日比谷映画劇場
1934年,東京都千代田区,阿部美樹志,非現存(撮影:1983年)
アール・デコ タワー(2)
アール・デコ装飾は、1925年の「パリ万国装飾美術博覧会」を契機に知られるようになり、各国様々な様相を示しつつさらに波及した。
建築の近代化の過程がオーナメントとしての装飾を否定してきた一方で、装飾デザインの側もアール・ヌーヴォーに始まって、幾何学的抽象化とスピード感を伴いながら近代化の道を歩みつつ生き残る。むしろアール・デコ装飾をまとった建物の方こそ人々の心に訴えかけ、モダニズムを実感に導いたようでさえある。
アール・デコが日本でも拡がりを見せたのは周知の通りで、いたるところに取り入れられた。大衆のために開かれた、工業化による大量消費時代の文化の到来を謳歌するように開花したのだったが、しかしそれは、戦時体制が時代を暗転させるまでの瞬時のきらめきでもあった。
日比谷映画劇場はその典型例として、映画という大衆文化の花形たるところを表示していた。垂直線が強調された円筒状タワーの先端を仰ぎ見つつ、映画会社のオープニング・ロゴのように大空に向けて投射されるサーチライトを連想させられる。そういう意味ではアメリカ的なツボを心得ていると言うべきだろうか。
またこの建物の、垂直線がゴシックを、ホールがパンテオンのドームをどこか暗示させるように、アール・デコが古典的なデザインと全く縁が切れたものではないことにも気付かされる。
そして特筆すべきは、阿部美樹志の存在であろう。コンクリート構造学における日本の草分け的存在ながらも、デザイン的にも高い質を保ちつつ多数の建築をオーガナイズできた稀有な人物と知る。
惜しくも最近建替わってしまった「阪急梅田ビル」(1929〜36)が知られる他、「神戸阪急ビル(阪急三宮駅)」(1936)は日比谷映画劇場とデザインモチーフで共通しているようだ。(こちらも阪神大震災を契機に建替わった)また、終戦後は復興院総裁として住宅供給に取り組み、戦後初のRC造集合住宅「都営高輪アパート」(1948)の建設につなげたなど、遺した功績は多大だ。
神奈川県庁舎
1928年,神奈川県横浜市,小尾嘉郎 神奈川県,現存(撮影;2009年(上),1981年(下))
アール・デコ タワー(1)
海の玄関口で、日本情緒をもって外国人を出迎える提案が求められたとしよう。そのひとつの回答は、灯台のように高く聳える塔、塔に持ち上げられた階段ピラミッドのようなジグザク模様に変換された屋根、その屋根を台座にてっぺんに鎮座するのは観音様の像であって、そんな楽天的で、今日的に言えばスーパーキッチュな匂いさえするタワーが昭和の初期に実現するはずだった・・・・。
アメリカン アール・デコの摩天楼もまだこれからという時期に、大衆を相手に印象付ける視点に立ち、斬新な提案で神奈川県庁庁舎コンペを勝ち取ったのは、小尾嘉郎(おびかろう)という当時東京市電気局に勤める設計士だった。審査員の慧眼もひとまず評価したいところなのだが・・・。
小尾嘉郎については、元々佐藤嘉明氏の詳細な研究があり、主にその概略を参考にしながら、私独自の感想をここに交えている。
小尾の1等案を元に(私が)起こしてみたのが右図のシルエットなのだが、長身の塔が基本となっているのが分かる。そして幾何学的に還元された日本風の屋根そして観音像を載せるといった、エリート建築家には思いつかないようなアイデアが盛られており、それは入港する外国人にエキゾチックな印象を与えるという設計主旨から導き出されたものであった。
この提案が、審査員のひとりであり「国民様式」を打ち立てようと目論む佐野利器の琴線に触れた。「凹凸の具合から何とはなしに日本風を加味している・・・」と佐野が評したように、なぜか写実的な日本像の再現に頼らず全体の雰囲気を醸しだす方法が新鮮に映ったようなのである。
しかし、コンペ案の評価にも関わらず、当時のご多分に漏れることなく実施設計の段階で、小尾案は佐野の主導の産物に大きく変更されてしまった。
中央の塔は、小尾案では(私が見るに)タテヨコ7:4位のすらりとしたプロポーションの塔身の上にライト風の塔屋が載る計画だったが、実際に建った建物では、これが5:4位のどっしりとした、まさに「キング」のイメージに換えられた。観音像は、五重塔などの「相輪」に置き換えられてしまった。ただ主にF.L.ライト風のイメージと内外装の装飾によって、日本のアール・デコ趣味建築としての先駆けの位置を保っている。
小尾自身も県職員として招聘されたが、実施設計に大きく関与することも無く短期間で辞することになった。
佐野利器や伊東忠太らを中心として、コンペを介在させつつ日本趣味による国民様式を主導しようとする傾向はこれ以降さらにエスカレートし、特にモダニストらからの右傾化との批判を招き、あるいは「帝冠様式」などの俗称を生むことにもつながった。しかし本来なら、日本の伝統への問題意識は、今日でもそうであるように、常に時代と共にあって然るべきとも考えられる。
ある意味で先進的でイデオロギーとは無縁の小尾のデザイン原案は忘れられ、あるいは実現した建物の印象で、負のデザイン系譜の事例として片付けられがちなのは残念でもある。
本願寺神戸別院
1929年,葛野壮一郎,兵庫県神戸市,非現存(建替え済み)(撮影:1981年)
古くは「別格別院善福寺」と称され、長く「モダン寺」の愛称で親しまれた浄土真宗本願寺派の寺院。現在はイメージが受け継がれつつ、新しい建物に替わっている。
設計者葛野(かどの)は帝大卒業後、横河工務所、神奈川県及び大阪府の技師を経て独立し、大江ビルヂング(1921),中央電気倶楽部(1930)などを残した。因みに遣唐使の末裔の家柄だそうだ。
際立つデザインは、「印度式」と称され、あるいはビルマ(ミャンマー)の「五百塔寺」を参考にしたとも言われる。確かに、相輪の付いた宝形屋根に注目すると、それは屋根と言うよりは本場のパゴダや王宮独特の雰囲気を醸し出そうと意図されたようだ。つまり宝形屋根が用いられていようとも、少なくとも、日本的なイメージには直結していない。
博物館動物園駅
1933年,東京都台東区,中川俊二,現存(撮影:1992年)
駅舎(3)
確かに国会議事堂の正面に似ているが、上野と立法府をつなぐ何かがあったのだろうか。(例えば当時の帝国図書館が、国会図書館的な機能をもっていたとか・・・。もちろん憶測で言っている。)
国会議事堂は、1927(昭和2)年に上棟、1930(昭和5)年から竣工する1936(昭和11)年の長きに渡って外装その他仕上げ工事が行なわれたので、その間に議事堂からデザインに取り入れて、京成電鉄地下駅舎として鳴り物入りで完成させることも無理なことではなかったように思われる。
そして、今日見慣れた国会議事堂の階段ピラミッド屋根のデザインソースは、古代の七不思議と言われる小アジア カリア王国のマウソロス霊廟であったとする鈴木博之説がある。そうだとすれば、もしや上野の山にももうひとつ、古代の幻像があったと言うべきか。
堺屋
1929年,東京都台東区,荒井組(設計施工),現存(撮影:2003年(左画像))
「・・日本的表現」編は、この辺りでひと区切り。
ちょっと肩の力を抜いて、街角のレトロな建物として親しまれている堺屋さんの登場。
右のモノクロ画像は、『建築世界』(vol.23)昭和4年6号の口絵に掲載された竣工時の写真で、名称は「中村商店」、「荒井組」の設計施工で、所在地は下谷区池之端。記載データはこれが全てだった。ということなので、上の年代欄には建築誌掲載年代を記している。昔から「堺屋」であったようなのに「中村商店」として掲載された理由については、目下のところ把握していない。
向って右側に隣接してほんの一部だけ見える出窓の付いた建物は、薬の老舗「守田宝丹本舗」(昭和3年,鹿野昌夫設計)。現在、ビルに建て替わっているが店は健在。
堺屋の、埃の十分染込んだスクラッチタイルが良い味を出しているが、それ以上に注目したいのは曲面の外壁に、メンデルゾーンの百貨店ばりに大胆に施された大きな横長窓。大抵の古い建物では、外部サッシュは大きく改造されてしまうことが多い。しかし上の左右の画像を見比べると、丸窓だけが改造されたものの、メインの横長窓は、ガラスまで含めてさして手が付けられた様子は見受けられない。本当に昔からそのまま残っているのなら、まさに奇跡的な光景と言いたいところ。
成田山新勝寺本堂
1968年,千葉県成田市,吉田五十八,現存(撮影:2009年)
鉄筋コンクリートの日本的表現(10)
伝統的な寺院建築の鉄筋コンクリートによる写しのように見えるのだけれど、軒下の肘木の部分をさりげなく簡素化するなど、モダンな感性をしのばせている。伝統的見方では、こうした手腕も「芸」のうちということだろうか。
大正時代に流行りを終えたはずの様式簡素化傾向が、ここへきて「和」の「セセッション」として出現したようにも見えなくはない。完成された表層への再トライは、そう簡単には尽きないようだ。
しかし「芸達者」としては、同じ境内に立つ1712(正徳2)年建立の三重塔を凌ぐには至らなかったのかも知れない(比較するのも変なのだけれど)。
この国指定重文の三重塔(下の写真)は、もちろん木造。軒下は通常のように垂木を見せずに「板軒」とされ、まるで極彩色の「映像スクリーン」を見るような趣向となっている。雲間を漂う龍を仰ぎつつ驚かずにはいられない。ちなみに1984年の修理を経て、当時の絢爛さが蘇ったらしい。
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- 収蔵庫・壱號館
- ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
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