2023.05.10 Wednesday

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    2011.07.28 Thursday

    同和病院(旧・東京医師会館)

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      1929年,東京都千代田区,設計:不詳,ステンドグラス:小川三知,建物は非現存

       まずことわっておくと、これらは私が撮影した写真ではなく、以前、ステンドグラス好きの某友人が撮って「何かの役に立つのなら使って欲しい」という添え書きとともに送ってくれた写真なのであり、それらを代理でUPしているようなものである。

       建物については正直言って見どころが希薄かなぁ、などと思い長い間しまいこんでいた写真なのだが、先日ふと奇麗なステンドグラスの画像に不思議さを覚えた。なぜ病院にこのように過剰とも思えるステンドグラスが多数飾られているのだろうか、と。
       調べたら答えは割と簡単であった。この建物は戦前は病院ではなく、小川剣三郎が設立した「東京医師会館」であり正式には「東京医師建築信用購買利用組合」と呼ばれたそうだ(*1)。つまり、用途面から見れば医師にとっての社交場の性格を帯びた建物だったので、それに見合った室内調度としてステンドグラスが取り入れられたのだろう。
       さらに、これらのステンドグラス作家は日本におけるステンドグラス制作の開拓者として知られる小川三知(1867-1928)であった。小川三知は渡米して制作技法を習得し、帰国後は「慶応大学図書館」における作品を手始めに「鳩山邸」、「黒沢眼科」などに作品を生み出す。小川の死後も「小川スタジオ」が制作を継承したのでそれらを含めると作品数は結構多い。また、元々は東京美校で日本画を学んでいたせいかそうした日本独特のセンスが特徴となっている。
       東京医師会館を設立した小川剣三郎は小川三知の実弟であり、そうした関係から多数のステンドグラスや照明のシェードなどをここでデザインすることになったのであろう。

       この白孔雀の図柄は比較的知られた作品らしい(上げ下げ窓の下半分が上がっていて裾広がりの尾が隠れている)。その他のパターンの図柄もよく見ると独特だ。大正ロマンを仄かに感じさせると言うべきか。こうしたステンドグラスについては修復され建て替えられた建物に今も飾られているが、公開していないとのことなので注意してほしい。
             



       

                   

                     
       
                        


         *1:『日本のステンドグラス 小川三知の世界』(田辺千代,2008)参照





      2011.07.22 Friday

      明治大学駿河台図書館

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        1959年,東京都千代田区,堀口捨己,非現存(撮影:1995年)

         1990年代半ば頃だったと思う。明治大学で堀口捨己の図面展がここで開催されたので行った帰りに撮影しておいた写真がこれ。現在の変わりようからして撮影しておいて本当に良かったと思う。

         駿河台校舎は全般に見て、部材断面的にやや華奢な感じのするRCの柱や梁、薄めのスラブが真壁風に露呈され、そうしたところを見ては堀口の手に掛かった建築であることを感じた。もしかしたら木造建築を組む感覚で設計されたのかな、などと想像を巡らせたりもした。
         想像はさらにふくらんでいく。都市の狭い道は「露地」に見立てられ昇華された上で建物と一体化する。またRCのモダニズムの建築であろうとも、ペントハウスのレベルにおいて、意識としては縫うようにして到達する(右のように)形を変えた「楼閣」があったりするのかも知れない。さらに堀口建築が成り立つためには派手なアクセントが必要となる。
         建物のエントランスの庇の上は十字型の柱梁で2,3階の一部が吹きさらしとなっている。庇を見上げると(つまり2階床のレベルには)下の写真のようにふたつのガラスブロックの円筒があった。円筒の中には照明器具が仕込まれていたのだが、注目したいのはそのガラスブロックの派手なオレンジ色。自然光や人工照明でオレンジ色の光が照らしつつ、薄紅をさすようにぼやっと周囲に映り込む仕掛けだったのではないだろうか(実際、薄暗いだけで用をなしていなかったが・・・)。

         日本の伝統的なボキャブラリーを咀嚼していさえすれば、西欧の新興建築を作るなんてわけないことと言わんばかりに、ここに堀口の建物が存在していた。




















        2011.07.12 Tuesday

        涙凝れり(ある一族の納骨堂)

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          ・卒業設計:「涙凝れり(ある一族の納骨堂)」  1920(大正9)年,石本喜久治
          ・実施された墓碑:1921(大正10)年,大阪府大阪市天王寺区,石本喜久治,現存(撮影:2006年(最下のみ2011年H.I.氏撮影))

                                       **
           お墓の話ということでひんしゅくを買いそうだがご容赦願いたい。なにせ日本の卒業設計史上恐らく最も良く知られた作品でそれにまつわる話題でもあるので・・・。
           上の計画が分離派建築の典型例ということで建築史の教科書などにも登場する「涙凝れり」。タイトルからしてどっぷり大正ロマンに浸かった感じがする。シンボリックでモニュメンタルな量塊はドイツ表現主義的であり、ウィーン・ゼツェッション的耽美的な装飾も散りばめられている。

           このタイトルにある「ある一族」とは、石本氏が卒業前年に養父を亡くしたことから石本家を指すのではないかと推測されている。また、確かにというべきか小さいながらも卒業設計と同傾向の分離派的な墓碑を持つ石本家の墓が大阪天王寺に存在している。(下の画像)。この石本家一族とも言うべき喜久治の養父母と先妻が眠っているとのことであるが、一体いつ頃建立されたのであろうか。(但し、ここに石本本人は埋葬されていない)
                                       **
           今年(2011年)の初旬、石本喜久治の直孫H.I.氏からメールを頂いた。墓参に赴いた折、お墓の掃除を兼ねて少し調べてみたとのこと。H.I.氏とは私のHPを通して知り合った私と同世代の方だが、H.I.氏はここを祖先のお墓としてだけではなく、祖父の作品としても考えているらしい。私も薄々同様のことを思いつつも不謹慎との謗りを恐れ言い出さずにいたのだが、実のところ基本的にH.I.氏と同意見なのであった。そして予感は的中する。
           さてH.I.氏からの知らせによれば、裏側のアーチ状の御影石部分に刻まれた3名の戒名の両脇に小さく「石本喜久治」の文字と「1921.9」の文字、つまりこの頃建立されたことが刻まれていたとのことであった。(最下がH.I.氏から送られた写真。なかなか判読しづらいのでH.I.氏は御影石周囲を水で塗らしてくださった。)
           つまり、石本喜久治は卒業設計の提出の翌年には分離派風の小振りな「石本家一族」の納骨堂を完成させ、そこに年代と署名を、まるで石本の「作品」であるかのように刻み込んでいたことが明らかになった。

           使われている素材を見ても単なる墓石を建てるだけの意図にとどまらないものを感じさせる。通常使われる御影石などの石材だけでなく、コンクリートで造られリシンを吹いて仕上げたような形跡があり、スクラッチタイルなどの建築材料が用いられている。建築としての扱いそのものなのである。
           卒業設計の「涙凝れり」に立ち戻って思い起こせば、こちらは勿論礼拝堂の機能を有した建築物として構想されており、一方天王寺のお墓も建築物としての意識が濃厚であり、これを卒業設計「涙凝れり」の延長線上にあると見ることはそれほど無理な見方でもなかろう。建立時期や署名もある、いわば「涙凝れり」の「実施バージョン」なのではなかろうか。
           さらに、やや耽美的な唐草装飾の銅製レリーフ(右の画像)については大正期頃までの表現派的な石本の好みをよく反映しているように以前から感じていたのだが、墓が造られた時期と符合している。

           この墓をして石本の処女作と言い切るのは小規模でもあり問題があるかも知れない。しかしあえてこうして取り上げたのは、表現主義的で装飾を取り入れることさえ厭わなかった大正後期頃の石本喜久治の指向を証し立てる、今となっては殆ど唯一の貴重な実例であると確信したからであり、なによりも最初期の現存作品として貴重なことは間違いなさそうだからである。
           
                                       **
           なお、この墓がある大阪天王寺区の寺の開山は京都黒谷紫雲山金戒光明寺の和尚さんであるということであり、一方石本の作品経歴中にも、1921年に「黒谷納骨堂」(京都)が作られたとの記録がある。あるいは天王寺のこの墓こそ「黒谷納骨堂」であり京都という記述は誤りという可能性もあるのだが、今のところこの点について即断は避けておく。

           石本喜久治は墓を建てた翌年の1922(大正11)年に養父の位牌を携えヨーロッパに向けて旅立つ。帰国後、渡欧の記録は『建築譜』という本にまとめられたのだが、その本には渡欧の費用はこの墓に眠る養父から受け継いだ財産を処分して賄ったことが記されている。養父は生前、喜久治と共に海外を旅することを夢見ていたのだそうだ。

          2011.07.05 Tuesday

          旧・大倉精神文化研究所(大倉山記念館)

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            1932年,神奈川県横浜市,長野宇平治,現存(撮影:1991年)

             オーダー、すなわち厳格な規範があるからと言って、それが方程式の如くインプットすればたちどころにデザインが答えとなって出てくる建築作品製造機の類などではないことは当然としても、様式建築を設計する際に創造的感性がいかに大切であるかについてはこの建物を一目見ればうなづける。
             お堅い銀行建築を手堅くまとめる建築家して名高い長野が、円熟の境地において、プレ・ヘレニズムというギリシャ以前のクレタ文明(ミノス文明)を扱うというアイデア、単純幾何学的形状、和風の要素も取り込んだ折衷的建物を生み出した。やや奇想を帯びつつも独自の創意でセンス良くまとめられている。足元ほど細くなる独特の形の円柱がプレ・ヘレニズム的のようだが、例えばクレタ島のクノッソス宮殿の柱を見ると比率こそ違えど確かに似ている。比率(プロポーション)をちょっと操ることによってスマートでちょっと艶めかしいイメージに変身させられる辺り、様式建築の妙味であろう。

             ところでこの建物の折衷的な建築言語の用法は、もしかすると何かを語らしめんとしていたようにも受け取られるが果たしてどうであろう。私の感ずるところでは、色々な建築言語が用いられつつも、建物全体として強い意味を強いるように構築されているわけではなく、散文のように色々な要素がそっぽを向きながら点在している、と言った方が近いような気がした。我々見る側にとってもその方がありがたい。もしかしたら、詩的な作用の可能性を長野は見出していたのであろうか。

             さらに話しはそれる。最後は最近年輩の方から伺った話題をちょっと。
             ある建築を教える大学では、第二次大戦後もある時期までは歴史様式演習などとして授業が行なわれていたと聞き私は唖然としてしまった。私はてっきり(占領軍の指示による戦前の教科書の墨塗りにも似て)、建築も様式建築は戦後になると教えることもなくなり突如モダニズムから出発したかのような先入観をなんとなく持っていたのだが、それは大きな間違いであったことに気付いた。 これからは、戦後の早い時期に建てられた建物にも様式的(スタイリッシュ)なものがあるかどうか、注意して街を歩くことにする。


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