2023.05.10 Wednesday

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    2008.07.31 Thursday

    JR神田変電所

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      1932年,東京都千代田区,鉄道省,非現存(撮影:1991年)

       触れることさえ拒まれる電気の館。都会の掟たる無関心を守り、直ちに過ぎ去る者は良し。されど、ひとたび都市生活の禁を侵して覗き見ようと野望を企てし者には、その棲家の主たる高圧電力による、魔界の制裁が待ち受けよう・・・。

       都市の喧騒の只中のブラックボックスのようにあり続けた、やや偏執的なモダニズム建築も、いつの間にか姿を消してしまった。
      2008.07.31 Thursday

      東京市街線高架橋(大手町付近)

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        1910〜1919(?)年,東京都千代田区,鉄道局,現存(撮影:2008年)

         赤煉瓦による建築が貴重な存在となって久しい中、私達の足元で現役で活躍している建造物もある。足元だけでなく、F・バルツァーが関与したとされる有楽町から新橋にかけての重厚な煉瓦造高架下の空間は、レトロムードを漂わせる飲食店でにぎわっている。その起点の辰野金吾設計の東京駅は復元工事が進行中である。
         右の写真は、「逓信省の建築」(S8.張菅雄著)に掲載された逓信省仮庁舎の写真。
         明治40年に焼失した逓信本省庁舎を再建するまでの間、開通前の高架橋を鉄道局から借り受けて、木造ハーフティンバー付きの建屋をわずか40日の工事期間で付け足して、明治41年に竣工したことが本に記されている。こうした、とんでもないようなアイデアは、過去に帝国議会仮議事堂の再建を60日で達成した実績で名を馳せた逓信省技師吉井茂則によるもの。(これと並行して本庁舎再建も、同氏と内田四郎によって銀座木挽町の地に進められた。)
         この高架橋仮庁舎の位置は、「(後の)鉄道省のある所即ち東京市麹町区銭瓶町」と書かれているので、現在で言う丸の内オアゾから大手町2丁目にかけての高架と考えられる。
         現在では、この付近の煉瓦を用いた高架橋は切れ切れの状態だが、少なくとも明治41年(1908年)時点でアーチが姿を現した、生まれたての状態だったことが判る。
        2008.07.25 Friday

        東京女子大学 旧体育館

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          1924年,東京都杉並区,A・レーモンド,現存(撮影:2008年)

           左上は現在の内観、右上は同じく昭和2年の『建築画報』に掲載された写真。体育用具なども含めて、そのまま長年に渡って丁寧に使われてきていることが一目瞭然である。肋木もそのままのようだ。天井でコンクリートのフレームを繋ぐ鋼製のパイプは、構造上としてだけでなくロープなどの器具を吊る役目が当初からあったようだ。
           建物が良く保たれているもうひとつの理由は、耐震性への並々ならぬ意識を持っていたレーモンドのアイデアにも依るのだろう。ダブルコア的な発想をもって、両端の建屋の間を埋めるのは、頑丈なコンクリートのA型フレームの連続であった。
           さらに、柔らかな光が満たされた上沈められた、見たことも無い場所―我々が良く知る学校の体育館と違う―が創出されたのは、実はA.K.ライシャワーにとってここは「体育館兼社交場」として位置付けられたからだったのである。身体と人格の育成を一体的に目指す教育への理念がこの建築によって明らかにされている。また、旧寄宿舎(昨年全て失われた)と教官住宅をつなぐ社交場、深い意味でのコミュニケーションの要でもある。
           建物両端に位置するいくつかの小部屋は、現在では体育倉庫などとして使われているが、それぞれが暖炉を持つことで、かつては学生と教師が膝を付き合わせて語らうための談話室だったことが分かる。
           幾種類かのヴァリエーションを持つチェコ・キュビズム風暖炉は、それだけ見ても素晴しかった。ここに暖炉の火を囲む語らいの光景が、再びやって来るものと信じたい。
           もちろんレーモンドの経歴から見ても、最も初期の建築作例として今も建っている。

          2008.07.20 Sunday

          東京女子大学 ライシャワー館

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            1927年,東京都杉並区,A・レーモンド,現存(撮影:2007年)

             レーモンドにとって、日本を拠点とした最初の大きな仕事がこの東京女子大学である。1921年のマスタープランに沿ってすぐに寄宿舎,体育館,教官住宅などがすべて鉄筋コンクリートで建てられていった。教官の住宅の3軒のうち最後に建てられたのが、A.K.ライシャワーのための住宅である。
             レーモンドは師であったF.L.ライトの作風の影響から脱するのに相当苦労したと伝えられ、独立したてのうちは、ひとつの建物に様々なデザインを混在させていた。施主向けと作品発表向けの外観をひとつの建物に作ることもあったようだ。
             東京女子大キャンパスを例にとれば、チェコ・キュビズムという、絵画で言うキュビズムとも違ったチェコ独自の運動に根ざしたやや表現主義寄りのデザインが、ライト的なデザインと並存したかたちで適用されたりしているが、これとて日本の近代建築の確立に携わった建築家の生みの苦しみの歴史そのものである。その一方で、打ち放しコンクリートによる幾何学立体の構成による「霊南坂の自邸」(1924年)が建てられており、これは最初期の打ち放しコンクリートによるモダニズム住宅としてつとに知られることになった。
             自邸の後に建てられたライシャワー館は、基本的には東京女子大の統一モチーフの瓦葺きを尊重しているが、その裏手の立面は明らかに霊南坂の自邸を思わせる幾何学構成的なデザインである。また玄関上部の半円は、後期のチェコ・キュビズムとも言うべきロンド・キュビズムを思わせる。室内では、コンクリートに仕上げが施され穏健さが保たれているが、例えば開口付きの食器棚間仕切り(簡単に言えば“ハッチ”)を持つ空間など近代的な要素も加えられている。
             こうして見ていくと、レーモンドでさえもあれこれデザインの混乱を犯しつつ試行錯誤を繰り返す苦しい模索の時代があったのだ。レーモンド自身にとっても大学キャンパスの設計は自らの修行の場だったのかもしれない。さらに私個人的には、むしろこうした比較的若い頃の不完全ながら直裁に作家の生の思いが伝わってくる建築には特に惹かれる。こうした建物こそ、いつまでも拠り所としていきたい。
            2008.07.18 Friday

            東京女子大学礼拝堂・講堂

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               レーモンドがペレのランシーのノートルダム教会の影響を受け、聖路加病院で意図していた搭は、時を置いて東京女子大のキャンパス内で実現した。打ち放しコンクリートとプレキャストによるステンドグラスからは彼の執念と、コンクリートの構造体そのものを「正直に」建築に表す彼の信念が十分に伝わる。
               合唱席に上がる螺旋階段までコンクリート打ち放しなのにも驚かされた。見上げると薄くて軽快な天井はアーチ状のリブの付いたシェル状にも見える。それも戦前に建てられたのだ。重々しくなりがちな太い柱は、ここでも4本の円柱のセットに分割されるなど軽快な空間を創出している。
               前にも書いたが、この礼拝堂と背中合わせに配置された講堂を見た瞬間、群馬音楽センターのホールを思い出した。三沢浩氏の説明では、この講堂がやはり群馬のデザインの元になっていたとのことだった。

                                   
                                   1938年,東京都杉並区,A・レーモンド,現存(撮影:2008年)
              2008.07.12 Saturday

              聖路加国際病院

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                1933年,東京都中央区,J.V.W.バーガミニー,A・レーモンド+B・フォィエルシュタイン,一部保存され建替え(撮影:1981年)

                デザインが混在した不統一の牙城のような建物を初めて見た時は正直困惑した。これは設計時点での設計者交代など当時の事情がそのまま反映したまま建ったことによるのだろう。
                 さらに、ひとたび立ち上がった建物は、建設時の事情の痕跡を残したまま長い時の流れにゆだねられ、当初の姿はまた違う何かを発していたように思えた。歴史の層の積み重ねもまた建築物の辿る過程なのだろう。(開発を経た現在、少々混在ぶりは薄れてしまったが。)
                 当初の計画案は装飾の無いモダニズムにペレの教会風の塔を持つものであった。レーモンドとフォイエルシュタインのこの案はクライアント側から却下され、設計者も入れ替わり、結局(特に内部が)ゴシック的威厳を持つ建物となった。外観はパターン化された装飾とゴシック風が入り混じった点だけとってみれば、ニューヨーク摩天楼のようなアメリカン・アールデコ的な感じも匂わせる。
                 実際に立ち現在も中央に聳える塔はペレのノートルダム教会風ではなく、当初の設計で外された側だったはずのフォイエルシュタインが故郷チェコで建てていた、確かニンブルクの火葬場(だったか)などの建物と似た趣きを持っているように見えてしまうから、さらに不思議だ。
                2008.07.11 Friday

                旧・東京銀行集会所

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                  1916年,東京都千代田区,松井貴太郎(横河工務所),1993年高層化建替え(撮影:1981年)

                  あの三信ビルと同じく横河工務所の松井貴太郎の設計による、丸の内に気品を添える建築であった。皇居にもほど近い日本の玄関口に位置する建物なのだが、過去の様式建築の名手達はそうした格調の高さを求められる場所柄にも細心の注意を払って計画したはずだ。
                  現在はというと、部分保存やイメージの復元と称された上で、本質的な部分が消去された形骸が高層ビルの足元に纏わり付く看板のような姿を晒している。勿論、それでも残すことに努力を傾注した人々を非難するつもりは無いのだが、私には、再現された建物に歴史的建築への敬意のようなものがやや欠けているように見えてしまう。
                  うわべの保存でお茶を濁したと言われても仕方の無いような開発で丸の内界隈が塗り替えられようとする今の時代を、子孫の代の人々は何と評するのだろうか。
                  2008.07.07 Monday

                  東京中央郵便局

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                    1931年,東京都千代田区,吉田鉄郎(逓信省),現存(撮影:2007年)

                     去る6月30日、富山テレビ制作による番組「BBTスペシャル、平凡なるもの〜建築家吉田鉄郎物語」を見ることをメインとしたシンポジウムが開催された。番組は建築から縁遠い一般の人々にも分かる訴求力の素晴しさだけではなく、出版社ヴァスムート社やストックホルム市庁舎など、海外へ赴く丹念な取材を通した新発見を含む内容の濃さ、吉田鉄郎氏の謙虚な人柄そのもののように、控えめに、仄めかすように展開される番組に大いに唸った。
                     番組を見た後のシンポジウムも、折から発表されていた建替え案に呼応するもので、当日のレポートはこちらに譲る。

                     番組でも触れられたひとつの鍵に、吉田鉄郎がドイツ語で著した3つの著作「日本の建築」(1935),「日本の建築」(1952),「日本の庭園」(1957)の存在がある。吉田はこれらの著作に建築作品と同等の力を投入しており、文章構成やレイアウトなども含めて何度か改訂を加え、かくして西欧にとって、日本建築の本質を紹介する決定的な著作となったことが知られている。
                     今回、田所辰之助氏(日本大学准教授)からもこれらの著作の日本語翻訳出版に関わった経緯を踏まえた言及がなされたので、ごく簡単に私なりに理解したところを以下に記したい。
                     氏によれば、吉田は日本の木造の伝統的建築の中に近代建築の合理的な性質を見出している。そして、(例えば吉田は著作の中で日本の環境条件を示し生活習慣や価値観とのつながりの中で日本の住宅建築を論じたが)地域独自の条件から合理的に導き出されたシステムとして建築を捉え直すことに挑戦した、としている。尺モデュールを西洋流のオーダーになぞらえ西洋のモダニズムの建築家からも受け入れられ易く示したことも(周到ながら)その表れとして見られよう。
                     混同されがちだが、吉田は決して表面的に日本風の表現をなぞる類の建築を求めたのではなかった。彼はむしろ、原理から導かれる自働的に立ち現れるシステムを指向していたのだが、しかしながら本家西欧においてでさえも、モダニズム建築が「形態は機能に従う」の言葉のように特殊条件を変数として代入する変換式のような原理として示されてきたにもかかわらず、ヴォリュームの「構成」による完結した作品を表現する方向に傾いた観がある、といった指摘もなされた。
                     (近代建築の「英雄時代」と言われたように)作家性が競われたさ中にあって、吉田は逓信省時代の木造の局舎やその他の設計などを通して、作家個人の芸術意思をぎりぎりの線まで押し止めることで「自働的に建築が立ち上がる」システム的な建築のあり様を実践し続けた。こうして、かえって稀有な存在としての吉田鉄郎というモダニズム建築家像が浮かび上がるのであった。

                     こうした内容の充実したシンポジウムを振り返って、私は、番組の中でドイツのヴァスムート社社長をして語らしめた「現代において吉田は再び脚光を浴びるべき人物」、というコメントの意味するところがやけに気になりだした。
                    2008.07.01 Tuesday

                    検見川無線送信所

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                      1926年,千葉県千葉市,吉田鉄郎(逓信省),現存(撮影:2008年)

                       吉田鉄郎設計の検見川無線送信所が、DOCOMOMO Japanの選定建物に加わった。もう、ただの廃墟ではないのだ。
                       DOCOMOMO Japanでは重要なモダニズム建築を「100選」としたが、実は毎年約10件程度追加されてもいる。今回で「135選」になるとのこと。検見川送信所も含む10件の建物が2007年度選定分として5月の総会で会員に承認された後、いくつかの他の承認手続も済んだとのことで、昨日、兼松幹事長から公表の許しを得た。

                       今回、検見川送信所を推薦したのも実は私である。送信所については現状では廃墟にしか見えないほどの傷みようで、また東京中央郵便局のようにシンプルな矩形格子によるよく知られた吉田鉄郎の作風とも一見異なって見えるためか、選定に至る過程では首をかしげる向きも無くは無かった。(送信所でも東京中郵でも、吉田は合理性を踏まえた上で極限まで無駄をそぎ落とすように突き詰めたデザインを行った点では全く共通していると、私は考えている。)
                       しかし私は、検見川の場合、吉田鉄郎特有の行き届いたデザインの素晴しさを兼ね備えた上で、さらに他に無い価値として、国際通信を主たる目的とした「無線送信所」という新しいビルディングタイプ(=建物用途)の嚆矢たる建物であること、しかも近代技術に呼応して合理的にデザインされた最も古い現存事例であることを推薦の理由として強調した。別に思い入れだけで主張してきたわけではない。
                       こうして建物用途や建設地域、設計者などに大きな偏りが生じないよう公正かつ慎重な討議が繰り返された末に、京都会館で行われた総会で検見川送信所も選定建物として紹介されるに至った。実のところDOCOMOMOが選ぶに相応しいもっと保存状態の良い名建築は他にもまだまだある。しかしこの権威ある国際組織が、今回敢えて、DOCOMOMO憲章にもある「重要な建築物の取壊しや美的価値喪失の危機に対して警鐘を鳴らすこと」という精神を重視し、現に保存活動を行っている市民団体が存在することにも言及しつつこの建物を取り上げたことについては、DOCOMOMOとしても意義ある見識の発露であろうし、保存活動に携わる私としても嬉しくまた心強い援護射撃と受け止めた。
                      (右写真:総会でスクリーンに映写して紹介される検見川送信所)

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                      収蔵庫・壱號館
                      ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
                      分離派建築
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