2023.05.10 Wednesday

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    2009.05.15 Friday

    倉敷国際ホテル

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      1963年,岡山県倉敷市,浦辺鎮太郎,現存(撮影:1981年)

       倉敷紡績を受け継いだ大原総一郎が、ドイツのローテンブルクに肩を並べる歴史都市として倉敷の町並みの再構築を提唱し、実現に大きく貢献したのは倉敷出身の建築家浦辺鎮太郎であった。
       倉敷は、江戸時代には天領として、綿業や織物業で栄えた商都であり、産業の骨格は明治期に大原家による紡績業として引き継がれ、白壁となまこ塀による土蔵の町並みは古くからの隆盛を伝えていた。
       しかし、その時の大原や浦辺の胸中に抱かれていたものは、必ずしも伝統的建築の杓子定規的な保存だけではなかったようだ。実際に町を歩けば、伝統をベースとしながらも、自由な発想を加えていく姿勢も持ち合せていたことが判る。そのことは、ヨーロッパ中世の城塞都市の如くに、「市民」の絆を醸成する都市として誇るに足る都市環境を目指すことを、本質的な部分として重点を置いていたからであろうか。
       あるいは倉敷の美観地区は、大原家が交流と関心を深めてきた民芸運動を、さらに都市のレベルに拡張した壮大な創造行為としての見方も、それほど的外れではないような気がする。例えば、民芸運動に影響を与えたとされるモリスらアーツ・アンド・クラフツの系譜の、戦後の延長線上に打ち放しコンクリートの表面と平瓦が貼られた白壁の倉敷国際ホテルがお目見えした・・・などと、夢想してみるのも楽しい。(残念ながら、現在は打ち放しの外壁面が見られなくなったようだが。)

      2009.05.15 Friday

      倉敷アイビースクエア

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        1974年(原建築:1889年),岡山県倉敷市,浦辺鎮太郎,現存(撮影:1981年)

         明治時代に創設された倉敷紡績の旧工場は、第二次大戦中に軍需工場化し、終戦と共にここでの生産活動は途絶えた。その後、倉敷からその外へ向けた貢献をなすべく、ホテル,ホール,記念館などを備えた複合施設としての再生計画が浮上し、リノベーション事例の先駆となった。
         アイビースクエアは、必ずしも元工場のオリジナルの真正さだけを目指した保存活用ではなく、地域環境との調和を目指した創意も加えられているが、それは、事前の十分な調査を踏まえて導き出された回答でもある。
         こうして再生した建物からにじみ出る、エキゾチックな魅力と居心地の良いひと時に満足した方も多いと思う。その一方で、(当時を思えばむしろ普通であったはずの)ガチガチの計画論で固められたモダニストの発想がてんで及ばないような地平でデザインが衒いもなく散りばめられていることにも気づく。浦辺の建築全般にそうなのだが、私から見れば、こうした一歩間違えば悪趣味なまがいものに陥りかねないような危ない橋をさらりと渡っているようにも思える浦辺鎮太郎の建築に対しての「どうして?」という思いは、払拭されずにいた。

         戦前の浦辺鎮太郎について調べると、1934(昭和9)年に京都大学を卒業し、同期生には西山夘三もいた。「DEZAM(デザム)」に所属して建築運動に染まっていたことが語られている。
         1920年の分離派に始まって以降の、建築運動が勃興しては離合集散した時代を、浦辺も生きている。自身が語った小文を読むと、高邁な理論に埋没し「頭ばかりで手の動かない人間」(=実務が出来ない)になっていくのを、ある時期にしきりに反省したようだ(*1)。
         恐らくは、郷里倉敷に戻り、先達の薬師寺主計や大原総一郎の精神に触れたこと、つまり倉敷という無名の伝統的町並への敬愛の念に触れたことが、観念論の暗闇から脱出し目覚めるひとつの要因であったのかも知れない。そして等身大の視点から人の住む環境を見据え、モダニズムの教義に煩わされることなく、時に応じて装飾をも交えながら必要なデザインを施すことも辞さない姿勢が生み出されたのではないか、そんな想像がよぎる。
         20世紀は、総じて人の生きる現実と改革し理想に到達するための理論の狭間で誰もが苦しんできた。しかしどうあれ行動をもって打開しなければならないとするならば、浦辺は倉敷という場を得ることによって連続性を持った活動で成果を生んだひとりであろう。
         ただ、西欧の様式が混入を敢行した「倉敷市庁舎」については、その大衆迎合的とも解されかねないまでの勇気を論ずるのは、私には力不足か。降参するしか無いような気分にさせられるが・・・。建物ひとつに近視眼的に目を縛られてはいけないと教えられているようだ。

        *1:「私の受けた建築教育」浦辺鎮太郎(『建築雑誌』S.51−4 No.1106)

        2009.05.15 Friday

        大原美術館

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          1930年,岡山県倉敷市,薬師寺主計,渡辺要,現存(撮影:1981年)

           経営者の枠を越え、社会・文化活動に幅広く手を染めた実業家大原孫三郎は、同氏が見出した画家児島虎次郎の収集による絵画等を、この美術館の建設により広く一般に公開した。これには児島の1929年の急逝という事態が関係していた。
           設計者の薬師寺は、陸軍省において建築の経歴を積む一方、渡欧視察により、恐らく日本人として初めてコルビュジエと面会して会話を果たした人物と言われる。そうした薬師寺もまた大原孫三郎に見出された建築家として、倉敷紡績系の一員として関与しつつ、倉敷を中心に和洋渾然のワールドを築き始めていた。こうした倉敷における、実業家の理念に支えられた建築家との二人三脚は、大正後期には端緒が付け始められていたとみられる。
           この関係は、1936年に薬師寺が大原家の職を辞した後も浦辺鎮太郎にバトンタッチされ、大原総一郎の影響のもとに受け継がれていく。(右は、浦辺による大原美術館分館(1961)の外壁)
           日本でも、建築デザイン単体への視線だけでは語りきれない地域環境形成の営みが、実は長い時間を費やしながら、しっかりと展開されていたことに気付かされる。

          2009.05.08 Friday

          大隈講堂

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            1927年,東京都新宿区,佐藤功一+佐藤武夫,現存(撮影:2009年)

             大隈講堂設計競技案―拝見
             大隈講堂については、早稲田出身でなくともその存在を知らない人はいないだろう。この建設に際して公開設計コンペが行われたこと、けれどもコンペの最優秀案によって建てられたのではないことも、知っている人は知っている。そして、ゴシックスタイルでなければならないとする注文が付けられコンペ案は破棄されたとの言伝えに最終的になんとなく納得する・・・。確かに外観は、ストックホルム市庁舎のテイストをほのかに漂わせた美しいゴシックスタイルだが、内部は打って変わって、まるで宇宙を表現したようなホール空間あるいは表現主義的でさえある。このミスマッチは何故なのか?。おっと、ミスマッチなどと言ってはいけないか?。いったいコンペの中身はどうであったのだろう?。
             もうこの辺になると知る人を探すよりも自分で調べた方が手っ取り早い、ということになってしまう。特段この大学に縁があったわけでもないのに。
             建設に先立って行われた設計コンペの記録は、洪洋社から『記念大講堂競技設計図集』として出版されている。最近ひもとく機会があったので、参加者の顔ぶれに注意を払いつつここにピックアップしてみる。

             設計競技は、大隈公を記念する主旨から持ち上がった講堂の建設計画として、関東大震災直前の1923(大正12)年7月に募集と審査が行なわれた。応募案の数は、付された暗号の数からして145案のようであり、応募案作品集は、9月の震災から間もない12月に洪洋社から刊行された。
             審査員は、高田早苗名誉学長をはじめとする大学関係者および、岡田信一郎,吉田亨ニ,内藤多仲,今和次郎,佐藤功一ら早稲田内部の専門家であった。
             応募要綱には、「当選図案ト雖モ之レニヨリテ実施セザルコトアルベシ」(*1)というような条文がちゃんと加わっていて、最優秀案が実施されなくとも良いことが予めことわられていた。今日の感覚では直ちに捉えられない面がある。講堂としての他、演劇、映画上映の機能を備え、座席数は3,000とし最大10,000人を収容することが求められていた。
             そして、特に今井兼次による曲面に満ちた参考プランが予め示され、応募案者はこれに倣ったデザインが求められたと言われる。

                                          ―――

             1等を得た岡田捷五郎+前田健二郎案は、参考プランの曲面壁を、円筒形の屋根を蛇腹状に反復させることでデザイン的処理を行った案であり、今の大隈講堂の重厚さとは全く結びつかないシンプルで軽やかなデザインだった。前田はこの頃には既に大きなコンペをいくつか征していて、前田と組んだ岡田捷五郎も1920(大正9)年に美校を卒業したばかりであって岡田信一郎の実弟でもある。この輝けるペアによるもう1案も、佳作に入選している。
             後に、前田健二郎は後の共立講堂の設計で大隈講堂のアイデアを活かしたと言われているそうだが、改修を受けてなお残る今日の共立講堂の屋根を見る限り、確かにこのコンペ案に似た蛇腹状の外壁がある。
                                          
             水谷武彦案(2等)の平面図のように、応募案はどれも曲面に満ちた参考プランを反映していた。その上で如何に立面をデザインするかにが競技のポイントであったのは、平面図よりも立面が重要視された当時の価値観に沿っている。

             なお、水谷武彦は1921(大正10)年に東京美校を卒業した後、日本人として初めてデッサウのバウハウスに学び日本に紹介した人物とされる。この入選案は、水谷が作品として遺した稀少な例かもしれない。
                                          
             佳作第1席は、1922(大正11)年に早稲田を卒業した猪野勇一による単独案であったが、実際は今井兼次との共同作のようである。そのことは、片や「メテオール建築会」の今井が震災後の帝都復興創案展覧会に出品した《一萬人講堂》の模型と同一であることから判る。作者個人よりも、早稲田としての気概を示すことを優先していたのであろうか。
             尚、私見に過ぎないけれど、後の1929年に岡田信一郎が設計した旧府立第一中学校(日比谷高校)講堂(非現存)は、なぜかこの案に似ている。

                                       *                               
             岸田日出刀が、1922(大正11)年に帝大を卒業して初めて公表した作は、この大隈講堂案ということになろうか。既に岸田の個性が見て取れるが、その後「ラトー会」の名において復興創案展覧会に出品し、また母校の安田講堂を設計したことなど、以前に書いた。
                            
             私が確認したかったのは、1920(大正9)年に卒業と同時期に発足した「分離派建築会」の、瀧澤眞弓による応募案であった。これは帝都復興創案展にも展示され、分離派作品集の第3刊に《公館》として掲載された作品と同一と見做せる。
             瀧澤の案はコンペとしては選外であったが、この結果を不満とする佐藤武夫の評が『建築新潮』
            (T13.6)に寄せられていた。それによれば、コンクリートの可塑性を活かした空想として会心の作であり、分離派の良い面を代表するものとして賞賛した。しかし生のイマジネーションを評価し得ない審査のあり方に対して批判が付け加えられている。佐藤武夫は瀧澤の案を思いつつ、今ある実際の大隈講堂の設計に当っていたのだろうか・・・。

                        ―――

             こうして、応募者の年代に着目しながら見てきたが、おおむね、現状に飽き足らず既成の建築観から脱出を図ろうとした、当時の卒業間もない若手の案が多くを占めていたようだ。震災後に運動体を旗揚げした者が多く参加していた興味深いコンペのようだ。モダニズムという便利な用語すら無い当時、変化の予感を胸に抱いた若手達によるこうした場こそが、来るべき建築を語る機会だったに違いない。

             しかし、ゴシック風ではないことで「待った」がかかった逸話以外にも、期せずして襲った関東大震災という偶然も、記念講堂のあるべき姿を立ち止まって考える機会となっていたとも思いたい。
             大講堂の内にも外にも漲るある「崇高さ」は、時流に拘泥しない地平において達成されるものとして、実施を進めた早稲田の建築家達にとっての結論だったのだろうか。

            *1:『早稲田大学故大隈総長 記念大講堂競技設計図集』(1923年,洪洋社)
            *2:『国民美術』(245号,1924.5)

            2009.05.08 Friday

            共立講堂

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              1938年(原建築),1957年(改修),東京都千代田区,前田健二郎,改修後現存(撮影:2009年)

               戦前の垂直性を強調したゴシック的ファサードは、火災を被るも当初の設計者により蘇った時点で、趣きを変え現在に至る。
               しかし、丸い屋根が蛇腹状に繰り返される屋根が内部のホール空間を外観に反映させており、この特徴ある側面は旧状をある程度踏襲しているようだ。これが、前田等が1等を得るも実現に至らなかった1923年の大隈講堂設計競技案に基づく部分であろうか。

                  

               

              2009.05.04 Monday

              佐倉市庁舎

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                1971年,千葉県佐倉市,黒川紀章,現存(撮影:2009年)

                  成田に写真展を見に出掛けた帰りに寄った。(今年のGWの遠出が最大ここまでとはショボい。) しかし期待通りに、メタボリズムの思考が大胆に表現されていることに感心し、さらに40年近い経過を経てもほぼそのまま保たれていることにも感心した。

                 ほぼ同時期の次作であった中銀カプセルタワーと比べてみると、むしろ佐倉市庁舎の方がボイドスラブなどPC部材が露わなのに加えて、恒久的な骨格をなすコア部分から伸張する設備配管類も、まるで生物の血管や神経の如く表現されていた。こうしたハイテクにより宙に浮くようなカプセル状の要素があってこそ、その余白の曖昧な中間領域の存在をも保証される、という意図が窺われる。
                 45°に振れたプランニングの挿入、サーリネンへのオマージュっぽいHPシェルの議会棟、それにシェル状慰霊碑も黒川氏によるものだろうか、確信犯的詰め込み過ぎ建築あるいは、'60~'70年代の楽天的テクノロジー神話のタイムカプセルに対して、なぜか手放しで満喫してしまう私を確認するのだった。
                      

                2009.05.02 Saturday

                芝浦工業大学第二体育館

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                  1986年,埼玉県さいたま市,藤井博巳,現存(撮影:2009年)

                   四角形の立体を4分割し、その際に生じる各象限のL型壁面を幾重にも重層させる。打ち放しコンクリートの面は外壁に見立てられ、内外が反転して露わになった内部の壁面はグレーとなる。
                   重なり合う壁面に見られるフレームは変移を繰り返し、行き着く内部の壁面では、透明なグリッド格子の中にフレームがそそり立っている。つまり壁と開口の空隙の関係も反転する。こうしたフレームの類は一般的な意味での「図像」ではなく、変形操作により重層した「痕跡」のプロセスとして、私達はそこを迷路をさまようが如く体験する。

                   このように繰り返し行われてきた藤井による意味の生産の試行では、見る主体の想像力の復権と自由とがテーマとして常に意識されている。モノから何を汲み取るのかはそれぞれの見る主体の自由の内にあり、他人が脇から邪魔することは許されない。だから作者も建築の意味内容を説明するなどあり得るはずは無く、作者という一人称が「非在」とされた上で、意味するもののオートマティックな操作がなされ、その痕跡がそこにあるだけであった。それで十分なのだ。
                   また、藤井が目指しているモノとの本来のコミュニケーションでは、無意識の領域が念頭に置かれている。意識的な「解釈」に終始するのとは逆の流れである。迷路の深淵をさ迷うが勝ち。
                   こうした試行を展開するそもそもの背景には、近代という引き裂かれた位置に置かれた主体のありかたへの懐疑に始まり、中心を喪失した「神なき時代の」主体のあり方、すなわち脱・構築の問いが根底にある。
                   '80年代、藤井にとっての方法は、建築が(ポストモダン的)悪しき意味での「意味」に溢れた図像の集積となることを慎重に避けつつ、むしろ幾何学的関係性や統辞的な方向性に、モノとのコミュニケーションの可能性を見出そうとしていたのではないか。
                          

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                  ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
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