くじら館
1958年,山口県下関市,施工大林組,現存(撮影:2010年)
下関を訪れると、関見台公園(櫛崎城跡)の高みにあってまるで空飛ぶ巨大鯨の如き、シロナガスクジラそっくりの建物を目にして驚いた人は多いのではなかろうか。手間を惜しまずばかばかしい位徹底して造られたその擬態ぶり、巨大観音像を除いた直喩建築としては恐らく日本随一なのではなかろうか。
遠い昔、私が子供だった頃にこの建物には思い出がある。親に連れられ下関に行くとまず目に飛び込んでくるのが、遠くに見えるこのクジラであって、俄然目を輝かせては親子共々そちらへと向かった記憶がある。それは旧下関水族館の別館であった。なにせ絵本で読んだばかりのクジラに飲み込まれるピノキオの気分が味わえるという期待を胸に入ってみれば内部空間も、天井に見える骨組みは文字通りくじらの肋骨であって驚いたものである。
絵本と違う点はクジラのお腹への入口が口から飲み込まれるように入るのではなく、お尻の部分が入場口となっていたことであろうか。
2010年、あれから四十数年ぶりに坂道を登り再訪した。既に水族館としての役目を終え、閉鎖されたまま巨大オブジェのような姿で確かに存在する「鯨館」の建物を目にしたときの気持ちは、昔にタイムスリップしたようなめまいと同時に、残っていてくれてよかったという安堵の気持ちであった。
水族館の本館のあった場所には病院が建っており、現在の水族館は別の場所で「海響館」と呼ばれる立派な建物として賑わっているらしい。
話変わって現在、地元では下関花卉農協青年部の制作による脱力系映画「ハナセイバー」のフライホエール号として活躍しているらしい。
以下、2012年の追記。
そもそもなぜこうした建物が存在しているのかが、ずっと続く疑問であったのだが、捕鯨がまだ盛んに行われていた当時、大洋漁業(現マルハニチロホールディングス)が「下関大博覧会」の開催に合わせて建設し、市に寄贈したのだそうである。
2012年の新聞に建設を担当した方の記事が掲載され、熱意の賜物であることが語られた。(下図はその記事のネット版から)
下関南部町郵便局(旧・赤間関郵便電信局)
いつものように、おさえておきたい歴史的建築物と個人的嗜好だけの建物がごちゃまぜの探訪記録であることには、もちろん要注意なのです。
1900年,山口県下関市,逓信省(三橋四郎),現存(1984年改修) (撮影:2010年)
江戸期の北前船、明治以降は有数の漁港と貿易港としても栄えた下関において、1896(明治29)年の唐戸湾の埋め立て整備はひとつの引き金として作用、外国の商館や領事館が集り町並みを形成するまでに発展した。
今日では海産物の観光拠点としてにぎわう一帯に、旧・英国領事館、旧・秋田商会、そしてこの旧・赤間関郵便電信局が建つ(前二者は丁度改修工事中のため見られなかった)。
この局舎は、煉瓦造で現役郵便局として日本最古。設計者の三橋四郎は、陸軍省,逓信省,東京市を歴任し、設計と同時にや技術的な改良に腕を振るうも1915年に48歳の働き盛りに逝去した。三橋の経歴においても、これは最も古い現存作例に位置する。
1983年に改修を受けたこのファサードは、遠目に一見下見板貼り風でもあり、寄るとアーチの辺りは積石風に目地が付けられていたのが判る。横目地をとって吹付材で仕上げられた装飾目地であったので、どうも奇妙な感じを受けたのだが、やはりこれも調査の結果に基づく復元的改修であったと知る。創建時にも煉瓦の構造体の上に横目地入りの漆喰塗りの仕上げが行なわれていてことが判明し、基本的に踏襲した改修工事だったのである。(*1)明治期洋風建築らしい自由な発想がしのばれる。
中庭側は今も、煉瓦と漆喰の外壁が歴史の風合いそのままに残されているらしい。
*1:観音克平「煉瓦造郵便局の耐震改修に伴う調査研究」(日本建築学会学術講演梗概集,1998)
旧・宮崎商館
1907年,山口県下関市,設計不詳,現存(撮影:2010年)
かつて入居していた店名から「ロダン美容室」とも称され、さらに遡っていくつかの外国人商館が入居していたとの情報がある。ここでは石炭輸出業の宮崎商館として明治40年に建てられた、という情報に従う。
確かに旧・英国領事館と類縁関係にありそうな英国風デザインの本格的な建物。アーチの並んだバルコニーはとても美しい。誰が設計した建物なのか、知りたいところ。
そのせいか、建物を眺めていると「商館」という言葉がぴったり来た。下関は外国人居留地だったわけではないのだが、対外貿易港としても栄え、外国人商館も少なくなかったはずであり、つまりそれにふさわしい町並みが存在していたに違いない。例えば横浜にかつて軒を連ねていた居留地商館街と似た風情を持っていたのではなかったかと、想像される。
右の画像は、「田中絹代ぶんか館」の屋上バルコニーから眺めたところ。本来は瓦葺きだったのではなかろうか。また、手前の今は駐車場となっている場所にも洋風建築の「下関商工会議所」が建っていたらしい。
山口銀行旧本店(旧・三井銀行下関支店)
1920年,山口県下関市,長野宇平治,現存(2005年耐震補強&復原工事済) (撮影:2010年)
この建築は竣工した1920(大正9)年と言えば、分離派建築会が結成された年でもある。分離派の人々(あるいはそれ以前の「虚偽論争」に遡って)は、セセッションやネオ・ルネサンスを標的に、構造体と建築表現の不整合に対して無反省な当時の状況に問題を抱き、自らあるべき創造に向って歩を進めんとした。前衛デザイナーの出現期であった。
一方、長野によるこの銀行は様式建築としての巧さを遺憾なく発揮しつつ、構造体は煉瓦と鉄筋コンクリートの併用によるものであった。デザインは保守的ながらも完璧、構造体は先端を走っていた、という性格の建物であり、当時の状況を反映する模範的な事例と言えそうだ。こうした建物が建つ中で異議申し立てを行なった分離派の勇気のほども想像したくなる。
ところで、新工法たる鉄筋コンクリートにおいて、さらにこの建物には「カーン式」というアメリカ人の特許工法が用いられたことが、建物を紹介するサイトに記されている。
当時の鉄筋の配筋方式として、フランス式の「エヌビック」式と上述の「カーン」式が代表的であったが、結局、「カーン・バー」による配筋は定着がうまくいかず関東大震災で被害を出して以降、廃れてしまった。
最新技術と一口に言うけれど、それらは淘汰の歴史の中にも包含されていたのである。敗れ去った技術は歴史の表舞台から姿を消しているだけに、それが埋め込まれている建物だと思うと余計に愛着が沸いてくる。
田中絹代ぶんか館(下関市立近代先人顕彰館)
1924年,山口県下関市,逓信省営繕課,現存(保存再生工事完了)(撮影:2010.2.13)
祝再生!−旧・下関電信局電話課庁舎
1999年末に保存が決定されてほぼ10年、ついに保存活用の工事が完了し、下関出身の先人の偉業を伝える記念館として再スタートを切った。
1階は「ふるさと文学館」と「ミニホール」、2階は「田中絹代記念館」、3階は「休憩室」と「屋上テラス」という構成だ。
ところで、工事着工直前になって、電話局舎としての竣工当時の内部の映像を示す写真帳が発見された(ここのページに置いたもの)というラッキーな事情もあって、これを活かした内装も再現されている。
この写真帳によれば、もともと1階は「電話試験室」、2階は「電話交換室」、3階は「休憩室」であった。
私はこの写真帳を携えて、矢も盾もたまらず、開館式典当日に蘇った建物を訪れた。16年ぶりということになる。
ここでは、撮影した画像をとにかく貼り付け、美しい建物の姿をご紹介したい。なお、この段階で旧逓信庁舎時代の名称は「下関電信局電話課庁舎」とされている。
どんよりと曇って、時折雨が降る寒い開館式典当日であった。
しかし、夕暮れ時にひとりだけで再度建物を前にした時、雲が割れ明るい光が差した。ほんの数十分の日が落ちるまでの間に撮った画像である。まるで建物が私だけに微笑んでくれたかのようだった。
印象深いドリス式の半円柱、これは既に無き岩元禄による青山電話局に取り付けられていたものと同質。岩元禄の忘れ形見のように、ここに今も存在する。
右画像は1階、もとは電話試験室であった。梁ハンチの直天井の美しさを、さらに新設の照明器具が引き立てている。
左図は休憩室。ここは昔も電話交換手の休憩室であったのだから、基本的な用途は変っていない。
2階の元「電話交換室」に取り付けられていた、いわゆる「持ち送り装飾」。これで梁のハンチを隠していた。
とても珍しい特徴ある装飾。
右下の画像も2階の独立柱の柱頭部。同様にハンチを隠している。これも他では見られない独特の意匠。
さっそく、開館式典の記事が、翌朝の新聞各紙に躍る。大女優田中絹代と時代の花形職業たる電話交換手の元住処。時を越えて自立した女性たちが出会う、そんな性格がこの記念館にはあるようだ。
各新聞の中でも、映画だけでなく建物のことにも詳しく触れた下記記事は特に秀逸。敬意を表してUP。
旧・地震研究所の石飾り
1928年,東京都文京区,内田祥三(建築),岸田日出刀(石飾り),建物は現存しない(石飾りのみ保存)(撮影:2007年)
『ロダン以後』−建築と彫刻の邂逅(7)
最近になって『磯崎新の「都庁」−戦後日本最大のコンペ』(平松剛)を読んでみたが、結構面白かった。業界の内輪話として聞いたことがあるようなエピソードなどもうまくアレンジされており、例えば1950年代末、まだ若くこれからという磯崎新に対して、権威者として君臨する岸田日出刀が一言「作為の無きように」といった意味のアドバイスを発した話は、その本で初めて知った。もちろん磯崎はそんな忠告を全く無視して出来るだけ作為に満ちた「わざとらしい」設計を行ない、世に出る足がかりを築いた。
しかし、老境とはいえ自らを棚上げにして若者に忠告を発する岸田も岸田なのである。1920年代の若い頃の岸田日出刀は表現主義指向にどっぷり浸っており、内田祥三が進めるゴシックで統一されたキャンパス計画という「たが」を上手にすり抜けながら、自己表現の場をしっかりと確保していた。結果的にはそうしたDNAが、丹下健三や磯崎新にまで受け継がれたということか。
上図の、つまり現在の地震研究所の正門に置かれた「石飾り」は、元は内田祥三設計による旧・地震研究所の入口脇外壁部分に取り付けられていたものであり、岸田日出刀が担当していた。その辺りについて、以前にも記事にした。脇にある説明文には地震計をかたどったもの、とある。しかし、実際こういう形の地震計があろうか?。私には地震計のイメージに名を借りた、岸田にとっての幾何学形象への偏執の表明としか思えない。つまり、岸田にとっての師である内田が進めた設計に、岸田は自らのミニチュアのイメージモデルを取り付けた。これを強烈な「作為」と呼ばずして何と称しよう。
一方、偏執的幾何学形象の実物大モデルは、実は1926(大正15)年の段階で、既に右図の建物として実現をみていたようだ(旧・医学部夜間診療所(現・広報センター))。
岸田は、その後に『過去の構成』を著し、その写真図版、とりわけ軸線に基づく幾何学的構成美が麗しい「朝鮮神宮」が丹下健三に影響を及ぼしたとされるが、こうした、より純粋な幾何学的構成美の称揚は、若かりし1920年代の岸田の幾何学への偏執とも、まったく無縁ではないであろう。
ロダン以後の時代において、建築家による建築の一部をなす彫刻的要素とは、デザインの主張を凝縮したモデルであったと、とりあえず締めくくってみよう。
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- 収蔵庫・壱號館
- ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
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