収蔵庫・壱號館

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大和郡山市庁舎と百寿橋
     
     1962年(庁舎),奈良県大和郡山市,山田守,現存(撮影:2014年)

 雨の大和郡山。前も見えない位のどしゃぶりだったのだがやっと小止みになってきた。せっかく約20年ぶりに訪れた私としてはラッキーである。なんとかカメラのシャッターを押すことが叶ったからである(初めて訪れた時の画像はここ)。

 山田守の戦後の作風を示す庁舎建物もさることながら、初めて訪れた時から気になっていたのは、思いがけず目にして驚いた表現主義風のコンクリートの橋の手摺り(▼下3枚)である。いや正確には橋詰め部分の手摺に限って、というべきか。 何とも大正後期からの分離派山田守の作品の亡霊に出喰わしたような感じだったのである。

       

 この部分に限っては恐らく山田守のデザインなのだろうが、今回よく見たところ、やはり橋のすべてが山田守のデザインというわけではないようだ、とも感じた。両端にコンクリート造の親柱がある橋本体の部分は異質でややクラシカルな造形、親柱のうちの2箇所にはお城のモニュメントが載っている。これがどういうことなのか、わけも分からず大和郡山を後にした。

    

 だが最近になって疑問は簡単に氷解した。庁舎正面のこの橋は「百寿橋」と呼ばれ、この橋に関する地元の方々による調査報告を見つけて読んだことによる(*1)。

 それによれば、戦前から郡山城の中堀にあたるこの位置にはかつて木造の庁舎が建っており、中央エンントランスの軸線上にこの橋は架けられていた。そして調査報告には1936(昭和11)年にRC造の新たな橋に架け替えられた頃の記録が記載されていた。その時の橋の図面と現状を見比べると、工事範囲は親柱から対岸の親柱までであり親柱にはお城のモニュメントがデザインされていた。だが表現主義的な手摺は記載されていない。そして図面上の橋と現状とはほぼ変わっていない。

 つまりこういうことであろう。この表現主義的な手摺りは百寿橋とは別物であり、恐らく後に山田守の設計で現在のRC造の庁舎が建てられた時期に、外構工事の一環として橋詰め部分に手摺りを加えたものなのであろう。

    

 山田守は生涯、作品に自由な曲面を多用してきた。戦後のモダニズム建築全盛の時代に入っても、例えば長沢浄水場のように分離派時代を彷彿とさせるようなアーチ窓や曲面の壁をうまく折り合わせて造形している。

 大和郡山市庁舎建物でも、よく見るとコーナーが曲面状のカーテンウォールが使われており(うまく写真に撮れずすいません)、それにこの橋詰めの手摺りなどと上手く折り合わせて一種独特の山田守の世界を創出したのである。


    


    



*1:「大和郡山・百寿橋の系譜と現況に関する研究」(川原賢史,岡田昌彰,服部伊久男)による。尚、橋中央には現状ではスリット付の高欄があるが、オリジナルの図面のデザインと異なるとの指摘がなされている。


 
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