収蔵庫・壱號館

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旧・坊城邸
     
1928年,東京都港区,関根要太郎,非現存(撮影:1996年頃)

 ここを訪れた時は、既に当初の持ち主の家ではなくなって久しかった。あまり手を入れられた様子も無く、販売員詰め所的な使われ方と思しく古びたまま残っていたのだが、現在では、既に建物は姿を消してしまっている。

 関根要太郎は、三橋四郎の下で石原時計店などを担当した後、「日本建築株式会社」に在籍して実弟の山中節治と共に銀行を各地に設計した。1920年に建築事務所を立ち上げたが、当初からの曲面を用いたデザインやロマンチシズムを漂わせる他に見られない独特なデザインが「ユーゲント・シュティル」(ドイツ版のアールヌーヴォー)の建築家と称された由縁なのだろう。詳細については、私も色々教わるブログ「要太郎研究室@はこだて」をご覧頂くのが良い。
 三橋四郎の事務所時代の関根の後輩であり、分離派に参加していた蔵田周忠(当時は濱岡周忠)が、1922年に関根建築事務所に加わった。この時期の蔵田と関根の関係は単なる雇用関係以上のものだったのだろうと、私は想像している。 関根が与えた大体のコンセプトに従って、蔵田が最初に担当を任されたのがスキーロッジ「六華倶楽部」だったことが記録されており、その後は、例えば分離派の作品展に彼が担当した「京王閣」が出展されたりもする。関根は蔵田の先鋭的な作風に悩まされたらしいだが、それでもある所では関根の作品として、ある所では蔵田の作品として、さらには共作として了解し合える関係があったようである。

 そういう訳で、関根要太郎建築事務所の建築ながら、いくつかの建築作品には所員の蔵田の思考の変遷らしきものが見て取れる。つまり、蔵田は大正末年頃から、分離派が好んだドイツ表現主義的な表現から、新即物主義的な新たな考え方に転換したことに呼応しているようだ。
 昭和3年に発表された旧・坊城邸について、図面には特徴ある蔵田の筆跡は見当たらない。しかし建物のデザインは明らかにモダニズム建築への試行の様子を感じさせる。建物の外壁の一部には、蔵田がよく住宅に用いていた下見板貼りも取り入れられている。(下見板貼りを日本的な「乾式工法」と捉え直していたのだろうか)
| 1920年− | 21:35 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
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コメント
坊城邸、関根要太郎の設計でしたか。
たまたま手持ちの建築写真類聚に写真があったのですが、
実際にご覧になっていたとは・・・。
個人的にPDFで送りますね。
| イッシー | 2008/09/29 10:06 PM |
>イッシー様
長らくご返事もせずすみませんでした。
類聚にも載っていたのですか。
行って見たときは「Y形」平面と言ったらよいのか、尖った庇に下見板と塗り壁の混在する外観がそのままでした。建った当時はもっと奇矯な建物と思われたことでしょうね。
| Kikuchi | 2008/10/31 7:20 PM |
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