2023.05.10 Wednesday

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    2010.06.25 Friday

    大阪ビルディング東京支店 第一号館,第二号館

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      【第一号館】 1927年,東京都千代田区,渡辺節,非現存(撮影:1981年)


                                                       
       【第二号館】 1931年,東京都千代田区,渡辺節,非現存(撮影:1981年)

       上の写真は、現在の日比谷ダイビルに建て替えられる以前、2棟並んで建っていた一号館と二号館の建物。今思うと、写真が3枚だけとは我ながら情けない。この建物に遭遇した時、古いながらもよく見れば彫塑的な豊かな外装が気になってシャッターを切ったと記憶している。渡辺節の設計であり、一号館を担当したのは所員時代の村野藤吾であったとは、後になって知った。
       近くには三信ビルももちろん健在であり、共々戦前のオフィス街の重厚な雰囲気を醸成していた。
                           
       現在のダイビルに、旧建物の装飾であったブタさんたち妖怪の群れなどが再利用されたわけだが、実はこれらをしっかり間近かに見たのは、写真をとってからほぼ30年ぶりのつい3日前のこと。
       個人的な感想を言ってしまうと、どうも新しい造形を見たような感覚にとらわれる。モノの持つ意味が別なものに変換されたと言うべきか。こうした活用法は否定出来ないのだけれども、少なくとも「保存」という言葉とはどこか隔たりがあるような気がする。
       また、以前の建物にあってこそ生きた装飾として機能していたと思わずにいられない。昔の建物に濃厚だった風格や中世的なテイストが捨象された場合、こうならざるを得ないということだろう。
       尤も、現在の建物しか見ていない方には、すべて余計な話なのかも知れない。ただ、大阪のダイビルの今後を案じつつこのように思う。
                        
       バブル期以前の1980年代頃は、こうした昭和初期の建物もまだあちこちに建っていて、古い建物が失われることの危機感は、正直言ってあまり感じていなかった。むしろ昭和初期の建物については自分の目を試すつもりでセレクトしながら撮ったつもりだったのだが、ここまで風景が一変すると、それで良かったのかと思うことがある。
       後悔先に立たず。
      2010.06.20 Sunday

      博報堂旧本館

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        1930年,東京都千代田区,岡田信一郎,非現存(撮影:2009年)  

         昨年5月初旬に撮った写真。長らく閉鎖された状態であったと見受けられ、活用を模索しているようにも思えて通り過ぎた。だが、その後解体の方針が打ち出され、今日現在はすでに影も形も無い。
         様式建築の名手として名高い岡田信一郎の設計による建物だが、岡田の建築についてはその名声の割りに残っている建物が意外と少ないようだ。そうした要因も手伝ってか、保存活用の道を望む声は急速に高まったのだが、結局は保存は困難ということになった。だが、今ここで恨み節を唱えようとは思わない。私は、むしろ何かしら「得たもの」の方に焦点を当てておきたい。

         その「得たもの」とは、解体前に十分な調査がなされ記録が作成されたということ。もちろん建物そのものが残されるに越したことは無いのだが、所有者側が建物の価値を認識した上で次善の策として行なわれたようなのである。
         私は、解体を前提とした「記録保存」という語彙は好きではない。「記録」は「記録」だからであり、「保存」とは実物が残って「保存」なのである。しかし、こうした言葉のまやかしを抜きにするならば、ある一定の時を生き抜いた建物については、調査記録の作成が重要なことは言うまでも無い。しかも建物の有名無名に拘わらず。
         近代化の途上で模索され試行されたものの結局は淘汰されてしまった技術や建築材料、その工業技術に押されるなどして消えてしまった伝統技術、あるいは無名ながら卓抜な技能などは、人間の営為からして膨大であったと想像される。しかし、建造物など実例が消滅することによって、技術の歴史の記憶から次々と抹消されていく。このような技術の蓄積は、構築技術、施工技術、材料などに及び様々な部分に潜んでいる。実は、これらを出来るだけ拾い上げストックし、将来につなげておくことも、とても大切なことであるに違いない。事実、この博報堂でも興味深い工夫が記録されたようである。
         一個の建物全体の価値だけに目を奪われ、保存か解体かの二者択一に捉われると、部分に込められた価値が見逃されないとも限らない。博報堂については、(これが保存の可否に影響したわけではないが)言うなれば、保存運動とはまた別の次元として調査と記録の重要性に気付かせてくれたものとして受止めたい。

         さらなる詳報が、『ディテール』誌185(最新)に掲載されています。
        2010.06.15 Tuesday

        鎌倉商工会議所

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          1969年,神奈川県鎌倉市,武基雄,現存(撮影:2010年)


           草木萌え出でて晴天もまぶしい4月の鎌倉、その鎌倉で生まれ育ったある老練の建築家(Y氏)と再会した。鎌倉駅西口方面で、Y氏によるところ「日本一良く出来たスタバ」において歓談した。

           振り返ること十数年前、私は少しばかりY氏の設計事務所の仕事の手伝いをしていたことがある。
           その頃のある日のこと、Y氏が父君の名を口走るのを聞いて私は一瞬ビビった。八木憲一・・・といえばまず、岩元禄と帝大の同期生で、戦前の清水組の設計部に入社し新宿伊勢丹百貨店などを設計し・・・など、僭越ながら本で知った憲一氏の経歴を教えて差し上げた。
           Y氏は、親父が清水組で働いていたことは知っていたが、そういう偉い建築家だったとは、私が言うまで気がつかずにいたらしい。「佐野(利器)さんが家に来ると聞くたび慌しかった、と子供心に記憶している位かなぁ」などと事も無げに話される。
           しかも、当のY氏自身も、父親の七光りとは全く無縁で、自らの意思で建築の仕事を切り拓いて来られたそうなので、なお驚いた。

           そんなY氏との歓談は、地元鎌倉の話題へ。(ここからやっと本題です)Y氏推奨の「日本一良く出来たスタバ」の並びには、やはり地元の建築家武基雄の「鎌倉商工会議所」がある。
           Y氏は、生前の武基雄が地元鎌倉の町並み作りに熱心であったこと、特に鎌倉駅舎の建て替えの際にもがんばっておられたことにも話しが及んだ。そして、「ここに居るので見に行ってきたらいい」 「では、お言葉に甘えて。すぐに戻りますんで」 という成り行きで、ここに掲載の写真を撮るに至った。
           大スパン構造を可能にする格子状の「ワッフルスラブ」とそれを受ける柱の頭は、ピボット支承だろうか。
           構造技術を表出させることは、当時のデザインの本流であったのだろう。
           もっとも、時代を遡って思いを馳せてみよう。コルビュジエに心酔し力の流れを偽ることなくデザインとして昇華させることに意を注いだ建築家丹下健三と武基雄とは若い時分から交流を持っていたとのことであり、そこから推して、力学に敏感であることは、いわば同時代的な共有感覚であり、その点の草分けであったのかも知れない。

           商工会議所から戻ると間もなく、関西から建築史の先生も到着、ともに夕闇迫る古都の懐に抱かれ建つY氏の自宅へと向かい、さらなるもてなしを受けた。まさに贅沢な一日だった。
             
          2010.06.13 Sunday

          古川市民会館(現・大崎市民会館)

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            1966年,宮城県大崎市,武基雄,現存(撮影:2010年)

             新幹線車窓のガラス越しで、ごめんなさい。次はじっくり訪問させて頂きます。・・・と、心中建物に詫びつつ、諦められず未練たっぷりにカメラを外に向けて待つ。
             まもなく、視界に入ったのは、列車の加速と相俟ってか、飛翔するかの如き軽やかなその雄姿。構造合理性を一遍の詩として昇華させた建築との一瞬の出会いは、幻を見たかのよう。

             武基雄は、早稲田を卒業して昭和12年に石本喜久治の事務所に入り、同期入所で詩人でもある立原道造と親交を深めた。
             武は後年、立原のことを、「目に見えぬものを目に見えるようにし得る数少ない建築家の一人だったろう」(*1)と、評している。
             なぜかこんなことが頭をよぎった。新幹線は北へ北へとひた走る。

              *1:『石本建築事務所50年の軌跡』より
            2010.06.04 Friday

            大阪管区気象台跡 顕彰碑

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               かつての大阪測候所付属の地震計室、それは「ドイツ表現主義」と呼ばれた第一次大戦前後の西欧の苦悩と狂気の時代の表現をほぼそっくりそのまま日本に持ち込んでしまったような建物であり、飛び抜けて奇怪な容貌の建物ながら、それは昭和43年まで存在し続けていた。以前、私のHPでも取り上げた。
               今年1月、普段から気になっていたその建物の跡地に行ってみたくなり、先の記事で触れた「ロート製薬」共々訪れることにした。跡地は現在、大阪市生野区の御勝山南公園となっているのだが、行ってみると待ち構えていたように、右のような立派な碑が建っているので驚いた。調べてさらに驚いたのだが、わずか1ヶ月前の昨年の12月に除幕式を終えたばかりらしい。私は、そうしたこともつゆ知らず、引き寄せられるようにここにやって来たのだった。人々の生活に密着した観測を行なう大規模な施設の存在は、付近に住む市民にとっても大きな誇りであったのであろう、長く記憶に留めようとする意思は健在であった。
               過去を知るよすがなど何も残されていないだろうとタカを括っていた建築マニアの私にとっては、思わぬ収穫であった。しかしそれよりも貴重な経験だったのは、これを建立した気象台OBの誇りに満ちた数々の功績の記憶など、人間の営為はたとえ建物が消え失せようとも消すことは出来ないと知ったことであり、そのことを証明する石碑に対面して思いがけず敬意の念も沸き起こった。

               左の写真がかつての地震計室(『近代建築画譜』より)で、1928(昭和3)年に竣工した。測候所の本館はこれより後れて1933(昭和8)年に竣工し、共に大阪府営繕課の設計によっていたのだが、なぜか地震計室の強烈な表現は、本館には見当たらない。
               地震計室は、どう見てもメンデルゾーンのアインシュタイン塔から直接影響を受けた建物に違いないが、その亜流としての徹底ぶりには脱帽の思いだ。目を凝らして写真を見ると微妙な変化に覆われた曲面で出来ていることが分かり、建設には相当な労力と執念とが注ぎ込まれていたものと察せられる。
               しかし、いわゆる「表現主義」の建築は、建築の歴史の一過性の出来事として顧みられなくなっていく。覇権を握った合理主義的な見方からすれば、不当にも悪趣味で不道徳的な蔑視の対象とされた。近代的特質は多く備えているはずなのだが。もしかしたら、こうした稀少な近代の建築実例がよりマシな評価を受ける時が先々やってくるのかもしれない・・・。(やや似通った現存例としては、他に「検見川送信所」がある位だろうか)

               碑の裏側には、気象台の沿革と右のような気象台の全景写真とがはめ込まれていた。勝山通り沿いに見える四角い大きな建物が本館、その奥で右に見えるのが地震計室であることが分かる。古い町屋の佇まいは今も所々に残っているように感じた。
               碑の沿革文の内容は、大阪管区気象台として昭和8年から昭和43年までこの地にて稼動していたこと、第2室戸台風の際には的確な防災対応が市民を守り大阪市民文化賞を受賞したこと、昭和29年に日本最初の気象レーダーが設置されたことなどが書かれていた。
               地震計室の奇怪な風貌とは裏腹に、意外や防災拠点として市民の暮らしに貢献し、親しまれる存在だったらしいことも、この碑の沿革を読むことによって知ることができた。

               

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