2023.05.10 Wednesday

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    2010.08.29 Sunday

    旧・日光ユースホステル

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      1959年,栃木県日光市,芦原義信,現存(撮影:2010年)

       大学生になりたてだった遠い遠い昔のこと、当時から健全な青少年の(!?)私はユースホステルに宿泊しながらひと夏かけて全国の建築物を見て回った。夜にはペアレントさん主催のミーティングがあったような記憶もなんとなくは残る。
       残念ながら生きた形での日光ユースホステルには縁が無かったが、今年になって夏草に覆われ廃墟と化した建物を訪れることになった。DOCOMOMOで知り合ったK氏からの誘いによるもので、なんとなく図書館でデータを調べたらこれが結構優れモノ、彼いわくの「サルベージ隊」参加準備を進めつつ引き込まれていった。そして先週、汗だくで藪に分け入り毒虫の攻撃をうけつつも夢中でシャッターを切っては遠い昔と同様の自分を見出し、自らの業の深さを確認する。
       参加者も短期間の募集の割りには結構集ったようで、すなわち建物の価値の高さを物語っていた。
       ここに示した画像のうち3枚のモノクロ写真は1959年の『建築文化』に掲載の写真なので、あらかじめおことわりを(それ以外は私が撮った現況)。
       シャープなコンクリートと荒々しい石の壁体のコントラストがたまらなく素晴らしい。実際に訪れてみたら、意外と良く残っている。そして、それほど多額の費用をかけずとも修理が可能で、リッチな空間が再生できるだろう、との意見が大勢を占めた。この石の壁や立派な暖炉を一から作ろうと言っても、そう易々と作りだせるものではない。ぜひ大切にしてほしい。


               
       現地では、見学会を企画したNPO法人「日光門前まちづくり」の方々が事前にある程度草を刈るなどして我々を迎えて頂き、さらに当時のペアレントさんが思い出話などを熱く語ってくださった。「建物が一番喜んでいる」と意気揚々とした語りは印象深く、地元の方々のこうした建物への愛情は必ずや実を結ぶであろうと確信した。
       建物を設計した建築家芦原義信は、戦後1953年にハーバード大学で修士号を取得、その後マルセル・ブロイヤーの事務所に入所した。帰国後、ブロイヤーへの憧れを率直に反映した唯一の建物がこの日光ユースホステルということになろう。
       またこれは日本最初の本格的ユースホステルであり、手探りの末ひとつのホステルの典型が獲得されたと言われる。男性用女性用に分かれた宿泊ウイングの中央に食堂と、大型暖炉を備えたホールがある。この暖炉の真下、すなわちピロティ部分には、打ち放しコンクリートのバーベキューコーナーまである。
       コンクリートのバタフライ屋根や石の壁の荒々しさは、ブルータリズムの旗手ブロイヤーの流れを正確に受け継ぐ。「荒野のモダニズム」は、なぜか日光にあり。

            











      2010.08.14 Saturday

      空襲直後の目白文化村

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         それは1945(昭和20)年4月13日の空襲(Chinchiko Papalog参照)と思われる。焼け野原と化したかつての瀟洒な住宅地。文化人が多く住む下落合一帯にあるのは瓦礫、そして黒く焼けた木々はさながら亡霊のようでもある。日頃取り上げている「建設的」状況の対極、二度あってはならない絶望の光景をあえて掲げる。

         まだ炎熱冷め切らないとも思われるさなか、これら写真の撮影は、不世出の彫刻家荻島安二のパトロンN氏による。荻島とN氏の関係については以前記した (「葵館」レリーフの彫刻家−荻島安二)。
         N氏は、自慢の文化住宅も収集した彫刻もすべて灰燼に帰した自宅敷地とその周辺の有様を、おびただしいコマ数撮影していた。およそ冷静でなどいられるはずが無いところ、ぎりぎり保持した現実を直視する冷徹な眼差しをもって、印画紙に刻み付けたのであろう。
         私はN氏遺族との親交の経過の中で、これらの写真を見出すに至った。本来なら躊躇し控えるべきところ、アルバムの中の酸鼻の光景に驚きまたN氏の写真にかける厳しい姿勢を垣間見るや、了解のもとたまらずアルバムに直接カメラを向けて撮っていたというのが、上記の画像取得のいきさつである。(所々まだらに光っているのは、そのせい)

         N氏は「小西六」(当時)に勤務する写真業界人であり、もともと新しい物事が好きな「モダンボーイ」であった。フィルムをこの時期所持し得たのは主にそうした職業柄からであろう。左下の写真は空襲以前のN氏撮影による自宅。手前の門柱は空襲後も残り現在でも残っている。また芸術家を見出す確かな感性の持ち主であったことは、右下の画像のような彫刻作品が置かれた室内に窺い知ることが出来る。(右下のみ『主婦の友』(1924.2)掲載写真)
         まさに昭和モダンの最良の部分を体現した温厚なN氏が遺すことになった上記の破局の映像を見るにつけ、やはり時代の皮肉を考えずにいられない。それにしても一体どのような心中だったのか・・・。


          








        2010.08.14 Saturday

        カマボコ兵舎のある風景−2 (墨田聖書教会)

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           こちらも、教会として使い続けられているカマボコ兵舎。東京都墨田区のこの教会は1954年の創設とあり、当初から兵舎が使われていた。
           昨年訪れた際はお留守だったのでお話を聞けずに写真だけ撮らせて頂いた。しかし大体のことはブログに詳しく語られている。2008年にリノベーションされたそうで、古くなっても思い入れのある建物を創意工夫で蘇らせる、そんな前向きの考え方はとても好感が持てる。

           なお、世界に目を向けカマボコ兵舎の利用の仕方を探ってみると、色々あって楽しい。
           このアルバムはアメリカの雰囲気がいっぱい。quonset hutは第二次大戦以降も生産されていたのかそんなに珍しくもないようだ。あるいは、このThe Italian Chapelともなると、仮設性を遥かに超越している。イタリア人捕虜によるようだが、ミケランジェロも青ざめんがばかりの芸術作品に高められている。

          2010.08.08 Sunday

          カマボコ兵舎のある風景−1 (カトリック世田谷教会,下北沢)

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             「カマボコ兵舎」・・・終戦直後、日本を占領した米軍によって多数持ち込まれた半円筒形の簡易な組み立て式の兵舎(quonset hut)を、一般にこう呼んでいるのだそうだ。
             恐らく、誰が呼ぶともなく呼称されるようになったであろう「カマボコ兵舎」とは、ある年代以上の人にとっては、敗戦後の忌まわしい記憶と雨露しのぐことが叶った恩恵の念とにより、複雑に絡んでは乱れる思いを呼び起こす形状だったのではないだろうか。これに付き合いつつ心の痛みをそらし、心の均衡を保つためにはちょうど良い呼び名だったのかもしれない。
             ・・・などという、いずれにせよ私の生半可な想像など受付けもしないであろう終戦直後の実像、ひいては建築的空白と言われる時期の一端に少しでも触れることが出来ればと、カマボコ兵舎を訪ねてみることにした。

             兵舎の組み立て方は、動画による解説があるのでここを見た方が分かりやすいだろう。丸い屋根の仕上げは波板葺きが基本で、室内環境はお世辞にも良いとは言えなさそうだ。
             駐留米軍にとって不要になったそれは日本人に払い下げられ、あるいは慈善団体を通して寄贈される例もあったらしい。引き揚げ者のための住居や学校,診療所,教会など様々な用途に利用されることになった。もしかしたら、今も日本のどこか、人目につかぬところでカマボコ兵舎が使用されているかも知れない。
             さてこれらの画像は、比較的知られた事例である。下北沢のカトリック世田谷教会の敷地内に建っていて、撮影したのはちょうど1年前(2009年)の夏のこと。
             同教会は1946(昭和21)年に創設、翌1947年、現在地に移り米軍放出のカマボコ兵舎で集会を始めたことがHPに記されている。その後、「信徒会館」として使用され役目を終えた後は1棟だけが残された。しかし、現在も災害時の避難所ということなので、いまだ現役と言うべきかも知れない。





             そしてこの教会の聖堂のすぐ側には、立派なルルドの洞窟がある。これも教会創設の頃、信者らの手作りによって成されたと伝えられる。近くで得られたコンクリートのガラを材料として活用している。
             このルルドは、精神的な豊かさは物質的貧困と相関しないことを物語っているようであり、さらに利便性と虚飾を旨とする者には到底望み得ない境地を具現化しているかのようだ。そうした信者手作りのルルドや聖堂、それにカマボコ兵舎は、どんな力にも屈しない精神的強さを内に秘めたまま、夏の強い日差しのもと、あくまでも静寂であった。あるいはこれ自体、現代の奇跡か。(*1)

             さて、教会を後にして下北沢の駅に戻り、とある所から「下北澤驛前食品市場」を見下ろしたのが下の2枚。(これも撮影は昨年夏)戦後の闇市の名残りを伝える数少ない商店街であり、1949(昭和24)年にはアーケード化されていたとの報告もある。(*2) 現在、再開発計画の進行をよそに若者を中心に見直されているようだ。確かにここは、最近の町並みに見られる作り物の偽物っぽい景観とは違い、濃厚な生活感そのものが形を帯びて迫ってくるためか、妙にリアリティーがある。
             それを構成しているのは、トタン(=亜鉛メッキ鋼板),カラー鋼板,あるいは塩ビ系など各種素材による「波板」がかなりの部分を占めている。波板は「カマボコ兵舎」の仕上げ材でもあった。このフレキシブルで簡易な「波板」という材料は、戦後昭和の原風景を形作る大きな要因であったように思えた(*3)。






            *1:教会ですので、見学にはご配慮を。

            *2:「下北澤驛前食品市場の形成と存続要因 : ヤミ市を起源とする商業空間の考察」(佐竹忍,波多野純 2007年度日本建築学会関東支部研究報告)による

            *3:参考として「日本のローコスト建築における波板の普及」(加藤雅久 2010 Docomomo ISC Technology Seminar)


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