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石本喜久治のブルーノ・タウト会見ルポルタージュ(1922.11 於ドイツ マグデブルク) (前編)

                       

■1 日本建築家初のタウト面会者として

 石本喜久治発見報告その2
 『サンデー毎日』1923(大正12)年5月27日号に、分離派建築家石本喜久治自らによる「表現派の建築」と題された記事があるのをみつけた。1ページの記事の中には石本喜久治がドイツ マグデブルク市に赴き、同市建築課長であり「色彩宣言」を発表した建築家ブルーノ・タウトとの面会を果たした際のことが詳細に綴られていた。特にタウトの助手カール・クライルから鮮やかな色彩に塗られた建物を案内された際の石本の感想など、興味深いものがある。

(画像は1ページを「上,中,下」3段に分割し、前編には「上,中」まで載せた)

 

     

 

 石本は1922(大正11)年5月に出港し翌1923年5月末頃に帰国するまでの約1年間、欧米を旅した。帰国後は『建築譜』と題する著書を刊行し、そこに建物の写真やドローイング自らのドイツ建築最新傾向の小論を掲載した。その著書にもマグデブルクのタウトを訪ねたことを短く触れてはいるが、文面からは実際タウトに面会したのか判然としない。今回みつけた『サンデー毎日』の石本の記事によって初めて実際に面会していた事実が明らかとなった。(以下青文字部分は『サンデー毎日』記事からの引用)

 

  タウト氏はいかにも穏かな優しい容貌と態度と言葉とで初対面とは思はれない

  くつろぎを私にあたへながら大きな製図台の回りで二人は親しく語り始めた。

 

■2 マグデブルクを訪れた建築関係日本人
 石本以外にマグデブルクを訪れた日本人建築家として思い浮かぶのは堀口捨己である。しかし時期的には石本が帰国した後入れ替わるように1923年7月に日本を発ったのであり、『近代建築の目撃者』(佐々木宏編(*1))には、同地に赴くもタウトには会えず助手のクライルから建物を案内されたことが書かれていた。
 他には三浦耀(*2)と藤島亥治郎(*3)もマグデブルクを訪れたことが本人らの著書に書かれているが、それらを読んでもタウトと面会した形跡はない。本野精吾のベルリン滞在は1909〜11年なので早すぎる。

 

 以上のようなことからして、私はタウトに初めて会った出会った日本人建築家はこの記事を書いた石本喜久治であろうと考えている。しかしなぜそんなに初めて会った日本人建築家にそんなにこだわるのか、と問われるかもしれないが、理由は簡単である。
 言うまでもなくブルーノ・タウトは表現主義の建築家としてドイツでは最も影響力のある建築家のひとりであっただけでなく、ナチス・ドイツから逃れるべく1933(昭和8)年に「日本インターナショナル建築会」の招待を頼りに来日したこともよく知られている。そうしたタウトの日本との関係が形づくられた源泉、きっかけについてはやはり関心が持たれて然るべきと思うからなのである。

 石本も「日本インターナショナル建築会」に参加していたので、想像を逞しくして言えば、恐らく1922(大正11)年11月の段階でタウトが既に日本人との面識を得ていたことも、日本からの招聘受け容れの判断をし易くした要因のひとつとなったのかもしれない(もっとも、来日後にタウトが石本に内心抱いていた感情は芳しいとは言えなかったようだが)。

 

      

 

■3 「仲田日記」に書かれていたタウトとの面会時期
 1922年11月という面会の日付は、実は『サンデー毎日』記事にも『建築譜』にも書かれていない。そんな折、訪問時期を知る手掛かりは『仲田定之助のベルリン日記(上,下)』(寺門臨太郎(*4))が与えてくれた。実は『サンデー毎日』に石本が寄稿した件も、この日記の記述から見出したものである。

 

 仲田定之助は帰国後、実際に作品を創り、また美術評論家として知られた人物である。石本とは洋行の客船に偶々同船していたことから知り合いとなり、共々ベルリンに到着した後も芸術家との面会など行動を共にすることが多く、頻繁に情報を交換し合っていた。それを仲田は几帳面に日記に記し、例えば行動派の石本はヨーロッパのあちこちに出掛けては旅先から仲田に宛ててに葉書を送ったことなども、その都度日記に記していた。そのようなわけで仲田の日記から石本の行動がある程度窺い知られるのである。ただ公にされた1923年分が手元にあるのみで、日本を発った1922年分は注釈に書かれた内容から察するしかないと思っていた。
 1923年の仲田日記を読むと、帰国する同年5月末までの石本の行動は相当広範囲で慌ただしかった。恐らくその期間にタウトと面会する時間的余裕はほとんど考えらず、またタウトへの言及もみられないので、やはりドイツに到着した1922年後半にマグデブルクのタウトを訪ねていたと推測したのである。・・・・と、そこまで書いてブログにUPした。

 だがブログを上げた日に、1922年分の日記(*6)が発刊されたばかりであることに気が付き急いで取り寄せた。その結果、私の推測通り1922年11月2日に石本は仲田を誘って二人でマグデブルクのタウトを訪れていたことが日記にはっきりと書かれているのを目にすることができた。そればかりでなく仲田は「アトリエ」(1934.1)にもその日のことを記事にしていた(下記赤色は「アトリエ」の引用)。

 

   私が石本喜久治に誘われてマグデブルク市にブルノ・タウトを訪れたのは一九

   二二年の秋だった。・・・伯林から汽車程二時間余、車窓からどんよりとした灰色

   の曇日のもとに、赤や青の原色に塗られた小住宅がチラホラ眺められたので早

   くもマグデブルク市に近づいた事を知った。

 

 

    

 

 

■4 世界一周していた石本喜久治
 ちなみに仲田日記から読み取られる石本の翌1923年の1月から5月末までの行動は、以下のようなものである。まず2月頃ベルリンからイタリア南部シチリア島まで南下の旅を行い、戻ればハンブルクの港を出港、アメリカ大陸サウサンプトンに到着してニューヨーク、ナイアガラの滝など東海岸から仲田に宛てて葉書を送った。その後カリフォルニアなど西海岸からも葉書を送り(さらに石本が撮ったと思われるライトの住宅の写真が『建築譜』にある)そして日本に帰国した。ヨーロッパからアメリカに渡って帰国したということは、どうやらアジア滞在こそなかったもののジュール・ベルヌの小説よろしく形の上では世界一周の旅を敢行していたようである。(石本が後に「コスモポリタン」を自称した(*5)理由がこの辺りにあるのかもしれない)


 さて話が脇道に反れてあまりに長くなってしまった。記事の内容などについては後編に譲ることとします。(つづく)

 

 

  *1:『近代建築の目撃者』(佐々木宏 1977年 新建築社)

  *2:『建築・風景』(三浦耀 1931年 岩波書店)

  *3:『ブルーノ・タウト 近代建築家第3』(藤島亥治郎 1953年 彰国社)

  *4:『未公刊資料ー仲田定之助のベルリン日記(上,下)』(寺門臨太郎 現代芸術研究1998年,1999年 筑波大学芸術学系五十殿研究室)

  *5:「建築のファシズム」其他(石本喜久治 『建築新潮』1927.2分離派建築会第六回展覧会号所収)

  *6:「仲田定之助日記(1922−1923)抄」(寺門臨太郎,山本佐恵,江口みなみ 2016年 美術批評家著作全集第18巻 仲田定之助所収 ゆまに書房)

 

 

 

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