収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
芝浦工業大学大宮図書館

1971年,埼玉県さいたま市,沖種郎(設計連合),現存(撮影:2009年)

 芝浦工大大宮キャンパスの最奥部、鬱蒼とした林に溶け込むように建っている。
 掲載誌(*1)の解説によれば、開放的な空間と利用者主体の閲覧方式という主旨に基づくいくつかのアイデアによって計画されたことが分かる。全館開架とされ、建物の開放性は構造体つまり内部にある2列の長大なボイドウォールとボイドスラブが受け持つことによって解決された。自由なプランニングと見通しの良さが可能となり、外壁面にも大きな開口部がとられ、外の木立の景色を存分に味わうことができるようになっている。



 設計者の沖種郎は、丹下健三のもとで戦後の著名な作品の計画に関わり、「図書印刷原町工場」や「香川県庁舎」などを担当した。独立後は大谷幸夫と「設計連合」を組織し、1963年の国立京都国際会館のコンペでは1等を獲得し実施された。

 芝浦工大との関わりは1959年から教鞭を執りはじめたところから始まっていた。私が同大学に入学した頃には退職の時期であったようで、最終講義をこの図書館の視聴覚室で拝聴したことを覚えている。(確か旧東京都庁の計画その他様々な話が披露された。ただ残念なことに入学して間もない私には多くを理解できなかったのか、その程度の記憶しかない。)

 卒業後数十年経て図書館の前に立ちその姿を見た。しかしその姿は特に綻びた様子も無く以前と同様、という印象であった。




*1:『建築文化』1971年12月号




 
| 1970年− | 21:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
春日部市庁舎
            
      1971年,埼玉県春日部市,建築モード研究所,現存(撮影:2012,2013年)


 埼玉県にはその緩やかな湾曲面によってひときわ目を惹く庁舎がある。ある日、春日部市庁舎の外壁面が東京都渋谷区の区庁舎に似ていることを思い出し、気になったので調べてみたところ、やはりと言うか、高橋武士の建築モード研究所の設計であることがわかった。渋谷区のそれから7年後、1971年竣工の建物であった。  
          
 明快な形状をもって忽然とそそり立つ迫力は相当なもので、そういう意味だけで言えば、その印象は日本版のブラジリア・・などと言ったらたとえが過ぎようか。
 掲載誌『建築界』には担当者による解説が記載されている。敷地は夜になれば蛙が鳴いていそうな一面田圃であったとのこと、当時こうした田園地帯が開拓されていくことに複雑な心境もあったそうである。そんな中で、「発展する市のシンボルでなければならず、またこの風土に調和し超克するものでなければならない」(*1)との思いで計画が進められたことが書かれていた。
                  
 建物の外観はどの角度からの視線にも耐えるよう、考えられている。曲面を随所に取り入れ巧みに分節されたディテールの妙や、窯変タイルなど材料の取り入れ方の巧さによって、そうしたオブジェ的な美しさがかたち作られているのかもしれない。
                       

                  
 正面の湾曲したウィングの裏側には低層の議会棟があり、PC版を用いた軽快な外壁面がタイル面と好対照をなしていた。そして内部の地下食堂から日本庭園を眺められるように作られていたそうである。
 良い建築に巡り合えたという満足感に浸りながら春日部を後にした。
               
        
             

                  


  *1:『建築界』1971年5月号,P.15

 
| 1970年− | 21:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
県営河原町団地

神奈川県川崎市,1972年(当該住棟),大谷幸夫,現存(撮影:2012年)

 河原町団地に最初の「逆Y字形住棟」がお目見えしてから40年目になる。これは丹下研究室の出身で「国立京都国際会館」を設計した大谷幸夫により生み出された住棟なのである。

 高層の住宅団地を配置する場合、どうしても低層部の日照をどう確保するかが問題となる。そこで低層部の住戸をセットバックさせながら積み重ねる棟が考案されたわけだが、これと垂直に立ち上がる棟とを交互に配置し隣棟間隔を適切に保ちながら日照を確保するように計画された。
 また、斜めにセットバックする住戸群によって生み出される空間は公共空間として建物に内包される。つまり子供は建物から隔たった野外に行かなくても家のそばで遊ぶことができるのだ。
 さらにこの半屋外の共用空間は上層階の吹き抜けともつながっており上下階の隔絶した感じの緩和にも寄与するらしい。日照の問題の解決策をはじめとして大体以上のような効果が期待されてこのユニークな「逆Y字形住棟」が誕生したのだった。
 バルコニーの窓や玄関の位置などについてもプライバシーに対する細やかな配慮が働いているが、これも当時としてはまだ珍しかったのではなかろうか。

 当時の公営住宅団地の多くは、まだまだ均質に連続する住戸とそれらをつなぐ共用の廊下や階段が全てだった。その結果の殺伐とした雰囲気が問題になるのはもう少ししてからであった。
 そんな折りに、無ければ基本的に成立しないというわけでもない半屋外の巨大な共用空間を作り、襞の多い外壁を実現にまで至らしめたことは、やはり画期的だったと言うべきであろう。
(当時の某誌月評を読むと、ある有名建築家がこれを陰鬱な空間とする単純な印象批評に終始させていたが、そういうあげつらい話なら誰にだってできる)
 河原町団地の「逆Y字形住棟」を見ていると、断面形状が似ているせいか大谷幸夫の師である丹下健三の「25,000人のためのコミュニティ計画」(1959)思い起してしまう。しかし丹下健三のそれは計画止まりであった。それに対して現実の団地で実現してしまった大谷のすごさを過小評価することはできまい。
 ただし留意しておきたいこともある。大谷幸夫の場合、あくまでも最小単位であるのが住戸であり、人間であってそれを起点にどう集合するのがふさわしいを考察し、ひとつの建築に至らしめるという発想の違いがあるらしい。つまりメガストラクチャーありきでそこに全てを押し込める発想とは逆向きなのである。



 さて、当時の掲載誌を見ると、共用空間でたくさんの小学生位の子供達が遊ぶ活気あふれる写真に満ちている。よくよく考えれば写真の子供達は大体私と同じ世代であり、私もこのような「来るべき21世紀の未来空間」で遊べたら楽しかっただろうな、などと当時ずっと小さい団地に住んでいた私は、今更ながら少々ひがみっぽく思うのだった。
 そしてこれらの写真を撮った2012年のとある日、殆ど人気もなく少し寂しげであった。遊び場としての機能はとうに忘れ去られたようにも思えた。
 恐らく、今見ているのは当時の子供たちが巣立って行った「夢の跡」であり時間が止まったまま残された空虚なのだろう。世代の移り変わり−やはりここでも対処しあぐねているような、そんな問題に立ち至っているように感じられた。





以下は、逆Y字ではない、商店街のあるツインコリダー型の棟。そしてちょっと不思議なパーゴラ(?)、無限定的な伸長を示唆しているような・・・。
   



 
| 1970年− | 22:38 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
北九州市立中央図書館

1974年,福岡県北九州市小倉北区,磯崎新,現存(撮影:2010年)

 まずは、のたうち回る2本のチューブありき。たまたま納められた機能は1本のチューブについては図書館であり、他方は歴史博物館であったに過ぎない。だからであろうか、元々は歴史博物館であったのがここを訪れた時は既に北九州市立文学館に入れ替わった後だったのだが全く違和感などは無かった。はじめから文学館だと思っていた。
 「形態は機能に従う」という箴言をみごとに嘲り倒すこうした建築が生み出されたわけだが、磯崎いわく「ねずみ花火」が旋回しながら飛び跳ねる軌跡を写真に撮って建築の形にしようと試した、ということがどこかに書かれていた。勿論、ねずみ花火の企ては失敗に終わったそうだが。
つまり幾何学的な構成に頼ってきたモダニズムの建築に対して、敢えて連続性だけを扱ったトポロジー空間を持ち出して新たな建築の可能性を探ったのだと思う。
 3ヒンジアーチのPC版が果てしなく連続し、そこにリブヴォールト的なイマジネーションを生み、ある意味ゴシック的というかスタイリッシュな建築空間一般がもたらす感動が何気なく織り込まれているという具合。そして「湾曲」,「並置」,「切断」といった独自の建築的レトリックが用いられて建築となる。

 冗長なのはこの建築の持ち味でもあろうが、いくつか意味の切れ端のような部分も仕込まれている。おなじみのモンローカーブあり、あるいは三浦梅園による「玄語」の図式に基づくとされるステンドグラスなど。
            
 私は、なかなか行く機会の無い九州を訪れてやっと磯崎新の作品に接することができたわけだが、驚いたのは広々としてきれいな環境であったことである。聞けば勝山公園の芝生広場が整備され完成したのは2006年のことであり、これは竣工時とは違う再整備された風景なのであった。
 折角きれいに整備してきた方々の努力を批判するつもりは全く無いのだけれど、コンクリートの外壁に蔦が這っているのを見て思った。恐らく作者はコンクリートの外壁が蔦で埋もれ銅板葺きの屋根が緑青で暗く落ち着いた光景、つまり建築としての際立った形を失った「廃墟」としての姿を真に完成した姿として想定しているに違いないであろう、と。戦前に立原道造が廃墟となるのを想定して設計すべきと主張したことを、まるで忠実に実践するかのように。
 そういうわけで、10年後位にもう一度訪ねてみたいと思った。

     





 
| 1970年− | 22:17 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
群馬県立近代美術館

1974年,群馬県高崎市,磯崎新,現存(撮影:1981年)


 1辺12mの立方体フレーム、第一原質たるプラトン立体への「偏愛」のみがまず建築を成り立たせる発端としてあると作者は言うが、言うなれば、外部からも時間からも切り離されたある観念のみが建築を成り立たせているに過ぎないということを暗に仄めかしている。
 そして強力な秩序をもたらす立方体に対して、亀裂を入れるために「増幅」、「ズレ」、「ねじれ」などの操作が施される。表現の手の痕跡とは無縁の出来事として。
 
  あらゆる表面は幾重にも正方形に分割され増殖し、あるいは立方体フレームが入れ子状に並置される。池を抱く立方体の軸線は22.5度振れて伸張する。内部では、よじれた逆パース状のオブジェが視線の彼方に異物のように挿入され、壁の表面にも執拗に歪んだグリッドフレームが刻み込まれている。
 このような従来的な意味における表現行為とは言い難い操作は、ルネサンス的人間による「創造」への不信、「手法」としてのみ延命が許された建築のあり方を示す。また人間存在の減失がもたらす不在の時代としての近代への認識に根ざしている。
 
 モダニズムが内に秘めたこうした問題を見据え、なおも建築を生み出すことそのものへを課題として据えたのは、1970年代に入ってこの建物を設計した磯崎新、あるいは別のアプローチによる(「宮島邸」を設計した)藤井博巳らが、ほぼ日本における最初の建築家だったのではなかったかと思う・・・。








| 1970年− | 20:14 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
倉敷アイビースクエア

    
1974年(原建築:1889年),岡山県倉敷市,浦辺鎮太郎,現存(撮影:1981年)

 明治時代に創設された倉敷紡績の旧工場は、第二次大戦中に軍需工場化し、終戦と共にここでの生産活動は途絶えた。その後、倉敷からその外へ向けた貢献をなすべく、ホテル,ホール,記念館などを備えた複合施設としての再生計画が浮上し、リノベーション事例の先駆となった。
 アイビースクエアは、必ずしも元工場のオリジナルの真正さだけを目指した保存活用ではなく、地域環境との調和を目指した創意も加えられているが、それは、事前の十分な調査を踏まえて導き出された回答でもある。
 こうして再生した建物からにじみ出る、エキゾチックな魅力と居心地の良いひと時に満足した方も多いと思う。その一方で、(当時を思えばむしろ普通であったはずの)ガチガチの計画論で固められたモダニストの発想がてんで及ばないような地平でデザインが衒いもなく散りばめられていることにも気づく。浦辺の建築全般にそうなのだが、私から見れば、こうした一歩間違えば悪趣味なまがいものに陥りかねないような危ない橋をさらりと渡っているようにも思える浦辺鎮太郎の建築に対しての「どうして?」という思いは、払拭されずにいた。

 戦前の浦辺鎮太郎について調べると、1934(昭和9)年に京都大学を卒業し、同期生には西山夘三もいた。「DEZAM(デザム)」に所属して建築運動に染まっていたことが語られている。
 1920年の分離派に始まって以降の、建築運動が勃興しては離合集散した時代を、浦辺も生きている。自身が語った小文を読むと、高邁な理論に埋没し「頭ばかりで手の動かない人間」(=実務が出来ない)になっていくのを、ある時期にしきりに反省したようだ(*1)。
 恐らくは、郷里倉敷に戻り、先達の薬師寺主計や大原総一郎の精神に触れたこと、つまり倉敷という無名の伝統的町並への敬愛の念に触れたことが、観念論の暗闇から脱出し目覚めるひとつの要因であったのかも知れない。そして等身大の視点から人の住む環境を見据え、モダニズムの教義に煩わされることなく、時に応じて装飾をも交えながら必要なデザインを施すことも辞さない姿勢が生み出されたのではないか、そんな想像がよぎる。
 20世紀は、総じて人の生きる現実と改革し理想に到達するための理論の狭間で誰もが苦しんできた。しかしどうあれ行動をもって打開しなければならないとするならば、浦辺は倉敷という場を得ることによって連続性を持った活動で成果を生んだひとりであろう。
 ただ、西欧の様式が混入を敢行した「倉敷市庁舎」については、その大衆迎合的とも解されかねないまでの勇気を論ずるのは、私には力不足か。降参するしか無いような気分にさせられるが・・・。建物ひとつに近視眼的に目を縛られてはいけないと教えられているようだ。

*1:「私の受けた建築教育」浦辺鎮太郎(『建築雑誌』S.51−4 No.1106)

| 1970年− | 14:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
佐倉市庁舎

   
1971年,千葉県佐倉市,黒川紀章,現存(撮影:2009年)

  成田に写真展を見に出掛けた帰りに寄った。(今年のGWの遠出が最大ここまでとはショボい。) しかし期待通りに、メタボリズムの思考が大胆に表現されていることに感心し、さらに40年近い経過を経てもほぼそのまま保たれていることにも感心した。

 ほぼ同時期の次作であった中銀カプセルタワーと比べてみると、むしろ佐倉市庁舎の方がボイドスラブなどPC部材が露わなのに加えて、恒久的な骨格をなすコア部分から伸張する設備配管類も、まるで生物の血管や神経の如く表現されていた。こうしたハイテクにより宙に浮くようなカプセル状の要素があってこそ、その余白の曖昧な中間領域の存在をも保証される、という意図が窺われる。
 45°に振れたプランニングの挿入、サーリネンへのオマージュっぽいHPシェルの議会棟、それにシェル状慰霊碑も黒川氏によるものだろうか、確信犯的詰め込み過ぎ建築あるいは、'60~'70年代の楽天的テクノロジー神話のタイムカプセルに対して、なぜか手放しで満喫してしまう私を確認するのだった。
      

| 1970年− | 11:20 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
望田(もちだ)ビル

        
1979年(?),東京都新宿区,藤井博巳,非現存(撮影:1982年)

 例えば、「物語」や「小説」のたぐいが、語り手によって限定した意味内容を一方的に読み手に伝達することで成り立っているのに対して、「詩」の世界は、様々なレトリックによって操作された言葉の集積と言って良いだろう。「詩」は元々、たったひとつの結末を想定しているのではなく、読み手も謎解きの如く意味を探ったところで仕方が無い。芭蕉の俳句を字義通りに理解し、事足れりとして喜ぶ人などいないように。つまり、詩の意義は、いかに自由にイマジネーションを展開させ、新たな意味を生産させ得るかに置かれており、またそれが魅力でもあるだろう。

 藤井博巳による1970年代後半の「変形」のプロジェクトシリーズでは、特に無意識の自己を呼び覚ます近代詩の場合と同様の意味で「意味の生産」を目指しており、この望田ビルもその実作のひとつであった。
 「変形」とは形を歪曲するだけではなく、習慣化された既成の意味のしくみに対して、「ズレ」とか「内外の反転」その他色々な操作を建築要素に加えることに拠っていた。こうした操作を文学になぞらえるのならば、「隠喩」や「換喩」などのレトリックが相当するのであろう。
 しかしこの「変形」の試みは、語る主体を想定しない非人称のメカニズムとして、「機械」のようなあり方が目指された点が重要であった。そういうことなので、これは従来的な意味の表現行為ではない。本質的な意味において、何も語られることは無く、操作された断片が認められるだけなのだ。

| 1970年− | 19:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旧・等々力邸

   
1975年,千葉県市川市,藤井博巳,非現存(撮影:1982年)

 見た瞬間に「ええっ」と思うような、思考回路が空洞化するような感覚に襲われる。そう素直に感じた時、案外とこの建築の本質に迫ったことにもなるだろう。
 けれども、これは単に奇抜さを狙ったような建物とは次元を異にした、建築家の思索の上に成り立っていることも忘れないようにしたい。
 また、普通なら住宅ならば居住性こそ問われるべきとの声が聞こえてきそうだが、ここでの建築家は、あくまでも重要な前提としての建築への問い、つまりモダニズムの文脈上において、モノと見る我々との間の視覚コミュニケーションの再検討に最大の関心を払い続けており、そのかなり純粋な成果として建築化されたことも、付け加えておきたい。(建築家の意図とは無関係な、築後の改変部分も写っているのはやむを得ない。念のため。)

 モダニズムの長き流れにおいて抱え込むことになった「均質さ」ゆえに陥る失語症的状況を受止め、建築の新たな語法のあり方を正面から問い直したのは、私の知る限り、1970年代に始まる藤井博巳の仕事が日本でほぼ唯一であったように思う。
 と言って分かりづらい時は、他の芸術領域の近代に目を向けてみると良いかもしれない。例えば、近代の音楽では20世紀以降に旧来の形式や調性が破棄され「十二音技法」のような語法まで生み出された。あるいは戦後の文学におけるヌーヴォー・ロマン(アンチ・ロマン)、とりわけロブ=グリエの場合のひたすら状況描写に徹することで迷路的な苛立ちを催させる作品『嫉妬』や、同氏の脚本による映画『去年マリエンバードで』などを思い起こしては如何だろうか。
 これらは共通して、旧来の表現形式に潜むヒエラルキーを打破し、要素を均質に扱っている。さらに、作者やその作品が発する意味を一方的に受け手に強要するような旧来の意味の伝達方式からきっぱりと決別していた。つまり「何も語っていない」のだ。そんな状態が整ってこそ、受け手による主体的で自由な想像力の開花なり解読なりも可能となる。
 近代以降の芸術の延命策は、主にこの線に沿っており、同様に藤井が目指した建築もまさにこれにあてはまろう。

 等々力邸では、意味の消去(負性化)の考え方を発展させて要素の構成に力点が置かれた。つまり、家を成す要素の通常の構成に対して、ありえないような関係付け方が持ち込まれている。グリッドフレームを基本要素とする「入れ子」や「相似」といった関係付けを見る私は、分かりきった意味の世界から断絶され、宙ぶらりんの状態(宙吊り)に置かれる。
 「ええっ」という驚きを伴うのだが、自分としては、それは心地よい。

| 1970年− | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
宮島邸

                      
1973年,東京都新宿区,藤井博巳,現存(撮影:1982年)

 建築家がその思索をより忠実により純粋に、地上の現実の中に形として表出すればするほど、傷跡にまみれる悲しみも覚悟しなければならないのだろう。そうした末の画像を人目に晒して良いものかと随分と迷ったが、しかし先刻承知の上で敢行した稀有で孤独な戦いの実例こそ、本当は長く記憶に留められるべきなのかもしれない。
そう思いつつ批判を承知で掲載してしまった。あとは皆様のご賢察に頼るのみ。
 宮島邸は、当初金属凸目地グリッドで覆われ、鈍い光を発する硬質なイメージの建築であったが、その目地の多くは数年にして失われた。(等々力邸では、折版が載ってしまった。)

 藤井の建築は、見慣れた意味を消去する作業(これを建築の「負性化」と呼んだ)から始まり、宮島邸は特に世に知られた最初の実施例となった。ドアはドア、屋根は屋根などという、ありきたりの意味を了解する日常の鬱陶しさを消去せんがために、そこで、建物はくまなく45僖哀螢奪匹量榁呂琶いた圓されることになった訳だ。
 目にした瞬間、慣れ親しんだ意味の世界から断絶され、モノが背を向け自分自身との間に空洞が広がり、意識の撹乱に襲われる。これに似た感覚は、例えば「迷路」や「廃墟」に遭遇した時とも似ている。
 しかし、ある意味で新鮮なこの感覚を得た時こそ、想像力の翼を主体的に発揮し得る場に開放されたことになる。



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 2011年2月、建て替えられるとの情報を得たのであわてて見納めに行った。下はそのうちの2枚。
外部のグリッドはほとんど無くなっていたが、それでもこの地球上で2度とお目にかかれないであろう凄まじい建物であることに変わりない。

       

| 1970年− | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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