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くじら館

1958年,山口県下関市,設計不詳,現存(撮影:2010年)

jun100122  関見台公園なう。櫛崎城址の高台に「くじら館」は今も鎮座。
4*年ぶりの「くじら館」訪問ついにかない、その感慨をつぶやく。タイムスリップ感覚、若干目眩。

jun100122 「くじら館」は、ここにかつて存在していた旧・下関水族館(昭和31年開館)の別館として、昭和33年に旧・大洋漁業(現・マルハ)によって寄贈された建物。

jun100122  旧・水族館本館は2000年に役目を終えて「海響館」にバトンタッチ。跡地には病院が建てられた。「くじら館」だけが、内部への立ち入りは出来ないものの、捕鯨で繁栄した往時を偲ぶモニュメントのように残る。

jun100122  馬鹿馬鹿しい位徹底したシロナガスクジラの直喩。今見ても「どうやって造ったんだろう」と、首をひねる。

jun100122  確か、昔の記憶では、内部は、くじらの肋骨のように鉄骨が組まれていたようだが・・・施工は大変だったろうに。1958(昭和33)年は「東京タワー」と同じ竣工年。気概でやってのけた時代。そのパワー。(海底トンネルで培った技術か? ショットクリートによる彫刻か??)

 

jun100122 これが、エネルギーを摂取して泳ぎ回ったらどうか。MOVING・CITY(ロン・へロン)のように。
そう思ったが、ご当地脱力系映画フライホエール号として既に活躍!知らなかった!QT @ineari あ、それ早速見ます!!RT @35201: @ineari 鯨館といえばローカルヒーロー「ハナセイバー」フライホエールは見ものです。

  
jun100122 右上と左下のモノクロは1965年撮影、鯨に飲み込まれたピノキオの気分を堪能しご満悦の私と父。左上は2010年。鯨の骨格標本が野ざらしのまま。頭蓋骨既に無し。

   
jun100122 私流のピノキオ気分、つまり鯨の内部で胎内回帰感覚を味わってまずまずだったのだが(展示物の記憶は皆無)、唯一の不満は鯨の大口から飲み込まれるのではなく、なんとお尻からの侵入には「ちょっと違うんじゃ」と感じたこと。
かつて、大人気のくじら館のお尻には、大勢の家族連れが列をなし群がった。

jun100122 はるばる東北より、今は亡き祖母も訪れていた。祖母は、展示されていたオス鯨の巨大な生殖器標本に色めき驚いたと語り継がれる。
 やがて祖母は、永久の旅路の果てに、さらに以前に冥界入りした祖父に再会し、これぞ現世の土産話と得意満面に語ったのだろうか。面前で。大丈夫なのだろうか・・・。

jun100122  くじら館を後にするなう。さようなら。雨に濡れた肌が良く似合う。
| 1950年− | 21:35 | comments(5) | trackbacks(0) | pookmark |
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コメント
いつも楽しく拝見しております。
素晴らしいブログですね。
私も宇部市内の保育園の遠足で、クジラ館を初めて見て驚いたことを想いだしました。ちょうど上のモノクロ写真にある1965年前後のことだったと思います。それにしてもまだあるんですねえ。
kikuchiさんは幼少期を宇部で過ごされて、いまは埼玉だとか。私も高校まで宇部で、いまは埼玉東部に棲息しており、しかも同年代ということで勝手に親近感を覚えております。
| kei | 2010/02/24 11:23 AM |
keiさま
これは奇遇ですね。今後ともよろしくです。
今回、下関を訪れたその足で当然ながらすっ飛んで宇部に向かいましたよ(笑)。私ははじめは「恩田」、次に「平原」に住んでいました。付近の大きな学園の付属幼稚園に1年だけ通いました。幼稚園のバス遠足で関門海底トンネルを潜った時、あわてて目と耳をふさぎ息を止めました。
宇部は随分変わったなぁ、というのが偽らざるところ。シャッター街化した「銀天街」には言葉も無かったです。
| Kikuchi | 2010/02/24 5:40 PM |
私も1965年前後に2年くらい平原に住んでいました。アパート(当時は「平原アパート」と呼んでいたような…)で現存しているようです。
もしかするとお会いしていたかもしれませんね。4歳くらいの頃に西宇部に移ったのですが、中学は“付属中学”に通いました。
 それにしても銀天街ですよね。2月初旬に出張のついでに十数年ぶりに訪れてみましたが、信じられませんね。日曜の昼間だというのに人っ子ひとりおらず、なんだか身の危険さえ感じました。子どもの頃のあの華やかなりし中心市街地を思い出すと切なくなります。
| kei | 2010/02/25 12:12 PM |
keiさま
この際なので、ローカルネタ炸裂させて頂きます(笑)。
確かに平原では、お会いしていた可能性もありますね。
住んでいた藤山小の裏方面はのどかで、当時ブタ小屋とか陶器の釜場とかがありました。父が盆栽用にもらってきたタコ壺の失敗作が今もあります。私は山であちこちに秘密基地を作りました。
>それにしても銀天街ですよね。2月初旬に出張
私は2月14日に行きました。私も「宇部!それっちゃ!・・・」ブログに投稿したような賑わいの記憶しか無かったのですが・・・・。大型店舗もほとんど全滅でしょうか。ちまき屋デパートはお気に入りだったのですがね、(とっくに井筒屋になったそうで)。

話尽きず。いつかもっと、お話したいものですね。
| Kikuchi | 2010/02/26 8:37 PM |
ありがとうございます。
私は藤山小学校の裏から見ると100メートルくらい南西に住んでいました。そこから北西に上っていく岩鼻公園や、岩鼻駅近くの岩鼻温泉なんかが記憶にあります。確かに陶器の販売所はいくつかあって、母に背負われながら山の中の販売所で陶器の雀の形をした笛を買ってもらった覚えがかすかにありますね。
私も実家はすでに宇部になく、ほとんど訪れることもありません。それでも大和タワーに象徴される市街地は、いまだに胸躍る風景として刻み込まれていますし、まさに私の原風景です。それだけにkikuchiさんが「宇部っちゃ」に投稿されていた銀天街の写真は涙もんでした。そうそう、これが銀天街だよって…。ちまき屋という呼称も懐かしいですね。
| kei | 2010/02/26 11:03 PM |
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