収蔵庫・壱號館

日本の20世紀をメインとした建築画像の保管庫
<< 瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」 ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その4)― | main |
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - | pookmark |
瀧澤眞弓設計の「日本農民美術研究所」 ―山本鼎の農民美術運動がもたらしたもの(その5)―

5.農民美術研究所の設計と建物

 

 一応これまでに触れた、瀧澤眞弓や農民美術の建築にまつわる点を整理してみた。

 

 、山本が瀧澤を知ったのは、山本が平和記念東京博(1922.3月開催)出品時であった。

   瀧澤は平和記念博のパビリオンをいくつかを設計していた(*5-1)。
 、山本は瀧澤が長野県出身の分離派運動に関わる新進建築家であることを知っていた。

   これらが瀧澤に研究所の設計を依頼した理由と考えられる。
 、1922年2月頃には神川村で山本と瀧澤が設計の打ち合わせをしていたとも言われる

   (*5-2)。
 、瀧澤ら分離派は、旧来の様式性や装飾性を捨てた、新たな創造を目指した。

   そして何より建築は芸術であらねばならなかった
   当時先端的であったドイツ表現主義建築の影響を受けたと言われる。
 、瀧澤は「音楽」と「建築」の関係に関心を抱いていた。

   山本に対して研究所の設計に「建築の形態に音楽性を取り入れたい」と語った。

   (*5-1,5−3)。
 、山本は児童自由画運動を通して、創造性を自由に開花させることの重要性を訴えた。

   これは分離派が、建築の創造を目指していたこととも重なる。
 、山本は北欧やロシアなどの農民美術の先駆例を知っていた

   (タラーシキノの芸術家村)などのような芸術の拠点を目指したのであろうか。

 、瀧澤と自由大学創設に参加した土田杏村の交流は無視できない。

   瀧澤と土田は互いに思考の面でも影響を与え合う関係であったようである。
 、研究所は瀧澤にとって初の建築作品(仮設パビリオンを除き)となった。

   それにも拘らず、結局公の場に発表することはなかった。

 

 特に最後のについては、偶々発表する機会を逸しただけなのか、それとも発表しなかったことに本質的な意味が含まれるのか、私としては大いに気になっている。

 

5−1.農民美術研究所の建設
 農民美術練習所は1919(大正8)年に開設され、小学校や金井家の蚕室など練習場所を変えながら活動した。百貨店の展示即売は好調、農村振興策を探る国の期待もあり、1922年の年明けには平屋の工房、通称「蒼い屋根の工房」が大屋駅北側の高台に完成したのだが、山本の夢はさらに膨らんでいた。それは工房と研究部門を擁した本格的な農民美術の拠点「農民美術研究所」の建設であった。

 

    

5−2. 保存された図面と書簡を見て
 設計を依頼された瀧澤の図面は1922(大正11)年7月に完成した。その図面(Fig.1,2)と工事中に瀧澤が金井に宛てた書簡などは、旧山本鼎記念館に保存され、現在も市立美術館が管理している。図面を拝見することができたので少し説明してみたい。

 まず間取りを見てみると、1階は事務室,食堂と工房(木彫室,染色室,刺繍室,塗術室,機織室)が、2階はデザインと研究に関わる諸室(意匠室,参考品室,生産品室,図書室,寝室)が配置されていた。参考品室とは国内外から収集した作品を保存展示する、農民美術研究所ならではの機能であろう。2階には小さな寝室が3箇所ほどあるのが不思議であったが、これは恐らく東京などから招いた講師が宿泊する部屋であったと考えられる(実際は近隣の農家に宿泊していたという話ではあるが)。そこで生活することを意図した計画ではないようであった。
 全体的に、間取り図としては中廊下を挟んで諸室を配置したありきたりのものであり、その代り外観のデザインに力点が注がれてたようである。特に正面入り口のある立面図は2度修正が加えられていた。

 

           

 

 この建物は急勾配屋根により屋根裏空間はかなり広くなるはずであった。しかし立面図には窓が3層に渡って描かれ3階建てに見えるのに、平面図は2階分しかなかった。この屋根裏らしき空間は実際にどのように扱われていたのか疑問であったが、大勢の講習生がデッサンに励む写真葉書が残されているのをみつけた(Fig.3)。ということは、屋根裏に上がるために、工事中に設計変更されて屋根裏へ上がる階段が設けられたのだろうか?それともこれだけの大人数が、梯子を使って上り下りしていたのだろうか?

  

 工事中の書簡の内容としては、特に二つの点で興味深かった。一つ目は金井の問い合わせに答えたと思われる、室内の明るさチェックの計算書であった。その方法は室内面積に対するその部屋の全窓面積の割合によって評価する簡単なものであり、これは基本的には現行の建築基準法の方法と同様であった。瀧澤はそれが1/7しかない場合「やや暗い」と判定し、最低限の明るさとしていたようであった。二つ目は瀧澤による塗装の指示であった。正面の柱や軒裏の木材などの部材に「赤黒塗装」を施すようにと記されていたのである。「赤黒塗装」が示す意味はどうも判然としないが、少なくとも日本風というよりは洋風のイメージを目指していたたことが判る。

 

5−3. 農家風の建物
 出来上がった建物は、この写真絵葉書(Fig.4)の画像がある。私が初めてこれを見た時は、今日的な目で見たせいか、正直言って白川郷の合掌造の家を思い出し違和感が先に立った。少なくともドイツ表現主義による当時最先端の表現を得意とした瀧澤の作品とはかけ離れていたように思えた。ただ当時の人々の見方ではこうであった。

 

  「ロシアや北欧など雪の多い地方に見られる急勾配の木造建築、・・・

   アンデルセンの童話の挿絵にでも出てきそう洒落た感じ」(*5-1)

 

 日本にはない洋風感覚に溢れた建築として驚きと好感をもって受け入れられたのであった。

 

  

 それではもう少し丁寧に見てみようと、気を取り直して細部に目をやる。すると新しい目を持った建築家瀧澤の感覚が見え始めた。例えば三角形や四角形にはっきりと縁取りされた窓(Fig.5)、それに正三角形に近い破風を持つ屋根などから、シンプルな幾何学形状に還元しようとする瀧澤の意思が漂ってくるのであった。少々調べてみたがこのような急勾配屋根の民家はこの地方のものではないようであり、仮に普通の民家を建てるつもりであったならならば、このような建物とはならなかったはずである。そこでこの幾何学形状について思い出されるのは、瀧澤が「音楽と建築」で述べたくだりである。瀧澤は音楽に数学的な抽象的芸術性を認め、幾何学形態による造形を指向していた。設計に先立って山本に「建築の形態に音楽性を取り入れたい」と語っていたが、こうした三角形や四角形を強調した部分に、自らの主張を幾分なりとも忍び込ませようとしたのかもしれない。

 

  

 

5-4. 仮題としての「デンマークの農家」
 山本は自らが編集を務める形で『農民美術』(Fig.6)という機関誌を発行していたのだが、その次号予告欄(Fig.7)(*5-4)に瀧澤眞弓の執筆で「デンマークの農家」との記事が掲載される予定が掲げられていたのを発見した。これを見た瞬間に大体の察しがついた。

 

            

 

 恐らく山本は瀧澤に原稿を依頼するにあたり、設計を頼んだ時のことを書いてみてはどうかと打診したのではなかろうか。その時山本は実際に目にした農民美術先進国であるデンマークなどの北欧の農家の建物の記憶を瀧澤に伝え、それを日本の農民美術のシンボルとして設計に活かしてほしいと要望したのであろう。そして編集に携わる山本は誌上に「デンマークの農家」という仮題の予告をとりあえず掲げたのではないかと推察された。因みにデンマークの茅葺古民家は素晴らしく(Fig.8)、そうした民家による野外博物館も充実している。
 もしこの推察通りならば、地元の人々による「北欧風」の家という世評は正解ということになろう。設計者瀧澤の立場からすれば、施主山本の要望は受け入れざるを得ないのであって、デンマークの農家風の建物を考案したのであろう。そして細部の要素として「音楽と建築」に由来する幾何学的な造形を取り入れ、自らの創作としての体面を保ったということなのかもしれない。

 

 

     

 

 1925(大正14)年1月の『農民美術』において瀧澤の論考は滞りなく掲載されたのだが、「デンマークの農家」ではなく、結局正式な題名は「田園文化と中世紀主義」(*5-5)とされ、そのドイツの古い農家の写真(Fig.9)が挿入されていた。次回はこの論考は瀧澤が農民美術研究所に関連して語った唯一の言説と考えられるので、これを取り上げてみたい。(つづく)

 

       

 

 


  *5-1:『山本鼎評伝』(小崎軍司,1979)
  *5-2:『夜あけの星』(小崎軍司,1975)
  *5-3:「音楽と建築」(『分離派建築会の作品(第2刊)』,瀧澤眞弓,1921.10)
  *5-4:「農民美術「農村の生活」号予告」(『農民美術』,瀧澤眞弓,1924.12)
  *5-5:「田園文化と中世紀主義」(『農民美術』,瀧澤眞弓,1925.1)

 

  Fig.1〜5:上田市立美術館所蔵資料より

  Fig.6:『農民美術』(1924.9)より

  Fig.7:『農民美術』(1924.12)より

  Fig.8:Wikimedia Commonsより

  Fig.9:『農民美術』(1924.9)「田園文化と中世紀主義」より

 

 

 

 

| 1920年− | 00:40 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
スポンサーサイト
| - | 00:40 | - | - | pookmark |
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://20thkenchiku.jugem.jp/trackback/441
トラックバック
CALENDAR
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< July 2018 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
叢書・近代日本のデザイン 25 [大正篇]
叢書・近代日本のデザイン 25 [大正篇] (JUGEMレビュー »)
分離派建築会,関西分離派建築会
「分離派建築会」作品集3刊の、初の復刻本が刊行されました。末尾の解説文は私が担当しました。
収蔵庫・壱號館
ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE