2023.05.10 Wednesday

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    2010.04.26 Monday

    大阪瓦斯ビルヂング

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      1933年,大阪市中央区,安井武雄,現存(撮影:1992年)

       以前にインスタントカメラで撮った写真で恐縮。だが、被写体は言うまでも無く戦前期を代表する近代合理主義の建築。黒ミカゲ石の水平ラインが御堂筋に映える。 大阪倶楽部に始まり徐々に歴史様式から脱却の度合いを強めた安井武雄自身にとっても画期をなす作品であり、その自信も露わに、「使用目的及ビ構造二基ケル自由様式」と、自らをして言わしめた。
       さて、ここでは、私なんぞが多言を費やして建物のことを解説する必要も無さそうなので、この作者の短い言葉の方にこだわって、いつもの妄言を記してみる。(長くなってしまった)
                        *
       というのもこの言葉、機能主義を標榜しつつも言葉の背後で様式主義の範疇にあるような点に引っかかったのだが、それと同時に、稲垣栄三氏が1950年代末に著した『日本の近代建築[その成立過程]』の最初の章の一文を思い起こさせた。
       「・・明治の折衷主義の時代は、日本のモダンデザインにとって否定すべき対象であったのではなく、むしろ育ってきたふところだった・・」(*1)とある。
       これは、明治期以来「折衷主義」として摂取に努めた歴史様式のデザインを、ある時点で否定したのではなくそれまでの延長線上における態度で「モダンデザイン」を受け入れた、ということを意味している。安井の言葉からも、これを裏付けるような感触が得られる。また折衷主義を自家薬籠中のものとした安井ならば、機能主義の思潮を独自の方法をもって形に取り込むことはそう難しい技ではなかった、ということなのかも知れない。
       また、同書はこう語る。
       「・・ヨーロッパでは、近代建築史は近代建築の華麗な闘争のあとであるが、日本の場合は、むしろ建築家architectの形成の過程、その社会的地位を徐々に向上させていく過程である・・」(*1)
       ここは日本に起こったモダンデザインの導入を西欧と対比的に捉え過ぎることへ警鐘を含むであろう。つまり、西欧におけるカウンターカルチャーとしての建築上の革命的転換が日本に場所を移して起こったためしなど無かったと、暗に釘をさしているようでもある。確かに、長い西欧の近代化の所産が、文化的内容も厚みも異なる日本に簡単に接ぎ木できるとする方がどうかしている。
       しかし、幕末,明治期以降の西欧の建築技術の導入と日本における定着と展開を展望した同書を読めば当然のように思えることが、どうしたわけかすんなり共有されているとも思えないのは、なぜだろう。「日本に近代建築への転換が無かったのなら、いまだに歴史様式建築とでも言うのかい?」と、浅薄な反論さえ聞こえてきそうだ。(*2) 我々の目を曇らす何かがあったのだろうか。もしや日本には日本独特の、互いを拘束し合うような近代建築幻想のようなものが形作られてきた、そんな「固有の経歴」に苛まれているのだろうか・・・。
                                     *
       過去後進国日本としては、西欧を範としながら「日本版ミニ建築神話」めいた建築の転換点を作り称揚することがあったと、仮定してみる。
       そうすると、私としてまっ先に思いつくのは、まず大正9年の「分離派」の勃興。分離派は建築界に大転換をもたらすものとしてもてはやされたが、どうもそれ以来西欧のモダンムーブメントと重ね合わせるような視線も無くは無いようだ。確かに「分離派」がある端緒を切り拓いたことは紛れも無い事実だが、近代建築の「萌芽」的存在としても喩えられる。(その実際のところを詳しく検証されたようには、今でも聞かない)。次に、まもなくして訪れた昭和初頭時期の若手建築家を中心とした活躍であり激流の如きモダンデザインの流入期。(「分離派」はその頃既に突き上げを喰らう対象となり、ややコピー的な受け入れ姿勢には懐疑を抱きつつ消散した)。そして、戦争の空白をはさんだ復興期へと繰り返される。他にもあったかもしれない・・・。
                                     *
       日本版の建築神話―ある革命的転換点の幻想が、もしも跋扈していたとしたら・・・。それがたとえ幻想の繰り返しであっても建築を生む活力として作用し、リアルな実体を生むために影響を与えていたのならば、それもまた、固有の近代建築の成立過程ということなのだろうか。

        *1: 『日本の近代建築[その成立過程]』(1.明治時代の文化形成の性格)より  稲垣栄三,鹿島出版会(再版)
        *2: 逆に、明治近代化以降の建築を一括して「近代建築」と呼ぶことはある。

      2010.04.17 Saturday

      高麗橋野村ビル

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        1927年,大阪市中央区,安井武雄,現存(撮影:2010年)

         せっかくの大阪探訪。前記の大阪倶楽部とほど近い高麗橋野村ビルも見学しようと思ったのだが、あらら残念。改修の防護ネットで上層部分がすっぽりと覆われていた。
         その隠れている部分は、Wikiによればこの通り。凹凸が強調された腰壁の水平ラインに、表現主義的な傾向が込められている。これはメンデルゾーンによる新聞社(*1)など外装の扱いと確かに似ていおり、その画像はここにあった(daili-sumus)。
        しかし野村ビルの場合、突き出た帯のような腰壁には、瓦が載っていて、ここでも和洋の折衷が行なわれている。つまり歴史主義のみならず、ドイツ表現主義建築家による近代的な要素さえも折衷主義的に選択され得るということ。

         安井武雄によるこうした造形姿勢と相俟って、エントランスの「月」や「竹(とのこと)」のイコノロジーも加わると、目にした瞬間は、まるで錬金術的な、と言うか神秘主義的な秘儀めいたものを感じるのだが、そうして片付けてしまう前に、恐らくこの「月」と「竹」にはちゃんとした理屈があるのではないだろうか・・と、私は踏んでいる。
         玄関に一対供えられていることからして、つまり何らかの易学的な意味を予想しているのだが、今のところ解らずにいる。

        *1:「ベルリナ・ターゲブラット紙本社」(1923)(調べると、「ルドルフ・モッセ出版社」増改築との呼称もある)

         
        2010.04.13 Tuesday

        大阪倶楽部

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          1924年,大阪市中央区,安井武雄,現存(撮影:2010年)

           関門海峡エリアは一区切りとして、いつかまたの機会に。今度は大阪の建物をいくつか。
                                      
           ここ大阪倶楽部は1914(大正3)年創立の社交クラブであり、今日も営々と続いている。安井武雄の設計によるこの建物は二代目にあたり、1924(大正13)年に竣工した。安井にとっては、片岡建築事務所からの独立と時を同じくする建物でありデビュー作にも相当する。
           中世ローマ近郊の町並みを思わせる古びた味わいが特色の外観は、日本人の心にぴったりくるのか人気も高いようだ。しかし85年を経過した築年数の結果によるだけではなく、アンティークな要素はもともとのデザイン意図として盛り込まれていたように察せられる。
           「南欧風ノ様式ニ東洋風ノ手法ヲ加味セルモノ」と、安井は竣工時の冊子の中でその主旨を説明した。「南欧風」の「様式」とあるけれど、ローマ近郊都市のバナキュラーな町並みを意識したとも言われ、そのテイストを採用したように思われる。(念のため、当節流行の木造住宅メーカーなどによる「南欧風」又は「プロバンス風」とは、考え方もデザインソースも共に一線を画すると思われる。)
           さらに、洋風のアーチや装飾窓と和風要素としてのアラベスク模様、その他私の知識の及ばない装飾が散りばめられ、ひとつのテイストのもとに渾然一体となった、どこにも存在しない新しい建築物が形作られる。これが安井独自の「和洋折衷」のあり方であろう。
                     
           ごく大雑把に言って、西欧19世紀のリバイバリズムの様相一般においては、作者の自由な思想や感覚に基づいて過去の歴史様式を選択しあるいは複数の要素を組み合わせることによって設計がなされていた。こうした創作態度をここで「折衷主義」と呼ぶとすれば、そこでは作者主体の感性こそが重要な機軸のはずであり、洋の東西を問わず過去をアレンジする卓抜な腕前が試されたことになる。
           また、明治初期の日本にJ.コンドルがもたらしたのもこの時代の歴史様式建築であった。
                                      
           大阪倶楽部もこの延長線上にありつつ、折衷主義の妙技が発揮された建物であろう。ただし1920年代ともなれば新しい問題として、例えば最新のSRCの構造体をデザイン的に取り込むことに腐心していたことも容易に想像される。そこに独自の自由な感性を発揮して解決に至る選択肢も生ずる。最小限の装飾と南欧風という趣味性で無骨になりがちな構造体をやんわり包み込むことによって、華美な装飾で埋め尽くさずとも目に親しくかつ思いのほかシンプルな外観が創出される。もしも厳格な様式が唯一選択されていたならば、もっと重厚で威圧的な建物になっていたに違いない。
           こうした推測をもってするならば、つまりは折衷という方法をもって感覚的に近未来の建築のありようを予見していたとさえ思えてくる。私がそのことを感じた極め付けは、リズミカルに繰り返すアーチの間の「トーテムポール」と呼ばれる部分―まさに、建築からオーダーが遊離し始めたのだ―。
              
                                        
           大阪倶楽部の事例だけを長々と取り上げた場で言うのは変かもしれないけれど、実は押えておきたい点があった。それは折衷主義などから近代主義への移り変わる時代の「曖昧さ」と言ったらよいであろうか。建築物の中にも、昭和初期の近代建築の中にも折衷的な感覚が息づいていることがあるし、逆に、歴史様式の延長上の見え掛かりを持つこの大阪倶楽部のような建築物にも、新しい時代への感性が作動しかけているものもある、そういうものなのだろう。このことを認めなければ語れない名建築は恐らく数多いはずだ。
           時代はつながっている。西欧近代の巨匠神話によってある日突如開闢されたわけではない、という考え方―これは、日本の近代主義受容の段階においてもどこか相通ずるように思える昨今なのだった。

          2010.04.04 Sunday

          旧・到津遊園子供ホール

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            1936年,福岡県北九州市小倉北区,設計不詳,現存(撮影:2010年)

             到津(いとうづ)遊園は、1932(昭和7)年に九州電軌鉄道(現・西日本鉄道)が運営した動物園兼遊園地。鉄道会社を経営母体として各地に出現した昭和初期のレジャー施設の古参のひとつであったが、1998年に一旦閉園。2002年に「到津の森公園」と改称した上、北九州市の主導で再開され現在に至る。
             この「子供ホール」は、広い公園のエントランスにも相当する駐車場に面して立つ。建物が竣工したのは1936(昭和11)年、「4・30 最新式の遊戯器を集めた“子供ホール”竣工」(『到津遊園50年の歩み』による)とある。盧溝橋事件が起きる前年のことであった。しかし、建物は竣工当初から大きな改造を加えられることもなく、現在まで、ほぼ当初の用途のまま保たれているようだ。

             なぜこの建物を取り上げたのか、一言で言うのならば、モダニズムを受容した日本の1930年代の典型例と、割と直感的に感じてしまったからに過ぎない。ただし、建築資材統制が始まる寸前でぎりぎり間に合った完成度の高い「国際様式」でもあるようにも思える。H.R.ヒッチコックとP.ジョンソンに日本の模範例として写真を贈ってあげたいところだが、ちょっと遅すぎたようだ。
             建物の外観は、一見して客船のデッキを模したと分かる極端に長大な屋上テラス、そして見晴らしの良い長い水平連続窓によって特徴付けられている。これらにより、催し物が行なわれる前面の広場とこの建物とが一体となった祝祭空間となろう(そうした光景は写真の記録として残る。)。
             しかし、無装飾で軽快な建物である反面、シンメトリカルな正面性も強調されている。極端に奥行きの浅いヴォリュームがそれに輪をかけている。(中央の玄関を入ると長細い空間となるが、前室としてのホワイエではなく、それそのものが「子供ホール」なのであった。)
             
             こうしたモダンな要素と古典的な対象性が洗練されたかたちで融合している点からだろうか。私は、文脈的には何ら無縁であると思いつつも、1930年代イタリア合理主義のアダルベルト・リベラの集合住宅や、やはりファシズム期イタリアの「海のコロニー」 (現在、片翼が水族館として保存活用)をなぜか連想してしまったことを、一応白状しておく。
             危うい時代には、不穏な重苦しさだけではなく、健康で光輝に導くユートピアもまた指向されたということだろうか。為政者の意図はともかくも、世界に通底する空気として。
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