埼玉県立浦和図書館
1960年,埼玉県さいたま市,埼玉県土木部建築課(柳 武),現存(撮影:2012年)
木目がきれいに写り込み、見るからに丹念に作られたこうしたコンクリート打ち放しの建物は、最近ではそのままの姿をとどめる建物が少なくなったせいか、建物を見ただけでなぜか新鮮で感動的な気分にさせられる。それはまた打ち放しコンクリート全盛時を大いに彷彿とさせる。(赤茶色なのは、後に保護用に塗ったカラーの撥水剤と思しい)
過去を辿れば、県立図書館は1925年に移転した埼玉女子師範学校の校舎を転用して図書館として運用していたのだったが、終戦後になると建物の老朽化は限界に達していた。図書館の改築を求める運動は次第に盛り上がりをみせ、昭和33年にようやく予算が付き悲願の改築が実現する運びとなった経緯がある。
当初は設計を外部の図書館建築の専門家に委嘱してはとの声も上がったそうであるが、既に試案を重ねていた県建築課が担当することに落ち着いた。当時の県立図書館館長であった上野茂氏は同氏の著書『思い出の図書館』の中で、担当した県土木部建築課の主任技師の柳武氏のことを「図書館職員以上に詳しい知識を持っておられた」(*1)と、評している。
柳武氏とは一体どのような人物なのか、気になったので調べてみたところ、基本的には県職員としての仕事をまっとうされた方であり、この図書館については特別にエネルギーを注ぐことがかなったようである。自ら「県庁生活の中でも特筆するものでした」(*2)と語っている。いくつかの資料に担当として技師柳氏の名が記されており(*3)、新図書館に対する柳氏の強い熱意の表れが担当者個人名の掲載につながったのではないかと推測される。
この上野氏の著書中に、柳武氏自身による設計時の回想も収録されているので、いくつか以下に抜粋してみたい。
「昭和二十年代の埼玉県の営繕工事は、木造による増改築が大部分で、昭和三十年代に入ってからぽつぽつ高等学校などを中心に鉄筋コンクリート造りの建築物が建つようになってきました。このような時期に県立浦和図書館の改築工事は、まさに画期的なことで、我々建築課の設計スタッフもそれなりに大いに張り切ったものでした。 第一回目の設計打ち合せを旧図書館の館長室で行なった時から、図書館側と我々スタッフとの間で呼吸がぴったりと一致しました。これは上野館長の改築に対する熱意がその言葉のはしはしから充分我々に伝わってくるからです。」(*2)
柳氏は設計における平面計画のポイントとして、1.動線の問題―利用者と館内奉仕者の動線の交錯を避け、かつ利用者の入口をはっきり分けたこと、2.事務室をまとめ、また固定的な間仕切りを避けなるべく大部屋としつつ将来対応を図ったことなどを挙げている。
さらにデザインについても、明治以降の様式建築から脱却し日本古来の素材美を取り入れるよう心掛け、「利用者が落ち着いて閲覧出来るように素材の美をいかし、柱・梁・天井等のコンクリート面は素地のままで仕上げをせず、その他の仕上げ材も素材をそのままいかすよう天井にはハギ・竹をそのまま使用しました。」(*2)と語っている。
現場を担当できた喜びにも触れている。「鉄筋コンクリートの打ち放し(コンクリート素地のままで仕上げをしない)で型枠の木目をいかすのは技術的にも高度なもので、建築担当の鹿島建設には随分と無理な注文をしましたが、現場主任の大島さんが我々の趣旨を充分いかして仕事をしていただきました。」(*2)やはりこの打ち放しコンクリートにはそれなりのこだわりと苦労があったようである。
一般に名を知られた建築家によるものではなかろうとも、熱意をもって質の高い建築を生み出したことが柳氏の回想から伝わってくる。おそらく他の多くの建築にも同様に込められた思いと苦労があったであろうと思う時、建築とは単なる実用品としての道具を超えたものであり、大切に使い続けねばならないと、つくづく思う。使い捨てはよくない。
設計者の思いの記録の図書を、まさにその対象たる建物の中で閲覧しつつ、建物を眺めつつ・・・、愉しいひとときであった。
上は、前川國男の埼玉会館(1966年竣工)のエスプラナードからの眺め。
上、これはおまけ。隣にある消防団兼防犯ステーションの建物。70年代のものだろうか、大げさなコンクリートの造形が面白い。裏側の壁も丸窓だらけで結構凝っていて気になる。公共の建物には違いないが、図書館との関係は不明、というかたぶん無いだろう。
*1:『思い出の図書館』(1978,上野茂編著)P.331 執筆当時の柳氏は住宅都市部県営住宅課長
*2:同上 P.250〜252
*3:『埼玉県立図書館の概要』(1961,埼玉県立浦和図書館),『埼玉県立浦和図書館50年誌』(1972,埼玉県立
浦和図書館)などの資料がある。
万国橋ビル
1928年,横浜市中区,設計者不詳,非現存(撮影:2012年10月)
海岸近くの横浜の北仲通地区では再開発が進行中であり、万国橋ビルのような歴史を感じさせる建物についてもその扱いが検討されていた。しかしここへ来て解体されるとの情報を得るに及び、しかも残された時間もないようなので急きょ出掛けてみることに。10月末のことであった。
訪れてからほどなくして囲いで覆われたらしく、上には「解体中」と記したもののどうなっていることか・・・
その名が示すように万国橋のたもとに建つこの戦前に建てられたオフィスビルは、ことさら際立ったデザインをまとっているわけではないけれど、その端整な外観は、古き良き横浜の街並みの雰囲気を想像させるのに十分な風格と情感とを備えているように思う。
建物は道路面よりさらに下のレベルまである。橋から見下ろすと、最下層部の荷揚げ口と思しきものが古い石垣の護岸に接しており、つまり船から建物にアプローチも可能だったように見える。
建物の竣工は1928(昭和3)年とのことなので、現在ある万国橋(昭和15年建立)よりも古い。当初はもっと違った風景が広がっていたそうである。
エントランスには品よく控え目にアールデコ調の装飾が施されていた。外装は、下の写真に見られるような剥落痕からして、タイル貼りの外壁であったようである。
海岸通団地
1958年,横浜市中区,日本住宅公団(現・UR都市機構),解体中(撮影2012年)
万国橋ビルへの道すがら、横浜で昭和30年代を偲ばせるものは何であろうか、などという思いがなぜか頭をよぎった。そうしたら昭和30年代の団地に遭遇した。しかも建替えによる解体工事が行われようとしているところであった。
ここ公団海岸通団地は昭和33年の入居開始、貴重な初期の団地である。しかし数年前に半分以上が解体され、残った4棟がまさに消えようとしているところなのであった。
当初は単身者向けの住戸や集会室などもあり、なかなか変化に富んだ設計の団地であった。活気ある都市型住空間であったに違いない。しかし現在、この囲いと足場で覆われつつある状況下では、残念ながら往時の団地界隈の生活のにぎわいを想像することは難しかった。
上の画像は、生糸検査所倉庫の側から望んだ団地。
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- ここは本家サイト《分離派建築博物館》背 後の画像収蔵庫という位置づけです。 上記サイトで扱う1920年代以外の建物、随 時撮り歩いた建築写真をどんどん載せつつ マニアックなアプローチで迫ります。歴史 レポートコピペ用には全く不向き要注意。 あるいは、日々住宅設計に勤しむサラリー マン設計士の雑念の堆積物とも。
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