2008.08.29 Friday
東京国立博物館(旧・東京帝室博物館)
1937年,東京都台東区,渡辺仁(実施設計:宮内省内匠寮),現存(撮影:2008年)
「日本趣味を基調とする東洋式」という要綱により、昭和6年に行われた立面のデザインを競うコンペの覇者渡辺仁の設計に基づいて建てられた国立博物館。それは戦後いつしか「帝冠様式」建築の代表的建築物のようにみなされるようにもなった。しかし帝冠様式そのものの議論はさておいてこの建物に限って見たとしても、これが本当にナショナリズム高揚を意図する意味で日本の伝統的な屋根を冠した建物、ましてやその代表例などと言えるのだろうか?
こんな疑問が浮かび上がったきっかけは、『建築雑誌』昭和45年1月号の掲載の、往年の建築家らが昔話を語った座談会の記事を、最近読んだことによる。記事は村松貞次郎が司会を務め、堀口捨己ら数人の戦前期に活躍した建築家が自由に裏話的な話題を語ったものでそれ自体読んでみて面白い。中でも力作を残しながら寡黙で自作を語らなかった渡辺仁に、司会者はこの機会とばかりに何度か水を向ける。帝室博物館コンペの話題で日本風の屋根について問うたところ、渡辺はやっと重い口を開いて思いがけないことを言う。このくだりの一部を以下に引用すると、
村松:「渡辺先生、何か屋根という発想は前からお考えになっていたのですか。」
渡辺:「そうでもないのです。あれはもう一つ二重に屋根が出ているでしょう。あれはジャワか、どこかあっちのほうの民族建築で、やはり屋根が急になってもう一つ屋根が出ているのです。それのタバコ入れか、何か(笑)それを真似たようなものです。」
読んで唖然とした。察するところ、ジャワ辺りの民族建築と言えば、右の写真のような屋根に特徴を持つスマトラ島ミナンカバウの伝統建築を指すものと思われる。控えめな渡辺がやや自嘲的に昔の思い出を語った部分もあろうが、確かにこの地域なら「東洋式」の屋根として発想のヒントにはなり得るし、少なくとも建物の冠にあたる屋根を具体的な国外の建築に負っていたことになりそうだ。当然ながらそれは直喩的ではなく渡辺のフィルターを通されるのだが、改めて実際の建物を見ると、やはり日本瓦葺きとしてやや反り上がった屋根端部には二重にもうひとつの屋根が突き出ている。ジャワあたりの民族建築は確かに反映されているようだ。
しかし、このように左右端部の屋根をまず決めたのならば、必然的に玄関のある正面ファサードには長大で一本調子な軒先があるだけだ。普通ならば正面中央には威厳と国家の伝統を誇示すべく堂々たる三角形の切妻形か塔がシンボリックに配されて然るべきなのに。こうして「帝冠様式」たらしめる要素は渡辺案ではあまり強調されていないにもかかわらず、それでも最優秀案となった。(現状の車寄せ庇の切妻形はコンペ案当初には無く、実施設計段階で付けられた。)
尚、このように正面が一本調子の屋根にみえるようなことになる理由は、建物を幾何学立体の構成としてとらえた上でそこに添えられた屋根形状で分節した結果なのだろう。こうした内容のモダニズム的解釈による、高い評価を伴った藤岡洋保氏の説明をどこかで聞いたことがある。
恐らくこうした建物が実現されたのも、当初のコンペの趣旨の段階からして、さほど日本の伝統誇示にこだわったものではなかったからなのだろう。このことは、宮内省雪野元吉ら実施設計者の手になる博物館内部の装飾を見ても感じられる。コンドルによるサラセン式の旧帝室博物館の名残りを継承するかのようなデザイン(様式建築における西洋の視線からすればイスラム圏も東洋の範疇内であった)、アラベスクともその日本版の唐草模様ともつかない装飾類が豪華にちりばめられ、国粋的な方向付けどころか世界に目を向けたエキゾチックなムードとして感じられる。至極単純に博物館という性格上、国内外のモチーフは問わずとにかく「東洋的な」デザインであることが重要だと語りかけてくるかのようだ。ただ同じく宮内省の手になる旧朝香宮邸(現東京都庭園美術館)を想起させる優美ささえもそこにはあった。
これまで和風屋根を載せた渡辺の案との比較で、前川國男によるモダニズムの提案が「みごと落選を果たした」ことを周囲が武勇伝の如く囃し立て過ぎた。どうもそれが災いして現建物に悪しき意味での帝冠様式の烙印が捺されたのが原因のひとつのようだが、これは同時に前川にとっても気の毒な気がする。
ただ注意深く、こうした弊害的な見方を払い除けながら建築物を見るのであれば、これからもまだまだ新たな発見がありそうだ。
2008.08.25 Monday
神奈川県立図書館・音楽堂
1954年,神奈川県横浜市,前川國男,現存(撮影:1981年)
ここで催された音楽会の時に撮った写真。これが戦後初の音楽ホール建築に相当していたことなど全く知らなかったし、またそうした古さも感じさせなかった。当時は、前川さんらしくコルビュジェ風だなといった印象を受けた。
入ってみると、その上部に位置するホールの客席スロープの形をそのまま反映した格好のホワイエの天井となっている。構造躯体をそのまま隠さず表現しようとの意思の表れか。
2008.08.25 Monday
世界平和記念聖堂
1954年,広島県広島市,村野藤吾,現存(撮影:1981年)
鉄筋コンクリート躯体をそのまま露出させ、被爆地の土砂を用いたモルタル煉瓦で壁を成すなど、構造体や素材を正直に表現する近代建築の考え方に則っている。だが、空間の質は伝統的なキリスト教聖堂を引き継いでいるように感ずる。
祈りの空間では、建築家がとやかく新奇な提案をしてみようとも、もともと普遍的とされる質のみが求められるのだろうか。
2008.08.21 Thursday
平和の塔(旧・八紘之基柱(あめつちのもとはしら))
1940年,宮崎県宮崎市,日名子実三,現存(撮影:1964年)
また親父の撮影した写真に頼ってしまうが、実見したことは間違いない。これは1964年当時、宇部に住んでいた私の家族が九州旅行を企てた際の写真ある。お坊ちゃまじみた服装で写る幼少の私の関心はまさかこの塔にあるはずが無く、近くの「埴輪のお馬さんと遊ぶ」という1点に絞られていたが、これは首尾良く達成された。そういえば、ここを起点とした東京オリンピックの聖火リレーで沸いていたような記憶もある。
またこの写真が撮られた当時は正面に「八紘一宇」の文字は見当たらない。
この塔は、朝倉文夫門下の気鋭の彫刻家として活動を始めた日名子実三による後期の作にあたる。大正15年に日名子は斉藤素厳と「構造社」を組織して、彫刻芸術をアカデミズムの閉ざされた分野から人々の生活により近い位置へと開放し、建築との融合を図るなどパブリックモニュメントなどとしての彫刻のあり方を模索する運動を興した。彫刻家の側からも近代的な視点の運動が立ち上げられていたことになる。
こうした考えに至る日名子にとってのきっかけは、関東大震災後の帝都復興創案展に出品した慰霊塔案「死の塔」,「文化炎上」のうち後者がプライズカップを獲得した辺りにあるようだ。実際にこの塔のモチーフは、彼の作風そのままに江東区の寺の無縁仏供養塔に適用されたようなのである。
さらに日名子は昭和2〜4年に訪欧し、公共芸術のレベルの高さに目覚めたが、恐らくヨーロッパ各地の記念碑なども視察したと思われる。この成果は、構造社が定期的に行った記念碑の試作に表され、例えばスポーツ振興を目的とした「運動時代」というテーマによるモニュメントなどが共同制作されている。抽象的な造形と具象的な彫像群を一体化してメッセージを発することが試みられたようだ。
紀元2600年の記念事業であった八紘之基柱の造営も、日名子にしてみれば公共性に寄与する記念碑創造の延長線上にあるものとして意欲が傾注された。その壮大さはドイツのライプチヒに建つ諸国民戦争記念碑を思わせる。(これは表現主義彫刻家フランツ・メッツナーの鎮魂への祈りを感じさせる像を伴っており、日名子もその存在は知っていたであろう。)
また、この塔には石材がもたらす威厳が欠かせない要素であり、世界各地からの寄贈が期待された。当時ベルリンに居た谷口吉郎もドイツの大理石輸送に関わっていたと語られる(『夢と魅惑の全体主義』井上章一)。塔はひとり日名子の意思のみで達成されたわけでもない。
戦意高揚のみが認められた時代、日名子に限らず芸術家にとってこの唯一の価値観への関与無しには表現が困難な時代であった。しかしイデオロギー的思考に殆んど無頓着なまま、時代の要請にはずば抜けて敏感な作者によって、公共芸術創造の才が遺憾無く発揮された究極の図像がこれなのだろう。これを純粋な抽象的造形として見た時の高揚感も、やはり天才彫刻家の成せる業のように思う。
但しこれは、戦争の現実を知らない豊かな時代に育った子供が、成人してずっと後に抱いたひとつの感想に過ぎないのだが。
2008.08.19 Tuesday
理化学研究所駒込分室(旧・理研43号館)
1940年,東京都文京区,土浦亀城,非現存(撮影:2008年)
現在「文京グリーンコート」のあるブロックは、かつては1917年設立の理化学研究所の建物群で占められていた。最先端科学の頭脳がここに結集していたと言っても過言ではない。物理学の分野では仁科芳雄の研究室から湯川秀樹らが輩出されるなど、逸話は枚挙に暇がない。また、仁科博士渾身の作のサイクロトロンもこの一画にあったが、GHQの手によって破壊され東京湾に投棄されてしまったという残念な話も残る。
終戦後、理研も財閥解体の対象となり組織としての紆余曲折を経ながらも発展を続けているが、発祥の地の駒込には1919年に建てられた旧23号館(現・日本アイソトープ協会)、旧37号館、そしてこの旧43号館の3棟の建物が残されている。理研の初期の建物の設計者として北村耕造の名が見られるが、この建物に関する限り土浦亀城の名が挙がる。建物から窺えるモダニズム感覚と、当初は円筒部にガラスブロックを大胆にあしらっていたことなどからすれば、やはり実際の設計は土浦が行っていたように思えてくる。
→旧43号館は、大河内正敏元所長の還暦を祝う記念館として建てられた。また、SD8807掲載の土浦亀城自身による設計経歴に理研大河内研究室(S13)あるいは理研計器株式会社(S14)とあるので、これらとの関連が考えられる。(080821付記)
2008.08.19 Tuesday
グラントハイツ跡付近の看板建築
1948年以降,東京都練馬区,非現存(撮影:2008年)
現在「光が丘」と称される一帯は、戦時中は陸軍成増飛行場であり、敗戦による連合国の接収以後は、広大な敷地は駐留米軍家族用の宿舎とされた。昭和23年に完成し、米国大統領の名から「グラントハイツ」と名付けられたこの区域には、勝者アメリカによる(疲弊し尽した日本にとってみれば)夢の如く優雅な生活の光景が持ち込まれ、パッチワークされていた。当時の情景は、「グラントハイツ、光が丘の歴史」というサイトで目にすることができる。
時を経て、昭和48年に全面返還されて以降はその全体が団地や公園となり、今や地形以外には当時の痕跡が窺えない程に変貌した。しかし、たったひとつ、グラントハイツ入り口付近にあった駐留米軍向けの土産物屋の看板の"FUJI”というネオン管で縁取られたロゴだけが、閉鎖されて久しいながらも占領時代の現実を示す名残りとして留められていた。また、板張りそのままの外壁は、当時の民家と時代を偲ばせつつ迫るものがあった。
2008.08.18 Monday
吾妻橋アサヒビヤホール
1931年,東京都墨田区,設計不詳,非現存(撮影:1982年)
フィリップ・スタルクの炎のオブジェで名所の感さえある現在のアサヒビール本社屋が建つ以前、そこには現在と比べれば随分と地味なビヤホールと工場があった。外観は地味でも戦後をこの界隈で過ごした下町っ子には、こちらの方が馴染み深いのではないか。
しかし、吾妻橋がアサヒビールのビヤホールとして呼ばれるようになったのは、昭和24年以後のことらしい。(最初、ここはサッポロビールの工場であった。)つまり、GHQが財閥解体の一環として発した「過度経済力集中排除法」による大日本麦酒株式会社分割がその年になされた果てに、ここが現在のアサヒビールの本拠となったいきさつがあるようだ。
2008.08.17 Sunday
本郷三丁目駅
1954年(?),東京都文京区,設計不詳,非現存(建替え済)(撮影:1992年)
地下鉄丸の内線の工事は戦中から戦後にかけて行われ、池袋−御茶ノ水間が開業にこぎ着けたのは1954年とされている。この駅舎の建築も一応この年代に倣ってはみたが、私の見る限りでは終戦前には建てられ、しばらくはそのまま未成線の駅舎の状態に置かれていたようにも思える。
コンクリートの壁の緩い丸みはなんだろう。正直言って、昭和初期までの建築に見られた表現派の残渣のようなカーブが、戦後の建築にまで引きずられたとは考えにくい。
最近、帝都の地下の謎が静かなブームを呼んだようだ。詳しい方がおられたら教えて欲しいところ。
2008.08.17 Sunday
三原橋センター
1952年,東京都中央区,土浦亀城,非現存(撮影:1992年,2008年)
GHQによる露店撤廃令を背景に建てられた、いわば戦後の混乱期の痕跡を今日に伝える貴重な建物。
晴海通りを挟んでほぼ同じモダニズムの建物が位置し、道路の下でこれらを繋ぐ位置に映画館や小店舗が立ち並ぶ(上から3枚:1992年撮影)。終戦後の三十間堀川の埋め立てに際して、既存の三原橋橋梁をそのままに、真下の川だった空間を活用するというとてつもないアイデアに沿って建物は成り立つ。
地下空間を挟んで2棟の建物が姿を見せており外装はかなり改変されたが、地下の飲食店街や映画館は今日でも昔の風情をとどめている(下1枚:2008年撮影の地下街)。
設計者土浦亀城は戦前からモダニズムの乾式住宅を多く手掛けたことで知られるが、終戦後もRC造の建物中心にいくつもの建物を設計した。
三原橋センターと同時期、上野の西郷会館(上野百貨店)の設計においても既存の地形を利用した同様の計画を行った。しかしそちらの方は最近閉鎖されてしまった。
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