収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
<< 城内学園(きうちファッションカレッジ) | main | 沼津市上土通りの防火建築帯(沼津センター街) >>
沼津市本通の 防火建築帯(沼津アーケード名店街)


西側竣工1953年,東側竣工1954年,静岡県沼津市,建設工学研究会(池辺陽,今泉善一,坪井善勝(構造)他),現存(撮影:2014年)

 以前、横浜の「防火建築帯」を取り上げた。今回はRC造の店舗併用住宅を共同化し、新しくもユニークな空間形式の商店街として話題を集めた、静岡県沼津市の「沼津市本通(ほんどおり)防火建築帯」を取り上げたい。またここは「防火建築帯」としても最初期の規模の大きな事例として知られ、民と行政が力を合わせて建設を成し遂げた功績に対して、1954(昭和29)年度の建築学会賞が授与されている。

 「防火建築帯」とは、防火壁の役目を担うために帯状に建て並べられた3階建て以上の建築群を指す。根拠となる法律は1952年に施行の「耐火建築促進法」であり、あらかじめ都市の必要箇所の道路に沿って防火帯を指定、建築にあたっては補助金の交付が可能となった。既にこの法律自体は役目を終えたが、終戦後の復興都市を形作る上で大きな役割を果たした制度であり、地方都市に建てられた数多くの防火建築帯は、現在でも相当数残っているようである。


「有階アーケード」の商店街
 この計画が実現するまでには越えねばならない問題があった。
 終戦後、木造商店が立ち並んでいた元の本通り商店街には、復興計画として道路の拡幅計画があり、それは既存の12.5mの道路の両側を3.75mずつ拡幅して計20mとしようというものであった。しかし拡幅予定部分には、既にRC造4階建ての百貨店が建つことが決まっていて計画は進まなかった。
 1952年に住民らが防火建築帯への編入を求め、市側もこれに賛同したことがきっかけとなり状況は動き始めた。一旦道路拡幅計画が中止された上で、両サイド3.75mの拡幅予定地を市所有の公共用歩廊とし、その上空は住戸建物用に無償貸与とするという打開案でまとまった。つまり、公共のアーケードの上に2階以上の建物が3.75mほど張り出すことになり、それが商店街空間の基本的な骨格をなすことになった。
 しかしこうした公共用地と民間の建物との重合は、普通はあり得ない。ここでは特に「建築協定」を結び「美観地区(*1)」指定を受け、建物の構造や形態、設備、色彩、看板などを細かく取り決めることを条件に認められたのである。例えば電線は背後に隠し、電話線を地中埋設することなどがあり、全国初の試みもあった(*2)。結果的にではあるが、コンクリートによるモダニズム建築が美観地区の指定を受けた例は、ここ沼津が唯一であった(*3)。


    
    
■竣工した「沼津本通防火建築帯」
 こうして建物群は2階建て一部3階又は4階として完成した。各住戸多くは1階を店舗、2階以上を住居としていた。ここで言う建物の「共同化」とは、RC造住戸を長屋状に連続させて1棟の建物としたものであり、これにより敷地の利用率は高まり防火上の安全性も確保された。ただ隣地境界線上にそのまま壁や柱を建てる場合が多く、各戸の間口寸法は皆一定とは限らなかった。
 問題の既存RC造百貨店も、一部を削って歩道とする形で建てられることで解決したそうである。

 有階アーケードはすべての棟に適用され、実際の構造はキャンティレバーという張出しによる部分と、そこにピン支柱が添えられた部分との2通りがある。
 構造について付け加えれば、防火建築帯は3階以上が基本なので、当初2階建てで建てられた部分も、あらかじめ、3階建てに増築することが可能となるように設計された。構造設計の担当者は坪井善勝である。

      
       
 RC造の新しい商店街は、南北の通りの東西に計7棟の建物が並び、その総延長距離は344mという、当時としてはかなりの規模を持つショッピングセンターとなった。「横のデパート」とも称され驚きを持って迎えられ、売り上げが6割伸びたとの記述もみられる(*3)
 もちろん規模だけでなくデザインも特筆に値する。アーケードでセットバックした建物はあたかもピロティ状にも見え、上階は連続窓が続く1棟の統一体としてまとまったデザインのファサードの様相を呈し、当時の人々に鮮烈な印象を与えた。この洗練されたモダニズム建築は、池辺陽や今泉善一らの設計力が発揮された結果なのである。

    

    
■池辺陽と今泉善一らの「建設工学研究所」
 まず設計者今泉善一の経歴について触れておきたい。
 戦前、今泉は大蔵省で製図工として勤めるかたわら、山口文象(岡村蚊象)が組織した「創宇社建築会」に参加出展していた。作品は、第7回(1929年)に「印刷工場」「連続住宅」,第8回(1930)に「共同組合アパートメントハウス」(道明栄次と合作)であった。1931年に共産党入党、翌年銀行襲撃に加わったとして逮捕投獄、1944年に出所し前川國男事務所に勤務、プレモスの開発を担当した。そして1947年、「新日本建築家集団(NAU)」結成に参加、NAU集団設計委員会において池辺陽に出会い親交を深めた(*2,*6による)。

 一方、坪井善勝や池辺陽らが運営する東大第二工学部の外郭団体「建設工学研究会」では、沼津市より防火建築帯の設計の相談を受けていた。そこで坪井が実務経験に長じた今泉善一を建設工学研究会に引き入れ、今泉を中心とした沼津の設計体制が出来上がった(*2による)。ただ恐らくは池辺と今泉のNAUにおける出合いがあったからこそ、こうした流れになったものと考えられる。
 池辺による商店建築の共同化の考え方は、特にモダニズムの考え方による統一したファサードの美を強調する方向に向いていた(*4)。その意味において沼津の有階アーケードは、建築がアーケードの機能を内包しており(仮設的な後付けアーケードと異なり)、池辺の考え方に適うものであった。

    

    
■池辺陽と今泉善一の「沼津以後」
 本通防火建築帯の完成以後は、池辺は防火建築帯の制度を(既存の街路に手を加えるにとどまるので)抜本的な将来の都市計画と比べて過渡的なものと位置付けるようになり、徐々に防火建築帯の計画から遠ざかるようになったという。
 しかしこれとは対照的に、今泉善一は沼津市本通防火建築帯を出発点として旺盛な設計活動を展開、1957年に「日本不燃建築研究所」を組織して全国各都市の防火建築帯を多数手掛けた。(後に、今泉は「本通り」の隣の「上土(あげつち)通り」でも防火建築帯の設計を行った)

    
    

■現在の沼津本通防火建築帯
 「アーケード名店街」という看板が立つ現地に私が初めて沼津に赴いたのは、昨年末のこと。当初は2階建てが多くを占めた商店街も、現在はほとんどが3階建て以上に増築され、全体的に見れば、ファサードのデザインはある程度統一感を損なう形で改装が加えられていた。ただ数か所旧態をとどめる箇所も残っており、特にアーケード北の入口のカーブした壁面に縦長窓が連続する当初の外観はなかなか印象的である。

 有階アーケードも商店街全体に渡ってほぼそのままの形で機能しており、当初からの建物の構造体がそのまま使われ続けている様子を窺わせていた。築後60年以上経過する大規模な建築群なのだが、現在取り壊されて失われた部分はほんの一部であり、間口距離にして約95%が現存するという計算である(下図2枚は、その時私が撮影した街並みの写真をつないで、現況ファサード図としてみたものである)。

 しかし驚くべきは店舗のほとんどが稼働中で、私が見たところでは空家は1軒のみだったことである。全国的な「シャッター街」化問題とは様相を異にしているように思えたが、やはりこれには理由があるらしかった。町づくりのアドバイザーとして長く商店街に根をおろして活動されているNPOの方の話によれば、やはり10年前には3割位が空家だったのだが、しかしある原因に気付いて対処したところ空家がほとんど無くなったということであった。お話を伺いつつ、粘り強く町づくりに尽力されている姿勢に大変感銘を受けた。

     

     

■生き続ける熱い志
 現地で何人かのお話しを聞いた。まず、当初から営まれているある商店の年輩の女性は、店主である亡きご主人手作りの店舗内装をひとつひとつ説明して下さった。
 先ほどのNPOの方の話によれば、この防火帯としての商店街が完成した頃は相当繁盛したこと、視察も相次ぎ、有名タレントを招いてのイベントが繰り返し催された時期があったことなどを話して頂いた。過去の繁栄だけでなく、これからの町づくりについても頻繁に会合が持たれているとのことであった。

 この戦後復興期の商店街の成功を「学民官三者協働の成果」と評する言葉を見かけたが(*5)、数時間滞在し地元の方と接触しただけでも、「民」である居住者の方の誇りと熱い志の灯が生き続けていることを実感することができた。



 *1:美観地区:「市街地の美観を維持するために定める地区」として1918(大正7)年施行。昭和8年に皇居周辺が指定、その他倉敷などが指定を受けた。平成16年景観法施行により廃止、美観地区は景観地区へ移行した。
 *2:『都市の戦後−雑踏のなかの都市計画と建築』(初田香成 2011年,東京大学出版会)
 *3:「美観地区に関する史的研究」(澤田充生,岸井隆幸 『土木史研究』16号1996年)
 *4:「商店建築の共同化について」(池辺陽,『建築界』1955年5月)
 *5:HP「沼津アーケード名店街」
 *6:「大森事件のことなど」(今泉善一(聞き手:本多昭一,藤森照信),『建築雑誌』1985年1月)




 
| 1950年− | 20:52 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
スポンサーサイト
| - | 20:52 | - | - | pookmark |
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://20thkenchiku.jugem.jp/trackback/410
トラックバック
CALENDAR
S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< November 2017 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
叢書・近代日本のデザイン 25 [大正篇]
叢書・近代日本のデザイン 25 [大正篇] (JUGEMレビュー »)
分離派建築会,関西分離派建築会
「分離派建築会」作品集3刊の、初の復刻本が刊行されました。末尾の解説文は私が担当しました。
収蔵庫・壱號館
ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE