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瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」 ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その4)―

 まずは瀧澤眞弓による分離派時代の作品から。

(↓)第1回展《山岳倶楽部》。瀧澤の卒業制作。学生時代に見た青島総督府の強い印象が元になっている。

            

(↓)第2回《山の家》。表現主義的な傾向が強い作品。私見では音楽の流麗さやリズムを建築で表現したものとみている。

         

(↓)第2回展《入口試案》

                             

(↓)第4回展《公館》。「早稲田大学故大隈総長記念大講堂」すなわち大隈講堂のコンペ応募案。コンペの開催は1923年であったが、1924年の第4回展に出品された。

         

(↓)第4回展《野外劇場兼音楽堂》。この頃としては珍しく直方体による幾何学的構成による計画案。

           

 

4.「哲人村」―土田杏村と自由大学

 

4-1.土田杏村の自由大学
 神川村では児童自由画運動や農民美術運動と併行して、さらに自由大学の構想が実現に向けて進められていた。自由大学は今日言う生涯教育の元祖的な存在であり、官製の教育機関とは異なる選択肢として、一般の人々が哲学などの高等教育を自由に学び取る機会として考え出された。
 そのきっかけを作ったのは金井と共に活動していた神川村の山越脩蔵であった。山越は土田杏村に普通選挙に関する講演を依頼し(実現せず)、その後も土田に哲学講義を依頼したところ土田が関心を示し、哲学の出張講義を行った。この人気は高く1921年には内容を充実させた上で「信濃自由大学趣意書」を発表、設立に至った(1924年に「上田自由大学」に名称変更)。

 

 土田杏村(本名茂(つとむ),1891〜1934)(fig.6)は京都帝大出身、西田幾多郎門下に学んだ哲学者であった。新カント派の立場に立ち様々な実社会の事柄についても自説を唱え文明批評家としても活躍した。気鋭の学者として人気は高く、1934(昭和9)年に逝去するまでに遺した著作は膨大であった。日本画家土田麦僊は兄である。


 土田は自由大学と並行して山本鼎らの農民美術運動や児童自由画運動にも強い関心を示しており、それらと村の人々が様々な地域振興策を創造していることなどを紹介する記事を『改造』に寄稿した。その記事「哲人村としての信州神川」(1921(大正10)年夏)は、かつて例を見ない文化活動のメッカとなった神川村を讃え、そのことを初めて紹介したものとなった。

 

   都会文明の堕落に沈み切って居る人達は、かうした機会

   に田舎へ動いて行って、田舎の健全な、又謙遜な、地方

   主義個性主義の空気の洗礼を受けて来るがよい。(*4-1)

 

 土田による神川村に関する功績は、自由大学の構想、児童自由画運動、農民美術運動などを貫く根源的な意義を見通し、ある種の普遍化を与えたことであろう。特に山本が編集発行した『芸術自由教育』誌には土田の論考がいくつも掲載されており、関心の高さが窺われる。
 私なりにごく単純化して土田の考え方を読み取るならば次のようになろうか。土田は現代の機械文明の果てに生じた人間性の疎外、没個性化の弊害からの解放の道として、一般の人々の生活を捉え直すこと「人生=芸術」という視点に立つべきであることを唱えた。もちろん芸術とは言っても無理に贅沢なことを強いるわけでもないし、独善的な芸術至上主義でもない。ルネッサンス以降の天才芸術家による純粋芸術の普及を目指したわけでもない。土田は敢えて歴史的を遡り、理想化された中世文化、中世のゴシック建築やスコラ哲学を例にとり、宗教を基礎とした精神世界と生活の統合完結した共同体を思い描いた。その調和した中世の共同体の人々の生活は悦びに満ちており、現代に欠落したものをそこに感じ取ったのである。しかしルネッサンス以降の時代の変化によって神と決別した現代のことを考えるのであれば、対処もあくまで現代的でなければならず、決して懐古的に立ち戻るべきではなかった。結論としては現代人においても可能な限りイデア(理想)を追求する人生の営み、すなわち芸術をもってあらゆる人にとって人生の悦びとすることを目指すべきとしたのであった。

 

   芸術は贅沢に非ずして人生の理想、光りであり・・・人生全体はその

   統一の側面より見て芸術であると言ふ事が出来る(*4-2)

 

 農民美術、児童自由画、自由大学それぞれ一般民衆を対象としており、その本質は創造行為つまり自由なる精神による理想追求によって本来あるべき悦びのある人間生活を取り戻す実践であったということになろう。確かに前回述べたように、精神を解放され自由を手にした悦びは神川村の人々の心に行き渡ってたようである。先に触れたような男女共々助け合う農民美術の教室の日常、「芸術の日」のイベントなどは、土田がイメージした良き中世文化のエッセンスの現代的な表れであったのかもしれない。

 

4-2.瀧澤眞弓と土田杏村

 1922(大正11)年の早い時期、山本鼎は同年の平和記念東京博に農民美術作品をもって参加、その際に長野県出身で博覧会のパビリオン設計にも関与した「分離派建築会」の建築家瀧澤眞弓(fig.7)の存在を知り、農民美術研究所の建物の設計を依頼した。従って瀧澤と山本鼎や土田杏村らとの関わりも1922年から始まった。

 ところがどういう偶然か、建築家瀧澤眞弓は1922年以前から土田杏村を知っていただけではなく知り合いであったらしい(*4-4)。そして1922年2月頃に行われた土田の哲学講義の場で改めて再会したのであった。しかも両者の関係は単なる知り合いではなく、互いに思想面で影響を及ぼし合う関係だったのであり、つまり瀧澤を知る上で重要な発見ということになるので、以下もう少しこの件について触れておきたい。


 瀧澤が勤務先の学校紙に寄稿した述懐記事によれば、自らの大学進学に際して、芥川龍之介と土田杏村の2人に相談して建築学科に進むべきか決めたという。芥川との関係は、芥川は瀧澤にとって一高時代の先輩であったこと、そして名前への関心がきっかけであった。「瀧澤」は養子入りした後の姓であり実家は「矢羽(やば)」姓であったわけで、芥川は文学者らしく「矢羽眞弓」という旧姓名そのものに興味を感じたのだそうである。そして矢羽眞弓は芥川の学帽を譲り受ける間柄となった。ただ土田杏村との出会いの経緯については特に説明はなかった。記事の中で大学進学前に専攻科目を決めるのにあたって、瀧澤は次のように語った。

 

   私は学校時代から数学、なかんずく計算と云ふものをよく間

   違へる方で始めは電気をやらうと思つていたが、どうも計算

   の方に自信がかへつて絵を書いたりする手先の仕事が巧いの

   で建築の方をやらうかと思つて、芥川さんに相談すると是非

   やれとの事で土田さんも大賛成をして呉れた、私が建築に志

   したといふのは此の二人におだてられて入つた様な形でして

   ね・・・(*4-3) 

 

 またこんな話もある。これは金井正の評伝『夜あけの星』に書かれていた内容である。1922年2月頃、山本鼎が設計を依頼した瀧澤にその構想を話す打合せをしていたところを金井正らが山本宅を訪れ、建築家瀧澤を初めて知ることとなった。金井らは「芸術の日」のイベントを企画し、蓄音機でベートーヴェンやシューベルトのレコードコンサートを行うことが決まり、そのポスター画を山本に依頼しに行ったのであった。山本と瀧澤の打合せが済んだ後、金井はちょうどこれから土田杏村の哲学講義があることを告げたところ、山本が酒でも飲もうと誘ったのを瀧澤は辞退し、土田の講義の聴講を希望したのだそうである。そして講義が終わった後、以下のようにしめくくられていた。

 

   二人は旧知の間柄ででもあったかのように打ち解けて話し合ってい

   た(*4-4)

 

 つまり既に旧知の間柄という事実があり、既にお互いの考えを知った上で話に花を咲かせていたのであろう。

 尚、瀧澤が土田から影響を受けていたことは、早世した土田への瀧澤による追悼記事からも明らかである。

 

   もとより私は杏村を兄とも師とも仰いだ。しかも、私は思想家杏村

   の所説に服するよりも人間杏村に敬慕した。(此の事意外に思ふ人

   もあらう)しかも杏村の懇切な指導がなかつたならば私の専門研究

   も途中で勇気を失つたかも知れない。杏村は私にとつては恩人であ
   る、が同時に私が専門外の畑に脱線する事に拍車をかけるやうにな

   つたのも多分杏村のお蔭である。私は杏村のオダテに乗つたのであ

   る。(*4-5)

 

 

4-3.「音楽と建築」
 瀧澤と土田はほぼ同じ時期に音楽芸術を拠り所とした言説を残している。それが偶然なのかどうかはわからないが。瀧澤は1921年10月の第2回分離派展に合わせて「音楽と建築」という論考を発表した。過去様式の模倣から分離しかつ建築を芸術の一分野であると主張した分離派の建築家達はそれぞれ新しい創造のあり方を模索したが、瀧澤の場合は、単に音楽好きであったのみならずそこに造形の原理を求めた。「音楽と建築」ではまず直感的印象から、建築の造形に置き換えることへの関心が述べられる。(音楽と建築すなわち「時間」と「空間」へのこだわりは本人も言うようにアインシュタインの相対性理論からの影響が強く、瀧澤はその後もこれを起点とした研究を続けた(*4-6))

 

   もし、音楽を汲み立てている、ひとつ一つ一つの音の夫々に、各特

   有の色と共に形とマツスとを与え、音楽の時間的な連続に応じて其

   色、形、マツスを有する立体を、空間的なダイメンションに於いて、

   配列乃至堆積して見るならば、私共は其処に、文字通り、氷結せる

   音楽を作り出す事が出来るであらうと。(*4-7)

 

 ちなみに音楽の流動的でリズミカルな部分を直感的に形に置き換えたものが第2回展に出品した「山の家」のモデルではないかと私はみている(fig.2)。以下に喩えられたように。

 

   音楽は直ちに、美しき線の交錯となり、奇しき立体の集団となり、

   互いに縺れ合ひ、響き合ひ、而も尚ほ其奇麗な組織を失う事なく無

   限の空間に踊る様に感ぜられます(*4-7)

 

 しかしこの論考の後半部分は瀧澤なりの音楽に関する分析であり、その結果として音楽の数学的な抽象的芸術性を論じた。つまりは幾何学形態、瀧澤いわく「豆腐形」立体を最小単位とする造形を打ち出す。純粋幾何学形態によるモダニズム的な指向がこの時には垣間見られる点には驚かされる。ただ「豆腐形」が実を結んだ作例はというと、《野外劇場兼音楽堂》(fig.5)にややそうした傾向を感ずる程度なのだがどうであろうか。

 

 一方、土田杏村も上述の瀧澤の論考に先立つ1921年8月「第二ルネサンスと芸術」の中で音楽と芸術についてこのように語っていた。

 

   すべての芸術は音楽の方向へ憧憬れているといふの

   は、要するに芸術に属する絵画や彫刻や詩やが、す

   べての感覚的要素を罷脱して音楽のそれの如き純粋

   理想形を憧憬れて居る、換言すれば、芸術一般とし

   てのイデアを追ふて居ると言つたのであらう。

   ・・・・その理想図形を追ふこと自身は我々の意識する

   生命活動である。(*4-8)

 

 音楽に代表される理想を求めるギリシャ古典哲学に息づく精神は、(一握りの天才のためではなく)あまねく民衆の生活に浸透したものとして、第二のルネッサンスとして、再度待ち望むという主旨なのであった。

 土田は中世文化を例に挙げたように、本来芸術は民衆の生活に密着したものであるはずであった。しかし産業革命以降の機械時代にあってはそれが生活全体を構成するべきであるとし、昭和期の土田の著書ともなると明確に近代の機械芸術を肯定的に扱うようになった。(逆にその頃発生した「民芸運動」については、手工業による少量生産を範とする懐古主義であり有閑芸術論者の所業と批判した)

 土田は昭和初期の著書の中でコルビュジエの語りのように汽船を賛美したが(*4-9)、実は瀧澤の情報提供によるものであった(本瀧澤本人の弁による)。また私が最近のブログに示したように、瀧澤による土田の著書の装丁デザインを発見した(fig.8)。この希少なグラフィック作例は、何より土田と瀧澤の相互の思考を高め合おうとした絆の証しなのではなかろうか(続く)。

 

 

*4-1:「哲人村としての信州神川」(『改造』,土田杏村, 1921夏季臨時号)
*4-2:「芸術教育論」(『芸術自由教育』,土田杏村,1921.8)
*4-3:「家庭の教授訪問記 学生時代は矢羽根姓を名のり芥川龍之介・土田杏村の奨めで建築に志す 瀧澤教授之巻」(『神戸高工新聞』,1936.11.10)
*4-4:『夜あけの星』(小崎軍司,1975)
*4-5:「土田杏村を憶ふ」(『神戸高工新聞』,1934.5.10) (この記事では土田との出会いを1922年秋の土田講義の時としており、(前掲書(*4-4))と辻褄が合わない。その後の記事(前掲書(*4-3))において訂正したものと解釈した。)
*4-6:時間と空間の相対的な関係への意識は、さらに空間の歪み、ギリシャのパルテノン神殿の視覚補正の探究へとつながった。
*4-7:「音楽と建築」(『分離派建築会の作品』(第二刊),瀧澤眞弓,1921.10)
*4-8:「第二ルネッサンスと芸術」(『中央美術』,土田杏村,1921.8)
*4-9:「モダアニズムと機械時代(一)」(『文明ハ何処へ行ク』,土田杏村,1930)

 

fig.1:『分離派建築会宣言と作品』(1920)より

fig.2,3:『分離派建築会の作品』(第2刊)(1921)より

fig.4,5:『分離派建築会の作品』(第3刊)(1924)より

fig.6:『土田杏村全集』より

fig.7:第1回分離派展開催時の記念写真より

fig.8:筆者所有本

 

 

 

 

 

 

 

 

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