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瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」  ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その2)―

2.美術家山本鼎

2-1.山本鼎について
  山本鼎の功績を顕彰し資料を保存する「上田市山本鼎記念館」(fig.1)が、山本勝巳の設計によって上田城公園の一角に建設されたのは1962(昭和37)年であった。最近は新しく建った上田市美術館その機能は移管されたが、現在でも瀧澤による農民美術研究所の図面などを含む多くの資料が保存されている。

 

       

 

 山本鼎関連の情報は本人自身の著作もあり割と充実している。ここではそれに加えて旧山本鼎記念館が発行した山本鼎に関する解説書、小崎軍司による詳細な評伝などを参考にしてその活動の経過について触れてみたい。
 山本鼎は1882(明治15)年に愛知県岡崎市に生まれ1946(昭和21)年に没した。幼少の頃東京に移住して木版工房の徒弟となるが上達ぶりは抜群であり、伝統的な印刷技術としての版画を芸術作品の域に高めた。1904年に『明星』に発表した《漁夫》(fig.2)は版画とはいえ「自画、自刻、自摺」つまり作者がすべての工程を行い、原則ひとつの作品の創作を行う道を編み出した。これは創作版画の起点とされ、あるいは「刀画」とも評された。また雑誌『方寸』を共同で発行し創作版画の普及を図った。この頃より山本が好んで描いた題材には市井に暮らす庶民が多く、この頃から既に後の農民を対象とした美術運動を予感させるものが感じられる。一方絵画の技量にも優れ東京美術学校を卒業している。

 

2-2.ロシアでの経験
 1912(明治45)年、山本はフランスへ渡航しボザールで学んだ。しかし第一次世界大戦が勃発すると戦火はパリにも押し寄せ、やむなく帰国の途についた。北欧を経てモスクワにたどり着いたのは1916(大正5)年、ロシア革命前年のことであった。
 ロシア滞在は山本にとって思いがけず興味深い体験を積む機会となったようであり、平田領事の別荘に起臥し作品を残し、結局短期間の経由地の予定が約5か月間滞在することになったという。例えば片上伸と知り合いトルストイ邸を訪れ夫人との会見を果たした。山本自身あまり言及していないようではあるが、農民の教育を行ったトルストイの人道主義的行動に触れたことは、農民や児童などと共に芸術活動を行う発想の下地となったのではなかろうか。ロシア滞在の記録は山本が著書『美術家の欠伸(あくび)』の一章「農民美術と私」の中で詳細に触れており、とりわけ三つの出来事が印象深かったと記していた。

 まず第一「児童創造展覧会」を見学しロシアの児童が自由に描いた絵画を見学したことであり、これは逆に日本の嘆かわしい図画教育の現状を思い知らされることになった。その当時の日本では「新定画帳」という教科書の絵を手本として上手に模写させることが児童の図画教育とされており、そこに個人の創造性を発揮する余地はほとんどなかった。山本は帰国後、人間の早期段階における創造性の開発の必要性を感じ、「児童自由画運動」としてこれを推進することになった。これについて山本は後に自著の中でトルストイの言葉を引用しながら触れていた。

 

    トルストイは「児童について人の道を学べ、児童は未だけがされず、

      ―彼れ等にとりては人々皆同じ」と云ったが、私は児童等の鮮やかな

    創造力に驚く者だ。日々社の展覧会の時に、石井鶴三君は感嘆してか

    う云った。「・・・子供はみんな天才なんだ」と(*2-1)。

 

 第二「農民美術蒐集館(しゅうしゅうかん)山本の言葉による「クスタリヌイミュゼ」を見学したことであり、農民が副業として制作した工芸品を展示販売するのを目にした。山本は帰途上、ここで買い求めたいくつかの工芸品(fig.3)を眺めつつ日本における農民美術運動を構想した。 

 

 

                  

 

2-3.山本が観た「嫁とり唄」、タラーシキノの芸術村
 三番目の経験は山本の帰国後の行動に直接影響を与えることなはかったが、やや個人的に興味深いエピソードと感じたので敢えてここに記しておきたい。山本いわく、それは「農民音楽」という農民による歌を伴う舞踏であった。ある晩、山本は音楽学校において小ロシアの老若約30名からなる農民の一団による歌と踊りの試演を観覧し、その中でも「嫁とり唄」の舞踏が印象深かったと記している。

 

    彼らの村の婚礼の祝宴をありのままに表したもので、始めに婆さんが唄ひ、

    次いで娘が、左手を腰に支え、右手をかざし、小きざみな脚踏で踊りなが

    ら唄ひ終ると、今度は全部の男女が、皃とろとろ(*2-2)のやうに列になっ

    て大きく輪を描いてめぐり、その廻旋を次第に早めてゆく、すると、酔ひ

    どれに扮した(あの時は多分扮したのだろう)禿頭のおじさんが両手を挙

    げてわめきながら、その輪のなかへよろけ込んで、巧みに一種の調子で人々

    の間を縫いながら踊り合してゆく(*2-3)

 

 この踊りとは別に、農民らによる芸術活動と言えば、例えばモスクワから西へ400劼砲△襯好皀譽鵐好市郊外のタラーシキノにおいてマリア・テニシェワ侯爵夫人が開設した農民美術の芸術村が活動していたことが知られている(fig.4,5) 。そこでは農民によるペザント・アート(Peasant art)の作品が生み出され、またテニシェワ夫人も芸術家のパトロンとしての役割を果たしていた。現在も、そこで教師として活動したマリューチンの設計による以下の美しい建築物が残っている。

 

 

       

 

 山本はタラーシキノを実際に訪れたわけではないもののかなり影響を受けたようであり、帰国した後そこで行われていた農民美術(fig.6,7)について、自ら発行した機関誌『農民美術』において、以下のように『タラスキノ旅行記』の一節を孫引きながら紹介した。農民が彫刻を施した劇場が備えられていること、農民自らが創作オペラ作りなどに没頭する芸術家村らしい光景などが語られている。

 

    タラスキノの小劇場は丈夫な木造りで・・・・面白いことに装飾技手達は、同

    時にその劇場の俳優ともなるのである。「私は蜂の巣を突ついたやうな大

    騒ぎを目撃した。それは田舎での大事件であるところの素人芝居がはじま

    らうとする前の騒ぎであった。相当込み入った「七騎士物語」を出すした

    くで、人々は連合楽譜(*2-4)を作ったり、博物館から借りてきた衣装と

    釣り合いのとれるやうな立派な衣装を新調することで大汗をかいているの

    であつた。アトリエの生徒達は仕事をしまうと、急いで衣装を着け、せり

    ふ稽古にかかり、舞踊を練習し、或は又オーケストラに加わつて手ならし

    をするのであった、―彼らは、夜になつてそれがおしまひになるのを、ひ

    どく悲しがつた」(*2-5)

 

       

 

 ここで私が個人的にちょっと気にかかったのが、山本が実際に見た「嫁とり唄」の舞踊の方である。若い娘による「小刻みな足踏み」や「旋回を早める輪舞」が老婆の踊りと相俟って繰り広げられる土俗的な踊りのせいだろうか、近代音楽の金字塔として名高いストラヴィンスキー作曲のバレエ音楽「春の祭典」(1913年)(fig.8,9)を思い浮かべた。下の写真は初演時頃のものと言われる。これらなどから最近復元された、ニジンスキーによる初演時の振り付けに共通するイメージを感じはしまいか(「Riot at the Rite」という最近制作された再現ドラマの後半、シャンゼリゼ劇場初演のセンセーショナルな場面によく描かれている)。


 「春の祭典」は神に捧げるいけにえに選ばれた少女が息絶えるまで踊る、といった内容のバレエ音楽である。一応作曲の経緯を調べてみたところ、実際にストラヴィンスキーは舞台美術家ニコライ・レーリッヒに呼ばれてタラーシキノを訪れ1911年に両者で「春の祭典」の構想を固めていたことが色々な著書に書かれていた。『ロシアの農民美術』(*2-6) にはテニシェワ侯爵夫人の屋敷に滞在して作曲したともある。しかし「春の祭典」は古代スラブの原始的なイメージから構想されたとされ、音楽もリトアニア民謡などを元に創作されていたことが判明している。

 結局のところ、山本が見た「嫁とり唄」の舞踏イメージとの関係は何も分からなかったが(恐らく直接の関係はないのかもしれないが)、もしかしたらそれと同様の踊りなどの総合的なイメージが振り付けにつながった可能性はなくもないように思えた。何よりも、ほぼ同じ時期にストラヴィンスキーと日本の山本鼎という(超意外な取り合わせの)芸術家が、タラーシキノの芸術村という点で接点があったことはなかなか感慨深いものがある。
 ・・・どうも話が脱線してしまったようなので、今回はここまでにする。(続く)

 

      

 

 *2-1:「自由画教育の要点」(『美術家の欠伸』所収,山本鼎,1921)
 *2-2:「児とろとろ」:不詳、「花いちもんめ」のようなものだろうか?
 *2-3:「農民美術と私」(『美術家の欠伸』所収,山本鼎,1921)
 *2-4:総譜(スコア)を指すのか
 *2-5:「タラスキノの農民美術」(『農民美術』,山本鼎,1924.12)
 *2-6:『ロシアの農民美術』(遠藤三恵子,2007))


 fig.1:筆者撮影(2016年)
 fig.2:『山本鼎』(小崎軍司 山本鼎記念館友の会,1969)より
 fig.3:『農民美術』(1924.9)より
 fig.4,5:wikipedia commonsより
 fig.6,7:『農民美術』(1924.12)より
 fig.8:『ストラヴィンスキーの音楽と舞踊作品研究』(柿沼太郎,1942)より
 fig.9:『ストラヴィンスキイ自伝』(1936)より

 

 

 

 

 

 

 

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