三凾座
1897年以降(?),福島県いわき市,非現存(撮影:2011年)
明治30年代に芝居小屋として建てられ大正7年には活動写真館としても使用されたと伝えられる「三凾座」、それは日本の近代化を支えた石炭産業で活況を呈していた当時の湯本温泉の町における娯楽の殿堂であった。
そして戦後も映画館として繁栄が続いたのだが炭鉱の衰退と歩調を合わせるように1982年には閉館、以後長らく放置状態だったようである。
建物の年齢は少なくとも100歳を超えながら今も健在ということになる。
私もいわきに住んでいた時期があったのだが「三凾座」のことは気付かずに過ごしてしまった。数年前にはじめて知り、3.11の震災でも無傷で耐えたと知るや一目見たいとの思いが頭を持ち上げ、やっと数日前に初対面が叶った。
ちなみに、確かこの辺りの地名を「さはこ」と呼んでいたように記憶するが、この建物に
ついては「みはこ座」と読むようになったそうである。
細い路地の突き当たりに目をやった瞬間、つまり「三凾座」と座名がストレートかつ堂々と墨書されたているのを目の当たりにすれば忘れがたい印象をそのファサードから受ける。看板建築と言って片付けてしまえばそれまでだが、いやそんな呼び方を凌駕する迫力があると言うか最盛期の町の繁栄を偲ばせるような力強い息づかいを感じさせてくれる証人なのである。
また郷土史料をいくつか紐解いてみると、なぜか独特な半円屋根型を基本とするファサードデザインの芝居小屋はかつて隣の町(村)にもいくつか存在していたことが判る。活動写真の「平館」(1917)、それに「四倉座」であり、同類のデザインの複数の小屋が存在していたことに不思議さと関心を覚えたことも付記しておく。
最近では地元の人々が核となって建物を守り伝えるべく活動を開始されておられ、心強い限りである。狭い路地の奥に立地している条件などをはじめ現行法上はそのまま再開館するのは難しい状況だが、何らかの活路を見出されるよう切に願っている。
また「三凾座」の活動などが掲載されたサイト「ふくしまの近代化産業遺産」には、他にも古い芝居小屋など興味深い建造物があることを知った。いずれ訪ねてみたいと思う。
九段下ビル(旧・今川小路共同建築)
1927年,東京都千代田区,南省吾,現存(上1枚のみ2009年撮影,その他2011年12月撮影)
関東大震災からの復興、すなわち耐震化・不燃化建築の普及を図るために1926年に復興建築助成株式会社が設立された。しかしそこで企画された「共同建築」の貴重な実例がもうすぐ消え去ろうとしている。
旧・今川小路共同建築の設計者南省吾の言葉によれば「共同建築」とは以下のような建築とのこと。「共同建築と云ふのは、手取り早く云えば、隣り合つて居る幾つかの敷地の人々が、各別々に家を建てる代わりに、共同して一構の家を建て、土地を経済的に利用し且つ建築費を節約し様と云ふのである。最も簡単な、例は在来の長屋式の建物と同様。相隣る二つの家屋の隣界壁を、相互負擔(たん)の下に計畫せられた建物で二つ又は二つ以上連結したるものである。」(*1)
かつて今川小路では、通り沿いの居住者達がそれぞれ資金を出し合い所有地を繋いで鉄筋コンクリートの一棟の長屋的な建物を建てた。ひとつの復興の形である。
後に九段下ビルと呼ばれることになった建物の外観を一見したところ、ネット越しに見えるのはデザインが統一された1棟の建物に過ぎないかのようである。しかし実際は区分所有された建物の集合であり、これが建つ従前の敷地状況や出資割合などを色濃く反映したプランに基づいている(*2)。
各区分の間口すなわち界壁の間隔も微妙に異なりつつ繰り返されているのは、街路側からもなんとなく感じられた。他の一般的な建物のように漫然と同じスパンで同じデザインが反復されるのと違い、ここでは外観にもプランニングの微妙な変化をひきずって画一化された建物とは異なる魅力を街路に与えているようでもある。今日的な見方ではあるが『土木工事画報』(1928,11号)掲載のファサードを見ると活気に満ちた変化に富んだものであった様子が分る。
ただしこうしたエラく手の込んだ計画手法によるところ、他にも旧・伊勢崎町共同建築(*3)などのように実現をみたのはせいぜい2〜3名の施主による共同建築であったようだ(*4)。この旧・今川小路共同建築という8名からなる建物は異例の大規模な建物であり、そして勿論、復興建築助成株式会社による代表例として雑誌にも取り上げられた。
***
さて、今川小路の施主8名による一致結束も異例なら、その後80年以上の歴史を重ねた建物と住み手にも並はずれた強い結束力が漲っていたように察せられる。なのでバブル期の激しい地上げ攻勢に耐え抜いた。さらに建物も今年の3.11の地震にびくともしなかった。
ところがである。(区分所有が仇になったなどとは思いたくないが)住人が生活しているさ中、取得された部分から解体工事が開始された。住むに住めない状況が意図的に作り出されたのだが、こうした暴挙を食い止めることは日本の社会では制度的にも現実的にも難しいという。21世紀の現代においてである。他人事ではない空恐ろしさを感じたりもするのだが・・・。
そんな中で最後の住人である大西信之によってアート・イベント『さよなら九段下ビル』が12月26日まで開催されている。また「九段下アトリエブログ」にもいろいろなことが詳しく紹介されている。
この良識ある行動の粋が人々の心の中に拡がりつつあるようであり、それだけがせめてもの救いかも知れない。
*1:「共同建築の利益に関する基本説明と其実例」(南省吾,『土木建築工事画報』S3.11号)括弧内読み仮名は筆者
*3:同上号に「伊勢崎町共同建築」も掲載
*2,*4:「復興建築助成株式会社による関東大震災復興期の「共同建築」の計画プロセスと空間構成に関する研究」(栢木まどか,伊藤裕久, 日本建築学会計画系論文集第603号,2006)から多くを参照した。
パレスサイドビル
1966年,東京都千代田区,日建設計工務(林昌二),現存(撮影:2010年)
戦後日本の建築設計界において大きな足跡を残した建築家、日建設計の林昌二氏が11月30日に亡くなられた。−謹んでご冥福をお祈り申し上げます。−
さて、当ブログで今更同氏の功績を並べ立てる愚は避けたい。ただ林氏が担当した代表作のひとつパレスサイドビルを取り上げておこうと思ったのだが、これもあるいは狙いすましたようにも見えそうなので気分としては躊躇していた。いよいよUPしてしまったが、そこは私なりの林氏への敬意の表わし方ということで了承頂ければありがたい。
パレスサイドビルについては、『INAX REPORT』(NO.173)の対談(*1)に詳しく書かれており参考としたい。
まず、A・レーモンドの「リーダーズダイジェスト東京支社」を取り壊して建てられたことはよく知られた話だが(また林氏がレーモンド個人をよく思っていなかことも有名だが)、ただ建築については当時の日本における第一級の作品であると認めておられたのも事実。人を介して記念に部分的な保存案をレーモンドに提示されたらしい。結果的に実を結ぶには至らなかったが、当時こうした働きかけを行うことなど他にあっただろうか。
そしてパレスサイドビルをして傑作とならしめた原動力は、林昌二氏の力量や組織設計の実力は勿論のこと、さらに類稀なプレッシャーが後押ししていたのでは、などとついつい思ってしまう。
なにしろレーモンドの建物を上回る作品を成すことが要求されひとりの設計担当者の肩にのしかかっていたわけであるし、さらにそれだけではない。日本の中心、皇居にほど近いお濠端の地に複数の新聞社と印刷工場、リーダイ社、それに店舗などの機能が複合した難易度もかなりな建物を設計しなければならなかったのだから。まだ高さ31m以下の時代にこれらを限られた敷地に収容するのだけでも大変だったであろう。結果的に建物は地下は6階まであるようで、当初そこには印刷工場などの機能が収容されていたが、地上部を見ただけではそんなことには気付かない整然としたたたずまいとなっている。
円筒状のコアのある最終的な外観が決まったのは意外や着工した後だった。円筒コアのそのPCの外壁に刻まれた溝が深みと落ち着きを与えているが、林氏はギリシャ古典の円柱にみられるフルーティングにもつながる普遍性のある解決案として、やや自慢げに語られている。日本が基本的にはモダニズム路線で突き進んでいた時代になされた思慮深さである。
そして結果は言わずもがな、DOCOMOMO選に早くから名を連ねる名建築として認められて今日に至る。しかし崇め奉られる美術工芸品のようにではなく、風格を保ちつつもビジネスマンが闊歩し飲食店が賑わいをみせるごく日常的な風景に程好く馴染んでいる。ここが最大の魅力であろうか。
*1:「再読『建築家林昌二毒本』 未来へ向けた知のタイムカプセル」(林昌二氏と内藤廣氏による対談)
旧・井上房一郎邸
1952年,群馬県高崎市,A・レーモンド 井上房一郎,現存(撮影:2011年)
レーモンドの自邸と言えば、まずRC打ち放しによる「霊南坂の自邸」(1924)が日本最初期の近代主義の住宅として知られるが、戦後に再来日して3年後の1951年に、麻布の笄(こうがい)町に今度は自邸兼仕事場を木造で建てたいきさつがある。これを気に入った井上房一郎はレーモンドから図面の提供を受けるなどして、大部分の造りを受け継いだ建物を自邸として建てたとされる。それが旧・井上邸の由来なのだが、そういうことなので設計者はレーモンドとして良いのか調べたところ、三沢浩氏の著作の作品年譜にはちゃんとレーモンドの作品として記載されていた。
ところで井上房一郎は言うまでもなく高崎の実業家である一方、山本鼎の勧めでパリに留学、ブルーノ・タウトを高崎に招き工芸作品を委嘱、あるいは群馬交響楽団の設立などをはじめとし、様々な芸術活動とその支援に尽力した人物。要するに庇護者であるだけにずば抜けて芸術に対する造詣が深い。
そんな井上氏の意思のままに立ち上がった住宅なのだから、これはレーモンドの作品というばかりではなく、見方にも依ろうが井上氏による「写し」としての作品が成立しているようにも感じた。そういう意味においては見え掛かりの落ち着いた風情だけでなく、日本の伝統的な創造形式の延長上則った稀有な近代建築かも知れない。(結局、ここでは作者として両名併記した。)
*
伝統的な和室を含んだ落ち着いた雰囲気にまず眩惑されるが、建物全体的には近代主義に根差し、構造体などをそのまま露わにし虚飾で包み隠すことを嫌ったレーモンドの信念が表出されている。杉の足場丸太を用いたいわゆる「挟み状トラス」の構造体、ダクトは堂々と天井空間を横切っている。裸電球は障子が濾過する外光と共に室内を照らしている。
ガラス屋根のパティオはかつて無かった創造的な空間。これはかつて横浜にあった「ライジングサン横浜本社」(1929)の天井を大きく占めたガラス天井の陰りなきモダンな光への想像を誘う。
感想を言うなら、例えば『陰翳礼讃』的な闇に価値を見出す日本人の和室の感覚と、明るみに露呈するモダニズムの感覚とがきわどい緊張感をもって調和している言ったらよいのだろうか。障子=スクリーン、ふすま=パーティション。日本人の設計者なら避けたくなるようなすれすれのせめぎあいと均衡の妙が具現化されていて、またそれを堪能する自分がいた。
今日では割と自由に和と洋の様々な融合のさせ方が行われまた抵抗無く受容されるようになったかも知れないが、これが出来た1952年頃を思うとやはり斬新な建築だったのではなかろうか。
その後、2002年には公売にかけられる危機に瀕したが、井上の哲学堂建設への遺志を引き継いだ「高崎哲学堂設立の会」が市民からの寄付金をもとに落札、人々の熱意により建物は救われたということである。今も高崎市美術館に隣接しているたたずまいに接してみれば、瞬時にしてそれだけの価値が十分あることが分かる。
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- ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
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