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    2013.04.21 Sunday

    横浜トイレ探訪(霞橋公衆便所その他)

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      1.霞橋
       関東大震災復興期に再建された霞橋(1928年,復興局)のたもとで目を惹くデザインの公衆便所をみつけたのは、かれこれ20年ほど前のこと。(分離派HPに掲載)近寄ると昭和の初め頃と思われる歴史の重みがコンクリートから感じられ、便所と橋はほぼ同じ頃に整備されたことが分かる。

                   
            (↑ これ1枚のみ1992年撮影写真。改修を受ける以前のモルタル塗りの仕上げ。)

       公衆便所のデザインに注目すれば、正面の壁の曲線や細部のコーナーまで丸みがかっていいるのだが、それらは大正後期から昭和初期にかけて流行った表現主義的の特徴であろう。デザインが凝っているせいか古さを感じさせず、清潔感さえ感じる。

                   
           (↑ 震災で架け直された現在の橋より以前の、煉瓦の遺構が残る。2012年撮影)

       『横浜市近代土木・産業遺構調査報告』(*1)によれば、リスト中の霞橋の備考欄に「公衆便所設置」と書かれており、それがこの公衆便所を指すようである。それで私は橋と公衆便所が復興局によって一緒にセットで建造されたと信じ、疑いをはさむことはなかった。
       橋のそばに公衆便所を設置することは、1886年の「街頭便所構造改良法」および「設置個所等通達」によって示され、明治の早い時期から行われていたようである。橋のたもとで用を足す人が多かったのと、屎尿の運搬に便利であったことがその理由らしい。(*2)



                    (↑ 改修整備された現在の橋。2012年撮影)

       しかしつい昨年の暮れのこと、FACEBOOKで知り合った横浜在住の方から、「横浜には、霞橋と同様の古い公衆便所がいくつも点在していた」といった話を教えて頂いた。それは私にとって寝耳に水の知らせであり、霞橋のようなトイレが他にもあったと聞いて驚いた。
       もしそういうことであれば、あくまでも可能性としてではあるが、その設置時について、多数の公衆便所が、橋の建設とは特に関わりなく横浜市内に設置されていった、ということだってあり得ると思った。昭和初期の復興都市計画の一環として、ある計画主体の手によって。つまり霞橋の公衆便所も橋の建造とは別に、多くの公衆便所とともに設置されたものだと考えることもできよう。個別の橋と公衆便所が一緒にセットで建てられたと速断してはならないと思った。
       そういうわけなので、とにかく残っているの横浜市内の公衆便所を探し回ってみることにした。

                        

               
            (↑ 天井や壁の入り隅にもアールがとられている。昭和初期的なディテールの扱い)



      2.弘明寺
                   
                            (↑ 昭和初期の建造と言われている)

                     
          (↑ 神々しくも聖なる空間。こんなに発色の良いガラスブロックが昔からあったのだろうか)


      3.黄金橋

                  
              (↑ 屋根の部分など、ひと目見て後年になってから大きく改造されたことがわかる)


      4.鶴巻橋
                  
             (↑ 壁の一部が斜めに打ち上がって、以来そのまま数十年(?)。珍しいエラー硬貨
               をみつけたようなものだと思えば許せる)


      5.一本橋

                  
                 (↑ 表面だけ少し古びて見えるが、全くの現役トイレで重宝されている)

      6.八幡橋

                  
                 (↑ 典型的な切妻屋根の形を持つ。ガラスブロックは色つきではない)

              
                 (↑ これはおまけで、八幡橋の親柱。放物線の造形があまりにも立派)


      7.まとめ

       これら公衆便所の特徴を簡単に挙げてみよう。まず公衆便所の多くは川のそばか橋のたもとに設置されているのがほとんどであったが、弘明寺のようにそうでないものもあった。すべて男女別で正面から見ると左右対称の形のRC造の造りとなっている。切妻屋根であり、多くは天窓採光と天井部分に換気口を持つ。壁にはガラスブロックが嵌められ採光の用をなすと同時に美的効果も高められている。いくつかのガラスブロックは彩色されたものであった。というところであろうか。

       霞橋の公衆便所とその他とを見比べた場合、歴史の重みを感じさせるコンクリート躯体と、左右対称形、壁のガラスブロックという点で共通しているのでそれらとの関連はあると見て良いであろう。しかし違いもある。大半が切妻型で天窓採光型なのに対して、霞橋では天窓採光によらず、その代りなのか自由に曲線を駆使したデザインでは群を抜いている。この違いがどうして生じたのかはよく分からない。恐らく標準パターンの公衆便所があらかじめ設定され、何らかの理由で霞橋の公衆便所では特別に凝ったデザインのバリエーションが与えられたように思われた。

       『横浜市近代土木・産業遺構調査報告』をもう一度見直した。公衆便所付の橋が数件記載されていたものの、しかし霞橋以外はどういうわけか計画者の記載がない。
       ところで横浜市は公衆便所発祥の地と言われる。発端は外国人居留者からのクレームに対処する形で1872年に公衆便所(*3)が83箇所設置され、さらに実業家浅野総一郎は1879年に63箇所の公衆便所を設置し、屎尿を肥料として販売したなどの歴史があるという。
       そのような歴史を勘案しつつ、公衆便所の整備を誇る横浜市が、復興都市計画として独自に多数のRC造のトイレを設置したのだろうか、などと想像を働かせてみたくなる。しかし所詮、証拠資料が見いだせない現在のところは、夢想・妄想の類に過ぎないのである。

        *1:S58.3 横浜開港資料館委託調査
        *2:「震災復興橋詰広場計画の経緯と成立 −旧東京市日本橋区および京橋区をケーススタディーとして−」(伊東
           孝祐,秋山哲男,伊東孝,溝口秀勝 土木史研究第18号 1998年5月) による
        *3:呼び方は 公同便所→共同便所→公衆便所、と変わっていったそうである。







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