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瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」 ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その3)―

 農民美術練習所設立頃の練習生による作品から。下の写真は男子による木皿、木鉢、人形白樺巻など。ちょっと見えにくいが、「白樺巻」とは白樺の皮を筒状に巻いて底とふたを付けた細工である(fig.1)

 

      

 同じく下は女子による作品(fig.2,3)。刺繍されたクッション、手提げ袋、テーブルクロスなど。練習生の村人は若い男女が多かったようである。それにしても女子の作品の「かわいい」のセンスは今も昔も変わらないようだ。クッションを見ると、若い二人の男女が仲良く農作業に励む様子がいともさらりと図案化されているように見えるのだが・・・(もしや思いを寄せた男子へのプレゼント?)。

 

 

      

 拡大してみると、以下の通り。

 

         

 下の木彫りの人形は人気の高い「木片人形」。「こっぱ人形」と読む。踊る農民、登山する人、スキーやスケートをする人など、デザインには素朴さや地方色を考慮し、商品性と作品性を兼ね備えることに心血が注がれた(fig.4)

 

     

 

 

3.神川村の芸術運動

 

3-1.農民美術運動と児童自由画運動

 1916(大正5)年の暮れに帰国した山本鼎は、翌年早々父親が開業した医院のある長野県の神川村に向かった。地域振興に意欲を燃やす青年らがロシアの思い出話を聞きたいというのである。富農の家柄に生まれた金井正やその後輩の山越脩蔵らは強い関心持ち、彼らの協力を得て児童画運動や農民美術運動が展開されることになった。特に農民美術においては事実上の片腕として、金井正が経営面で果たした役割は大きかったと言われる。

  1919(大正8)年10月に山本が金井との連名で書き村人に配布した「農民美術運動建業の趣意書」に、農民美術が何であるかが書かれている。

 

   農民の手によって作られた美術工芸品のことであって、民族若しくは地方的な

   意匠、―素朴な細工―作品の堅牢等がその特徴とせらるる・・・(*3-1)

 

 農閑期の副業として手工芸品を制作しそれを販売、副収入を得ることできれば生活も潤う。またそうした発想に加えて「一般の美術趣味の裨益」(*3-1)すなわち生活そもののを創造的で潤いのあるものとすること、芸術は専門の芸術家が独占物ではなく、むしろ普通に暮らす人々にこそ大切な生きる意味をもたらすものとなるという考え方に支えられた運動であったと考えられる。

 芸術を農民ら一般の人々の生活の一部に取り込むとはいえ、何の素養も下地もないところから創作することは無理な話でもあるので、山本を筆頭に専門の講師を招いた教習が行われ、それが「農民美術練習所」の始まりとなった。しかし実際始まってみると農民練習生が自発的に表現し創造性を発揮したので、山本はそれを尊重した。一方で山本自身が手本不要の自由画教育を行ったわけであるから当然とも言える。

 

 農民美術と並行して行われた児童自由画運動(順序としてはこちらが先であったが)も、山本による1918(大正7)年の講演を手始めにスタートした。手本の模倣を強いることは教育的とは言えない。そんな「不自由画」を脱却し自由に創造性を発揮することの意義を浸透させるには実際にやってみるのが効果的であった。つまり児童画展覧会の開催であった。その第1回展では1万点に迫る児童画の応募があったのだが、それを審査した山本は手本を上手に模写した大半の作品を選から外し、自己の思いを直接表出した個性ある作品を入選作とし、人々に衝撃を与えた。

 山本にとって農民美術も児童の自由画も、人に本来備わった自由な精神、創造性を涵養し開放に導くことこそ何にもまして重要であると考えていたことは明らかであり、またそれは他の何物にも優先されるべきものであった。山本はこう語った。

 

     私の理想郷(ユートピア)には、自由を抑制したがる「宗教」もなく、自由を

   圧制したがる「政治」もなく、ただ、自由の生長醇化に到達する「芸術心」の

   支配があるばかりだ(*3-2)

 

 当時の社会は、社会主義など新しい政治思想が流布しつつあった。しかし山本は芸術がそのための道具に陥ることを嫌った。プロレタリア美術運動が政治手段化してしまった当時の傾向を批判したこともある(*3-3)。また高崎で児童画展覧会を企画した際のこと、地元の若き井上房一郎がその趣意書を作成したのだがそこにアナーキズム(無政府社会主義)の提唱者クロポトキンの言葉を引用していた。当時の状況からして、そのことに気付いた県側は警告を発し、結局展覧会の縮小を余儀なくされることとなってしまったわけだが、山本は「過激思想」が引用されたことに不快感を表明した(*3-4)。

 


3-2.農民美術練習所の始動

 募集に応じた練習生は当初神川小学校の教室を練習所として、農閑期の12月から3月までの間にかけて講習と制作を行った。受講料は無料、第一期には男子7人女子13人ほどの男女が集まった(fig.5)

 

      

 

 冒頭で示したように木片人形、彫刻を施した木製の皿具、煙草入れ、白樺巻、刺繍や染色を施した布製品など多数の作品が作られたが、積極的に先行する北欧やロシアなどの事例を参考にしたためか、それらと似たあるいは「意図的に似せた?」作品も作られたようである。純粋な芸術と違い完全なオリジナリティーを追求することについてはやや鷹揚さを許していたようである。

 例えばロシアのある地方で作られている土人形(ディムカヴァ人形)を、山本が「土ひねり人形」と命名してその日本版を作ろうとしていたようである。下のような広告を見ると、北原白秋が歌を付けて商品化してたことが窺われる。(fig.6)   (参考までに、右下はロシア(おそらくソビエト時代頃の)のディムカヴァ人形)(fig.7)

 

  

 

 神川村の農民美術が可能性を実感したのは、東京の三越呉服店における展示即売会の成功であった。最初の練習生のひとり中村實によれば、作品が1日半で約600点もの作品のほとんど売れ、さらに予約注文まで舞い込んだのだそうであった(*3-5)。ともあれ農民は副収入を現実に手にすることができたのである。
 生産組織も整備され、1922(大正11)年に講習を終えた者は「日本農民美術生産組合」に所属することになった。原材料がそこで一括購入され、また売上代金から材料費を清算した上で制作者に報酬を手渡すといったしくみが整えられた(*3-5)。農民美術が普及するにつれ、こうした組合が県内外に相当数が作られるようになった。

 但しこうした運動に対しては、様々な批判が起こるものである。工芸家の高村豊周は、「美術」を標榜する割りには農民美術は力量が伴っていないことに苦言を呈した(*3-6)。また民芸運動の創始者柳宗悦は、農民の副業として始まった農民美術がやがて「専業」化していった状況を捉えて「堕落している」と批判した。これについては農民作家となった中村實が反論した。骨董品を崇めるような民芸運動のあり方に疑問を呈した上で、柳に対して以下のように皮肉まじりに反応したことが述べられている(*3-5)。

 

   「自分では何も作らないくせに、ようしゃべくることが上手な人でごわすなあ」

    (*3-5)

 

 

3-3.「農民美術学校」の構想と芸術村的風景

 山本鼎は農民美術運動を立ち上げて半年を経た1920年には「農民美術学校」として整備する構想を抱ていた(*3-7)。敷地の提供は受けたものの建設資金はなかったので、すぐに行動開始というわけにはいかなかった。しかし山本の胸中には諸工房の他、男女合計約100人を収容し得る教室、他府県からの受講者約20名のための寄宿舎を設け、染料や素材を育成する工芸用庭園の整備するなど、夢は大きく膨らんでいた。寄宿舎つまり生活機能を持たせようとした点は、開かれた形における生活共同体づくりへの指向を、なんとなく匂わせる。
 1921年6月の「芸術自由教育」誌には金井正の設計による新しい練習所の試案が掲載されており、素人ながらその間取りのアイデアはなかなか興味深い(fig.8)。ヨーロッパ中世の修道院に造られた中庭(クロイスター)つまり瞑想のための列柱が並ぶ中庭に見立てた部分を取り囲むように、伝統的な和風の縁側と工房が配置されるという案なのであった。皆が夢や理想を描いた、最も幸福な時期であった。 

        

 1922(大正11)年1月、それまでの神川小学校や金井家の蚕室から、小さな平屋の建物ながらも常設の通称「蒼い屋根の工房」と呼ばれた工房に移った。場所は大屋駅北側の小高い敷地であり、翌年にはその隣に瀧澤の設計による建物が建つことになる。

 練習生の日常風景はと言うと、一応形の上では男子部と女子部とに分けられていたが、講師の村山桂次(村山槐多の弟)によって以下のように描写されている。

 

    「作業に飽きたら男女共々コーラスを歌い、野を散歩し、女子が男子の繕い

     物を手伝えば、雛祭りになると今度は男子が女子のために手料理を振る舞

     うこともあった(*3-8)。」

 

 当時の閉鎖的な男女関係を思えば、農閑期の数か月の生活は練習生達にとってバラ色の別天地であったに違いない。中村實の述懐によればやはり想像通りであり、小学校の教室を借りて「いい年をした男女がキャーキャー騒ぎ」といった状況を横目で見る教師や村人の評判は当然良くはなかったらしい。しかし本人曰く、しっかり良い思いをしていたとのこと。中村は同窓の女子と恋愛結婚に漕ぎつけたとも語っている(*3-5)。
 また1922(大正11)年2月には「芸術の日」と名付けられた催しが行われ、SPレコードのコンサートや寸劇などが披露された。

こうした文化イベントが開催されるなど、短期間のうちに自由な空気が大正時代の一農村を覆い、生活に芸術が結びついていった様には驚くばかりである。山本が日本に紹介したロシアのタラーシキノの芸術家村を彷彿とさせる光景が日本にも芽生え始めていたかのようでもある。

 最後に、山本の甥の村山槐多もこの地で活動し、短くも奔放な生涯を送ったこともここに付け加えておかねばなるまい。

 

 次回から、ようやく建築家瀧澤眞弓が登場する(続く)。

 

 

 

ーーーー最後におまけ画像----

 農民美術研究所は昭和10年には閉鎖されたが、一度燃え盛った創作への思いは途絶えることなく脈々と受け継がれている。今日でも上田近辺では農民美術の流れをくむ工芸品に出会うことができる。例えば下の写真のようなものがある(fig.9)。鳩の青い楊枝入れは、鳩の砂糖壺と共に人気が高いようである。

 

            

 下の木製のペーパーナイフは戦後の作であろうが独特の装飾が彫られており、紙箱の「農美」のシールも雰囲気がある(fig.10)

 

            

 

 

 

  *3-1:「農民美術運動建業之趣意書」(山本鼎,金井正,1919)  
  *3-2:「巻頭言」(『芸術自由教育』,山本鼎,1921.4)
  *3-3:「美術界時評」(『アトリヱ』,山本鼎,1930.1)
  *3-4:「クロポトキンの祟り」(『芸術自由教育』,山本鼎,1921.4)  
  *3-5:「信濃の彫師 中村實」(『技術と人間5』,深沢武雄,1973.4)
  *3-6:「農民美術の価値」(『中央美術』,高村豊周,1921.7)
  *3-7: 「農民美術建業の趣意及其経過(展覧会目録より)」(『みづゑ』,山本鼎,1920.7)
  *3-8:「青屋根以前」(『農民美術』,村山桂次,1926.6)

 

     fig.1-3:『みづゑ』(1920.7)より

     fig.4:『農民美術」(1924.9)より

     fig.5:『農民美術』(1926.6)より

     fig.6:『アトリヱ』(1930.1)掲載の広告から

     fig.7,9,10:筆者所有

     fig.8:『芸術自由教育』(1921.6)より

     

 

 

 

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