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東京国立博物館(旧・東京帝室博物館)

1937年,東京都台東区,渡辺仁(実施設計:宮内省内匠寮),現存(撮影:2008年)

 「日本趣味を基調とする東洋式」という要綱により、昭和6年に行われた立面のデザインを競うコンペの覇者渡辺仁の設計に基づいて建てられた国立博物館。それは戦後いつしか「帝冠様式」建築の代表的建築物のようにみなされるようにもなった。しかし帝冠様式そのものの議論はさておいてこの建物に限って見たとしても、これが本当にナショナリズム高揚を意図する意味で日本の伝統的な屋根を冠した建物、ましてやその代表例などと言えるのだろうか?

 こんな疑問が浮かび上がったきっかけは、『建築雑誌』昭和45年1月号の掲載の、往年の建築家らが昔話を語った座談会の記事を、最近読んだことによる。記事は村松貞次郎が司会を務め、堀口捨己ら数人の戦前期に活躍した建築家が自由に裏話的な話題を語ったものでそれ自体読んでみて面白い。中でも力作を残しながら寡黙で自作を語らなかった渡辺仁に、司会者はこの機会とばかりに何度か水を向ける。帝室博物館コンペの話題で日本風の屋根について問うたところ、渡辺はやっと重い口を開いて思いがけないことを言う。このくだりの一部を以下に引用すると、
村松:「渡辺先生、何か屋根という発想は前からお考えになっていたのですか。」
渡辺:「そうでもないのです。あれはもう一つ二重に屋根が出ているでしょう。あれはジャワか、どこかあっちのほうの民族建築で、やはり屋根が急になってもう一つ屋根が出ているのです。それのタバコ入れか、何か(笑)それを真似たようなものです。」

 読んで唖然とした。察するところ、ジャワ辺りの民族建築と言えば、右の写真のような屋根に特徴を持つスマトラ島ミナンカバウの伝統建築を指すものと思われる。控えめな渡辺がやや自嘲的に昔の思い出を語った部分もあろうが、確かにこの地域なら「東洋式」の屋根として発想のヒントにはなり得るし、少なくとも建物の冠にあたる屋根を具体的な国外の建築に負っていたことになりそうだ。当然ながらそれは直喩的ではなく渡辺のフィルターを通されるのだが、改めて実際の建物を見ると、やはり日本瓦葺きとしてやや反り上がった屋根端部には二重にもうひとつの屋根が突き出ている。ジャワあたりの民族建築は確かに反映されているようだ。
 
 しかし、このように左右端部の屋根をまず決めたのならば、必然的に玄関のある正面ファサードには長大で一本調子な軒先があるだけだ。普通ならば正面中央には威厳と国家の伝統を誇示すべく堂々たる三角形の切妻形か塔がシンボリックに配されて然るべきなのに。こうして「帝冠様式」たらしめる要素は渡辺案ではあまり強調されていないにもかかわらず、それでも最優秀案となった。(現状の車寄せ庇の切妻形はコンペ案当初には無く、実施設計段階で付けられた。)
 尚、このように正面が一本調子の屋根にみえるようなことになる理由は、建物を幾何学立体の構成としてとらえた上でそこに添えられた屋根形状で分節した結果なのだろう。こうした内容のモダニズム的解釈による、高い評価を伴った藤岡洋保氏の説明をどこかで聞いたことがある。
 
 恐らくこうした建物が実現されたのも、当初のコンペの趣旨の段階からして、さほど日本の伝統誇示にこだわったものではなかったからなのだろう。このことは、宮内省雪野元吉ら実施設計者の手になる博物館内部の装飾を見ても感じられる。コンドルによるサラセン式の旧帝室博物館の名残りを継承するかのようなデザイン(様式建築における西洋の視線からすればイスラム圏も東洋の範疇内であった)、アラベスクともその日本版の唐草模様ともつかない装飾類が豪華にちりばめられ、国粋的な方向付けどころか世界に目を向けたエキゾチックなムードとして感じられる。至極単純に博物館という性格上、国内外のモチーフは問わずとにかく「東洋的な」デザインであることが重要だと語りかけてくるかのようだ。ただ同じく宮内省の手になる旧朝香宮邸(現東京都庭園美術館)を想起させる優美ささえもそこにはあった。
    
 これまで和風屋根を載せた渡辺の案との比較で、前川國男によるモダニズムの提案が「みごと落選を果たした」ことを周囲が武勇伝の如く囃し立て過ぎた。どうもそれが災いして現建物に悪しき意味での帝冠様式の烙印が捺されたのが原因のひとつのようだが、これは同時に前川にとっても気の毒な気がする。
 ただ注意深く、こうした弊害的な見方を払い除けながら建築物を見るのであれば、これからもまだまだ新たな発見がありそうだ。
| 1930年− | 14:22 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
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コメント
私の知人に愛知県高浜市(三州瓦の産地)の人がいますが,その人の言うに東博の瓦は三州瓦らしいのですが,瓦ではなく土管をつくる工程か技術でつくられているらしいです。私の思い違いがあったらごめんなさい
| 寺西 | 2009/09/23 9:03 PM |
寺西さま、コメントありがとうございます。
今も昔も瓦は三州ですね。特注瓦製作の技術も三州には蓄積されていた、ということなのでしょうね。
| Kikuchi | 2009/09/24 7:52 PM |
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