1931年、東京都世田谷区、賀川豊彦+多田篤一、現存(記念資料館内に移設復元)(撮影:2023年)
賀川豊彦は大正から昭和にかけて様々な社会活動を行った人物として知られる。キリスト教信者としての伝道を基本とし、貧民救済、教育、労働組合、農民運動、様々な運動と事業の立ち上げに身を投じたが、特に生協の源流を創設した点では、今日でも多くの人々が彼の恩恵に浴していると言えるのかもしれない。
賀川は文筆活動も旺盛であった。彼の大正期の著作『死線を越えて』がベストセラーとなった他、ジョン・ラスキンに傾倒しその著書『建築・装飾とゴシック精神』中の『ヴェニスの石』の翻訳を行った。この点では建築とも無縁ではないようだ。また自然科学への並々ならぬ関心は「私は科学的神秘家(a scientific mystic)です。科学的になればなるほど、より深く神の世界に沈潜してゆくように感じるのです。」(1)と言わしめた。
社会改革の方向性はラスキン寄りすなわち英国の「ギルド社会主義」に近かったと言われ、急進的なマルクス主義革命の道を選択することはなかった。
こうしたプロフィールを持つ賀川が建てた教会堂は、キリスト教に縁のない私から見ても、一部に型に嵌らない点があるどこか不思議な印象を抱かせる建物なのである。実際の設計は賀川を深く尊敬する同志、多田篤一(1901-1987)という工業高校出身の設計士が担当したが、デザインの根幹において賀川の意思が深く関わり、賀川と多田が話し合いながら設計が進められたと考えられている(2)。
特に私が不思議な印象を抱いたのは、聖壇上部に見える大きなキングポストトラスのハーフティンバーの構造体である。三角形に組まれた構造材の間には賀川がデザインした円形のステンドグラスが嵌め込まれている。全体的な構造はハンマービームを用いた典型的な木造教会のようであるが、この正面中央部だけは趣きを異にしている。つまり教会の最もシンボリックであるべき位置に、敢えて三角形の建築構造が露呈されていることに驚いたというわけである。
学芸員の方の説明によれば、この教会堂にはラスキンからの影響がみられるとのことであった。具体的にはラスキンが好んだ三弁葉や四弁葉の植物の装飾が用いられているとのことであり、下の画像のように、建具には葉の模様が規則的に並んでいた。
その解説を元に、もう一度聖壇上部について調べてみるならば、ラスキンはゴシック建築を好み、著書『ヴェニスの石』の中でもムラーノの教会を例にとり三角形の装飾について言葉を費やしていた。これを援用したのかは知る由もないが、少なくとも、賀川は自らの教会において、アーチ構造剥き出しの石造のゴシックの骨格を木造建築に置き換えて、そのトラス構造の骨組みをそのまま見せるという意味において、ここでラスキンの再解釈が行われた可能性を感じた。
また西欧移入のトラス構造を用いることは、当時の日本の建築からすれば近代的な指向を取り入れたという見方もできよう。さらにそれが三位一体の表現にもなっているということであるならば、なかなか卓抜なモダンデザインと言えるのかもしれない。勿論この辺りは私なりの解釈であって公認されたものではないので、念のため。
もうひとつ付け加えれば、三角形を形づくる各材木などいくつかの装飾部材をよく見ると中央に突起状の装飾があるのだが、それについて、ラスキンは著書の中で方ゴシックには「棘のある」葉飾りが用いられると記していたことと関係があるのではないかという指摘がある(3)。この棘をイメージした装飾の可能性も気になるところである。
ラスキンによればゴシック建築の特徴として「自然への愛」が込められていたことを挙げているが、賀川も同様に自然科学の基本である幾何学形態を重要視している。実際に、賀川は幼児教育において自然を身近に感じとるために(一見フレーベルの恩物に近いような」)幾何学立体のモデルなどを用いたとの記録がある。自然は教育の最も重要なテーマであったのである。実際、教会堂は祈りの場としてだけではなく、幼稚園の園舎つまり教育の場という役割をも担っていた(4)。祈りと教育の空間の上部から、三角形の木造トラスと円形の「少年の頭に手をおくキリスト」の図柄を持つステンドグラスが見守っていたのである。
下の画像は賀川が教育に用いた幾何学モデル(賀川豊彦記念松沢資料館所蔵)
下の画像は竣工当時の松沢教会(賀川豊彦記念松沢資料館所蔵)
下の画像は、資料館に移設復原された教会入口の部分。
最後に教会の建設工事について、「イエスの友住宅生産組合―日本建築ギルド」という組合が組織された記録があることを触れておきたい(5)。詳細は不明のようであるが、その名称から推察するならば、ラスキンが理想とした中世の社会のあり方、すなわち生活と創造・生産が一体化した共同体の具現化が目指されていたのかもしれない。
現在、当時の教会建物は同地に建てられた「賀川豊彦記念松沢資料館」に、内部と入口、尖塔部分が保存され再現されているが、そこに至るまでには建築家阿部勤による保存への意思表明があったとの記録がある(6)。こうした卓見の成果として、ラスキンの思想を背景に持ち、自然との関係が神秘的な薫りを漂わせる、そしてギルド社会主義的な(あるいは中世主義的な)の発想を窺わせる、稀な建物を目の当たりにできたことは大きな喜びである。
*内部写真撮影及びブログ掲載をお許し頂いた、賀川豊彦記念松沢資料館副館長・学芸員の杉浦秀典氏に謝意を申し上げます。
参考文献
(1):(原著Emerson O.Bradshaw“Unconquerabre Kagawa"),トーマス・ヘイスティングス,「賀川豊彦『宇宙の目的』への序文」所収,『雲の柱 28』,賀川豊彦記念松沢資料館,2014年
(2)〜(6):杉山恵子,「松沢村の教会堂〜賀川豊彦・松沢村移住の詳細(二)」及び付記,『雲の柱 28』,賀川豊彦記念松沢資料館,2014年
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1891年、石川県金沢市、山口半六+久留正道、現存(撮影:2023年)
優れた学校建築を残したことで知られる山口半六と久留正道の、数少ない現存作例。
明治期にありがちな威容を誇る外観というよりは、軒の出を抑え装飾を少なくするなど抑制の効いたシンプルな外観が気品を漂わせている。それがフランスで学んだところによるのか、やや気になるところではある。
他の山口の作例としては、熊本の旧制第五高等中学校(1889)、旧兵庫県庁(1902)、旧東京音楽学校奏楽堂(1890)などが現存する。
ここを卒業し帝大に進んだ建築家には、吉田鉄郎,山田守,谷口吉郎らが挙げられる。
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1875年、石川県金沢市、(大工)津田吉之助、現存(撮影:2023年)
尾山神社は加賀藩祖前田利家と正室芳春院を祀る神社として1873年に建立された。この神門は遅れて1875年に津田吉之助の設計施工によって建てられたとされる。
前田家の家紋「加賀梅鉢」のあしらわれた扉。
本殿を囲む煉瓦造の玉垣
境内の一隅には、幕末から明治期の数学者関口開(1842−1884)を顕彰する記念碑「関口先生記念標」がある。鋭いロケット型が目を惹く。
神苑。尾山神社は金沢城金谷出丸跡地を利用して建てられた。そこに元々あった回遊式庭園が現存、「楽器の庭」とも呼ばれる。奥の橋は琴橋とも呼ばれるらしい。
最上階のステンドグラスは夕刻になると鮮やかな光を放つ。
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1919年、石川県南砺市、吉田鉄郎、現存(撮影:2023年)
吉田鉄郎が帝大建築学科を卒業したのは1919(大正8)年7月であった。つまりこの図書館は吉田が卒業する直前の学生時分に設計されたものであり、その作品経歴中においては習作的な位置づけとなるのだろう。しかし、後の逓信省建築などの作品群の変化の過程を知る上では結構重要な資料的意味を持つようにも思われる。
この建物の特徴として挙げておきたいのは、頂部が平らな直線状のアーチ窓が多数繰り返されていることである。寺院に関係する建物だからと言って「花頭窓」とは少し違うように思う。むしろ初期の吉田はハンブルグなど北ドイツ建築の影響を強く受けていたと言われるところから、当時の表現主義建築の語彙を元にした新傾向を意図したデザインなのではないかと推測している。
例えば同様の窓形状は、他にも吉田が設計し1926年に竣工した検見川送信所の3つの大きなアーチ窓(下の2枚の画像。左は竣工時、右は最近の内部見学時)にみられる。
(すぐ上に構造上の梁があったため平らにされたとの見方がされたが、授眼蔵図書館の窓の例を見ればそうではなく吉田が主体的に行ったデザインであったと言えるのではなかろうか。)
驚いたのは、入り口にある一対の大きなエンタシス(中央に膨らみを持つギリシャ古典建築の柱)の柱である。これは恐らく建築史の師であった伊東忠太の影響であろう。伊東は、ギリシャ古典など大陸のデザイン要素がシルクロードを経て法隆寺に伝わったとの持論を持っていた。それに奈良唐招提寺などに見られる「鴟尾(しび)」の瓦も大陸伝来の要素である。
たぶん吉田は仏教図書館という性格をエンタシスの柱やしびの瓦を用いて表象したかったのだろう。
福野町では下のような説明板があちこちに取り付けられている。昔ながらの街並みなどもよく残されている。
吉田鉄郎の生家があったところには、このような碑がある。ここには吉田が設計した福野郵便局の建物が存在していた。
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1952年、石川県金沢市、谷口吉郎、現存(撮影:2023年)
谷口作品としては勿論、戦後早い時期に建てられた希少な昭和20年代モダニズム建築の優品が現存する。
しかも単なる流行現象的なホワイトボックス建築などではなく、明らかに地域の環境との連続性を意識した独自の新たな造形を試みている。
例えば、屋根を軒の深い瓦の載った切妻屋根としたこともその表れであろう。恐らく、陸屋根がまだまだ防水に問題が生じがちだから避けた、という消極的な理由からではないと思う。
玄関ポーチにあしらわれた亀甲模様は、金沢城などの石垣(一番下の画像)などに良くみられる。休館日だったので見られなかったが内部にもそうしたモチーフが使用されているようである。
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1959年、石川県金沢市、谷口吉郎、現存(撮影:2023年)
兼六園に接して建つ。設計した谷口吉郎は金沢の出身で、親の代は九谷焼窯元兼販売の「谷口金陽堂」を営むという家柄であった。(現在、生家跡に谷口吉郎吉生記念金沢建築館が建つ)。
終戦後日本の建築家の多くは、モダニズムと日本の伝統建築や地域性との調和を図ることを目標のひとつとしてきたが、代表格の堀口捨己や吉田五十八を思いつつ、谷口吉郎の建築を見てみるとそうした造形にもそれぞれに個性があるものだ。
さらに北陸出身の建築家と言えば谷口と並んで吉田鉄郎も知られる。両者ともどちらかと言えばストイックでシンプルな造形を得意としたことにまず感慨を覚えたわけだが、それでも各々他の誰の建築にもない個性が生まれているのだから建築とは不思議なものである。
上の画像は同じ敷地にある別棟。「石川県立能楽堂別館」として使用されている。
下の画像は兼六園内に通じる入口。訪れたのが2月だったせいか、ほど良く残る雪が景色に趣きを添えていた。
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1932年、石川県金沢市、村野藤吾、現存(撮影:2023年)
3年ぶり、久しぶりの建築画像UPは金沢編です。
金沢で近代建築と言ったら、やはり村野建築を取り上げるのが常道でしょう。
外観の雰囲気から、森五商店(1931)から渡辺翁記念会館(1937年)に至る過程に位置する建築であることが頷ける。
内部は銀行が営業を続けているが上階は貸しギャラリーとなっていて、そこで下のような暖炉や金庫の扉を見ることができる。
金属の部分に描かれているものは何だろうか。
実は近江町市場周辺の再開発により、銀行は曳家されてここに建っていることを伊達さんから教わった。確かに銀行と市場、飲食店それにギャラリーとが元々あったかのように渾然としていて、そうしたあまり見たことのない界隈への遭遇はもうひとつの得難い体験だった。
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1932年、石川県金沢市、村野藤吾、現存(撮影:2023年)
構成主義風の外観。建てられた当時は瓦屋根の街並みに対して相当異彩を放っていたことだろう。
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そろそろ再開したいと考えており、とりあえずブログのテンプレートを一新しました。
再開後はまたよろしくお願い申し上げます。
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1.「私(堀口)が十年程前にデルアーキテクト(雑誌)で彼の作品を見たとき、どんなに驚いたろう。・・・それは幾つかの女性柱が両側に並んでいて、其突き当りの壁に蜘蛛の巣のように網を張ってスフインクスのような女が蹲(ママ)んでいるの佇んでいるのである。・・・それは非常に建築的の美しさを持っていたことである。」(堀口捨己『現代之美術』)
堀口は下図「カリアティード」と「スフィンクス」(1908)という作品を見て語ったようである。因みに「カリアティード」とは柱の役目を担う女性像とのこと。
2.メシュトロヴィッチの作品集(下図)の著者諏訪森之助は、メシュトロヴィッチを「建築彫刻家」と称しつつ解説した。
下図「コソヴォ寺院の模型」(1912)にそのゆえんがよく表れている。この作品にコソヴォの戦いに想を得た民族主義的メッセージが込められている。
「メストロヴィッチが其の民族特有の彫刻家として建築彫刻家として乃至はある意味で建築家としての確信を得るに至ったのはコソヴォ寺院の想像から得たイムプレッションに依ると言われている。・・・1912年には彼の敬虔なる愛国の熱情はコソヴォ寺院の復旧模型として表るゝに至ったのである。」(諏訪森之助『イヴァン・メストロヴィッチ』)
3.「最近には1922年ラグサに近いカヴタット岬に自分の彫刻を以て築いた一納骨堂を完成した。この建築的な点ではメッツネルと似ている。」(蔵田周忠『ロダン以後』)
分離派の蔵田周忠は上記堀口の言葉を自ら著した著書「ロダン以後」(左下)に所収している。また同著書にコソヴォの模型の実施版とも言えるような「カヴタッド岬の納骨堂」(右下(画像は作品集より))のことを記した。
尚、今回蔵田が自作し堀口に贈った1冊モノの貴重なメシュトロヴィッチ作品集が分離派100年展覧会図録に掲載されている。
4.そして岩元禄が設計した西陣電話局の彫刻(左下)も、「舞姫」(右下)のようにメシュトロヴィッチからの影響が指摘されている。
※本記事では参考論文として、「「構造社研究」—イワン・メストロヴィッチとその影響―」齊藤祐子、を参照しております。
また「カリアティードとスフィンクス」及び「舞姫」は同論文掲載のものを拝借しております。
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―我々は起つ。― 大正から昭和、模索する若き建築家たち
10月10日より、東京のパナソニック汐留美術館で分離派建築会100年展 建築は芸術か?が開催されます。(東京展の後には、京都国立近代美術館にて2021年1月6日より展示されます。)
分離派建築会は1920(大正9)年2月1日に結成された建築運動体です。今年2020年は、建築が単なる道具ではなく芸術でもあることを信じて若き建築家たちが活動を開始してからちょうど100年目にあたります。
当方も参加している「分離派100年研究会」はそうした分離派の軌跡を検証する活動を、ここ数年イベントの開催を通じて行ってきました。そしてこの展覧会はその総決算という位置づけとなります。
展覧会開催中には、講師の先生方をお招きしたシンポジウムを2回ほど企画しております。事前の申し込みが必要ですので、下記(↓)画像をご参照の上予約をお願い申し上げます。
また、美術館では新型コロナウイルス感染防止対策の取り組みを行っております。詳しくはこちらをご覧ください。
10月10日以降、「マンガで見る!分離派建築会実録エピソード」が公開されますので、こちらも必見です。(作者でマンガエッセイストのY田Y子さんは分離派建築家山田守のお孫さんです)
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1926年、東京都渋谷区、蔵田周忠、建物現存(家具など数点保存。撮影:1992年)
モノクロ画像は『建築画報』(vol.17 1926.5)より。
分離派の建築家蔵田周忠は日本聖公会聖シオン会堂を設計し、急勾配の木造トラスの小屋組を持つ質素な建物と家具類などが1926年(大正15)年5月の『建築画報』に掲載された。
私がその建物の現状を確認しに行ったのは確か1992年頃であった。戦後に渋谷聖ミカエル教会と改称され、建物はRC造の教会に建て替えられていたが、蔵田自身がデザインしたステンドグラスや家具類、とりわけ「会衆席」と呼ばれる長椅子が2脚現在の建物に現存しているのを発見した。貴重な遺品として伝えられている状況を確認することができたのは喜びであった。
『建築画報』には口絵に建物と家具類が多数掲載され、蔵田の解説にも建物のことのみならず教会独特の家具類などについても記されており、建物から家具まで総合的にデザインするよう任され意欲を傾けた時の心境を滲ませている。その部分を下に抜き書きする。
「家具は高等工芸の森谷教授が心配して下さって、芝の宮澤工作所で作ってもら
いました。「しぶく、丈夫に、鉄のような感じに」という私の注文を諒として
よき特別の塗り方を見せてもらいました。歴史的様式に見る家具の彫刻やモー
ルディングを全く避けて、率直に組立てそのもの、一塊形としてどうっしりと
据えたいというのが私の希いでした。それはよくはたされています。その様に
家具までを全部一任されるということは、建築家にとって重い任務であると同
時に、現今の状態では実にそうなくては全体としてよいものができない有様で
すから、私にとっては愉快な仕事であったのです。」
当時は例えばバウハウスが設立当初に中世を参照しつつ、建築を頂点とし絵画工芸を含む総合芸術を志向していたように、近代のひとつの目標としての総合芸術への志向は、蔵田の心をも捉えていたのではなかろうか。
蔵田自身、その後の昭和3年には「型而工房」組織しその指導的立場として近代家具の規格化の研究に携わったのだが、シオン会堂の経験はそのひとつの端緒であったと推察される。
上記蔵田の文中の「森谷教授」とは、蔵田が教鞭を執る東京高等工芸学校の同僚で木材工芸教授であった森谷延雄のことである。文面からすると、蔵田はデザインしたシオン会堂家具の製作について、森谷から宮澤製作所を紹介してもらい、また塗装に関する提案を受けたようである。
***
ところで、ここではっきりさせて置かねばならないことがある。
確か2007年頃に森谷延雄の展覧会が開催された折り、私が情報提供したこともあって、旧シオン会堂家具の現存する「会衆席」が出品されていた。しかしどういうわけか森谷のデザインによる作品として展示され、印刷媒体にもそのように紹介されていたのでとても驚いた。勿論これは誤りであり、家具の設計は上述したように蔵田であり、森谷はアドバイスを与えただけなのである。
私は今後のこともあるので、森谷延雄展を企画したの学芸員にその件について質問したところ、森谷の現存する家具があまりに乏しかったので、解説文にあるように少しでも関与した旧シオン会堂の長椅子を出品しただけだとのことであった。(ならばそのように注記すべきだと思うが。)そして学芸員に改めてこれら家具を蔵田がデザインした作品としてよいか質問したところ、蔵田のデザインとして間違いない、との返事であった。
・・・蔵田は冥界でどう思っていることだろう。
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1930年,東京都多摩市,関根要太郎(担当:蔵田周忠),現存(撮影2019年)
明治天皇の行幸を記念して建てられた建物。楕円同心円が重なる平面であり、その中心部には明治天皇の騎馬像が展示されている。
外観は列柱が威容を示している。
先ごろ開催された関根要太郎展で展示された計画案パースを見たところ、長大なアプローチの先に仰ぎ見るような神殿風のイメージが示されており、私の見るところでは、さながら表現主義建築家ハンス・ペルツィッヒのザルツブルク祝祭劇場第一次案をほうふつとさせるものがあった。
分離派の建築家として知られる蔵田周忠は三橋建築事務所時代の関根の後輩であり、関根事務所の作品を多く担当した。この聖蹟記念館も同氏が関与したとされる。
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1970年,東京都新宿区,渡邊洋治,現存(撮影:2018年)
最近のリニューアルまでに建物名称も何度か変遷したが、ニックネーム「軍艦マンション」でずっと通っていることは間違いなさそうである。
私が学生の頃に遠目で見た外観は、多数の金属製ユニットを思わせるパネルのせいか、メタボリズム系の建物かと思っていた。しかしそれはどうも違っていたようだ。イメージ先行。むしろニックネーム「軍艦」の戦闘的なイメージこそが建物デザインの本質であったようである。1960年代末期の沸騰の時代が形になったと言うべきか。ガチガチの機能主義信奉のただ中にあって、時代精神を造形化することは当時にあっては異端の為せる業、冒険であったかもしれない。ただそうしたことを想像できる私のような年配者もだんだん少なくなった。そういうご時世であるようだ。
それから私にとっては映画「マルサの女」のロケ地としての記憶もある・・・。
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1971年,東京都渋谷区,設計:不詳,現存(撮影2015年)
人形劇団の歴史や信念がコンクリート打ち放しのファサードいっぱいに刻み込まれ、それらが放つ意志そのものがひとつの建築に昇華したかのようにみえる、稀有な建物かもしれない。
沿革を辿ってみると人形劇の活動は大正末期に遡り1929年に人形クラブを意味するエスペラント語“LA PUPA KLUBO”として出発、略してPUK(プーク)となり、人形劇団プークと称することになったのだそうである。創立者にして夭折した川尻東次の志を受け継ぎ、戦中戦後の苦難の道程にも活動の灯を絶やすことなく、その結実として1971年に日本初の人形劇専門劇場が誕生した。HPを拝見すれば、その活動史には自分自身も小さい頃にテレビで見た演目もある。
劇場の建物は子供たちを夢の世界へ導く入り口、「重たい」歴史を感じさせず、明るい感覚とうまくバランスしているところもさすがなのかもしれない。
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