2023.05.10 Wednesday

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    2009.02.28 Saturday

    越後屋ビル(まぐさ飾り部分)

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      1931年,東京都中央区,小川千之助,非現存(撮影:1992年)

       
       街路の壁面線に調和したファサードに、彫りの深い四角い窓が穿たれた、割とシンプルな外壁面は奇をてらわずとも上品だった。そこへきてちょっと華やかな最上階に目をやれば、コントラストの表現の巧さに感心したものだ。
       それぞれの窓の上部材、つまり「窓まぐさ」の位置に施されたアールデコ装飾も細やかで、よく見なければ分からないようなところに、丹念な細工を施す辺り、これが古き日本人の「粋」というものかな、などと思ったりもした。
       斜め向いの伊東屋に買い物に行くたびに、しげしげと眺めては楽しんでいたのだが、いつのまにか、そんな私の密かな楽しみも奪われてしまった。

      2009.02.23 Monday

      大宮准看護学校

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        1951年(?),埼玉県さいたま市,設計不詳,解体済(撮影:2009年)

         仕事の関係で、時々横目で見ながら通り過ぎていた。一度気になってしまったら、もう後の祭りで、わざわざ出掛けて撮影する破目になった。たぶん、この性分は直りそうもない。
         大宮東中学校の敷地の一部にありながら今も准看護学校として現役の建物は、行って間近に眺めると、私的には大当たり。山里の古きよき戦前の木造校舎とはまた別の、木造でありつつモダンな造形感覚がちらほら漂う、なかなか見ごたえのある建物だった。
         こうして元中学校校舎であったとの前提に立ち沿革を調べると、新制の中学校として昭和22年に創設され、校舎は昭和26年に新築とあるので、この建物が終戦後の早い時期の木造建築である可能性が高そうだ。(冒頭の年代もこれによる)恐らくは、戦後の教育基本法制定直後における校舎建築の典型であろう、と察せられる。
         とは言え、私個人にとって、そう滅多に出会えるものではない建物との直感がまだまだ先に立ち、データ不足は否めない。情報をお持ちの方があれば、教えて頂きたいところ。

         建物のモダンな感覚は、幾何学形状への還元を指向した屋根形や水平に近い庇に表れているが、特に圧巻だったのはカーテンウォール状の木造大型窓だった。それに外装も、塗り壁と羽目板貼りの外壁が交互に繰り返されてリズムをなしている。もしも、往時には木部が明るい色で塗装されていたならば、軽快で楽しげなデザインだっただろう。
         ところで、終戦直後の大変ひっ迫した時期に、建築家によって、無駄を極限まで省いた洗練された建築が生み出されていたことは、ある程度知られている。また日土小学校のような木造モダニズム建築の名作も生まれた。しかし、この時期の現存する建築は、とても数少ない。
         特に都市部においては、終戦前後あるいは昭和20年代の早い時期の建物は、典型的な建物まで拡大して注視する必要があると、最近特に感じている。もし、この校舎がそうした時期の建築と確定されたなら、奇跡的なことになるのだろう。
            

        2009.02.15 Sunday

        検見川送信所シンポジウム@さや堂

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           2月14日、千葉市美術館講堂で行われたシンポジウムは、「指定文化財」か「登録文化財」かを論点として展開され、こうしたテーマに、あるいは奇異に感じられた方も多かったかも知れない。ただ、こうなったことには、ちょっとしたいきさつがある。
           千葉建築家協会では、昨年7月に、検見川送信所を「千葉市指定文化財」に指定することを千葉市に要望し、書面を提出していた。意図とするところは、所有する市が責任をもって建物の保存、活用に最大限の努力を払うことにあり、この唯一無二の貴重な建物については、安易に流され、気付いた時には残らないに等しいような、うわべだけの保存に行き着いてしまうことだけは絶対に避けなければならない、との考えに基づくのだった。もちろん、建物は十分生かして後世に伝える前提の上でのことである。
           しかし、その後の経過では、案の定、市としての、ほとんどどうにでも融通が利く国登録文化財への登録で済ませたいとする考え方が漏れ伝わる。千葉市指定文化財に指定したら「釘1本さえ打てなくなる」という理屈らしい。
           そこで、このシンポジウムの場で識者の見解を仰ぐことになった。ただ、答えは明らかで、元文化庁主任文化財調査官であった堀勇良氏によれば、国指定の文化財ですら建物に「釘1本打てない」などナンセンスな話というか、ありえない。そのような捉えられ方自体「心外」と、あっさり斬り捨てる。所定の手続きを踏めば、迅速な建物の修理なども可能とのこと。

           問題の本質は、きちんとした調査を行い、様々な面からの検討を尽くした上で将来に伝えるために、広い敷地全体を視野に入れた計画を入念に立て遂行する、そうした保存活用主体の自覚の醸成に尽きるようだ。この日は同時に、地域住民レベルでのコンセンサス形成も、まだまだこれからの段階であることも浮き彫りとなった。(もしこれらが達成されるならば、「文化財がどうの」という議論が、むしろどうでも良いことは、実は、皆、承知している。)
           ちなみに他方、国指定重文に値する吉田鉄郎の代表作ですら、所有者の姿勢次第であっさり壊されてしまう昨今なのだ。
           シンポには聴衆として、DOCOMOMO Japanから兼松幹事長も参加、送信所がDOCOMOMO選選定に至った件に触れる中で、日本唯一の、モダニズム建築としての送信所を宝物とし、「どんなことがあっても守っていく」というベース、確固たる基本姿勢の必要性を強く訴えた。

           
           ところで、私はシンポジウム当日の午前中、送信所に立ち寄った。外装仕上げのモルタルの剥落が進んでいるように感じた。しかし、この洗い出し仕上げの微妙な曲面は、送信所の命でもあり、一度失ったら、まず再現は不可能であろう。現在は、浮いたモルタルの剥落を食い止める様々な技術も開発されており、早急かつ適切な対処が必要であろうと感じた。また裏を返して言えば、対処さえすれば建物の保護と同時に、人への危険性も抑えられるということ。仮にこの先「立ち入り禁止」の看板を作る予算が行政サイドにあるのなら、その前に考えて欲しいところ。
           立ち寄ったもうひとつの目的は、コーナーのアール形状を実測するためだった。ある吉田鉄郎研究家によるならば、タイル貼りの建物の役物タイルのかどの先端の形にまで、吉田は細かくこだわっていたとのこと。そうした話を聞いた折、「水かきのような」との形容の仕方に、私はどういうことだか分からず、少なくとも真円ではないようなら、例えばパラボラ形なのか?などとも想像したりした。そんな疑問を払拭する手掛かりを得るために、また送信所のコーナーについても特殊なアールが指示されていた可能性を感じたため、建物を傷めずに数箇所のアール形状を採取することを思い立った。
           曲面を計測するための写真のような手製の器具は、主に100均で揃えた材料による。(竹串,ストロー)。この器具のヒントは、もちろん昨年の村野藤吾展。そこで展示されていた、村野がスタディした粘土模型を測るために所員が作った道具である。
           測定結果のお伝えは、まだ先になりそう。

          2009.02.12 Thursday

          旧・社会保険庁業務課庁舎

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            1957年,東京都杉並区,山田守,非現存(建て替え済)(撮影:1991年)

             山田守による建築をもうひとつ、この建物も以前掲載したが、別アングルからの画像をここに貼り込んでみる。
             山田は病院建築に限らず、外装タイルに、好んで厚い施釉を施したようだ。こうした事務所建築においても、周囲の陰影が映り込ほどの光沢具合が、お分かり頂けよう。本当に「衛生陶器」のような表面だった。
             おそらく、旧東京逓信病院のタイルは白色だったとのことだが、やはりこのように光っていたであろう。

            2009.02.10 Tuesday

            旧・東京厚生年金病院

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              1953年,東京都新宿区,山田守,非現存(建て替え済)(撮影:1991年)


               建て替え工事が進む中で撮影した画像である。既にY字形の平面が部分的にしか残っていなかったので、細部の状況と道路を隔てて建てられていた増築棟階段室の写真を中心に撮ったものである。

               逓信省勤めの頃から、山田は外装一面をタイル貼りとすることが多かった。白いタイルの東京中央電信局をはじめ、スクラッチタイルの千住電話事務室,黒いモザイクタイルをトップに用いた天下茶屋局など、好みのタイルの色柄はいくつかあったようで、どんな曲面にも使用した。
               山田が戦前に設計した東京逓信病院のタイルは虹彩現象を呈していた、とする某氏の説もある。しかしこれがタイルのトラブルなのか、山田が意図的にラスター釉のようなものを狙ったのかは、現物のかけらでも見てみない限り簡単に判断することはできない。
               実質的に戦後初の作品と言われる、この東京厚生年金病院の、船のデッキのようなバルコニーの裏にまで貼り詰められたタイルは、約5cm角で淡緑色がかったモザイクタイルであった。
               淡緑色といえば、かつて手術室などで血液の補色との理由で用いられた彩色だった。また、白い箱と言われた初期モダニズム建築も、実際には淡緑色などを加えて、全体に落ち着きが与えられた。モノクロ写真への写りも良いらしい。東京厚生年金病院のタイルには、滑らかかつ衛生的な落ち着きが意図されていたようである。
                   
                   

               山田は、昭和初期の最後の分離派展(第七回,昭和3年)において、次のような散文調の小論を寄せた。
                 私の建築には円滑なる曲面が欲しい。
                   触空間の美はここに生命を見出す(・・中略・・)
                 私の建築には円滑なる曲面が欲しい。
                   形態の耐久性はここに生命を見出す(・・中略・・)
                 私の建築には円滑なる曲面が欲しい。
                   そこに衛生的な形態を私は見出す(・・中略・・)
                 そこに必要に生きたる曲面が現れ
                   そこに衛生的なる建築が生れる。

               こうした山田の、滑らか曲面への偏愛は、タイルの使用をもって実現した。
               しかし、モダニズム勃興期において、すぐに谷口吉郎の『分離派批判』(昭和3年)の中で、無意味な曲面の乱用への嫌悪感が示された。そして、戦後に至って、丹下健三によってもまた、初期モダニズムを衛生陶器と揶揄した批判の矛先は、上のような論旨を含む、逓信病院など山田の作品に向けられていた。
                   
                   
                   

               山田のような個性は、長いこと合理主義の建築に逆行するものとみなされ、特に戦後は(京都タワーのように)伝統的な趣味からも敬遠され孤立状態に陥ったように見える。しかし、見方を変えるなら、後に訪れる個人の観念を尊重する1980年代以降の傾向を先取りしていたのではないか、もっと簡単に言ってしまえばいわゆるポストモダン建築の先取りだったのではないか、とも思える。


               
              2009.02.08 Sunday

              フェスティバルホール

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                1958年,大阪府大阪市北区,竹中工務店,非現存(撮影:2008年)

                 中之島に位置し、新朝日ビルに接続して建っているためか、戦後大阪の音楽文化を率いる殿堂であったにもかかわらず、外観ははっきり言って、地味そのもの。土佐堀に面した外壁のレリーフだけが辛うじてサインとなっている。
                 このレリーフは、ギリシャ神話を題材にしているとのこと。笛を吹くのは牧神パン、竪琴を奏でるのはアポロンだろうか、はたまたオルフェウスか。信楽焼のレリーフには、忘れ難い愛らしい味がある。一体誰がデザインしたのだろう。
                 しかし、中之島地区の再開発に伴い、このホールにおける演奏会は昨年末をもって幕、建替えの予定となっている。この再開発には、モダニズム建築の名作、朝日ビルなども含まれており気掛かりだ。
                 音楽は、そのとき限りの一期一会が本質の芸術。その正面に据えられた信楽焼の灰釉の妙も一度きりのもの。建物についてはどうか。壊してしまえば、年月の堆積がおり成す雰囲気と渾然一体の音響は、二度と戻ってこない。本質的にやり直しは通用しない。それに、安易な滅びの美学が通用しては、音楽を守ることさえできない。
                2009.02.03 Tuesday

                仁丹塔

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                   まだ事情も知らなかった頃、浅草十二階凌雲閣の亡霊に出喰わしたようで、とても驚いた。塔の内部は空想を誘い、ちょっと猟奇めいた小説の空間設定には格好かも知れない。
                   ここが森下仁丹の広告塔になったのは、1932(昭和7)年のことらしいので、恐らく下の建物はその当時のものであろう。この凌雲閣を模した広告塔となったのは戦後の1954(昭和29)年、そして1986年に解体されたそうだ。上の写真を撮ったのは1982年頃。今はすっかり変わっている。
                   看板が建築を凌駕しながら都市景観が形成されることは昔からあったが、これもその典型であろう。

                   ところで、目に見えない力の作用によって景観が変貌する例は、昨今では、日本の玄関口たる丸の内近辺でさえ感じられる。あちらこちらで、超高層の建物本体に貼りつくように、旧来の低層の建築の外皮が残されている。(右:公開されたJPタワーのパース)
                   この高度な技術を用いた看板じみた方法が、歴史の継承のためにどの程度寄与するものと考えていたのか、疑問である、・・・と、未来の建築史の教科書に書かれるのだろうか。
                   なりふり構わぬ欲望装置としての都市に対抗するには、21世紀初頭の日本人の、人間が本来備える歴史や文化を欲する心は物の数ではなく、少数派の努力こそ認められつつも、制御機能を果たすには至らなかった、・・・と、後の世から、通り一遍の論評を加えられるのも癪な気がする。




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                  ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
                  分離派建築
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