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瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」 ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その1)―

1.序

1-1.はじめに

 分離派の建築家瀧澤眞弓が設計した「農民美術研究所」の建物(fig.1)について書こうと思い立ったのは1年位前のことだろうか。実はそう思って調べ始めたところ色々と発見があり、(言い訳がましいのだが)のめりこんでいたらブログも休眠状態となってしまった。そこでこの話題にていざ再開、と思うのだがやはり山本鼎や上田の人々が興した農民美術運動そのものが結構興味深く、また私が思うに分離派瀧澤の思考にとって密接な関係があったという結論に至った。さらにそれらを語る上で、土田杏村という今日ではあまり語られなくなった思想家の存在が欠かせないことにも気付いた。

 そのようなわけで山本の芸術運動と分離派瀧澤の大正時代の営み、この両者を併せて読み物的にまとめてみようと思う。少々長丁場の連載物になることをお許し頂きたい。

 

     

 農民美術運動は当時の長野県小県(ちいさがた)郡の神川(かんがわ)、現在の上田市を舞台として大正中期から昭和初期にかけて興った。山本鼎が主導した農民美術運動児童自由画運動、また土田杏村が中心となって始まった自由大学運動など、大正時代のとある長野県の農村に、閃光ひらめくが如き文化芸術運動が出現していたのだった。尤も神川村は養蚕特に蚕種業などで比較的豊かであり地域振興に意欲的な土地柄という要因が、多少後押ししていたとは思われるが。ちなみに農民美術運動とは、農民が農閑期に工芸品などの制作を通して収入を得ることを目的とし、また同時に一般の人々の生活と芸術の調和を目指した運動でもあり、山本鼎がロシアで直接に見聞した経験をモデルとしつつ、土地の人々と共に進めた営みであった。

 

1-2.農民美術研究所ー建物の概略

 農民美術運動は山本鼎と神川村の金井正とが連名で1919(大正8)年に趣意書が配布した時をもって始まった。もうすぐ発足してから100周年目を迎えることになる。
 山本鼎はその本拠となる建物の設計を、1922(大正11)年の早い時期に瀧澤眞弓に依頼した。同年に開催された平和記念東京博に農民美術作品を出品した際、山本が長野出身でパビリオン(fig.2)の設計に関与した分離派の建築家瀧澤眞弓を知ったことがきっかけであったことが、小崎軍司の『山本鼎評伝』に記されている。またその年の2月頃、山本の家で設計の構想を瀧澤に語り、それが済んだ後瀧澤は地元の金井らと土田杏村の講義を聴講するため上田に出掛けたことも記録されている(*1-1)

 こうして図面は7月に完成し、細川護立らの寄付を得て10月下旬に着工した。年末には外観が姿を見せ、翌年4月にはすべて完成した建物の開所式が盛大に行われた。

 

 建物の外観は一見した限り急勾配屋根のバナキュラーな木造民家風であり、分離派が目指した既成のデザインから離脱した先端的なデザインを思うと拍子抜けするかもしれない。つまり瀧澤の他の作品はドイツ表現主義建築の影響が濃厚であったこともありギャップを感じざるを得ないのである。ただ竣工当時の地元の人々の反応は北欧風のエキゾチックなたたずまいに、西洋風の建築として新鮮な驚きをもって迎えられたとされ、好意的な評判を得ていたようである。

 瀧澤の書簡には木材の一部に「赤黒色」で着彩を施したとの記述があり(*1-2) 、カラーリングした点からして日本の伝統的な農家とは異なる西欧風の印象を与えようとしていたことが判る。また良く見れば近代の新しい目を持った建築家瀧澤の造形感覚も垣間見えてくる。三角形や四角形に縁取りされた窓、何より三角柱に整理された屋根などを見るとシンプルな幾何学形状に還元しようとする意思が感じられる。この点など詳しいことは次回以降に触れてみたい。

 

 農民美術運動そのものはそう長くは続かず、1935(昭和10)年に国からの補助の打ち切りによって頓挫した。しかしながら作品の制作そのものは専門の工芸家としての後の世代に受け継がれ僅かながら命脈を保ち、上田近辺では今日でもその流れを汲む作品を目にすることができる。

 また農民美術研究所の建物も既にない。1940(昭和15)年の時点で建物は売却され大屋区の集会所となり、その後は乳業会社の牛舎として利用された。戦後になると建物の老朽化は目に余るようになり、結局1955(昭和30)年に惜しまれつつも解体された。現在、建物が建っていた辺りは盛土され、コンクリートの擁壁が築かれた上は廃棄物処分場となっている。下段に残る僅かな古い石垣のみが往時を偲ばせている(fig.3,4)。  

 

  

 

 さて瀧澤に限らず分離派の建築家の作品を思い起せば、農民美術研究所同様に田園指向の強い作品を生んだ建築家は意外と存在していたことに気付く。最も有名な作品は堀口捨己による茅葺きの《紫烟荘》(1926年)(fig.5)であろう。民家研究に勤しんだ蔵田周忠も大正期には田園風の住宅をいくつも設計しており、中でも《聖シオン会堂》(1926年)(fig.6)は木造急勾配屋根の特徴的な建物であった。しかしやはり同種の建物の中では瀧澤の建物が最も早く建っていたことになるであろう。これら分離派建築家それぞれの田園住宅を探る事は今後の研究テーマとしても興味深いと思う。

 

     

 

 そこで私が最も不思議に感じたことは、当時新進の若手建築家であった瀧澤にとって農民美術研究所が(仮設のパビリオンを除き)初の本格的な建築の実施作であったのにもかかわらず、建築関係の公の場例えば分離派展などをはじめどこにも発表することがなかったこと、そして殆ど忘れ去られたままであったことである。分離派展なら1923年の第3回展がちょうど良いタイミングだったのだが出展の形跡は見当たらない。このことは色々と憶測を呼ぶ。瀧澤自身がこの建物を発表したくなかった訳があるのだろうか?単にタイミングを逸しただけなのだろうか?


 こうした疑問がきっかけとして、私は瀧澤の農民美術研究所に関する言説の有無を調べてみた。その結果、山本鼎が発行した農民美術研究所の機関誌『農民美術』(1925.1)に寄稿した瀧澤の記事「田園文化と中世紀主義」がほぼ唯一の農民美術に関する論考(ただし建物のことには触れていない)であることを発見した。もちろんほんの1行程度の記載なら他にもあるが、論述したと言えそうなのはこれだけであった。

 この論考から、農民美術運動をきっかけとして、中世文化やゴシック建築を媒介としつつ瀧澤の建築思考につながっていることがみえてきた。次回から農民美術運動を興した山本鼎の行動の概要を振り返ってみたい。(続く)

 

 

    *1-1:『夜あけの星』(小崎軍司,1975)

    *1-2:瀧澤眞弓による金井正宛て書簡(1922.10.20) 「赤黒色」が具体的に示す意味は不明。4本の大柱、大桁、垂木、母屋などに塗るよう指示した。

  

 

| 1920年− | 11:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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