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検見川送信所の木製大型アーチ窓

      
 検見川送信所に関する動きが11月後半に相次いだ。そのいずれにも、私は都合で立ち会うことはできなかったが、特筆すべき進展として記したい。鉄の扉で封鎖され確認できなかった部分が見え出した。
 最初の動きは11月19日、千葉市が保有する図面資料(市に移管された後作成されたと思われる現況図など)が開示された。
 もうひとつの動きは、11月26日のJIAによる建物内外部の見学会。この模様はHP「検見川送信所を知る会」に掲載されている。JIA千葉の安達文宏氏の詳しい報告もある。
 内部は、いくつものパラボラアーチ状の下がり壁があり、どれも端部を左官仕事の完璧な鏝さばきでアール状に仕上げられている。少ないデザイン要素を用いてデザインの端々にまで気を配る吉田鉄郎らしさが、ビデオからも十分に伝わってくる。

 図面によれば送信所の北側最奥部には、機械室と称された大きな吹抜け空間があった。そこには1〜2階を通して連続した、長くて大きなアーチ付の窓が二つあった。見学会の写真では吹抜けではなくなっているが、後になって2階部分に床が張られたとのこと。元々大きな窓なので、木枠は今もしっかりしているように見える。
 私は、この大きな窓については特に興味をそそられるので、これに関連して少々書いてみたい。というのも、吉田鉄郎や分離派の山田守らが逓信省営繕課に入省して、まだ年月も浅い頃の、省内の有名な逸話を思い起こさせるからである。(下2枚は、1992年頃の大型アーチ窓の状況)
          

  大正10年前後、当時の逓信省営繕課内部はてんやわんやの状態だった。主に電話事業の大幅拡張、あるいは無線通信など新技術の導入による局舎建設需要の増大などに効率的な対応を図るために、和田信夫係長は建築仕様やデザインの標準規格化を進めていた。これは、和田自身にとっても自身の業績をにらんだ大仕事と受止めていたフシがある。
 そこへきて、東京中央電信局の設計を任された若き山田守は、例のパラボラアーチを載せたカーテンウォールのある素案を上司の和田係長に提出した(「あるオフィスビルディングの草案」)。標準規格デザインを大きく外れた案に対して和田は憤慨、一説には「もうひとつ、まじめな案を。」と山田にやり直しを命じるも、山田もカチンと来て「私に二案など無い!」とばかりに、辞表を懐にしつつ上司を相手に大太刀回りを演じた、という騒動が伝わっている。結局、さらに上席の内田四郎課長の裁定を仰ぐことになり、カーテンウォールは却下されて通常の窓とされたことなど以外は、山田守の原案通りに進めることで、事は一応丸く収まった。ただ、和田係長は、「もう二度と分離派の奴は採らん。」と、こぼしたそうだが・・・。かくして震災後の1925年に、逓信省の手によって分離派建築の金字塔が竣工してしまった。(*1)
        
 ちなみに「カーテンウォール」は、モダニズム建築普及以降、今日ではビル建築でよく目にするものだが、大正中期頃はまだ、技術的には確立されていなかったようであり、殆んどみられない。

 さて、山田と机を並べる吉田鉄郎にとって、この一件を知らぬはずが無かろうし、吉田は、山田とは対照的な造形指向を持ちつつも、進取の方向性で意気投合する間柄だった。両人とも、和田係長が推進する標準化をすり抜けるための手練手管を弄することに苦心していたようだ。
 簡単に言うと、縦長窓を規則的に並べるのが特に震災以後の標準デザイン局舎の基本のようで、吉田の場合、窓の縁にアールを取り入れたり窓の棧にこだわる、雨樋にこだわる、など細かいところで自分の個性を発揮していたようだ。 また、今回の送信所見学会では、内部の方がよくデザインされている印象を受けたと聞く。これは想像に過ぎないが、内部の立面を示す展開図などの図面は(当時のこと)作成せずに、つまり計画段階で、手間のかかるデザインを出来るだけ表に見せずに上司の承認をさっさと得て、現場での指示の機会も活用して内部のアーチなどを造形した可能性も、考えられなくはない。
 さらに、東京中央電信局とは用途的にも一体の関係を持つ検見川送信所の設計を担当することになった吉田鉄郎は、同僚山田が成し得なかった、あの「パラボラアーチ付カーテンウォール」を送信所の吹抜けの窓でなんとか実現しようとしたのではないか・・・、という想像が私の中を去来する。もちろん吉田自身の個性も注ぎ込みつつ。

 よく見ると、検見川送信所のこの二つの大きな窓の頂部は、なぜか平らだ。しかし意図的にデザインされたに違いない。
 これも私の個人的な見方だが、オランダ アムステルダム派の建築に見られるような煉瓦造に木枠の繊細な棧を持つ建物、とりわけデ・クラークの「エイヘンハールトの集合住宅」のような、バリエーションに富んだ窓のことを吉田は、しっかりと勉強していた可能性が考えられる。 あるいは、オランダ、コートワイクの送信所背面のパラボラアーチの大窓のことも知っていたかも知れない。

 「デザインにはトラ(虎の巻)がある」と言い、先例の研究を怠らず自らの作品に昇華させた吉田鉄郎のこと、窓ひとつ観察してみても、彼の信条を裏付けているように思えてならない。

 (*1)参考書籍:『建築家 山田守』,『建築記録/東京中央電信局』座談会 など


   《次のシンポジウムが、企画準備中です。近々公表できると思いますのでお楽しみに。》

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コメント
カーテンウォールの平面だけでも、いろんなドラマがあるのですね。

吉田鉄郎さんが上司に内部の図面を見せなかった、という説は面白いです。

追伸

広い土間のある家。興味ありです。僕は自宅脇に小屋を作りましたが、それには、土足で歩ける空間を作りたかったということが多々あります。土間は内と外を結ぶ空間として、もっと必要なのでは、と思っています。
| 久住 | 2008/12/08 11:58 AM |
久住様、コメントありがとうございます。

>カーテンウォールの平面だけでも、いろんなドラマ・・・
貴著作「・・・スパイダース」の枝葉の一節に加えても良さそうな逸話だと思いませんか。

>吉田鉄郎さんが上司に内部の図面を見せなかった・・・
あくまでも空想的自説ですけどね。大らかな昔ならば、ありそうなことと思いまして。(今ならとても考えられないですけど)

>広い土間のある家。
土間は人気でして、今も、ゆうに一部屋ほどありそうなのを設計しているところです。
土間空間の歴史は結構古くて、レーモンドの住宅に遡れそうです。(勿論、私は遠く及びませんが)
久住さんの「隠れ家」も、魅力ある空間のようで。いつか訪問してみたいですね。
| Kikuchi | 2008/12/08 4:36 PM |
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