2011.09.27 Tuesday
蔵魄塔(ぞうはくとう)
《蔵魄塔》,日名子実三,東京都江東区,1925(大正14)年
1.知られざる大震災の慰霊塔
東日本大震災から半年が過ぎた。しかし惨禍の爪痕はあまりにも大きく、21世紀に遭遇した災害であろうとも苦しみと先の見えない不安などは過去に直面した時と変わろうはずもなく、そんな中で復興への必死の努力が続いている。
ところで過去の貴重な記録としては、遠く1100年以上も遡る貞観地震の記録「日本三代実録」の存在が報道された。一方、たった88年前の1923(大正12)年の関東大震災の記憶を伝える都市におけるもの、つまり復興小学校など復興期の建物は次々に姿を消しつつある。「忘れた頃にやってくる」天災を忘れないために建造物などが持つ記念性が大切であることを痛感しつつある。
今から5年前の2006年のこと、私はかつての関東大震災の記憶を伝えるモノがどのように存在しているのかを確かめてみようと都内を訪ね歩き、江東区浄心寺の境内にある《蔵魄塔》に行き当たった。(HPの記事ここ) これは震災の犠牲となり身元も分からぬまま荼毘に付された多くの亡骸を祀る納骨堂を兼ねた慰霊碑として建造された。後に震災記念堂(現・東京都慰霊堂)に亡骸が移されたため現在は空であるらしい。不謹慎のそしりを恐れず言うなれば、目を惹くのは写実的な白セメント仕上げの裸婦像が墳墓を模したであろうドームを抱いているという美しくも芸術的なたたずまいであり、そしてこれが美術館ではなくお寺の境内にあることに驚かされる。されど、それもそのはず、これが慰霊碑として重要なのは勿論のことだが、それだけでなく、パブリックモニュメントとして彫刻を都市に向けて開放したパイオニア日名子実三の最初の実作であることが明らかになったのである。
2.きっかけとしての「帝都復興創案展覧会」
日名子が都市的な視点に目を開いたきっかけは、関東大震災の直後の「バラック装飾社」に遡るらしい。実際に参加していたという説さえあり、少なくとも当時の『読売新聞』に連載されたコラム「バラック見物 仮装の銀座と浅草」(*1)にバラック建築への強い関心が窺える。
そして1924(大正13)年4月、「帝都復興創案展覧会」における企画「大震災記念造営物」のコンペにおいて、日名子は《死の塔》,《文化炎上碑》のふたつの記念碑のモデルを提出し後者の《文化炎上碑》がプライズカップを受賞した。このとき今和次郎から次のような賛辞が送られている。
「懸賞出品の日名子氏の記念碑では彫刻家の建築的努力を忠実に勤めてゐるを見せられ た。建築家以外の人々の建築芸術への接近として感謝しておかねばならぬ」(*2)
今のこの言葉が自信となり、後の「構造社」結成にまでつながったであろうことは想像に難くない。
さて、小倉右一郎によるそれぞれの作品の解説を記してみよう。《死の塔》は、
「・・・前方の群集彫刻の辺にて、棺を抱いて慟哭しているところを取り囲んで、立ったり
座したり、跪いたりせる七人の裸女の、悲痛の情はポーズに依りて、好く現れ纏りも結
構だと思ひます・・・」(*3)
《文化炎上碑》についても、
「・・・向かって右寄りの方より見た辺は群がつて昇天する裸体女の姿体が面白く纏つて
居る・・・」(*3)
と、煙のように舞い上がる裸婦群であることが仄めかされている。《文化炎上碑》は実際の建造物の瓦礫を背景としているようでありアイデアも卓抜だった。そして約1年後に瓦礫を背景とした裸婦像としてではなく、耐震耐火性に優れたコンクリートのドームを抱き悲しみにくれる裸婦となって実施に移されたのがこの《蔵魄塔》なのであった。
これが完成したのは日名子の師である朝倉文夫の東台彫塑会が解散した年でもあり、朝倉塾で塾頭を務めてきた日名子と朝倉の関係も決裂していた。その背景には応用芸術に視野を拡げる日名子と純粋芸術にこだわる朝倉の確執が見受けられる。そして翌1926年、日名子は齋藤素巌と共に都市や建築と彫刻の融合を目指す研究団体「構造社」を立ち上げ、街を彩るモニュメントの歴史が幕を開けることとなった。
《文化炎上碑》(『建築新潮』1924.6) 《死の塔》(『国民美術』1924.5)
3.震災を伝え続ける《蔵魄塔》
2008年、日名子実三を長年研究される広田肇一氏による最新の著書『日名子実三の世界−昭和初期彫刻の鬼才』(思文閣出版)が刊行され、初めて《蔵魄塔》が日名子実三作品として取り上げられた。同氏の著書には日名子氏と制作途中の《蔵魄塔》が写った古い写真が掲載されており、これにより《蔵魄塔》の作者が日名子であることはさらに確実となった。(*4) また、「この(《文化炎上碑》)の受賞の実績により浄心寺境内に慰霊塔が建立された」とあり、復興創案展覧会のいわば実施版として建立されたこと、また実作として初の記念碑であることが明言されている。今回の私の記事もこの見方に準じている。
《蔵魄塔》は都市を彩るパブリックアートを最初に提唱した日名子実三による最初の実施作であり、その原点に位置する作品ということになる。あるいは「帝都復興創案展覧会」の復興提案として実現した唯一の現存例とも言えようか、むろんその価値は小さくは無いはずである。しかし芸術的歴史的な側面だけではなく何よりも重要なのは、私達が自然の脅威に無力な人間であることを伝え見守るべく、いつもうつ伏せで嘆き悲しんでいるひとりの裸婦の思いであろう。このモニュメントから心に直接発信しているメッセージは計り知れない尊さを持つと思われ、震災の脅威の記憶の本質を伝える重要なモニュメントとして幾久しく継承され続けるに違いない。
2011年撮影(白い保護塗装が施されていた)
*1:『読売新聞』1924年3月4〜8日,11〜12日に掲載
*2:『中央美術』1924年6月号
*3:『国民美術』1924年5月号
*4:他にも『日蓮宗新聞』1997年10月20日のコラム「古碑めぐり2 東京深川浄心寺」に作者として日名子実三を指す記述がある。
2011.09.20 Tuesday
日名子実三による記念碑2題
大正末期から昭和前期にかけて活躍した彫刻家日名子実三(1893-1945)による作品から、東京都内で見られる記念碑をふたつほど。日名子実三は大分県出身、上京して東京美術学校に入学しつつ朝倉文夫の彫刻塾の門を叩き塾頭となる鬼才ぶりを発揮した。しかし、純粋芸術としての彫刻に飽き足らず朝倉と袂を分かつことになる。そして都市の一部を構成する公共的モニュメントあるいはレリーフなどによる建築と彫刻の融合を目指し、果てはメダルの制作など応用芸術としての立体造形全般を視野に入れ、1926(大正15)年に研究団体「構造社」を齋藤素巌と共同で発足させた。
そのようなわけで日名子による記念碑は、単なる偉い人の銅像を超えた、アートとしてのモニュメントのさきがけなのである。例えば宮崎県にある「八紘之基柱(現・平和の塔)」の作者だと言えば思い出される方は少なくないかも知れない。また日本サッカー協会のシンボルである八咫烏(やたがらす)の図案も日名子による。
そうした日名子実三による作品は、他にも身近なところに存在するのだろうか、少し散策してみよう。
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《来島良亮君記念碑》,東京都豊島区,1934(昭和9)年
上を目白通り、下に明治通りが走り立体交差を成す千登世橋の脇にこの記念碑がある。戦前の土木技術者来島良亮を顕彰する記念碑であり、東京府土木部長として震災復興期に都市計画諸事業の指揮を執った功績が、この記念碑の建立に至った理由と考えられる。
実際にスコップを握る人々、都市計画プラン、来島の肖像レリーフという3点の立体造形が結像し、偉大な都市計画事業の達成を祝福するメッセージを発しているかのようだ。
昭和7年に完成した千登世橋と千登世小橋は、都市計画事業を支えた高い技術の証しなのであろう。この鋼製アーチ橋は「東京都の著名橋」に指定され平成2年度に修景が施されたことが近年の碑に記されていた。
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《下丸子耕地整理事業完了記念碑》,東京都大田区,1936(昭和11)年
天祖神社の境内に建っている。耕地整理施行前の地形と、施行後の碁盤の目状に整然と区画された状況が見比べられるユニークな記念碑。なお、耕地整理とはいえ工場誘致が主目的であったらしい。
構成主義風の立体造形の上に日本の神話時代の神様が鎮座されている様には、正直言って吹き出しそうになる(すみません)位微笑ましい。それにしてもこの神様は誰なのだろうか。
後に完成するモニュメントの集大成「八紘之基柱」にはたくさんの神様や神将、埴輪なども据えられるが、この記念碑はその路線の源泉なのであろうか。
そのようなわけで日名子による記念碑は、単なる偉い人の銅像を超えた、アートとしてのモニュメントのさきがけなのである。例えば宮崎県にある「八紘之基柱(現・平和の塔)」の作者だと言えば思い出される方は少なくないかも知れない。また日本サッカー協会のシンボルである八咫烏(やたがらす)の図案も日名子による。
そうした日名子実三による作品は、他にも身近なところに存在するのだろうか、少し散策してみよう。
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《来島良亮君記念碑》,東京都豊島区,1934(昭和9)年
上を目白通り、下に明治通りが走り立体交差を成す千登世橋の脇にこの記念碑がある。戦前の土木技術者来島良亮を顕彰する記念碑であり、東京府土木部長として震災復興期に都市計画諸事業の指揮を執った功績が、この記念碑の建立に至った理由と考えられる。
実際にスコップを握る人々、都市計画プラン、来島の肖像レリーフという3点の立体造形が結像し、偉大な都市計画事業の達成を祝福するメッセージを発しているかのようだ。
昭和7年に完成した千登世橋と千登世小橋は、都市計画事業を支えた高い技術の証しなのであろう。この鋼製アーチ橋は「東京都の著名橋」に指定され平成2年度に修景が施されたことが近年の碑に記されていた。
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《下丸子耕地整理事業完了記念碑》,東京都大田区,1936(昭和11)年
天祖神社の境内に建っている。耕地整理施行前の地形と、施行後の碁盤の目状に整然と区画された状況が見比べられるユニークな記念碑。なお、耕地整理とはいえ工場誘致が主目的であったらしい。
構成主義風の立体造形の上に日本の神話時代の神様が鎮座されている様には、正直言って吹き出しそうになる(すみません)位微笑ましい。それにしてもこの神様は誰なのだろうか。
後に完成するモニュメントの集大成「八紘之基柱」にはたくさんの神様や神将、埴輪なども据えられるが、この記念碑はその路線の源泉なのであろうか。
2011.09.13 Tuesday
神奈川県立青少年センター
1962年,神奈川県横浜市西区,前川國男,現存(撮影:1981年)
青少年のための複合文化施設。隣には1954年に前川國男が設計した神奈川県立図書館・音楽堂が立地している。
1961年の東京文化会館と同様、戦後のコルビュジエからの影響であるブルータルな打ち放しコンクリートの外壁が正面を占める。また前川独自の打ち込みタイルによる部分もある。
しかし耐震補強を含む大がかりな改修工事が行なわれ、2005年の再開以降外観の印象は随分あっさりとしたものとなった。致し方ないこととはいえ、私からすれば違和感は小さくない。右の写真の屋上に見えるプラネタリウムのドームも現在は取り払われて無い。
2011.09.03 Saturday
旧・東京市営店舗向住宅
1928年,東京都江東区,東京市,現存(撮影:2011年)
東京市によって関東大震災の復興事業の一環として建設された、鉄筋コンクリート2階建ての長屋群。1階が店舗で2階が住宅の間口2.5間の住戸が連なる。実際は数件単位で長屋状につながっており全体では250mに及ぶとも言われる。ここ最近、テレビでも紹介されたらしい。
震災以前に遡ると、清澄庭園をはじめとした岩崎家が所有する土地の一部には元々住宅群も存在していたらしい。震災遭遇を契機として岩崎家は東京市に対して公園用地と共に住宅が並んでいた土地を寄贈し、その結果、市はここに不燃化に配慮した店舗併用住宅群を建てるに至ったということらしい。
まず着目すべきは、(後の増築部分を除き)当初は1,2階全体が不燃性に配慮した鉄筋コンクリートで造られている点であり、巷でよく見かける正面が洋風で裏に廻ると木造の看板建築的造りとは根本的に異なっていることに気をつけておくべきであろう。
そしてさらに素晴しいのは、相当の年月を経ているのにごく当たり前のように商店街として生きていて、環境に馴染んでいること。同時期に多く建てられた同潤会アパートが古びた姿を見せ殆んど姿を消してしまった現在においてはちょっとした驚きでさえある。
また正面のアールデコ風味の様式的装飾も割ときれいに残っていて昭和初期の典型的な雰囲気を匂わせている。それだけでなく、当初からの装飾的な外観と後の改造が生み出した外装とが重なりあい隣り合うことによって、歴史の厚みを感じさせる偶然のコンポジションがひとつの画面に繰広げられているようだ。ここだけの唯一無二の外観デザインである。
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- ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
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