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    2014.06.30 Monday

    三岸アトリエ

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      1934年,東京都中野区,山脇巌,現存(撮影:2014年)


       昭和初期といえば、明るく透明感のある白い箱のようなモダニズムの建築が登場し、進取の人々を魅了し始めていた。しかしイメージそのままに作られた木造の建物は、か弱い可憐な花のように、大抵の場合そう長くは持ちこたえられず修理の繰り返しを余儀なくされ、あるいは短命に終わったようだ。それでも自然の摂理に敢えて挑戦するように陸屋根と大きな開口部を持つ純白の住宅に住むことは、生活自体が主義主張を行うのと同じ意味を持ち、つまり住み手側にも強い意志が求められていたことを物語っていたのである。
       例えばそうした状態から出発した初期モダニズムによる個人の建物は、今やどれだけの数が生きながらえているのだろうか。

           

       1934(昭和9)年に完成した画家三岸好太郎のアトリエも初期モダニズムの貴重な遺構である。三岸好太郎(1903−1934)は大正から昭和にかけて活躍した画家であり、洒脱で独特の詩情を漂わせる画風の持ち主であった。だから勿論、鬼才の画家三岸好太郎そして妻で女流画家の三岸節子(1905−1999)のアトリエとしての価値も大きいはずである。
       アトリエの現在の姿は、自然の強い力抗しきれなかった結果として各所に綻びを呈し、また修理や増改築を経て当初のままとはいかない現状にある。しかし、かえってそうした建物の姿こそが三岸のアトリエを維持する住み手の強い意志の表れとしてこちらに迫ってくるのであり、語弊があるのを承知で言えば、そこにある美的な感動さえ呼び起させられる。


      ●三岸アトリエの経緯
       このアトリエは単に画家の仕事場というだけではなく、三岸好太郎にとっての理想的空間イメージの表現でもあったようだ。三岸による計画段階のスケッチなども残されている。三岸が示したアイデアに呼応しつつ、バウハウスに学んだ建築家山脇巌が実際の設計を進めた。

       アトリエのポイントとなるらせん階段はそうした三岸が強くこだわっていた部分である。しかし、その比類なき空間の完成を目にすることなく三岸は急逝した。妻の三岸節子によって建物は完成し、後に洋風の暖炉のある建屋や庭園が加わるなど増改築が重ねられながら、アトリエは守り伝えられてきた。歴史の年輪を積み重ねるように変化する建物は、生きた建築としてあり続けていることを意味するのであり、従って現在も三岸好太郎の魂がそこに息づいているという感覚と感慨に浸ることができるかもしれない。

           

           


      ●求められる保存措置
       現在、三岸好太郎の孫にあたる山本愛子さんが維持管理に腐心されている。このアトリエの価値を重んじ、区の交流会場(まちなかサロン)絵画教室を開くなど積極的に有効利用を図られている。このブログへの掲載についても、価値ある建物の存在を周知する観点から快く了承して頂いた。ここに掲載した竣工時の写真や資料(資1〜5)も山本さんから提供を受けたデータである。

       前段で歳月を経て綻びつつも力強く建つ貴重なモダニズム建築を讃えたつもりなのだが、それはそれとして、一方で呑気に褒め讃えて済ませられる状態ではない現実もある。老朽化は進んでおり、長く維持しようとするならばそれなりの措置が必要であるとも言われている。山本さんが最も悩んでおられる部分である。先の地震による漆喰壁の剥落は痛々しく、早急な対応が待たれる。ただ一部応急措置が「中野たてもの応援団」により差し伸べられつつあったことは、せめてもの救いに見えた。


           


      ●アトリエ見学
       6月14,15日の両日、「近代建築探訪メーリングリスト」による「まちかどの近代建築写真展」がここ三岸アトリエで開催された。私もメーリングリストの会員であり、この機会に三岸アトリエを改めて訪問した。今回で2度目の訪問となる。

       建物がどのように増改築や修理を受けてきたのか、当初の資料写真と見比べてみるとなんとなくわかってくる。当初の陸屋根は目立たぬように勾配屋根で作り直されていた。また当初の玄関は、現在収納庫として使われているので入ることは難しい。その代り暖炉のある洋風の部屋が増築され、そちらからアプローチするようになっている。またアトリエ北西側の外壁面全体が幅約1間増築されている。それに伴って北側の大型窓が改修され、天窓はなくなったようである。アトリエ内部の鉄骨らせん階段と2層吹き抜けの大空間は健在なのだが、道路側の大型建具は大幅に改修された。おおまかに言って以上のような変化がある。

          

       しかし細部をよく見ると、当初のままと思しき見どころもある。旧応接スペースや旧玄関を中心に、まるで埋もれた宝石が顔をのぞかせているように残っていた。将来必要に応じて修理され再現されるよう、心の中で祈った。
       例えば旧応接スペースの奥には、黒いタイル貼りの飾り台があった(下の写真)。真鍮のカバーの中にストーブが収納されるようになっていた。資料5の当初の写真の通りモダンで美しい台である。

           

           

       旧玄関のドア脇の球形のペンダント照明は、丸く刳りぬかれた外壁に接しており、外部のポーチ灯を兼ねている(下の写真)。刳りぬかれた丸い穴からは外気が入る、さりげなくも大胆な仕掛けである。夜、絵のモチーフになりそうな蛾が飛来するのを期待したのだろうか・・・などと想像したくなる。

         

               

       旧玄関ホール部分にはグリーンのスチールパイプ棚(下の写真)が、白い壁面のアクセントとして取り付けられていた。

            

       床は土間部分に黒いタイル、靴を脱いで上がった床には白いタイルが貼られている(下の写真)。白いタイルは釉薬がかかった艶付のタイルであり、壁一面の大きなガラスの窓からの光でさぞかし美しく照り映えていたことだろう。

            


       こうした細部のひとつひとつが三岸と山脇によって考え抜かれたアイデアであったはずである。設計は、全体の中で動かしがたいところまで考え抜かれ洗練されていったに違いない。そうしたいわば三次元の美術作品が、いつの日か再現されたらどんなに素晴らしいだろう・・・、とそのようことを勝手に思いつつ建物を後にした。




       
      2014.06.09 Monday

      東郷神社境内の、とある狛犬(?)

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         町を飾るパブリックアートのあり方は色々、あまり限定しないようにと考えている。今回このカテゴリーで取り上げたモニュメントは一風変わった「狛犬」、と言うか獅子像(ここでは以下、仮に「狛犬」と称した)。神社の境内で見かける伝統的な狛犬とは異なり、どちらかと言えば近代的な彫刻の方向に振れたような姿がとても気になるのである。

         東京原宿の東郷神社の境内に鎮座しているこれらの像は計2対で4体。うち1対は第二次大戦における潜水艦乗組員の慰霊碑(昭和33年建立)の脇を固めるように配置されている。ただし東郷神社本殿参詣の道筋にはちゃんと「正当な」別の狛犬が置かれているので、ここで取り上げた狛犬はこの神社を護るために作られた狛犬ではないことを、まずおことわりせなばなるまい。

             
         そう言うのも、実はこれらのの狛犬には以下のようないきさつがあるからである。まずはっきりさせておかねばならないことは、元々別の地に鎮座していたということ。
         1921(大正10)年、彫刻家新海(しんかい)竹太郎(1868−1927)により《有栖川宮威仁親王像》が東京築地の海軍大学校の敷地(現在の国立がんセンターの辺り)に作られた。その後、関東大震災を蒙ったことから1928(昭和3)年、伊東忠太の設計による新たな台座に載せられたのだが、その台座の四隅を固めていたのがこれらの狛犬なのであった。

         戦後の1984(昭和59)年、《有栖川宮威仁親王像》本体は福島県の「天鏡閣」に移設された。そこは有栖川宮威仁親王の別邸であり、自らの家にご帰還されたことになろう。そして台座に残された狛犬については、いつどのような経緯を経たのかは明らかにされていないが、ここ東郷神社で海軍と所縁の深い碑の前に落ち着くことになったのである。

             

         いかめしい表情の獅子像は4体とも同じ作りで、直線や面に還元された独特の造形は西洋近代のキュビズム作品的な趣きを感じさせている。しかし直線に込められた勢いや鋭さにより、本体を守護するための日本の狛犬本来が持つ一種の威嚇的な雰囲気を生じさせているようでもある。こうした西洋と日本が奇妙に入り混じったモノに覚える違和感は、私にとっては昭和10年代の日本瓦の載ったいわゆる帝冠様式の建築を見たときの感覚に近いかもしれない。

         それでは、この狛犬をデザインした作者はいったい誰なのだろうか。
         まず、署名らしきものは無いかと観察したが見当たらなかった。その上で、台座を設計した建築家伊東忠太の作品集を見てみると図面(↓)と写真が載っていて、小さくではあるが狛犬までしっかり書き込まれていた。階段を上がったところに狛犬が配置されている。この他、新海竹太郎の彫刻作品を扱った文献にも狛犬がはっきり写っている写真が掲載されていた。


                       
         伊東は築地本願寺など自ら設計した建築など狛犬までデザインすることが多い。中でも新潟の弥彦神社の場合は狛犬のデザインを、新海竹太郎(原型)伊東忠太(匠案)両名のコラボレーションという形で実施している。新海と伊東のコンビはこの《有栖川宮威仁親王像》の場合とも似ている。そう考えれば、ここでも伊東忠太のデザインに沿って彫刻家が作りあげた可能性もあり得なくはなさそうだ。ちなみに背筋を伸ばし胸を突きだした姿の狛犬は伊東忠太のものによく見られる。

         ただ問題は、直線や平面に還元するような造形手法をとることがあるのか・・・ここからは全くの想像なのだが、伊東や新海の作風とはちょっと違う気がするので下の世代の若いスタッフが関わったのなのだろうか?
         推測は色々、楽しい想像もこの辺までとしておこう。




             


             



         
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