変わらず終始一貫していたことが、この建物を見れば分かる。
 過去の一例として1920年の分離派の会誌の表紙画(▼)(*2)を見てみよう。金色を用いた華やかな作品は若い時代の堀口の作品である。表現主義の時代から色使いは連続している。


                        

(▼)堀口ならではの建築ボキャブラリーが出揃っている。

        

        

 さてこの建物には、その色彩も含めて日本の伝統建築とモダニズムを統合しようとする堀口の姿勢が表れている。

 会誌「分離派建築会の作品」第1刊中の論文「建築に対する私の思想と態度」の中で、堀口は既に日本古来の伝統へのこだわりを延々と述べていた。そういうことであるから、よく言われるように若き分離派時代からずっと変わらずモダニズムの流れと己の血に潜む日本の伝統とを止揚することを、自らの課題とした建築家であった。そのような点に鑑みれば、この建物のように、西欧モダニズムの外観に和の藤紫の色を調和させる着想が生まれるのも分かる気がする。(堀口は戦後になって和風建築を多く残し特に数寄屋の研究の第一人者となった。しかしそうかと言って、単なる老境でモダニズムから和風建築家に転向したというわけでもないことは、一応押えておきたい。)

 分離派以来ずっとと言えば、もうひとつだけ大正期の堀口の論文を挙げてみたい。「芸術と建築との思想」(*3)の中で、(当時跋扈していた)構造派の言う工学的な意義をえる部分認めつつも、抽象芸術としての芸術の可能性を求めるべきという内容のことを述べている。そこで創作する個人の意志、その精神的な欲求を最優先とする態度を強調している。
 このような建築の芸術性を主張した分離派堀口による強いデザイン意志の表れを、その結実した姿としての、常滑陶芸研究所のどこまでも我々を眩惑させる建築空間に見出すことができる。

 さぁ、私の陳腐な解説はもうこの位にして、以下堀口ワールドをお楽しみあれ。


(▼)屋上から見たトップライト。四方から光を取り入れるしくみになっている。

     

(▼)月見台であろうか。

        

(▼)前庭と建物の位置関係

     

(▼)エントランスホールの階段。

        

(▼)エントランスホールと天井

         


        

(▼)トイレの天井までもこの通り・・・

         


(▼)展示室の天井。卍形のパターンからトップライトの光が落ちる。

        

では。

*1:今回、知人がタイルの展覧会(「I LOVE タイルータイルがつなぐ街かど」)を企画した関係で、その会場である常滑の「INAXライブミュージアム」に行った。そこの際、堀口建築にも寄ることになった。
*2:『分離派建築会 宣言と作品』(1920) 表紙の画は堀口による。(「ある会堂」あるいは「美術館への草案(1920),「ある斎場(1920)」とも類似する)
*3:『分離派建築会の作品(第二刊)」(1921)


 
| 1960年− | 20:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
大和郡山市庁舎と百寿橋
     
     1962年(庁舎),奈良県大和郡山市,山田守,現存(撮影:2014年)

 雨の大和郡山。前も見えない位のどしゃぶりだったのだがやっと小止みになってきた。せっかく約20年ぶりに訪れた私としてはラッキーである。なんとかカメラのシャッターを押すことが叶ったからである(初めて訪れた時の画像はここ)。

 山田守の戦後の作風を示す庁舎建物もさることながら、初めて訪れた時から気になっていたのは、思いがけず目にして驚いた表現主義風のコンクリートの橋の手摺り(▼下3枚)である。いや正確には橋詰め部分の手摺に限って、というべきか。 何とも大正後期からの分離派山田守の作品の亡霊に出喰わしたような感じだったのである。

       

 この部分に限っては恐らく山田守のデザインなのだろうが、今回よく見たところ、やはり橋のすべてが山田守のデザインというわけではないようだ、とも感じた。両端にコンクリート造の親柱がある橋本体の部分は異質でややクラシカルな造形、親柱のうちの2箇所にはお城のモニュメントが載っている。これがどういうことなのか、わけも分からず大和郡山を後にした。

    

 だが最近になって疑問は簡単に氷解した。庁舎正面のこの橋は「百寿橋」と呼ばれ、この橋に関する地元の方々による調査報告を見つけて読んだことによる(*1)。

 それによれば、戦前から郡山城の中堀にあたるこの位置にはかつて木造の庁舎が建っており、中央エンントランスの軸線上にこの橋は架けられていた。そして調査報告には1936(昭和11)年にRC造の新たな橋に架け替えられた頃の記録が記載されていた。その時の橋の図面と現状を見比べると、工事範囲は親柱から対岸の親柱までであり親柱にはお城のモニュメントがデザインされていた。だが表現主義的な手摺は記載されていない。そして図面上の橋と現状とはほぼ変わっていない。

 つまりこういうことであろう。この表現主義的な手摺りは百寿橋とは別物であり、恐らく後に山田守の設計で現在のRC造の庁舎が建てられた時期に、外構工事の一環として橋詰め部分に手摺りを加えたものなのであろう。

    

 山田守は生涯、作品に自由な曲面を多用してきた。戦後のモダニズム建築全盛の時代に入っても、例えば長沢浄水場のように分離派時代を彷彿とさせるようなアーチ窓や曲面の壁をうまく折り合わせて造形している。

 大和郡山市庁舎建物でも、よく見るとコーナーが曲面状のカーテンウォールが使われており(うまく写真に撮れずすいません)、それにこの橋詰めの手摺りなどと上手く折り合わせて一種独特の山田守の世界を創出したのである。


    


    



*1:「大和郡山・百寿橋の系譜と現況に関する研究」(川原賢史,岡田昌彰,服部伊久男)による。尚、橋中央には現状ではスリット付の高欄があるが、オリジナルの図面のデザインと異なるとの指摘がなされている。


 
| 1960年− | 18:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
沼津市上土通りの防火建築帯(沼津センター街)

  
1960年,静岡県沼津市,日本不燃建築研究所(所長:今泉善一),現存(撮影:2014年)


 前項で沼津本通り防火建築帯を取り上げたが、その完成に続いて、本通りのすぐそばに並行する道沿いの伝統ある商店街、上土(あげつち)通り商店街おいて、不燃化と店舗の共同化が行われた。設計は本通り防火建築帯に携わった今泉善一が組織した日本不燃建築研究所による。

    

 上土通りで防火建築帯が作られた理由は、完成によって売上げを飛躍的に伸ばした本通り商店街と、駅前の大手デパートの進出に対抗する気運が高まったことによる。この計画が立案されたのは1956(昭和31)年のことであった。完成と営業開始は地元商業界史(*1)によるところ1960(昭和35)年であり、営業開始後に完成した建物もあったらしい。
 その実現に向けて利害関係などの調整に苦労が付きまとったのは、ここ上土通りも例外ではなかったらしく、産みの苦しみから営業を開始し大幅な売り上げ増加が実現するまでの経緯は、機関紙『不燃都市』(1966.No4)に記録されていた。

 こうした記録を読むと、不燃化商店街の形成は、実は全国各地で始まっていて、不思議なことに今日まであまり語られてこなかった、もうひとつの戦後の日本の建築の発達の流れを見るような思いがした。

    

 上土通りの新たな工夫としては、個々の店舗間の仕切り壁が取り払われ(シャッターで開閉可)、一続きの店内で買い物を楽しめる部分が設けられたことがまず挙げられる。またアーケードは2階が遊歩道となっていて、2階に店を構えることが出来るように設計されていた。現在のアーケードを見ると、なるほど歩くことができるようになっている。

 外観は、写真でも一目瞭然だが、屋上部分がフラットルーフによる独特のモダンなデザインであり、これが商店街としての統一感を醸成している。 また、各地に残る今泉ら不燃建築研究所の建物を見ると、上土通り同様、フラットルーフの屋上部分にモダンなデザインを施すことは、よく行われていたようである。

 そうした上土通りのファサードを眺めると、戦前に今泉が初めて創宇社の展覧会に出展した「連続住宅」(下図)を想起させる。戦前の創宇社時代の労働者のための集合住宅の計画案が、戦後今泉らの手によってこれら防火建築帯として開花したのではないか、とさえ思えてくる。
 

          
                     

    

 かつては通りを挟んで東西にこうしたモダンな商店街が立ち並んでいたようであるが、現在は主に西側にその多くが残っている。
 洗練されたファサードのデザインは、あまり昭和30年代という古さを感じさせず、むしろ新鮮な印象を得たほどであった。最近、一般に再開発などで大きな箱のようなテナントビルに多数の店舗が収容される場合があるが、街路の散策を楽しみながらのショッピングということを思うならば、上土通りのケースは将来の商店街像へのヒントを含んでいるようにさえ思えてくるのであった。

    


 *1:「簡略 沼津商業界昭和戦後史」による


 

| 1960年− | 16:16 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
城内学園(きうちファッションカレッジ)
  
  1961年,静岡県沼津市,沖種郎,現存(撮影:2014年)

 丹下研出身の沖種郎による、都市デザインの延長線上にあって、都市と建築との融合をめざした計画の実例。あるいはそのモデルとしての建物と言えるのかもしれない。

    

 1960年代当時、「メタボリズム」に代表されるように、急激な人口増加への対応あるいは急速な高度成長の問題に対する解決策を求めて、都市デザイン的な提案が盛り上がりを見せていた。
 沖種郎は1961年2月の『建築』誌上において、「ジャングルジム・システム」とのタイトルを付した提案を行い、いくつかの計画案と実施作として「宮津市庁舎」と、この「城内学園」を掲載した。

    

       

 提案の中で、まず沖は近代技術がもたらす「人間疎外」を問題視し、そこで人間の生活と有機的に関連付けることが可能な都市のシステムを模索した。提案のタイトルに「建築デザインから都市デザインへの接近」と添え書きされているように、沖はマクロスケールの都市と生活する人間スケールの建築との融合によって解決を図ろうとした。
 具体的には、林立する大規模なコア柱とその間に架かり水平に延びる巨大な梁を恒久的な巨大なメジャーストラクチャーとし、そこに更新可能で人間スケールのマイナーストラクチャーの建築を取り付けるという二重構造による(この二重構造自体は、当時、割と普及した考え方ではあった)。
 このようにして多種多様な建築空間が生み出されるジャングルジムのようなシステムと、残された屋外空間とが有機的な関係を持ちながら結合することが可能になるわけで、この点がこの提案の核心となっているようである。
 「淀橋浄水場開発計画案」の例を挙げれば、上空を上述したようなジャングルジム状としオフィス空間として利用、跡地として残された地面は分譲され住宅地として活かされる、というものであった。
 おおよそこのような提案の内容であろうか。

    

    

 城内学園は、都市的視点からすれば小規模なモデルかもしれない。ひとつのコアから延びるRCの構造体があり、余白の部分は教室や執務空間となっている。またそこにはプレキャストコンクリートによる外壁という更新可能な部品が取り付けられているのが特徴となっている。またRC構造フレームのヴォイドな部分は、屋外の広場空間のように機能している。

 写真ではわかりにくいが、プレキャスト部材は木造家屋で見かける「南京下見板張り」をヒントにした水切りの工夫がなされていたそうである。内側には凹みが付けられ棚として利用が可能とのことである。

       

       



 
| 1960年− | 19:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
奈良県庁舎
  
1965年,奈良県奈良市,片山光生,現存(撮影:2014年)

 大きな庁舎ではありながら、隣接する奈良公園の落ち着いた雰囲気を助長するかの如く、鹿の群れもこの打ち放しコンクリートのれっきとしたモダニズム建築になじんでいる。

 待てよそうか、本来モダニズムの建築とは自然環境との親和性が高いものだったということか。(そのかわり、過去の様式建築との対比を強調するところから所謂モダニズムの建築は出発したとも言えよう)その好例として、コルビュジエが地中海の風景に溶け込んだバナキュラー建築から影響を受けたことやいくつかの計画を思い出せば、容易に納得できよう。

    

 設計者は片山光生。寺院の伽藍配置を思わせる建物配置が特徴。
 リズミカルに柱を配した回廊を透かして、中庭とシンボリックなペントハウスのある建物に視線が誘われる。回廊はピロティとなって建物を浮かび上がらせ、最大限に大地を見せようとしている。窓やバルコニー手摺それに個性的なデザインの庇が水平に広がり、これらによって見事に圧迫感を消し去っている。また屋上庭園は市民に解放されており、奈良公園から若草山まで一望できる。まさに近代建築の原則に忠実に則ってできたと言ってよさそうな建物である。
 もちろんこうした中庭や回廊部分は、現在でも生きた空間として利用されている幸せな建物なのであった。

    

    

    

    

 片山光生はこの他にも奈良県文化会館(1968年)、奈良県立美術館(1973年)を同様の方法で手掛けた。
また、昨今ご存じの方も多いと思うが、東京の現・国立霞ヶ丘競技場(1958年)の設計者でもある(下の画像)。水平性を強調した外観で、落ち着いたたたずまいを大都市のど真ん中に創出する手法は、その時既に開花していたようである。


    






 
| 1960年− | 17:11 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
都橋商店街
    
1964年,神奈川県横浜市,横浜市,現存(撮影:2014年)

 横浜市内を流れ緩やかに弧を描く大岡川には、カーブのラインに忠実に沿うような形をしたちょっと不思議な飲食店ビルがある。
 長い建物は2階建てでハモニカ状に区切られ飲食店が多数入居し、一部は川の上空に迫り出しているようであり、ちょっとしたアジア的な魅力のある空気を感じさせる。大体どうしてこのような建築が実現できたのだろうか、気になるところだ。

       
 知る人ぞ知るスポットとしてネット内を散策してみれば結構有名なようではある。しかしその由来についての詳しい解説は少なく、やはり専門家である伊達さんのHP「横浜B級観光ガイドブック」などを参照させて頂くことにした。
 話をまとめて要約すればこういうことだろうか。50年前の東京オリンピック開催の計画が持ち上がった際、戦後の闇市の名残りである露天商や屋台が美観上問題視され、そこで行政サイドはひとつの建物に店舗を収容してしまおうと画策した。しかし空いている土地がそう簡単にみつかるわけでもなく、目をつけた公有地である大岡川に私有の建築を建てることはできない。結局は河川敷と河川上空の占有許可を得て、横浜市(横浜市建築助成公社へ委託)が建設し、商業者の組合(横浜野毛商業協同組合)へ貸与、さらに組合員が入居する形をとることに行き着いたのだそうである。

           
 実際ほとんど超法規的と言っても良いような離れ技をクリアして実現されたとのこと、やはり「東京オリンピックの開催」が不可能を可能にさせる「伝家の宝刀」として働いたのではなかろうかと思う。(状況は異なれど、次の東京オリンピックでも良くも悪くも似たようなことがありそうである。「歴史は繰り返す」のであろうか。)
 
 建築された当初は1階が日用品などの店舗、2階には飲食店が入居していたようである。現在はほとんどがスナックなどで占められている。

       


       

 さて、こうした特殊な敷地を生み出し方をもって建てた建築物として恐らく誰もが思い浮かべるのは、土浦亀城による2つの建物ではないだろうか。最近惜しくも閉鎖解体されてしまった銀座の「三原橋地下街(1952)」と、上野公園のがけ地にあり既に建て替え済の「西郷会館(1952)」である。前者はやはり河川が相手で、埋め立てられた三十間堀川のに残った廃橋の下の空間を商店街や映画館としたものであった。上野の西郷会館も崖の法面を利用するというとてつもないアイデアであった。

 これらは闇市を一掃するために占領下の特殊な状況下で生み出され、恐らく今日ではこのような方法で土地のないところに土地を生み出す方法など考えられないのではないだろうか。
 都橋商店街は「三原橋地下街」や「西郷会館」よりは時代が下るものの、希望は横浜で見出されたと感じた。現存する同類の建物がなんと横浜で現役だったのである。戦後昭和期の数少ない生きた遺構として、まだまだがんばってほしいと思った。

    



    



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・付録「大和橋ガレージ」
 さて、三原橋商店街の話が出たついでに、最近みつけた建物(と言ってよいのか?)「大和橋ガレージ」をおまけにUPしておきたい。
 下は岩本町辺りを歩いていて見つけた地下入口の画像である。その正体はかつてあって埋め立てられた「竜閑川」に架けられた大和橋の廃橋の下を利用して作られた地下の貸駐車場であった。現在は閉鎖されている。
 これについてもネットで調べてみたところ、こちらのブログ「(老人の呟き フォトアルバム」)が詳しい。1952年に造られたのだそうだが、当時の「江東楽天地」によって橋の下を映画館にするという、三原橋と同様の計画案も一時浮上していたそうである。

        

 こうした車路が一対ある。内部はどうなっているのだろうか。入口脇の格子模様が意味あり気だが、何だかさっぱり解らず気がかりである。

        

        

以上。

 
| 1960年− | 21:08 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
千葉大学医学部記念講堂
     
     1964年,千葉県千葉市,槇文彦,現存(撮影:2013年)

 皆様、本年もよろしくお願い申し上げます。さすがに以前と比べて更新の頻度は減ってしまいましたが、これからもマイペースで続ける所存です。

 さて今年最初は「千葉大学医学部記念講堂」。同大学医学部の設立85周年を記念して1964年に建てられた講堂であり、設計者槇文彦にとっては、名古屋大学豊田講堂(1960年)に次ぐ作品。

       

 千葉市内の高台に「亥鼻の森のお社」を作ることを意図したことによるという、銅版葺きの大きな屋根が印象的である。だがメガストラクチャーの存在を思わせるような、梁断面むきだしの力強い正面ファサードをに目を向けると、私は1960年代当時に思い描かれた「近未来都市の一断面」を見る思いがした。と言うか「内―外」を壁で分かつ普通の単体建築の概念を越えようという意図が明らかに感じられ、ミクロの建築空間からマクロの都市までを統合しようとする意思が強く漂ってくる。(とりあえずガラスを無いものとして見れば、なんとなく意図が汲み取られるかもしれない)

         

 事実、内も外も無い「都市の一部」とする考えは観念上の都市モデルを表わすにとどまらず、設計において大胆に実践されていた。一見したところでは一般的な講堂のプランのようだが、当初は、ホールとホワイエを隔てる仕切りは、建具を全開にすることによって開け放つことができ、一体の空間とすることができたそうである。
 ホワイエ中央にRC打ち放しの塔がそそり立ち、その上部には白くて四角い映写室らしきブース(下画像)があるのだが、恐らくそこからステージに向けて映像が発せられていたと思われる。つまり機能の上でもホワイエとホールは一体的に扱われていた、あるいはフレキシブルな変化を可能にする設計がなされていたことを今に伝えている。さらに言えば、ホワイエと屋外を区切るのは透明ガラス1枚だけなので、視覚的には、ホールの隅から外部の亥鼻の森にまでつながっていたのである。

 建物随所に流政之のアート作品があちこちに嵌めこまれている。無表情で荒々しい構造体を露わにするだけではなく、実は、壁面と間近な距離においても訪れる者の目を楽しませるよう、きめ細かい配慮がなされていたのである。   

         

         
  
     











 
| 1960年− | 19:49 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
東京聖三一教会
      
  1961年,東京都世田谷区,石本建築事務所,現存(撮影2013年)

 1961年竣工なので石本喜久治存命中の建築作品ということであるが、どの程度デザインに関与したのか知る由もない。私見によるところ、中央部のコンクリートの穴あきパターンなど戦前の旧・白木屋大塚分店の塔屋を彷彿とさせるのだが・・・
 中央の十字架は最近まで(右下の竣工時写真(*1)のように)建物のさらに上に天を目指すように据えられていたが、先の震災の痛手で現状のようになったそうである。

    

 側面の窓はどことなくモンドリアン的なパターン。これも戦前の石本氏の建築に時々登場する。内部のRC構造体による見せ場の作り方はさすが。
      
         

 日本聖公会東京三一教会は1889年に築地の外国人居留地にて創立、1927年に青山に移転した。さらに戦後1959年に麹町のインマヌエル教会と合同するかたちで現在の世田谷の地に移転した。教会に隣接して築80年になるという木造の洋風住宅(下図)があるが、戦前からのこの住宅が建つ広い敷地を分割して教会が建てられたということであった。派手さはないがしっかりとした細部も丹念に作られた建物であった。

      

思いがけず素晴らしいものを拝見させて頂きました。かつて近所にお住まいだったそうな清水崑の絵「子ども河童天国」の絵が子供部屋の壁に・・。あんまり愛らしかったので(すみません)、ついUPしてしまいました。

  



*1:石本建築事務所作品集(『建築画報』1966年,光元社)


 
| 1960年− | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
駒沢公園体育館・管制塔
      
   1964年,東京都世田谷区,芦原義信(体育館構造:織本匠),現存(撮影:2012年)

 今朝、2020年東京オリンピックの開催が決定した。日本中が喜びに沸く映像が溢れ、本当に良かったと、眠気でぼーっとしながら胸をなでおろす一日だった。

 ぼーっとしついでに前回の1964年の東京オリンピックに思いを馳せてみたが、私が物心ついた頃であったので具体的な記憶はほとんど無い。だが開催が近づき聖火リレーが家の近くを通ったりして周囲の熱気がどんどん高まっていったことだけは、今でも心にしっかり焼き付いている。何も分からないながらワクワクしていた。
 最近見た映画「ALWAYS 三丁目の夕日'64」でも熱気を含んで描かれていたように、あの時のオリンピックは、やはり泥沼のような戦後から這い上がり物質的な成長発展を目指した、高度成長期の希望のシンボルだったのかもしれない。

 そして2020年のオリンピックはどういった大会になるのであろうか。
 当然1964年当時とは時代状況が異なろうが、しかし飽食の時代と言われつつも災害を蒙ったりその他様々な問題で、精神的には希望を求めざるを得ない状態という点では変わりがないように思う。今回、そんな状況を引きずりつつ、スポーツが持つ人の心を結び付ける力をもって、より良い方向に導く役目を仰せつかったということだろう。

 ロゲIOC会長が記者会見の場で、日本は開催決定が決まったからにはコンセプトをしっかりと決めなければならない、と語っていた。当たり前のようだがとても大事なこと、安手のキャッチフレーズを決めてお茶を濁すだけにならないようにして欲しいところである。コンセプト(基本理念)はすべてを統合するのだから。もちろん競技施設のあり方やデザインにまで反映されるべきものであるはず。
 一例挙げれば、新国立競技場案についてもそういう観点から再検討されるべきなのかもしれない。槇文彦氏がいみじくも示した歴史的文脈やボリュームの適否の再検討と共に。

       

                     
                      **

 さて駒沢公園体育館は、管制塔と共に1964年東京オリンピックに向けて建てられた芦原義信の代表作であり、またかつて多くの選手が活躍した記念すべき建築である。
 建築的にも、都市空間の構造に造詣の深い芦原氏が好んだサンクンガーデン(沈床庭)の空間があり、あたかも飛翔しそうな鉄骨シェルの屋根が軽く広場に接地しているように見える。おそらく当時としてはどこにも無かった新しい建築だったのではないだろうか。
 そしてこの建築も、東京オリンピックに向けた当時の人々の純粋な希望を物語っていたのではないか、と思えてならない。

       

       








| 1960年− | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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