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    2009.11.26 Thursday

    【資料画像】検見川送信所

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       この際なので、前回に一部をお目にかけた資料画像をまとめて紹介したい。ある「検見川送信所を知る会」の会員が譲り受けた写真である。(この貴重な資料の公表を快く認めて頂いたことについて、この場にて感謝申し上げます。)


       大正15年に竣工した検見川送信所全景。
       『電信電話事業史5』などの文献から推察して、本館を中心に、手前の小さな平屋部分は倉庫(非現存)。奥にあるのはポンプ室(現存)。空中線を支持する鉄塔は、東京帝大の草間教授の設計によると記されていた。


       上の画像を拡大。あらゆるエッジが丸みを帯び、白亜の建物が不思議な陰影を呈している。


       職方らしき人物を交えた記念写真なので、竣工直後の写真であろう。中央の人物は、工事監理にあたった新作義信氏とのこと。
       パラボラ形状があしらわれたエントランスのドアは印象的で、若き吉田鉄郎の作風の一面を垣間見させる。


       ここからは、昭和12年12月19日との日付がある「東京中央電信局検見川送信所増築其他工事竣功写真」。
       奥に見えるのが元の送信所本館の北側に位置する送信施設、手前に見える東側の建物については、元職員であった岩佐さんの資料によれば「非常用発電室」とされる。最盛期には送信機は50台近くが稼動し、アンテナも50面に及んだとのこと。


       2階窓上に多数の丸い穴が見える。推察するに、これらはケーブルの出し入れを便利にするためにあらかじめあけられたスリーブであろうか。意匠的にも面白い。

       
       同じ建物の北面。大阪中央郵便局を髣髴とさせる外観。




       こちらはある意味で参考。山田守の設計により1924年に竣功した岩槻受信所の画像。また、一方で東京通信所(東京無線局)として業務を統括した部門も1925年に竣功した東京中央電信局内に置かれ、これも山田守による有名なパラボラアーチの建物であった。これらと検見川送信所の3者が有線で結ばれて通信業務が成立していた。岩佐氏の説明によれば、強い電波の影響を避けるためにそれぞれの施設が離れていた、とのことである。
       それぞれ離れて建っていたが、建物のデザインは、どれも丸みを帯びた点で統一された。それは山田による建物だけならまだしも、最後に建てられた検見川送信所までもが、敢えて山田守の作風を取り入れることで成し遂げられた統一感なのである。
      2009.11.17 Tuesday

      【記録】検見川送信所内部視察記(3)

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         今回も、まず前段で資料画像をお見せしたい。と、あっさり言うけれど、下のモノクロ画像はまさしく第一級資料で、3ヶ月ほど前に初めて目にした時は随分と驚いた。ある「知る会」会員の仲間が勤務先のOBの方から譲り受けた写真とのこと。逓信建築のために役立つならば、とのことで公開は了承されている。他にもあるので追々紹介させて頂きたい。

         下の画像は、ほぼ大正15年竣工当時と思われる送信所の北東側。送信機が置かれ、当初「発振室」と呼ばれていた部分の外観。内部中央には吹抜け空間があり、そこにある北側外壁の2階分通しのユニークなデザインの大型アーチ窓がくっきりと写っている。3ヶ所のうち左右2ヵ所の窓が、いわゆるカーテンウォール状の造りであり、木製建具によって成されているからさらに驚きである。(以前の記事で、吉田がこうしたカーテンウォール状の窓をデザインした経緯を推理した。
         北側中央のドアの上には、図面通り半円形の庇が存在していたことが判る。
         また、東側外壁のケーブルの出入り口の開口に付いた支えのような仕掛けが興味深い。
         こうして見ると窓の数がやけに多い。「知る会」会員で元送信所職員の岩佐さんによると、送信機のエネルギーのロス率は50%あまり。高出力の送信機は相当な熱を損失分として放出したとのことなのだから、多くの窓を設けて開放し放熱するのは当然というか、まず基本だったのだろう。
              
         下は、昭和12年に増設拡張された際の写真。これら増設棟も吉田鉄郎の設計によるので、時を経た吉田の作風の変遷が一望できる。増設された建物は、大阪中央郵便局にも似て柱と梁が強調された建物だった。
         この時、北側に増設された棟との連絡のために、元の建物の北側吹抜け部分には木製の床が張られ、さらに3箇所のうちの真ん中の大型アーチ窓はドアに取替えられたので消えた。増設棟へつながる渡り廊下の出入口ドアとなったのだ。
                  

                                     ***

         さて、当初北側の吹抜け空間に存在していた木製大型アーチ窓の現状は、以下のようであった。昭和12年の拡張の際に張られた木製の床の上、つまり2階から左右2ヶ所の大型アーチ窓の「上半分」が見える。埃がすぐにカメラのレンズを覆ってしまう。レンズを拭きながらどうにか撮影。
         木製建具の状態は、「上半分」は割りと良い方なのかも知れない。ただ、繊細で美しい横棧が見当たらないのが気掛かりだ。(ベニヤと鉄板の間に横棧が挟まれているのだろうか?)
                  
         中央の割と幅広の大型アーチ窓については、その痕跡が残っていた。現状の四角いドアとの間をコンクリートで埋めたために生じた境目の線として。
         個人的には、この大型アーチ窓が3ヶ所とも吹き抜け空間とともに復原されたら素晴らしいなぁ、と思った。吉田鉄郎の建築は、本人曰くの禁欲的な設計姿勢はそうであるとしても、私が思うに、実際の建物は十分ドラマチックな空間だ。再現されたらきっと素晴らしい場所になるに違いない。
         勝手な想像ながら、蘇った吹き抜け空間において、あるときは小編成のオーケストラのコンサートホールとして、あるいは小さなオペラが演じられている情景を何度となくイメージしてしまうのだった・・・。
         ところが・・・、である。甘い夢を見ていられる状況ではないかもしれない。下の画像、1階の木製大型窓の「下半分」とその周囲については、正直言って不安がよぎった。
         全体的には一応頑丈さを保っているように見えた建物なのだが、1階北側の足元に近い部分の壁面については湿気を帯びているようにさえ感じた。床面に薄っすらと残る土埃は、もしや雨天時に開口部から流入した泥が乾いたものではないだろうか。
         このまま放って置くことによって、例えば足元の構造躯体の鉄筋が錆びて爆裂が生ずるのではないか、と懸念された。中性化の程度や如何。構造躯体を常に水分と接触させるような状況は、今すぐ回避しなけなければならない。
         
         ただし、この原因は建物自身によるのではなく人為的な経緯による。それは、周辺で行なわれた区画整理の造成による残土が、3メートル位の高さで送信所建物すれすれにまで運ばれ押し寄せたためであった。その結果、建物の1階部分外周は谷底のような状態となり、常に湿った状態に置かれた。さらに大雨の時は、床面付近から泥水が内部に流れ込んでもおかしくない状態となっている。
         検見川送信所の建築としての価値が認められた現在でもこの状況が変わらないことから、実は、今回の内部視察の際、JIA関東甲信越支部と「検見川送信所を知る会」は市長に緊急対策を要望した。排水設備などの対応策が考えられるが費用の問題があり簡単ではないのかもしれない。しかし、早急かつ出来る限りの善処を求めたいところである。

         (右画像は、2007年秋撮影の建物東側。1階がほとんど地中に埋まったかのように見える)









        2009.11.08 Sunday

        【記録】検見川送信所内部視察記(2)

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           引き続き検見川送信所内部の画像をご紹介する前に、一応、間取りを示したい。上図は、唯一伝わる古い1枚の平面図に基づいて作ったものであり、従って図面に書かれていた室名は、送信所が業務を始めた当初の頃のものということになる。恐らく、当初の室名通りに使用された期間はそう長くは無かったはずで、新技術の導入による内部の改造と共に変化していった。
           ある程度目立った改変部分としては、北側の機械室の吹抜けの空間が床で塞がれた点が挙げられよう。吹抜けであった範囲は2階レベルの板張りの床となり、北側中央の開口から、昭和12年築の棟(これも吉田鉄郎の設計による。非現存)に渡り廊下で結ばれた。現在も、ところどころ穴の開いた木の床が残っていてとても危険な状態であった。
           前回の記事(1)で示した画像は、2階の廊下、2階の真空管倉庫の出入口、1階便所の窓、2階発振室付近であった。
                                           ***
                  
           左上の画像は階下の発振室、つまり1階の窓。窓の上部に、碍子が残っている。通信施設らしさを名残りとして留めているのは、これが唯一かも知れない。右上の画像は2階の発振室だが、この小さな開口部から外の空中線につながるケーブルの束が送り出されていたらしい。つまり、ここから世界に向けて「声」が放たれていった。

           右は天井の詳細。全てではないが、梁にこうした繰り形風の縁取りがある。恐らく当時の電話局など他の建物で常套的なデザインだったのだろう。
           細かいところで様式的な部分が残っているあたり、時期的にはモダニズムへの過渡期であったことを示しているように思う。
           それにしても、施工の良さには感心してしまう。「機械が住むための建築」であるにもかかわらず。

           下の2枚は、階段室付近の腰壁手摺。最近の建物では見かけなくなった現場砥ぎテラゾーで仕上げられている。人の手などが直接接触する部分だからなのか、とても滑らかに仕上られている。天端部分の断面形状まで、パラボラ(放物線)形になっている。
           右下の1階階段の足元部分は、巾木などもカーブを描きつつ、きっちり納まっていて気持ちが良い。建物の本当の価値は、このように要素が混み入った細部が雑然とするか、きれいに納まっているかで決まると教えられたものだが、まさにその通りだと思った。

                        

           2階のメインの入口扉。当初の写真では半円窓が多数あしらわれたデザインだったので、この扉は2代目以後のものだろうか。扉はこうした窓付きで淡緑色のタテ羽目板張りが基本だったようである。
           吉田鉄郎は、戦時色が強まり資材統制が行なわれた時期に、いくつかの木造建築物を羽目板張りの外装で設計していた。もしも、それらとこの扉のデザインとの間に共通した部分が見出せたら、どんなにか素晴らしいだろう。

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