2023.05.10 Wednesday

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    2011.01.31 Monday

    川崎国際生田緑地ゴルフ場クラブハウス(旧・川崎国際カントリークラブ)

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      1951年,神奈川県川崎市,土浦亀城,現存(撮影:2011年) 

       戦前、F.L.ライトに師事しさらにB.フォイエルシュタインから西欧のモダニズムを吸収して乾式工法の住宅を多数手がけていた土浦亀城による、戦後早い時期に完成した鉄筋コンクリート造のゴルフ場クラブハウス。ちなみに土浦はこの他三原橋センター(シネパトス)やつい最近取り壊された上野の西郷会館などを、同じ時期に設計している。

       最近、私はこのゴルフクラブについて建て替え計画とその説明会が予定されていることを知り、とにかく行くことにした。ゴルフ場の存在は知っていたが何となく敷居が高いのではないか、などと今まで二の足を踏んでいたのだったがそうも言っていられない気分になった。公共ゴルフ場のためなのか、ありがたいことに突然の訪問にもかかわらず管理者の方々から親切かつ丁寧に建物の内外をくまなく案内して頂きことができた。(厚く御礼申し上げる次第です。)建物を見学しつつ、今から60年前の建物なので確かに表面的には古びて見えたものの丁寧に補修されつつ使い続けられてきた様子も窺え、私が見た限りでは手を加えればまだまだ使用に耐えるようにも感じた。
              

       建物は生田緑地の傾斜地に沿って建ち、まず道路際の一番高い所に割と控えめにクラブハウスのエントランスが見える(冒頭の画像)。水平庇が特徴的なこの建物に入ると、豊かな自然の中に広がりに抱かれたコースを一望のもとに見おろすことができ(上左右)、そして建物から張り出したカート乗り場に降りてコースに向う(右画像)。
       傾斜地を活かした空間構成は土浦の得意とするところであったようで、例えば有名な土浦自邸は好例であろう。師のF.L.ライト譲りということだろうか。このクラブハウスでは、高さレベルを異にするいくつかのフラットルーフの外部空間がルーフガーデンとなっていて、様々なレベルから素晴らしい眺望が楽しめる造りとなっている(*1)。
       また、内部のラウンジ(左下画像)や食堂には暖炉がそれぞれ1箇所ずつ設けられていた。クラブハウスの暖炉は今日ではあるいは常套的アイテムかもしれないが、特にこの建物においては暖炉のある空間を推奨していたF.L.ライトの影響が働いているのでは、もしや・・・などと想像を逞しくしてしまうのであった。
                    

                             
       終戦後の時代背景を考えたとき、限られた少ない資材をいかに有効に活用するかということは、恐らく設計上の大きなポイントであったと考えられる。
       建物の外壁には煉瓦がある程度用いられているが、当時煉瓦は比較的入手し易かった材料であったようなことをどこかで聞いたことがある。もしそうであったならば煉瓦は意匠上の効果というだけではなく、鉄筋コンクリートの部分を最小限に抑える手段として用いられたとも考えられる。それにしても、コンクリートの庇を見ると、今日では考えられないような薄さだ。
       スチールパイプの手摺も必要最小限に出来ていて、屋上ではちょっとドキッとする、と言うか今日的にはまずあり得ないようなシンプルな手摺。しかし無駄を省く単なる節約的発想だけではなく、極限まで切り詰めつつもそれを意匠効果として昇華させたいとする意思も確実に感じられる。あるいはこの辺りに、(豊かな時代に育った私など忘れがちになる点でもある)戦後のシンプルさを建前とするモダニズム建築の発達を後押しした考え方が潜んでいるのかも知れないと感じた。    

        


         *1:現在、実際にルーフガーデンとして自由に上がれる範囲は限られているようです。

      2011.01.25 Tuesday

      埼玉社会保険病院(旧・社会保険埼玉中央病院)

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        1968年,1970年,埼玉県さいたま市,山田守建築事務所,現存(撮影:2011年)

                  
         いつも京浜東北線で北浦和付近を通り過ぎるたびに気になっていたのだが、ついこの間のこと、ちょっと時間が空いたので下車してその曲面に彩られた建物を見に行った。
         全国のあちらこちらに点在する山田守設計の病院や学校は、一目でわかるほど共通した要素をいくつか備えかつ個性的なのだが、この埼玉社会保険病院北館の場合もそうした一連の病院建築と同様である。違うことと言えば、この建物は山田守が1966年に世を去った後に完成した建物ということである。後を継いだ設計者たちの手によって、山田の好み通りに曲面のある階段室やペントハウス、それに円形ガラスブロックなどが取り入れられていったようだ。
         設計事務所を開設した初代建築家の個性が次の世代に引き継がれた例はあまり聞かないだけに、ある意味で珍しい建物なのかもしれない。さらに言えば分離派的なるものの残影がこうした形で'60年代末まで密かに生き長らえていた、そんな見方もあるだろうか。
         北浦和で寄り道をして、このような妙な感慨に襲われたのであるが、そのような建物であっても40年の時を経たということで、建て替え計画が発表されていた。




                   

         
        2011.01.21 Friday

        読売会館(よみうりホール,旧・そごう東京店)

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          1957年,東京都千代田区,村野藤吾,現存(撮影:2010年)

           ガラスブロックつながりでもう一件といえば、村野藤吾の建物を挙げざるを得ないだろう。
          「そごう東京店」すなわち「有楽町そごう」としておなじみだった建物もデパートではなくなり、今となっては建物の命とも言える外装が大きく改変されていかにも痛々しい。だが、私が以前目にしていた建物も実は竣工当初の外装ではなく改修の後の姿であった。型板ガラスのストライプ模様こそが、元は本当のガラスブロックであったらしい。(過去の画像では、ここ「黒崎そごうメモリアル」が詳しい)
           1957(昭和32)年、建物はガラスのストライプとテッセラタイルの壁面が装飾的な被膜として構造体を包み込むかのように姿を見せたが、その隣では(見方次第では)対照的に丹下健三の旧・東京都庁舎もほぼ同じ頃に竣工した。所謂「新建築事件」(*1)が起きたのはこうした状況においてであった。今では一部残ったガラスのストライプ模様だけが過去の騒ぎの証しということだろうか。また一方で、白大理石をあしらった可憐な階段も、忘れ去られた過去のようにひっそり喧騒の渦中にたたずんでいた。

           そういう経緯もあるせいか、私でさえ今も小生意気に言っていいのかという不安はある。でもあえて省みず書けば、村野藤吾の建築には様々な材料を渾然一体とし魔法を演じるように空間を建築空間を現出させるところに魅力を感ずる。そしてガラスブロックも幾度となく用いられたお気に入りのアイテムであったとみえる。用い方が建物によって異なるように見えるのは、材料が主だからではなく、その都度の建築のトータルなイメージがが主であり必要に応じて材料が料理されたからであろうか。興味は尽きない。

                                    
          村野藤吾によるガラスブロックの使用例を2点
          (左下:「渡辺翁記念会館」(1937), 右下:「高島屋の増築」(1963年増築部。彫刻は笠木季男))
           
               


          *1:村野藤吾の「そごう」の『新建築』掲載にあたり、誌上で論評・アンケートなどを掲載。村野と親しかった社主吉岡安五郎がそれを知って激怒、川添登編集長ら編集者全員が解雇された。


          2011.01.21 Friday

          旧・JAビル

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            1965年,東京都千代田区,佐藤武夫,非現存(撮影:2008年)

             大手町の再開発に伴いJAは既に新たな建物への移転を済ませ、この建物も既に除却されている。
             外壁はガラスブロックが大半を占める特徴あるパターンであった。これは光の濾過作用、換気その他の機能を各パーツに振り分け再構成した結果が模様のように結実し、さらに重量感を消去しつつ、被膜のような軽やかさをもって建物を包み込んでいることが分かる。佐藤総合計画のサイト(佐藤武夫ギャラリー)によれば、遮熱ガラスブロックの部分は光を取り入れつつも騒音防止と熱損失の低減の機能を受け持っているのだそうだ。
             そういえば佐藤武夫の作品には、外壁にさまざまな被膜的な特徴を持つ建物が多いようだ。身近かなところで何気なく見過ごしてしまっている建物があったらもったいないと、今更気がつく。例えば新橋の駅前ビルか。

            2011.01.09 Sunday

            千葉県文化会館

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              1967年,千葉県千葉市,大高正人,現存(撮影:2010年)

               昨年末、千葉の仲間達との忘年会で大高氏の作品や解体されてしまった栃木県議会棟庁舎のことなどが偶々話題となった。そして奇しくもその翌日の12月27日だったか、この建築家が既に亡くなられていたという報道に接して少々驚いた。
               大高正人といえばメタボリズムへの参加をはじめ戦後の建築デザインに確固たる業績を遺したことで周知の建築家なのだが、私個人としては、学生時代に(長々と継続されていた)香川県坂出市の人工土地の模型作りのアルバイトで初台の事務所にほんの短い期間通う機会があったことが、縁と言えば縁なのか。その時の記憶のせいもあり、華々しい建築家像というよりも地道にこつこつと取り組む姿勢が印象に残っていた。人工地盤についても、単に技術的物質的なものというのではなく、道行きの空間に視覚的なドラマが込められているように感じた。こうした空間作法の源泉に想いを馳せた時、日本の伝統に根ざした回遊式庭園のような園路に遡るのでは、と考えたら極端過ぎようか。

               さて、千葉県文化会館が建つ亥鼻の地は12世紀に千葉氏の居城が存在していた場所であり、現在は郷土資料館(千葉城)ややはり大高氏の設計による中央図書館などが建つ。
               文化会館は規模の大きな建物だが、低く水平に拡がって大地と一体化する意図が感じられ建物の自己主張はそれほどでもない。物質的でモニュメンタルな存在を強調するのではなく、むしろ坂道を登って建物に至るまでの、時間を伴った風景の変化のプロセスに位置づけられているようだ。喩えて言えば音楽の進行、或いは一編の物語が進行するのに似ている。
               彼方に目を向ければ、公園の樹木や芝生の園路などの自然と対比的に宇宙船的な感じの角錐状ドームが見え隠れする(上)。
                     
              どうにか登り詰め高台の広がりで何気なく口を開けるエントランスに吸い込まれるようにアプローチすると、もう先刻の角錐ドームの下に居る(上左)。ドラマチックな空間との出会いによってここでひとつのクライマックスを迎えたわけだが、さらにその奥には大,小ホールのホワイエが待っている(上右)。我々を奥に誘い込む「仕掛け」は巨大な台形の扉(下)。ざっとこういう具合であった。
               こうして次々現れる風景に呼び寄せられ奥にまで到達してしまう、そんな大高氏の術中にはまるわけなのだが、それも恐らくは同時期に行なわれていた坂出の人工土地の仕事で培われた考え方が根底に潜んでいるのではないかと想像している。
               この文化会館の建物と共に、プレキャストが美しい中央図書館という傾向を異にする傑作が同じ高台に存在することに改めて感慨を抱く今年の新春なのであった。

               
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