2023.05.10 Wednesday

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    2010.09.25 Saturday

    法政大学55年館/58年館

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      1955,1958年,東京都千代田区,大江宏,現存(撮影:2010年)

       大江宏と言えば、日光東照宮の修復や明治神宮宝物殿などで知られた大江新太郎の息子。そのデビュー作がこの法政大学の校舎であり、法政大学大学院(53年館)(非現存)に続いてこれら55年館と58年館が建てられた。正面に向って右側が55年館、中央のピロティを含む左側の部分が58年館であることは調べてみて知った。しかし、施工時期こそ分けられたものの殆ど一つの建物に見える。

       第二次大戦後の泥沼からの立ち直りを期すべく建物の建設がにわかに活気付いた1950年代の建物だけあって、モダニズムを謳歌したファサードいっぱいのガラスカーテンウォールが清々しい。そして(誰でも大なり小なり影響を受けたとされる)コルビュジエ的な要素までも、建築家それぞれのやり方で咀嚼する喜びのようなものが垣間見える。例えば、ブルータルな扱いとしての打ち放しコンクリートや色ガラスなどとして。
       その一方で、白いガラスの部分は和紙を貼った日本の障子戸を表象しているようで今日的な目で見ると新鮮なのだが、この類例は他にもあった。すなわち6階建だった頃の東京駅旧八重洲口
                                     
       さて、当時の大江宏の建築姿勢についてもっと知ろうとしたら、崔康勲氏の詳しい研究があることを知った。完全な理解はおぼつかないまでも、以下、少しがんばってひも解いてみる(*1)。

       法政大の設計を終えた大江は、堀口捨己が設計した「サンパウロ日本館」の監理を依頼され、1954(昭和29)年に約半年間日本を離れている。この堀口の建物は寝殿造りに基づいた日本の伝統美を堪能させてくれる木造建築であった。しかし、これに対して池辺陽は、社会から隔離された芸術だとの批判を発し、ここにもひとつの「伝統論争」が着火した。この論争は縄文―弥生の論議で知られた丹下健三だけではなく、彼と同期生であった大江宏にも別の形で問いが投げかれられた格好となった。
       日本の伝統建築理解の第一人者であった堀口は、同時に分離派時代から日本建築に近代精神を表現することにも長じていた・・・と誰しも思いたいところであったのだが、(勿論第一人者は間違いないが)実際戦後の日本社会の置かれた状況を勘案していたかと言えばそうとも言い切れない面も見え隠れし、伝統に付きまとう「忌まわしき」部分について問題にされざるを得ないようなのであった。
       これを看取した大江自身の結論は、日本の伝統建築にこびりついた言わば因襲めいた部分に目を覆うことなく、むしろ濾過を行なう過程、「エッセンシャルなイメージを鋭く展開させる」(*2)ことを含めて創造的な行為とみなすのだった。
            
       大江はサンパウロの現場を終えヨーロッパなどを巡り帰国すると、着工を控えていた58年館に設計変更を加えた。そこでは学生ホール空間を改良すべく、京都南禅寺の座禅堂から抽出した日本の伝統的な要素との折衷を行なったことが、後に回想されている。純粋に合理性を旨とする近代建築の教義に従うだけでは大学というコミュニティは到底達成されないとすることを既に見抜き、そのことへの危惧が動機となっていた。(*3)
       そのような経過からすれば、この55,58年館は、既に近代主義への反省的な思考を建築姿勢として固めた建築家大江宏の原点なのかも知れない。恐らく、後の角館伝承館(1978(昭和53)年),国立能楽堂(1983(昭和58)年)など伝統的要素との折衷を試みた多くの作品とも、一本の道筋でつながっているのであろう。
                                   
       もちろんそうした経緯を知ろうが知るまいが、大内兵衛をはじめとした戦後の大学再建へ向けられた力の結実であるこれら校舎が、大学のアイデンティティーを決定する存在であろうことは、門外漢の私でも一度行ってみれば直感できる。ずっと存在使われ続けて欲しい建物である。
       

      *1:『「サンパウロ日本館」をめぐる「論争」の意味 建築家・大江宏の言説に関する方法論的研究』(崔康勲 日本建築学会計画系論文集 2002)
      *2:『古典の創造的昇華』(大江宏 「建築文化」,1956)
      *3:『「法政大学への遺言」における「建築」の意味』(崔康勲 日本建築学会計画系論文集 2004)



      2010.09.17 Friday

      ヒルポートホテル

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        1982年,東京都渋谷区,原広司,非現存(撮影:1982年)

         学生時代を思い出せば、最初の建築史の講義が始まる前は結構ワクワクしたのだった。なにせフランス帰りのM氏が我が大学で初めて教鞭を執ることになり、(当時はボロクソに言われていた)我々同期がよりによって初の講義を聴く栄誉に浴したのだったから。M先生はセーターを肩に引っ掛け颯爽と教室に現れ、皆を唖然とさせつつ講義をこなしたかと思えば、午後は都内で見学会をするとの予定を軽く告げた。そんな豪華な一日が週に一度は巡ってきた。
         竣工直後の原広司のホテルに立ち寄ったのも、そうした授業延長の見学会の時のこと。建物はとっくに無いらしい。

         世界の集落調査を行なった原は、東京都心のホテルをどう捉えたのであろうか。左右対称でごく控えめな屋根形部分を持つファサードは、おそらく共同体を秩序付けるシンボルとして適用されたと思われる。内部においては、都市が入れ子状に埋め込まれたか、虚構の世界へと誘われる雰囲気だ。
         都市という、均質で事実上秩序付けから放り出され隔絶された個人が行き交う場に、集落空間の構造を適用するということは、そこに予定調和的ではない未知の世界を現出するジェネレーターのような役割を与えているのかも知れない。ひとつの成果は、その後の発展形として名高い京都駅駅ビルに示されることになったように思われる。例えば、そのいまだかつて無い場を真夜中に訪れた際に思いがけず感じた、闇に潜む男女の群れと共有した自由な空気などとして・・・。




         
        2010.09.11 Saturday

        旧・メルパルク日光霧降

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          1996年,郵政大臣官房施設部, ヴェンチューリ,スコット・ブラウン・アンド・アソシエイツ 他,栃木県日光市,現存(撮影:2010年)

           かつてのポストモダニズムがどれほど果敢な攻撃的行為であったのか、これを見れば納得できるかも知れない。
           '70〜'80年代を席捲し、日本でも流行的な盛り上がりを見せたポストモダニズムの旗手ロバート・ヴェンチューリによる、「正統なる」ポストモダニズム建築。時代の熱気が過ぎ去った「祭りのあと」に、今なおらんらんと光るむき出しの刃に遭遇してしまった。

           人気の少ない道路を滑りぬけるマイクロバスに身をまかせ、到着すれば一見するなり、確信犯的に感覚を逆撫でする「俗悪さ」「アイロニー」の毒を目いっぱい吸収する。そして私達は癒されない頭を抱えて屋上に運ばれ、書割りのような露天風呂で身体だけ癒す。ついさっき見たばかりの日光ユースホステルの純正モダニズムとの落差に打ちひしがれながら。それはそれである種の「悦び」はあるが・・。
               
           外観:「への字」の破風板が二次元的に貼り付いている。しかしそれが反復されたことによる三次元的軒下空間は、現実的な空間とは異なるものなのだ。
               

           内観:花飾りの電柱。だからこそ、ここはメイン・ストリートと理解する。だが、ほぼ無人に等しい。

           ヴェンチューリは、それまでの合理性と機能性という教条の束縛に対して、「Less is bore(少ないほど退屈)」とミースの箴言を皮肉っては対抗策に打って出る。禁欲的で純粋な美意識よ、如何ほどのものか。退屈なばかりではないか。というわけで、ハイブリッド(混成的)で折衷的な、換骨奪胎を伴った様式的装飾と象徴性の復活を目指したのであった。著書『ラスベガス』において、商業建築にヒントを得て「装飾された小屋(decorated shed)」と「アヒル(duck)」を提示したことは良く知られる。この日光の建物では、「日本人が誰ひとり思いつかない日本的モチーフ」による「装飾された小屋」が現出されている。
                      

          ただ、そうは言っても装飾は良く見るとやっぱりアメリカ的だ。ロイ・リヒテンシュタインのポップアートの「網点」を彷彿とさせるなど、当然ながら作品性はキープされている。
           そして、20世紀末の建物としての最終的な到達点は、無残なまでに装飾という「機械」に占められた結果としての「不在」の様相であろうか。つまり日常的な意味の世界が喪失された先の。彼方を見て並んだマッサージチェアのように。


          2010.09.04 Saturday

          杉並会館

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            1967年,東京都杉並区,芦原義信,現存(撮影:2010年)

             芦原義信の建築をもうひとつ。1960年代の建築家たちは、皆でこの形に心酔していたのだろうか、そう言いたくなる位、稲掛けを模したとも言われる形はおなじみのシルエット。ここには既に日光YHの片鱗も見られない。

             芦原にとって日本的な架構表現の探求と言えば、駒沢体育館と管制塔(1964)、あるいはモントリオール万国博日本館(1967)などが代表格であることを、今更ながら調べて知る。それは建築家たるもの新奇なメガストラクチャーの創造主でなければならなかった時代。あるいは理知的装いで包んだ表現主義の一変形種の競演―肯定的な意味で・・・。
             そこへ来て杉並区の公民館という、住民誰もが自由に行き来できるスケールの建物に豪快な架構が大げさに取り付けられているのを見ると、建築家の気負いが割と通用してしまう、ある意味楽天的な時代の性格を感じる。
             内部の陶壁画は会田雄亮の作。 



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            ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
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