2023.05.10 Wednesday

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    2009.07.30 Thursday

    東京国立博物館 東洋館

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      1968年,東京都台東区,谷口吉郎,現存(撮影:2008年)

      鉄筋コンクリートの日本的表現(9)
       この建築は、随分と「離れ業」を演じているかもしれないとは、私だけの思い過ごしだろうか・・・。
       何を言いたいのかというと、まず、この東洋館は、戦前の「日本趣味を基調とした東洋式」の本館に隣接して、その調和を保つべくコンクリートによる木造架構の建物が破綻無く建てられたように見える。ごく自然なのだけれども、実際古来の日本建築にこれに類するような建物も、これといって思い浮かばない。
       そこで、モダニズム建築に日本の伝統的な見え掛かりを取り入れたにとどまらず、谷口が愛着を抱き続けた新古典主義建築、特にドイツのK・F・シンケルのアルテス・ムゼウム辺りを投影させてひとつの建物にまとめたのではないかな、と思えたのである。正面の、高揚感をもたらす列柱廊が特にそう思わせる。この想像が事実であったのかどうかは別としても、やはり谷口流の新古典主義的雰囲気が無いとは言えない。これを信じて、和と洋、しかも新古典主義の離れ業的な一体化を取り持つ絆に思いを馳せてみる。
       19世紀前半を中心に活躍したシンケルは、ギリシャ本来の古典主義建築を、神話の世界への空想をかき立てる如く、よりロマンティックに再解釈したとされる。幾何学的な清明さから、モダニズムの途上に据えられることもある。谷口は、形式的なことよりも、新古典主義建築のこの「端正さ」、「節度」、「崇高さ」などのテイスト的な面を重視し、と言うか惹かれ、ひいては日本の伝統性との共通項を見出してひとつの建築に結実させたのかも知れない。
       こう思うと、外観の端正さとは対照的で、これまで違和感を感じていた内部のスキップフロアの大空間にもなんとなく察しがついてきた。もしやアルテス・ムゼウムの内部ドームの崇高さの翻案というわけか。

      2009.07.30 Thursday

      桃華楽堂

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        1966年,東京都千代田区,今井兼次,現存(撮影:1995年)

        鉄筋コンクリートの日本的表現(8)
         1960年代ともなると、建築家それぞれの個性に従って、日本の伝統性は自由に開花したようだ。
         戦前期にガウディやシュタイナーから影響を受け、内面をストレートに形象化するいわゆる表現主義的な造形に惹かれていた今井兼次の場合、1962年の「日本二十六聖人殉教記念館」などでその結実をみた。表現主義は一時の「あだ花」とまで言われた時期もあったが、実は深く根をおろしていたのかも知れない。
         同じ表現主義的な延長線上にありながら、一方で、日本人ならではの「寿ぎの心」を表現したのが、この桃華楽堂ということになろうか。とはいえ、柔和な花弁のような形状も、分節された壁体など構造要素の表現である点は、60年代という時代を感じさせる。

         これが戦後の日本が生んだ表現主義的な音楽堂だとするならば、本家ドイツのハンス・シャロウンによる表現主義建築の集大成も、1963年に出現しカラヤンのサーカス小屋との異名を得たコンサートホールであった。偶々とはいえ奇縁を感じる。・・・強引に過ぎようか。ただ思い浮かぶままに。

        2009.07.26 Sunday

        広島平和記念資料館,平和記念公園

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          1952年(平和記念資料館),広島県広島市,丹下健三,現存(撮影:1981年)

          鉄筋コンクリートによる日本的表現(7)
           ここを訪れた感想であるが、広大だからだけではない「空虚さ」に当惑したように記憶している。
           威容を誇示するモニュメントを崇めるでもなく、確固たる意味付けの上に計画された軸線に立ち、その何も無い直線の迷宮をさ迷ったとでも言うべき感覚は、もしや建築家の伝統的空間の見方に通ずるのではないかと感じた。少なくとも、ヨーロッパの都市ならば秩序創出の基本として仕組まれるはずの中心性とモニュメンタリティー(記念性)は、どう見ても回避されていた。
              
           よく知られるように、戦中1942年のアイデアコンペ「大東亜建設記念営造計画」の提出案において、丹下健三は、人を威圧する西欧の「記念性」との関わりを否定したところに神国日本の「大いなる光栄とおおらかなる精神」があると述べ、「ひと筋の縄で囲う」ように社殿を配して聖域を計画した(*1)。
           ここに抽出されていた日本の伝統的な空間の捉え方に、伊勢神宮のような、踏込むべからざる何も無い領域を囲い、あるいは隠すことによってこそもたらされる畏れ多さ―聖性が思い起こされる。それは、戦後の平和記念公園の軸線の上の表現とも重なるように感じられる。(伊勢神宮など日本の空間の特質については、さらに後に磯崎新が独自の観点からまとめた。)
           ほぼ南北方向に伸びる軸線上の視線の流れにおいて目に付く平和記念資料館は、終点ではなくピロティにより領域が画されただけで宙に浮くゲートに過ぎない。大地の連続した広がりばかりが暗示される。軸線の焦点に位置する建物ながら、故意に中心性は消去されている。あるいは、透明な領域越しに、本当の拠り所たる慰霊碑に思いが促される、という言い方もあるだろうか。さらに遥か彼方の原爆ドームを、決して後戻りの許されない「過去」として望む(*2)。
           そのピロティの柱もコルビュジエ的であるばかりではなく、力強く屹立する伊勢神宮からの翻案とする見方もあるようだ。また、金堂と五重塔が左右に並ぶ法隆寺式の伽藍配置への意識も働いたように伝えられるが、軸線と直交して非対称的に配置された建物を指すのだろう。

           もちろん、コルビュジエのソビエト・パレス案の参照や旧来の日本のスケールからの脱出の強調など、モダニスト丹下による計画が単に復古的でないことは、もともと明らかとした上での話しではある。しかし、こうした伝統への配慮も人間存在に関わる重要なテーマとして据えていたことも、どうやら疑い無い。それはイサム・ノグチの起用を忸怩たる思いで断念したエピソードからも察せられる。
           さらに平和記念公園を見るにつけ、伝統とは守り封じ込めるものではなく、いかなる形をとろうとも未来のために転化させて価値を生むための対象なのだ、と読める。今年もまた、平和な未来を願って思いを新たにする日がやってくる。

                    *1:『建築雑誌』1942年12月
                    *2:井上章一は、戦前のコンペ案で意図された「富士山」への眺望が、広島の計画において「原爆ドー
                      ム」の眺望に置き換えられた点などを指摘している。(『夢と魅惑の全体主義』2006,文春新書)

          2009.07.25 Saturday

          外務省庁舎

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            1960年,東京都千代田区,小坂秀雄+建設省営繕局,現存(撮影:2008年)

            鉄筋コンクリートによる日本的表現(6)
             昭和27年の指名コンペで選出された小坂秀雄の案の段階では、こうした各階の庇は無かったが、設計を進めるにあたって、彼が師として仰いでいた吉田鉄郎のアドバイスを受けたことにより、まさに吉田流の建物になったと言われる。とりわけ大阪中央郵便局の延長上にあると見るべきか。
             柱や梁とによる架構をそのまま現しただけの無駄を排した建築に日本の伝統的木造建築の特徴を見出し、モダニズム建築への適応を試みた吉田鉄郎の姿勢が継承された。破綻の無い完全な調和、正直さ、控え目さなど、おそらくは旧来存在していたであろう倫理観と共に。力学上、上階ほど柱幅が小さく、つまり柱が細くなるようなところまでそのまま表してしまう建物は、滅多に無い。
             外壁に庇がめぐらされたのは、機械空調設備の導入が許されなかったことに起因するという。そこで吉田鉄郎の指導のもと、開閉窓による自然換気と庇による日照調整の考え方が生れたとのことを、小坂は書き遺している。
            2009.07.21 Tuesday

            善照寺本堂

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              1958年,東京都台東区,白井晟一,現存(撮影:2009年)

              鉄筋コンクリートの日本的表現(5)
               強力な磁場が、コンクリートや硬質な御影石の柱を浮かせているかの如き、持続した強い緊張感を見せる外観。そうかと思えば、優しく人を導き入れる薄く水平な床面と、どこか艶めかしい手摺。深い「黒」。
               「縄文的なるもの」を唱え、表面的に和風の要素を用いるのではなく、根源的な生命力を日本の伝統の拠り所とした白井晟一の建築である。それでも意外と、近寄りがたさを感じなかった。
               
               シンプルな形の中に、建築家の観念としての空間が埋め込まれ具現化される背景には、設計段階の気が遠くなるような細部のエスキースが鍵になっている(と、昔、学校で教えられた)のだが、間違いないようだ。行き着くところの全体に醸しだされる静謐さは、その非凡さの証しであろう。やろうと思ってもできない面がある(と、確かに「あきらめ」気分にもさせられる)。
               屋根の水切り銅板の、「かみそりの刃先」のような薄さ。棟の部分のごく微妙なカーブ・・・。  
                            

               ところで、これが建った1958(昭和33)年に東京タワーが完成している。近代テクノロジーによる表現を、戦後日本として手中におさめた年である一方で、善照寺のように、精度の高い施工技術によって純度の高い空間の獲得に成功した年であったことにもなる。
               こうした建物と向き合うと、まことしやかに語ろうとすること自体、どうしても気が咎めてしまう。もう、この位にしておこう。


                                 ***


               ただ、どうしても付記しておきたいのは、善照寺の入口にあたる東本願寺の参道の、その家並み。ここだけがタイムスリップしたように、昔のスケール感そのままの長屋の風情をたたえているように見えた。なぜなのだろう?。震災以後、東本願寺が空襲による被災を免れたからなのだろうか。

              2009.07.19 Sunday

              日本芸術院会館

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                1958年,東京都台東区,吉田五十八,現存(撮影:2009年) 

                鉄筋コンクリートの日本的表現(4)
                 日本の伝統的な要素と西欧モダニズムとの統合を図る試みは、戦後の一時代のテーマであった。
                 中でもこの建物のイメージの基本は、寝殿造りなど平安時代の建築に求められたと言われており、それは極度に抽象化された面の構成に中に、築地(ついじ)塀や蔀(しとみ)戸的な格子をほのかに暗示することによって成り立っている。また、内部は中庭を囲んで内外一体化した空間となっている。
                 とかく枯れた簡素さや飾り気の無さに日本の美の本質を求めようとする空気に対して、それのみにあらず、吉田はこうした王朝建築(あるいは大衆文化に至るまで)など「華やか」な伝統に相当する部分にも光をあて、巧みにモダンな解釈を与えた。   

                2009.07.11 Saturday

                野村證券本店(旧・日本橋野村ビル)

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                  東京都中央区,1930年,安井武雄,現存(撮影:1992年)

                  鉄筋コンクリートの日本的表現(3)
                   正しい主体構造は、鉄骨鉄筋コンクリート造。もちろん純然たる和風というわけではない。
                   独特の折衷主義に始まって、大阪ガスビルのようなモダニズム(1933年)に到達した安井による、1930年の建築。フリースタイルを基本としつつ、徐々に装飾性を弱めていった独自の試行の中では、時として日本的な要素も生かされる。
                   建物の外観は、下層から「石」→「タイル」→「土壁」と素材感で分節された三段構成なのが分かる。そのことをほのめかす為なのか。最上部の両隅には、伝統的な漆喰塗りの土蔵造りの民家か城郭に見られるような格子窓が、薄っすらモダンな(あるいは「ライト」風?)感覚で配されている。
                   壁面天端の水平ラインのコーニス(軒蛇腹)ともつかぬ過渡的な雰囲気は、瓦によるからなのか。

                  2009.07.07 Tuesday

                  歌舞伎座

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                    1925年,東京都中央区,岡田信一郎,(改修:1951年,吉田五十八),現存(撮影:2009年)

                    鉄筋コンクリート造の日本的表現(2)
                     岡田信一郎による戦前の大屋根付の建物の屋根は、まず鉄骨製の屋根の骨組みを架け渡し、その上に金網を張りさらに鉄筋を配してコンクリートを打ち、最後の仕上に瓦を葺く、という手順で豪壮な屋根に仕上られた。大体そのようなことが仕様として書かれていた。
                     当初は、右の古い絵葉書にあるように中央に堂々たる大屋根があった。
                     岡田の設計主旨は「桃山式に近代的手法を加味したるもの」とあり、鉄筋コンクリートの技術が、恐らく「近代的手法」に相当するのだろう。
                     この「桃山式」も、岡田による日本の建築様式の幾分ロマンティックな解釈が打ち立てたひとつのフィクションの如くして、様式建築の流れに位置するのだろう。そして吉田五十八によって再興された建物も、趣味を損ねずに、歌舞伎そのものの人気に対する脇役の座を得てきている。

                     歌舞伎座は、日本人にとってポピュラーな和風の「様式建築」なのだが、ご存知のように建替え計画が着々と進んでいる。
                     ところで最近、「様式主義建築」と対義をなす「モダニズム建築」とされる建物も、保存問題の俎上に登る。その是非についての、よく耳にする取壊し容認の論旨は、歴史的普遍性,永続性から離れて近代技術を拠り所に発達したのが「モダニズム建築」だとするのなら、それは「保存」されるのではなく、近代技術の発達とともに「更新」され続けるのが正当である、というもっともな説だ。
                     歌舞伎座はどうだろう。これをまさか純正な「モダニズム建築」とは呼べないだろう。だが、日本人の心にすんなり入り込む和風感覚を生かした「様式建築」でありながら、それさえも、現代の技術や社会状況に見合った更新が求められている。
                     つまりは、建った以上否応無く歴史の蓄積を経た、そうした建物の保存を扱おうというときに「様式建築」だの「モダニズム建築」といった成立時の事情による線引きは、とても二義的なことだろうということ。場合によっては意味を成さないかもしれない。(「モダニズム建築」を、国際「様式」として捉えることだってある。)
                     そして、建物が壊され建替えられようとすることで起こる大きな問題は、培われた歴史(記憶の積み重ね)と切り離されたところで、そもそも人は生きていけるのか?(パンのみにあらず)、という問いのように思えてくる。ところが、大正〜昭和以降の歴史事象への価値観とそれを守るしくみは、(故意なのかなぜなのか)たとえ守らねばならぬ案件があったとしても、その辺、日本は脆弱に過ぎるようだ。
                       

                    2009.07.03 Friday

                    明治神宮宝物殿

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                      1921年,東京都渋谷区,大江新太郎,現存(撮影:2009年)

                      鉄筋コンクリート造の日本的表現(1)
                       日光廟修繕工事,神田明神,岩崎小彌太邸(*1)など、寺社建築をはじめとする和風の名手大江新太郎の作品。大江新太郎の作品として個性ある建物を十分堪能出来るのだが、もうひとつ、建物の成り立ちに関わる事情も見逃せない。
                       と言うのも、この建築物については事前に設計コンペが行われ、その時に(一等案ではなく)三等一席に入選した後藤慶二の高床式で校倉造りとするアイデアが大江の設計に取り入れられて実現したのだ。 後藤慶二の思考の片鱗を内蔵している建物と言えなくもなさそうだが、後藤は夭折し現存作品も1点だけと言うか殆んど無いに等しいだけに余計に貴重に思えてくる。

                       このコンペの経緯については、『建築設計競技 コンペティションの系譜と展望』(近江榮)に語られているので少し孫引きつつ触れてみる。
                       1915(大正4)年に行われた明治神宮宝物殿のコンペの設計条件は、(明治神宮)社殿との調和と耐震・耐火であったとされ、つまりは、鉄筋コンクリートという新構造技術を用いた上で、伝統的な和風建築を当世流の新たな国風建築として創出することへの期待がかかった。これは、まさしく日本独自の建築様式を模索する、いわゆる明治43年の「様式論争」の討論の流れを汲む問題意識であった。(この背景としてのナショナリズムは、当時の常態としてあったことを踏まえて置く必要はあろう。)
                       ところが当時のコンペであるから、応募案にも外観デザインの「様式選択主義」の内にあってその技術が問われることとなり、全般的には西洋のそれに倣いつつ和風のボキャブラリーを如何にあてはめるのかが競われたようである。
                       後藤慶二案の場合は、宝物殿という収蔵機能から「正倉院→校倉造り&高床」という日本の伝統を選択した。
                       近江氏著書中の審査評では、それでも虚飾の無さやシンプルさ(塚本靖)において異色の案であり、構造においては秀逸(佐野利器)とされた。しかし、軽快さの反面「威厳に欠ける」点が裏目に出て三等一席に甘んじたのであった。結果はさておき後藤自身、鉄筋コンクリートで合理的に架構すると必然的に木造架構に近くなるといった意味の合理性を強調する感想を述べていたとのこと。(本当のところどうなのか?)
                       当時のコンペは、一等案と言えどもそのまま実施に付されることは少なかったが、ましてやさらに下位の後藤のアイデアが実施案に取り入れたれた理由については、コンペ時点で要求された展示館機能の要請が後退し、収蔵機能に主眼が置かれたためだったからだとされている。但し、実施された構造架構は後藤案とは異なるとした最近の研究がある。
                       さらに付け加えて、私から見て感じる、現在の建物の「渡殿」的な要素による寝殿造り的なイメージは、後藤慶二のコンペ案にも窺える。

                       大江新太郎による現建物探訪の話しに戻ると、これがなかなかすごい。ログハウス風に見える外装材に近寄って見るとオール御影石で、コンクリートの主体構造はさらにその内側ということになる。そして、それらの重量を床下の多数の柱が支えているのだが、ピロティ的なので軽快感がある。
                       内部空間には恐れ入る。格天井によるボールト天井(かまぼこ形ドーム)の大きな無柱空間!

                        
                      意表を突かれたのは、実は導入部。切符売り場の門だった。言うなれば・・・
                        「先生、こういう斜めの柱ってアリなのですか?」
                        「アリです。(大江)」
                        「キャピタルにおわすのは、まさしく蘭稜王ですね。」
                        「・・・・。」

                                            *1:昭和20年に焼失したこの邸宅の跡地に、「国際文化会館」が建つ。

                       

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                      収蔵庫・壱號館
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