2023.05.10 Wednesday

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    2008.06.26 Thursday

    名護市庁舎

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      1981年,沖縄県名護市,象設計集団+アトリエモビル,現存(撮影:2002年)

       これらは社員旅行で沖縄に行った際の写真。バカンス気分の同僚らを無理やり建築見学に誘ったのだが、デザインの良さと居心地の良さが相俟っていて、皆まんざらでもなく上機嫌で記念撮影。(右の赤シャツが私)
       行ってみて体感してはじめてわかる空間。とてもこれが役所という気がしない。風通しの良い、コンクリート製の「木漏れ日だけで出来たような場」が連綿と続く。象設計集団が沖縄の地域性から独自に再構築してコンペで提案した「アサギテラス」である。日射を調整する穴あきブロックの巧みなデザインも絡んでいて、どこまでが内部でどこからが外なのか境界はぼやかされて分かりにくい。というより、こういうことを気にしてはいけない。


       1970年代以降であろう。日本の建築にってのある転機、それは決して後ろ向きな高度成長期の反動ばかりではなく、地域に根をおろしそこで連綿と培われたものを肌で感じながら、人間と空間のつながりを求める姿勢が胎動した。中でも象設計集団は、彼らの師である吉阪隆正(コルビュジェのもとで働き、地球を棲家とした探検家・登山家でもある建築家)の強い影響がある。
       その系譜を遡ると、バラック装飾社を立ち上げ考現学を編み出した今和次郎にまで行き着くようだ。


                      

                       

                       




      2008.06.23 Monday

      日本万国博覧会

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        1970年,大阪府吹田市,(撮影:1970年)
        写真に見える施設等―太陽の塔:岡本太郎, お祭り広場:丹下健三, 電気通信館:電々公社建築局, 日本館:日建設計, 虹の塔:清家清, 噴水:イサム ノグチ


         これらは実家のアルバムを物色して見つけた思い出深い写真。撮影は父であり、被写体として私が写っている。
         とにかく日本中が万博一色ムードで、子供心にも何としても行ってみたかった。「一億総○○」の時代にあって乗り遅れまいとする嗅覚は、子供ほど敏感だったのかもしれない。現在からすると想像しづらい感覚かもしれないが、現実に挙行された「日本最大の村祭り」を目撃することが叶いやはり嬉しかった。人が多くて大きなパビリオンに入ることは至難であったが心の中では十分満足した。
         それにしても大勢の人がいるのにほとんど日本人。「世界の国から・・」と盛んに歌われのに、外国からの観客を見掛けなかったのは、田舎出の子供にとってはちょっと肩透かしを喰らったような気がした。
                 **
         といった、オジサン世代の懐旧談はきりがないのでここまでにしておこう。
             
         当時子供だった私にとって、この60年代末から70年代初頭にかけての、学生ら若者による異議申し立ての熱気は強く印象に残っている。そしてここ大阪万博も、テクノロジーへの信頼に裏打ちされた、過去への反逆を含んだ新しい都市像の提示であったことは間違いないだろう。
         アーキグラム、あるいはヨナ・フリードマンやセドリック・プライス、そしてチームXら当時の若い世代が示していた楽観的なテクノロジー信奉を背景として、これを下敷きとしつつ大阪の地において保守的な都市に対する既成概念の打破を試みていたフシがある。ポップカルチャーとうまくシンクロさせつつ提示されてきた上記の前衛的な計画の延長線上に磯崎新が行ったお祭り広場諸装置がある。メタボリズムの黒川紀章も「タカラ・ビューティリオン」や「東芝IHI館」などを設計した。

         しかし、この頃の空中都市的イメージ,無限定的に広がる空間システムなどは万博でお目見えして以降、ほとんどあっという間に、これらは進化すべき遠い理想などではなくまもなく、現実の都市に取り入れられたように感じられた。(駅前のペデストリアンデッキや動く歩道,スペースフレーム,あるいはカプセルホテルetc.)
         ただ技術信奉の起点にあるこのお祭りの中、唯一岡本太郎だけが、原始的、根源的な欲求で異議を唱えていた。そのシンボル「太陽の塔」によって。





        2008.06.23 Monday

        中銀カプセルタワー

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           都市を生命体であるかの如く新陳代謝するシステムであらんとした「メタボリズム」の、カプセルを最小単位として、直裁に実現した唯一の建築。(カプセルを用いないならば、丹下健三による静岡新聞・静岡放送東京支社、あるいは山梨文化会館が現存事例となろうか。)
           カプセルはまるで旅客機のシート回りのように、ハイテク情報機器を手近に身に付けてスマートに移動、あるいは状況に応じてカプセルを更新するなど、ダイナミックに変転する都市で生きる装備、・・・のはずであった。
           こうした使いこなしが想定されたのだが、現実の運用は黒川氏の意図通りだったとは言い切れない。建替えの計画が進行している中、画期的な建築であることには間違いはないところから、70年代の建物ながら保存要望も提出された。
           要望書には、現代のサステナビリティーの課題を先取りした建物とあるように、カプセルの更新をもってすれば問題は解決できそうなものだが、現実はそんなに単純ではないようだ。

           写真は、開発される以前の貨物輸送の拠点であったころの光景。

                                                 1972年,東京都中央区,黒川紀章,
                                                 現存(撮影:1982年)
          2008.06.19 Thursday

          法務省旧本館(旧・司法省庁舎)

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            1895年,東京都千代田区,ヘルマン・エンデ+ウィルヘルム・ベックマン(実施設計 河合浩蔵),現存(撮影(上):2006年現況,(右下):1981年改修前),*国指定重要文化財
             
             また表題に反して20世紀以前の建築を取り上げてしまう。 
              さて、今回は旧司法省庁舎の新・旧写真を並べた。 明治新政府の依頼を受けたドイツのエンデ&ベックマンによる、官庁集中計画案に基づく唯一の現存建物である。1994年に復原改修工事が行われ、ネオ・バロック様式の勇壮で豪華な外観を取り戻して今に至っている。この建築も、やはり外壁を残して戦災で失われたので、長らくは右のような姿であった。
             こうして比べてみると、いかに屋根のデザインが全体の雰囲気に影響するかが分かる。特に復原された屋根形などちょっと特異で興味をそそり、ドイツ人から見た東洋的デザイン―多分に異国趣味的な―が珍しくも楽しい。あるいは18世紀の宮廷建築家エルラッハのテイスト(ややタイの王宮的な)と言ったら良いのだろうか、そんなオリエンタルな雰囲気が官庁街霞ヶ関にそこはかとなく香る。


            2008.06.15 Sunday

            旧・帝国製麻ビル

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              1914(?)年,東京都中央区,辰野金吾,非現存(撮影:1982年)

               関西旅行を無事終えてここで東京日本橋に戻った、というブログ上のストーリー立てのつもりなのだが、ただし、ここに取り上げたこの辰野金吾設計の建築は実は既に無い。

               元々辰野「堅固」と評される位に、彼の建築は壁がちで無骨に偏りがちであった。地震国という日本の特性を早くから知っていたからなのかもしれない。そういう理由かどうかはともかくも辰野の建築は建物の威圧感を薄めるべく、赤レンガと横帯によるピクチャレスクと言っても良いような装いに仕立てられることが多かった。
              こうした建築が川沿いの水面に反映すれば、風景的魅力も引き立てられる。立地条件とうまく調和した点でこの建物は小さいながらも好きだった。

               写真は、学生の頃のF先生の設計課題「建築博物館」の構想を練るために、友人と町をうろついた時の記録。結局、この建築はネタにしなかったものの課題の評価はまずまずだったので、ごく個人的な理由でも思い出深いのだ。

              2008.06.15 Sunday

              岩手銀行中ノ橋支店(旧・岩手銀行本店本館)

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                1911年,岩手県盛岡市,辰野金吾,現存(撮影:1981年) *国指定重要文化財

                川に沿って美しくデザインされた建築があると、旅人にとって町全体が良い印象に映るようだ。先に紹介した盛岡の岩手県民会館の中津川を挟んで、一方でこの赤レンガ建築が目を惹いていた。
                ほとんどそれだけの理由で撮影しておいた写真だったが、辰野金吾による希少な建築として重要文化財とされ、しかも当初からの銀行の機能を継続している。やはり撮っておいてよかった。

                2008.06.13 Friday

                北野工房のまち(旧・北野小学校)

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                  1931年,兵庫県神戸市中央区,神戸市営繕課,現存(撮影:2008年)

                  関東大震災後に建てられた東京の復興小学校にも似た鉄筋コンクリートの旧小学校校舎。庇部分など表現派的な要素もある。
                  しかし特筆すべきは、この建物の場合は閉校された校舎を、手作りの工房とレトロな雰囲気とで地元の人々にとっても身近な人間の温かさがにじみだすように考えられて、再利活用されている。なんとなく佳き時代のリラックスした北野の異人館街をも彷彿とさせる。もしも家が近かったなら、自転車でフランスパンでも買いに行きたくなる気分か・・・。
                  素晴しい'95年の阪神・淡路大震災からの復興の証しと言えるのだけれど、だからと言ってそこに震災の重苦しい影は微塵も感じさせていない。
                  2008.06.09 Monday

                  兵庫県公館(旧・兵庫県庁舎)

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                    1902年,兵庫県神戸市中央区,山口半六,現存
                    (撮影時期:左―2008年現在, 右―1981年(改修前))

                    設計者山口半六は、明治政府発足まもない時期にフランスへ留学、日本の明治近代建築を最も早くから担った建築家として、特に学校建築の分野で力を発揮した。
                    しかし、彼は病を得て早世したので実施作がそれほど多くはなかったせいか、この兵庫県庁以外には旧・東京音楽学校奏楽堂など学校建築数棟位しか建物が現存していない。抜きん出た人材がその生命を懸けて国家に奉仕した時代があったのだ。
                    この旧・兵庫県庁舎は、大規模かつあまりに早い晩年の作ということになる。(設計者本人は竣工した建物を目にしていないそうだ。)
                    建物は戦災を被り、戦後長らく右写真のような屋根で県庁として機能していた。1985年に兵庫県公館として現在のような優雅なマンサード屋根(左写真)の姿を取り戻したことによって、フランス仕込みの山口半六の感性が偲ばれるようになった。

                    尚、明治の古い建築に早い段階で関心を寄せていた分離派の建築家滝沢真弓(瀧澤眞弓)(つまり我々の元祖的な存在か)は、過去にこの兵庫県庁が明治大正期の秀作として列せられないままにあり嘆いていたことを、付け加えておきたい。
                    2008.06.09 Monday

                    神戸郵船ビル(旧・日本郵船神戸支店)

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                      1918年,兵庫県神戸市中央区,曾禰中條建築事務所,現存(撮影:2008年)

                      この時期の建築らしく、柱形が多いためなのか、簡素化の流れの一歩手前のある意味「基本に忠実な」様式建築の重厚さが伝わってくる。ただ、様式建築というものがどうしても完璧さを求める手前、ドームが空襲で失われたままなのは惜しいことでもある。
                      それでもこうして見回すだけで、こうした明治近代建築第1期生の作から、由緒正しい建築がずらり目に入る神戸の壮観は、やはりすごい。
                      2008.06.09 Monday

                      商船三井ビルディング

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                        渡辺節がアメリカ視察を終えて、設計した最初の建築と言われる。
                        19世紀もほぼ終わろうとしていた頃、アメリカではアメリカン・ボザールの流れ、つまり、パリの権威ある歴史様式建築のアメリカ的解釈がなされていた。群をなして立ち並ぶ商業都市の高層建築に、ある種の華やかな活気を与える試みと言ったら良いであろうか。
                        日本においてこの影響に基づく流れは、渡辺節の建築が代表格とされるのだが、やがて村野藤吾へと受け継がれていく。
                        この商船三井ビルディングを見つつ、行ったことも無いくせに、古き良きシカゴなどのメインストリートの光景に思いを馳せたりした。

                        1922年,兵庫県神戸市中央区,
                        渡辺節,現存(撮影:2008年)
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                        収蔵庫・壱號館
                        ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
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