2023.05.10 Wednesday

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    2008.12.28 Sunday

    エキスプレスビル

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      1930年,神奈川県横浜市中区,川崎鉄三,現存(撮影:1991年)

       横浜の建築から(4)
       日本の初期モダニズム建築のなかでも、川崎鉄三の建築はちょっと異色とみえる。ロゴのデザインのせいか、パースペクティブの効いた構図を意識したデザイン、つまり建物そのものにアール・デコ調の要素を導入しようとしていたように感じられる。

      2008.12.28 Sunday

      インペリアルビル

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         横浜の建築から(3)。
         もとは、川崎鉄三による、モダニズムのアパートメント建築だった。
         1階部分や上階のサッシュの部分など、後の改造が惜しくも魅力を半減させているようだが、本来は、美しく分節(アーティキュレイト)された建築だった。
         正面の腰壁は、水平の帯状に黒いラインとして、側面のアールを持つバルコニーにまでつながって回り込んでいたようだ。これによって、バルコニーの奥行き分までが、ひとつのまとまった透明なヴォリュームとして感じられるようになっていた。(と、私ではどうしても小難しい説明になってしまう。やはりkomichiさんのブログを見て頂いた方が早い!)
         とにかく、この巧みな造形が再現されたらさぞかし素晴らしいだろうに。
        1930年,神奈川県横浜市中区,川崎鉄三
        現存(撮影:1991年)
        2008.12.28 Sunday

        旧・警友総合病院

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          1934年,神奈川県横浜市中区,隅田建築事務所,非現存(撮影:1991年)

           横浜の建築から(2)
           円柱がある立面、平らな立面など、階ごとに異質なデザインを積み重ねた不思議な建築だった。
          「山下町48」の住所が示す通りこの隣に居留地48番館(モリソン商会)(下写真。手前の小屋に煉瓦の外壁が塗り込められ残っている)が建っていたが、このエリアの大がかりな開発により、以前のたたずまいを感ずることは難しくなっている。

          2008.12.19 Friday

          旧・横浜正金銀行(現・神奈川県立歴史博物館)

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            1904年,神奈川県横浜市中区,妻木頼黄,現存(撮影:1981年)

             横浜の建築から(1)。
             神奈川県立博物館と呼ばれていた頃の撮影。ドームは震災で焼失したものの、博物館として活用されることになった昭和39年に、忠実に復元された。
            これぞ明治の国家にふさわしき威容、との気負いと勢いを見る思いに圧倒される。
             妻木頼黄は、アメリカに留学、コーネル大学を卒業するという異色の経歴を持つが、帰国後、官僚として明治期のいくつもの建築を成した。横浜の赤レンガ倉庫、あるいは日本橋のデザインも彼による。
             また、辰野金吾と並び称せられる一方の雄でもあった。妻木は議事堂の設計を究極目標としていたのだが、実際は、公論(『我が国将来の建築様式を如何にすべきや』,明治43(1910)年)に付され、コンペの形で方向付けられて行く。国家の中心たる建築を手中にするための確執の中、彼はあえなく、大正5(1916)年病没する。
            2008.12.15 Monday

            文京区元町公園

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              1930年,東京都文京区,東京市,現存(撮影:2008年)

               何事もなかったかのように人も少なく、落ち着きを取り戻した公園に立ち寄った。
               以前から元町公園をHPに掲載していたせいか、2006年の5月頃、私は掲示板への書き込みがきっかけで公園が危機にあることを知った。そして一時期、造園学会や市民団体をはじめとした保存運動が、驚くほどの盛り上がりを見せ、TV番組(噂の!東京マガジン)でも取り上げられるほどとなった。
               帝都復興計画の中でも復興小学校は、後藤新平に託されて建築の元締めを果たした佐野利器をはじめとする、技術者達の英知の結晶だ。近隣住区ごとに不燃のRC造の小学校と小公園をセットにして配置するという、合理的で素晴しい都市計画上のアイデアが編み出されていた。造形的にも西欧のモダニズム建築以前に、ここで既に日本独自の成り行きで合理主義建築が実践されたとも取れる。だから建築界の保存への動きもまとまったものがあろうと期待していた。しかし建築学会や建築家協会から要望書が提出されたものの、どちらかと言えば、住民レベルの動きが顕著だったようにも感じられた。

               私自身も、身の程知らずというべきか、思いに駆られるがままに入会金を支払うや、いきなりDOCOMOMOの選定を願い出たりしたが、やはり果たせなかった。しかし、これに類する帝都復興時の遺構を、自分の足で探し回ったことがきっかけで、思わぬ発見に巡り合わせた。特に「川南公園」にある、天使や少女のレリーフのあるすべり台にはショックを覚えた。今でも作者を特定してみたい気持ちに駆られる。また構造社の彫刻家日名子実三の、初期の作風を湛えた作品とみて間違いなかろう犠牲者を合祀する慰霊塔にも出会った。

               公園なれば、誰でもそれぞれの憩い方が許されようというもの。私は、公園にちりばめられたデザインのうちでも表現主義的な意匠性に、やはり目が行く。いつだったか田所先生がなんとなくほのめかしておられた言葉を思い出し、公園のカスケード(水階段)を見て、ブルーノ・タウトの幻の名作、グラスハウス内部の色鮮やかな光につつまれた「水のベールが滴り落ちる階段」に思いを馳せてみたりする。
              2008.12.12 Friday

              東京大学 理学部旧1号館

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                1926年,東京都文京区,東京帝国大学営繕課 岸田日出刀,部分的に保存(撮影:2008年)

                 こちらは岸田が担当した東大キャンパスの中でもいわゆるドイツ表現主義建築らしさが表に出ている建物のひとつ。こう言う説明は手っ取り早いが、本当はちょっと安易でもある。もう少し言葉を正確に(小難しく)言えば、「1920年代前半までのドイツの表現主義的傾向の、日本における翻案」ということだろうか。「表現主義」はある時期のドイツの傾向であって、元々、そのまま建物の様式を示すような用語として適切とは言い難いはず。

                 前置きはこの位にして、私的には、ずばり当時注目されていたドイツのハンス・ペルツィッヒの計画を下敷きにしていたようだ、と言ってしまいたい。さらに岸田の設計では、半円窓の縁のひとつひとつを、外壁が回り込んだような滑らかなアールにしている。上階と下階の窓の間や壁面の凹凸部分なども、とても繊細なカーブをなしている。くまなくこのように仕上げられていると、建物全体が柔らかな皮膜に包まれているようで、ある意味で非物質的な世界を見ているようでもある。
                 タイルにも注目しよう。このイメージを成り立たせるためには、周囲と同じスクラッチタイルを用いたり、ましてや石造建築的な目地を入れてしまったら重くなる。赤っぽいタイルをただ芋目地(目地が直線に通るように)に貼っている。これはとてもスマートだ。
                 こうして、明らかに建物を軽快に見せたい、つまりモダンな建物を模索した結果であることが分かる。最上階のみ白壁で水平の庇を見せているのも、この目的のために違いない。

                 惜しくも現在では、建物の一部分が残され、左の写真のように切断面が敢えてそのまま現されている。最善とは言えないまでも、やむを得ず踏み切られた方法なのかもしれない。私個人的には、よくあるように、建て替えてしまっておざなり的にレプリカを加えたり、建物の本質を踏まえない部分的な保存をする事例よりはまだ良いのかな・・、と思うが、これはあくまで結果に対する感想。(過去の画像はこちら

                 ところで、最初に名を挙げたペルツィッヒについて言うと、彼は建築家の仕事にとどまらず、P.ヴェゲナー監督のドイツ映画『ゴーレム』でセットのデザインを担当している。1920年の作というから表現主義映画『カリガリ博士』などと同時代のサイレント作品だ。と、ここまで言っておきながら、残念なことに、私は見たことがない。一度は初公開時のペルツィッヒのセットによるフィルムで見たいが、当時は内容が内容なこともあってなのか、それは失われたようにも聞く。ユダヤ人を救うために命を得た泥人形の話しだそうだ。『大魔神』そのものではないか。映画通の方にとっては有名な話かもしれないが、ちょっと付け加えたい。

                2008.12.09 Tuesday

                東京大学 安田講堂

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                  1925年,東京都文京区,東京帝国大学営繕課 内田祥三+岸田日出刀,現存(撮影:2008年)


                   つい最近、久しぶりに東大構内を散策してみた。(久しぶり、とは言ってももちろん、元々私と縁のある大学ではない。)お目当てのひとつは安田講堂。特にその内部空間に興味があったからなのだが、やはり思った通り、外観よりもさらにストレートに時代を反映した空間、いわゆる表現主義風の趣向が強かったことを確かめた。
                   内田祥三の基本プランを基にして、「分離派世代」の2年後輩にあたる岸田日出刀が、卒業してまもなく実施設計を行ったのだから、当然かもしれない。
                   岸田は蒲原重雄と共に「ラトー」という会を作り、震災後1924年の帝都復興創案展に、右のような計画案を出品した。私には、繊細なワイヤーのオブジェらしき造形感覚が、ダイレクトに講堂の天井の照明器具に反映しているように見えた。
                   ロビー廻りの、柔らかにアールの面取りが施されたアーチは、特に印象的だった。
                   外部も、ちょっとした擁壁腰壁が復興橋梁の欄干のような幾何学的デザインで面白い。ファサードを改めて見ると、重厚なゴシック風を基調とするキャンパス全体との調和を損ねずに、しかしよく見ると、重苦しい様式性は薄められていている。開口部のリズミカルな構成など、モダンなセンスも入っているようだ。 あるいは、同胞蒲原重雄の旧小菅刑務所と、感覚的に共有するところがあるようにも思えた。

                   帝大営繕課という組織体の制約に順応しつつも、ただそれだけに甘んぜず、岸田の信ずる新しい時代感覚を組み入れた、その手腕に思いを馳せたひと時だった。

                          

                        

                  2008.12.06 Saturday

                  検見川送信所の木製大型アーチ窓

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                     検見川送信所に関する動きが11月後半に相次いだ。そのいずれにも、私は都合で立ち会うことはできなかったが、特筆すべき進展として記したい。鉄の扉で封鎖され確認できなかった部分が見え出した。
                     最初の動きは11月19日、千葉市が保有する図面資料(市に移管された後作成されたと思われる現況図など)が開示された。
                     もうひとつの動きは、11月26日のJIAによる建物内外部の見学会。この模様はHP「検見川送信所を知る会」に掲載されている。JIA千葉の安達文宏氏の詳しい報告もある。
                     内部は、いくつものパラボラアーチ状の下がり壁があり、どれも端部を左官仕事の完璧な鏝さばきでアール状に仕上げられている。少ないデザイン要素を用いてデザインの端々にまで気を配る吉田鉄郎らしさが、ビデオからも十分に伝わってくる。

                     図面によれば送信所の北側最奥部には、機械室と称された大きな吹抜け空間があった。そこには1〜2階を通して連続した、長くて大きなアーチ付の窓が二つあった。見学会の写真では吹抜けではなくなっているが、後になって2階部分に床が張られたとのこと。元々大きな窓なので、木枠は今もしっかりしているように見える。
                     私は、この大きな窓については特に興味をそそられるので、これに関連して少々書いてみたい。というのも、吉田鉄郎や分離派の山田守らが逓信省営繕課に入省して、まだ年月も浅い頃の、省内の有名な逸話を思い起こさせるからである。(下2枚は、1992年頃の大型アーチ窓の状況)
                              

                      大正10年前後、当時の逓信省営繕課内部はてんやわんやの状態だった。主に電話事業の大幅拡張、あるいは無線通信など新技術の導入による局舎建設需要の増大などに効率的な対応を図るために、和田信夫係長は建築仕様やデザインの標準規格化を進めていた。これは、和田自身にとっても自身の業績をにらんだ大仕事と受止めていたフシがある。
                     そこへきて、東京中央電信局の設計を任された若き山田守は、例のパラボラアーチを載せたカーテンウォールのある素案を上司の和田係長に提出した(「あるオフィスビルディングの草案」)。標準規格デザインを大きく外れた案に対して和田は憤慨、一説には「もうひとつ、まじめな案を。」と山田にやり直しを命じるも、山田もカチンと来て「私に二案など無い!」とばかりに、辞表を懐にしつつ上司を相手に大太刀回りを演じた、という騒動が伝わっている。結局、さらに上席の内田四郎課長の裁定を仰ぐことになり、カーテンウォールは却下されて通常の窓とされたことなど以外は、山田守の原案通りに進めることで、事は一応丸く収まった。ただ、和田係長は、「もう二度と分離派の奴は採らん。」と、こぼしたそうだが・・・。かくして震災後の1925年に、逓信省の手によって分離派建築の金字塔が竣工してしまった。(*1)
                            
                     ちなみに「カーテンウォール」は、モダニズム建築普及以降、今日ではビル建築でよく目にするものだが、大正中期頃はまだ、技術的には確立されていなかったようであり、殆んどみられない。

                     さて、山田と机を並べる吉田鉄郎にとって、この一件を知らぬはずが無かろうし、吉田は、山田とは対照的な造形指向を持ちつつも、進取の方向性で意気投合する間柄だった。両人とも、和田係長が推進する標準化をすり抜けるための手練手管を弄することに苦心していたようだ。
                     簡単に言うと、縦長窓を規則的に並べるのが特に震災以後の標準デザイン局舎の基本のようで、吉田の場合、窓の縁にアールを取り入れたり窓の棧にこだわる、雨樋にこだわる、など細かいところで自分の個性を発揮していたようだ。 また、今回の送信所見学会では、内部の方がよくデザインされている印象を受けたと聞く。これは想像に過ぎないが、内部の立面を示す展開図などの図面は(当時のこと)作成せずに、つまり計画段階で、手間のかかるデザインを出来るだけ表に見せずに上司の承認をさっさと得て、現場での指示の機会も活用して内部のアーチなどを造形した可能性も、考えられなくはない。
                     さらに、東京中央電信局とは用途的にも一体の関係を持つ検見川送信所の設計を担当することになった吉田鉄郎は、同僚山田が成し得なかった、あの「パラボラアーチ付カーテンウォール」を送信所の吹抜けの窓でなんとか実現しようとしたのではないか・・・、という想像が私の中を去来する。もちろん吉田自身の個性も注ぎ込みつつ。

                     よく見ると、検見川送信所のこの二つの大きな窓の頂部は、なぜか平らだ。しかし意図的にデザインされたに違いない。
                     これも私の個人的な見方だが、オランダ アムステルダム派の建築に見られるような煉瓦造に木枠の繊細な棧を持つ建物、とりわけデ・クラークの「エイヘンハールトの集合住宅」のような、バリエーションに富んだ窓のことを吉田は、しっかりと勉強していた可能性が考えられる。 あるいは、オランダ、コートワイクの送信所背面のパラボラアーチの大窓のことも知っていたかも知れない。

                     「デザインにはトラ(虎の巻)がある」と言い、先例の研究を怠らず自らの作品に昇華させた吉田鉄郎のこと、窓ひとつ観察してみても、彼の信条を裏付けているように思えてならない。

                     (*1)参考書籍:『建築家 山田守』,『建築記録/東京中央電信局』座談会 など


                       《次のシンポジウムが、企画準備中です。近々公表できると思いますのでお楽しみに。》

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                    ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
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