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蔵魄塔(ぞうはくとう)

《蔵魄塔》,日名子実三,東京都江東区,1925(大正14)年

1.知られざる大震災の慰霊塔
 東日本大震災から半年が過ぎた。しかし惨禍の爪痕はあまりにも大きく、21世紀に遭遇した災害であろうとも苦しみと先の見えない不安などは過去に直面した時と変わろうはずもなく、そんな中で復興への必死の努力が続いている。
 ところで過去の貴重な記録としては、遠く1100年以上も遡る貞観地震の記録「日本三代実録」の存在が報道された。一方、たった88年前の1923(大正12)年の関東大震災の記憶を伝える都市におけるもの、つまり復興小学校など復興期の建物は次々に姿を消しつつある。「忘れた頃にやってくる」天災を忘れないために建造物などが持つ記念性が大切であることを痛感しつつある。
 今から5年前の2006年のこと、私はかつての関東大震災の記憶を伝えるモノがどのように存在しているのかを確かめてみようと都内を訪ね歩き、江東区浄心寺の境内にある《蔵魄塔》に行き当たった。(HPの記事ここ) これは震災の犠牲となり身元も分からぬまま荼毘に付された多くの亡骸を祀る納骨堂を兼ねた慰霊碑として建造された。後に震災記念堂(現・東京都慰霊堂)に亡骸が移されたため現在は空であるらしい。不謹慎のそしりを恐れず言うなれば、目を惹くのは写実的な白セメント仕上げの裸婦像が墳墓を模したであろうドームを抱いているという美しくも芸術的なたたずまいであり、そしてこれが美術館ではなくお寺の境内にあることに驚かされる。されど、それもそのはず、これが慰霊碑として重要なのは勿論のことだが、それだけでなく、パブリックモニュメントとして彫刻を都市に向けて開放したパイオニア日名子実三の最初の実作であることが明らかになったのである。


2.きっかけとしての「帝都復興創案展覧会」
 日名子が都市的な視点に目を開いたきっかけは、関東大震災の直後の「バラック装飾社」に遡るらしい。実際に参加していたという説さえあり、少なくとも当時の『読売新聞』に連載されたコラム「バラック見物 仮装の銀座と浅草」(*1)にバラック建築への強い関心が窺える。
 そして1924(大正13)年4月、「帝都復興創案展覧会」における企画「大震災記念造営物」のコンペにおいて、日名子は《死の塔》,《文化炎上碑》のふたつの記念碑のモデルを提出し後者の《文化炎上碑》がプライズカップを受賞した。このとき今和次郎から次のような賛辞が送られている。
  「懸賞出品の日名子氏の記念碑では彫刻家の建築的努力を忠実に勤めてゐるを見せられ  た。建築家以外の人々の建築芸術への接近として感謝しておかねばならぬ」(*2)
今のこの言葉が自信となり、後の「構造社」結成にまでつながったであろうことは想像に難くない。
さて、小倉右一郎によるそれぞれの作品の解説を記してみよう。《死の塔》は、
  「・・・前方の群集彫刻の辺にて、棺を抱いて慟哭しているところを取り囲んで、立ったり
  座したり、跪いたりせる七人の裸女の、悲痛の情はポーズに依りて、好く現れ纏りも結
  構だと思ひます・・・」(*3)

《文化炎上碑》についても、
  「・・・向かって右寄りの方より見た辺は群がつて昇天する裸体女の姿体が面白く纏つて
  居る・・・」(*3)

と、煙のように舞い上がる裸婦群であることが仄めかされている。《文化炎上碑》は実際の建造物の瓦礫を背景としているようでありアイデアも卓抜だった。そして約1年後に瓦礫を背景とした裸婦像としてではなく、耐震耐火性に優れたコンクリートのドームを抱き悲しみにくれる裸婦となって実施に移されたのがこの《蔵魄塔》なのであった。
 これが完成したのは日名子の師である朝倉文夫の東台彫塑会が解散した年でもあり、朝倉塾で塾頭を務めてきた日名子と朝倉の関係も決裂していた。その背景には応用芸術に視野を拡げる日名子と純粋芸術にこだわる朝倉の確執が見受けられる。そして翌1926年、日名子は齋藤素巌と共に都市や建築と彫刻の融合を目指す研究団体「構造社」を立ち上げ、街を彩るモニュメントの歴史が幕を開けることとなった。
    
  《文化炎上碑》(『建築新潮』1924.6)      《死の塔》(『国民美術』1924.5)

3.震災を伝え続ける《蔵魄塔》
 2008年、日名子実三を長年研究される広田肇一氏による最新の著書『日名子実三の世界−昭和初期彫刻の鬼才』(思文閣出版)が刊行され、初めて《蔵魄塔》が日名子実三作品として取り上げられた。同氏の著書には日名子氏と制作途中の《蔵魄塔》が写った古い写真が掲載されており、これにより《蔵魄塔》の作者が日名子であることはさらに確実となった。(*4) また、「この(《文化炎上碑》)の受賞の実績により浄心寺境内に慰霊塔が建立された」とあり、復興創案展覧会のいわば実施版として建立されたこと、また実作として初の記念碑であることが明言されている。今回の私の記事もこの見方に準じている。
 《蔵魄塔》は都市を彩るパブリックアートを最初に提唱した日名子実三による最初の実施作であり、その原点に位置する作品ということになる。あるいは「帝都復興創案展覧会」の復興提案として実現した唯一の現存例とも言えようか、むろんその価値は小さくは無いはずである。しかし芸術的歴史的な側面だけではなく何よりも重要なのは、私達が自然の脅威に無力な人間であることを伝え見守るべく、いつもうつ伏せで嘆き悲しんでいるひとりの裸婦の思いであろう。このモニュメントから心に直接発信しているメッセージは計り知れない尊さを持つと思われ、震災の脅威の記憶の本質を伝える重要なモニュメントとして幾久しく継承され続けるに違いない。
  
  2011年撮影(白い保護塗装が施されていた)


*1:『読売新聞』1924年3月4〜8日,11〜12日に掲載
*2:『中央美術』1924年6月号
*3:『国民美術』1924年5月号
*4:他にも『日蓮宗新聞』1997年10月20日のコラム「古碑めぐり2 東京深川浄心寺」に作者として日名子実三を指す記述がある。





 
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