朝倉彫塑館
1935年,朝倉文夫,東京都台東区,現存(撮影:2009年)
4月から、数年に渡る保存修復工事のため全面休館に入るとのことなので、急いで見に行った。堆積した歴史の皺など、もしや見納めになってしまうのでは、という不安に駆られつつ。
朝倉文夫は、言うまでも無く明治から昭和初期にかけて、抜きん出た力量を発揮した彫刻界の権威であり教育者でもあった。教育の場が朝倉彫塑塾であり、朝倉彫塑館と名を変え現在に至る。
住居,アトリエ,彫塑塾からなる増築群は、朝倉自身の設計で今日の姿になったとされるのだが、造形の天才の手にかかると、建物も彫刻も庭園などそれぞれが高いレベルで全体がひとつに融合した作品となってしまう。いつまで見ていても目を飽きさせない濃密さがある。
***
まず、私のように建築を見る眼差しで言えば、打ち放しコンクリートにコールタールが全面に塗りたくられたという外装に、しょっぱなしびれさせられる。もちろん古めかしい装飾など無く、モダンな造形感覚が息づいている。
大きなアトリエだった内部空間は、大きなアールを取り入れた構成が強調されており、邪魔な見え掛りを消す細かな心遣い、例えば、窓枠が目立たぬように枠を斜めに削ったようなディテールの工夫がこの時期に採られていたのには驚いた。
伝統的な木造の古いアトリエからこうしたモダンなコンクリートの空間までが違和感無く連続しているのだが、その訳は、恐らく木造和風住宅の、素材の特徴を活かした組み合わせの妙を、バウハウス的な即物的造形性で捉え返したからなのだろう。見たことも無いような様々な表面デザインが次々に目に入る。例えば「朝陽の間」の天井には神代杉がふんだんに使われていたけれども、それは素材感の組み合わせの上でのことで、贅を尽くすことだけが本来の目的ではなかったに違いない。
建物群の全体構成は、立体的で奇想に満ちている。高いアトリエ空間の上に広い和室が載っており、そのまた上には、樹木生い茂り彫刻が置かれた大地としての屋上庭園が広がる。地中深くに目を転ずれば、彫刻制作用の昇降ピットがあり、また地下水は噴泉となって「五典の水庭」を濡らす。
昭和期のアトリエから、この庭をはさんで、初期の大正期のアトリエの屋根に載る女性像を彼方に望む。水平の視線には、時間軸が埋め込まれている。
***
彫刻と建築の融合する世界を、保守的立場となったはずの朝倉文夫自身が達成していたことについては、彫刻の歴史の皮肉のような気がした。(もちろん、ウィーン分離派の情報が広範に知られていたであろうとしても)
朝倉文夫彫刻作品の惚れ惚れする位の生き生きとした写実は、大正期半ば以降ともなると、権威のように覆い被さるリアリズム(ロダニズムとも称される)として人道主義的な空気を伴いつつ、西欧近代の潮流に敏感な若い才能の上にものしかかった。朝倉塾の塾頭であった日名子実三は、大正15年、朝倉と袂を分かち「構造社」を結成、齋藤素巌と共に新たな彫刻芸術運動を開始した。その目的は、都市における公共的な彫刻の役割を見据え、建築と彫刻の融合を図ることであり、建築的モニュメントに彫刻を組み合わせる試行が繰り返された。まるで朝倉彫塑館のように。
また、大正5年に朝倉門下となった荻島安二も、表現主義的な作風を経るや朝倉氏との関係から遠のき、いつしかマネキン人形を新たな立体造形の創造分野として切り拓き、都市生活の中に植えつけた。また、カフェーのデザインをいくつも手掛け、自作彫刻を調度品として据えた。
そうした、近代の彫刻家達も、始めはあの女性像の下の初期アトリエで学んでいた。 朝倉彫塑館とは、彫刻の歴史そのものまで飲み込んだ作品なのだろうか。
旧・草加小学校(現・草加市立歴史民族資料館)
1926年,埼玉県草加市,大川勇,現存(撮影:2009年)
埼玉県としては初の鉄筋コンクリート造(RC造)小学校校舎。もし関東大震災復興期の不燃・耐震の小学校として見るならば、時期的に東京都内の震災復興小学校の埼玉バージョンに匹敵する、県内唯一の事例であった。しかし同学校の沿革によれば、建て替えのきっかけは、大正14年の火災とされている。(他の、現存する復興小学校のいくつかはこちら)
私も近所に住むので、これまで何度も通りすがりに校舎を見ているものの、質実というか随分と控えめなデザインだな位に思っていた。ところが、折りしも、先日まで開催されていた設計者大川勇の展覧会が、私の「灯台下暗し状態」を目覚めさせてくれた。
展覧会資料によれば、大川勇は草加の出身で早稲田大学を大正7年に卒業、同期生には村野藤吾がいたとのことで、まず身近に感じることができた。そして彼の卒業計画案は、ゼツェッション風の様式簡略形のデザインであった。これと草加小学校を見比べて私が感じたことを言うと、大川氏は表層のデザインよりもRC造という新技術への希望と、そこに求められた堅牢さを直裁に表現することに最大の関心を注いでいたように思えるのだった。彼が育った大正という時代性―佐野利器による構造強固さと実利性を重んずる、ある独特の合理主義が喧伝された時代―その意気込みを思い起こした時、合点がいった。
郷土史的な観点から見ると、大川家は、江戸時代初期慶長年間に草加宿を切り拓いた大川図書(ずしょ)ゆかりの家柄として今日までつながる。設計者大川勇もその家柄のひとつに属し、居宅であった江戸末期建立の屋敷は、2度ほど明治天皇行在所(あんざいしょ)となった。その屋敷は、惜しいことに十数年前に解体されていた。
大川家屋敷の復元模型が、この旧草加小学校に常設展示されている。模型の制作は草加市内在住で、法隆寺研究を行っていた堀内仁之氏の手による。また模型作りを手伝ったお嬢さんも近代建築史の道を歩んでおられる。実のところ、昨日、その彼女とひょんなところで会った際に大川家屋敷のことを教わり、こうした記事を書くに至ったのである。
シンポジウム開催のお知らせ、2件
ちょっと急ですが、シンポジウムの開催が予定されていますので、簡単に概要をお知らせいたします。
*****
●公開シンポジウム「東京女子大旧体育館の解体を再考する」
【日時】 2009年3月14日(土)
13時30分〜16時30分
【会場】 東京女子大学13号館(旧体育館)
(杉並区善福寺2-6-1)
【連絡先】 東京女子大学哲学研究室
(直通tel.03-5382-6324),
旧体育館シンポジウム実行委員会(担当・森)
右写真:旧体育館(撮影2008年4月)
*****
●緊急シンポジウム「東京・大阪中央郵便局の文化財的価値」
【主催】 日本建築学会 建築計画委員会
【日時】 2009年3月22日(日)
13:00〜18:00
【会場】 建築会館ホール
(東京都港区芝5-26-20)
【資料代】500円
【問合せ】日本建築学会事務局研究事業グル
ープ 森田(tel.03-3456-2057)
尚、3月11日付けで、日本建築学会より両中央郵便局の歴史的価値に関して、以下のような声明が出されております。
「東京中央郵便局庁舎、大阪中央郵便局庁舎には、国指定の重要文化財の水準をはるかに超える価値がある」
(詳細は、建築学会HPのこちら)
右上写真:東京中央郵便局南側(撮影:2009年3月8日 (解体中断後))
右下写真:大阪中央郵便局(撮影:2008年5月9日)
旧・帝国ホテル
今、東京中央郵便局の行く末が大きな話題となっているが、ここで、近代建築の保存をめぐった議論が国全体の広がりに及んだ最初の例として、帝国ホテルの件に目を向けてみたい。先例をおさらいする意味で、かいつまんで取り上げてみる。(念のためことわっておくけれど、東京中郵について、このような移設を勧めているわけでは、毛頭無い。)
*
原竣工:1923年,原所在:東京都千代田区,F.L.ライト,明治村に部分移設保存(撮影:1981年)
旧・帝国ホテルの建て替え問題は、F.L.ライトの傑作にもかかわらず、老朽化と東京の一等地に位置していることなどを理由とした高層化計画の発表が、突然なされたことを発端とする。
建て替え計画は、発表前から秘密裏に進められていた。発表後まもなく、「帝国ホテルを守る会」が組織され、保存を模索することになったが、その際も、国や都の協力にとっては文化財指定が鍵となり、その調査検討を進める時間は無いに等しかった。(勿論、今日のような近代建築への文化財指定の尺度も未整備であった。)
一方、海外からの保存要望書は、ライト夫人来日時点には1000通に達していた。さらに、保存に向けて内外からの多額の資金提供などの申し出も複数あった。しかし、確認申請が完了するなど、保存の願いは瀬戸際に追い込まれるに至り、国会請願署名が15,000名を超える状況ともなっていた。
結末は、当時の佐藤栄作首相が、渡米中の記者会見の場で建物の価値を認め、保存への努力の意思を示したものの、帰国後の記者会見において、ぽろりと「明治村移設発言」を行なったことで、万事決してしまった感がある。部分保存を考慮した解体工事が、そのほぼ2週間後に開始された。
帝国ホテルの明治村への移設は、正面玄関部分にとどまったが、それでも完了は1985年までかかり、その蔭で多大な努力が費やされたことは、評価せねばならないだろう。
ただ、これらの写真は、工事途中段階の1981年撮影のもの。そのせいかどうか、私にとっては、往時のホテルを訪れた先輩方の話から想像されるライト空間の感動は、あまり得られなかった。
また、世界的な近代建築の巨匠による傑作も、こうして一部分が再現された状態では、登録文化財としての扱いにとどまっているに過ぎない。
*
帝国ホテルの問題から40年以上の年月が流れた。しかし、その教訓は活かされているだろうか。文化に対する意識について、特に疑問な気がする。
現在の東京中央郵便局の件に目を移すと、建て替えを推進する側は、かなり以前からあった文化財としての調査検討の要望をことごとく封じ、保存への要望を耳を塞ぎ続けてきた。かねてよりの「歴史検討委員会」の有識者全員の全面保存を求める意見を反故にして計画を押し通した。その結果、今般のぎりぎりの段階での騒ぎを招くことになったというのが、事の真相である。真の責任の所在や如何?。
また、帝国ホテルの件では、それでも解体着手は確認申請完了まで待たれた。中郵では、確認申請はこれからという段階から、まるで「壊した者勝ち」と言わんがばかりの「爆弾が命中したような」破壊がなされ、応急の保全策とも思えないような新設された耐震壁の映像までもが、目に飛び込んでくる。これが、あるべき正しいプロセスと言えるのだろうか。
経済活動が大切なのは当然のこと。しかし、ここまで成り下がってよいものだろうか、と問いたい気がする。私も、最低限、日本人として文化に対するプライドを持って生きていけるようになりたいのだが・・・。
鳩山総務大臣へエールを送りたい方は、こちらから、とのこと。(「郵政事業」欄にチェック
を入れてご意見を)
注:この記事の帝国ホテルの経緯の記述は、大方、「帝国ホテル旧館の保存問題と保存運動の経過」
(桐敷真次郎,『建築雑誌』1968.5)の情報に負っています。
東京中央郵便局(南外観)
吉田鉄郎の建築の正面はどこか、と問われると困ってしまう。玄関口は当然のこととして、普通は陰で見えなくなるような立面であろうと、どのアングルから眺めても美しく見えるように作られているからだ。
中郵では、建物を一周する間に、いくつかの左右対称にデザインされたパターンが組み合わされているところにデザインの妙味がある。バックヤードにあたる南面でも、両端に外階段を有しながら、きっちりと左右対称をなしていて、荷捌き口の上部には、端から端までの大きな庇が人々の作業を助ける。この大庇には、同僚の山田守も魅せられたようだ。
さらに細部を見れば、かどの部分は様々な径で丸いアールが施されている。その都度、きめ細かなデザイン処理を行うのが吉田鉄郎建築の真骨頂であり、必ずしも四角ばった建物ありきではなかったことが、よく分かる。出来れば、じっくり南側の外観を味わいたいものだ、と思っていた。
3月2日の鳩山総務大臣の視察の映像にはショックを受けた。特に南側を主とした部分が、いつのまにか随分と撤去されてしまっていたではないか。
私の知る限り、現段階はアスベスト除去作業中のはずであり、着工までの諸手続きがすべて終了したようには聞いていない。しかし、耐震壁が新設されるなど、実質的な工事に着手してしまっていたようだ。これはおかしいし、大変なことだ。工事を受注した側も文化財問題を抱えることは承知していたはずで、慎重な対応をとるべきであったと思うのだが・・・。
ここ数日の堰を切ったようなマスコミ報道では、鳩山大臣の言う、国辱的な暴挙をとがめる発言を取り上げる一方で、政治パフォーマンスとしてあげつらい片付けようとの空気も無くはない。しかし、事は一時のニュースショーネタとして、矮小化されて済まされる問題ではないことを、覚えておかねばならない。
もちろん、重要文化財級の建物であることは以前から皆周知のことのはずであり、何を今更、という思いは確かにある。しかし、事ここに及んで、知らぬ間に解体工事が進められてしまった以上、これを一旦食い止める緊急避難的な措置として、ここで鳩山大臣が立ち上がって声を発したもの、と理解したい。奇跡が起きたようですらあり、大臣には最大限の賛辞を贈りたい。ただ、これで解決したわけではなく、どうあるべきかの問いが、今、私達に投げかけられている。(総務省では、(「郵政事業」の項目にチェックを入れた上)、意見を求めています。)
報道の中でも、特に一般になかなか分かりづらかろうところは、この建物が重要文化財級で、それが「モダニズム建築の代表作」による、という点かもしれない。
適切な喩えではないだろうけれど、デザインについて、私流に美人に喩えて言うならば、アクセサリーとお化粧で飾り立てた美人とは対照的に、徹底して贅肉をそぎ落とした末の、素の状態の均整のとれた美しさだけで勝負する美人が「モダニズム」にあたると思う。だから、派手さも無いので、見る人によっては、悪く言えばそっ気無いと言われてしまう弱点もある。しかし、吉田鉄郎は、他から何と言われようともこれを極限まで突き詰め、まだモダニズム建築の定番も無かった大正末期から、西欧の情報を丹念に習得しつつ独自の境地までたどり着いた。こうした吉田鉄郎のモダニズム建築の開拓の姿勢が、誰でも出来ることではない大変な才能と努力によることは、建築に携わる大抵の人々には、昔から知られた話であり、ある意味で、今でも憧れの建築家であり続けている。
東京中央郵便局には、構造上の技術的な価値があると言われる。業務の妨げにならないよう、余計な壁を設けず、林立する柱と梁だけで耐震性を備えた当時の構造耐力上の要件を満たしていたとされる(純ラーメン構造の嚆矢として)。つまり、間取り上、なんのことはなく柱が並んだだけの空間にするために、当時の最新技術が込められていたのである。
東京中央郵便局、それに大阪中央郵便局は、このように建物総体が価値を持つ、吉田鉄郎の建築の代表作なのである。
もちろん細部のデザイン、柱1本をとってみても、細やかなこだわりが込められている。
1階の広い窓口ホールには、黒い大理石が貼られた八角形の独立柱があるのを、ご存知の方も少なくなかろう。これは、吉田鉄郎が敬愛した、ストックホルム市庁舎の柱に範をとったデザインとも言われている。ところが、昨日の内部映像では、表面の仕上げは既に取り去られていたようで不安がよぎった。まさか表面の大理石が廃棄などされていないよう祈る。
今ならまだ間に合うと思う。まず破壊された箇所の復旧、そして重要文化財としての保存継承が、責任主体が明確にされた上で、きちんと行われて欲しいものである。
これが果たされたなら、「トキの焼き鳥」(想像したくもないが)を前に恥かしい思いをせずにすむどころか、清浄化したかたちで事が進む世の明るさこそが、景気刺激的な意味でも、よっぽど私達の利にまでつながるように思える。
画像:
上2枚:2007年5月撮影,
中:当初の内部公衆溜り(『逓信省の建築』張菅雄 より)
下:北外観1992年撮影
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- 収蔵庫・壱號館
- ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
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