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    2014.09.21 Sunday

    旧・三井物産横浜支店生糸倉庫

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      1910年,神奈川県横浜市中区,遠藤於菟,現存(撮影:2014年)

       日本で最初の鉄筋コンクリート構造物は1903(明治36)年完成の琵琶湖疏水上の橋であると言われる。また建築物において日本で初めて構造体全てを鉄筋コンクリート造(RC造)とした建物は、遠藤於菟設計による「旧・三井物産株式会社横浜ビル1号館(以下横浜ビルと称す)」(1911(明治44)年竣工)であると言われている。

       さて、ここで取り上げた「旧・三井物産横浜支店生糸倉庫(以下生糸倉庫と称す)」(*1)は、その「横浜ビル」よりも約1年先立って竣工した。二つの建物は連続して建っている。(下の画像手前の建物が「横浜ビル」、奥が「生糸倉庫」)
       生糸倉庫の方は、柱など一部が鉄筋コンクリート造のいわゆる混構造であったため、「日本最初のRC造」とまでは言われないが、しかし生糸倉庫の価値も横浜ビルと同様に高く貴重な建物であると考えられている。

           

       生糸倉庫は、構造体全体をRC造とした三井物産横浜ビルに至るいわば前哨戦の建物に相当しよう。だが生糸倉庫をかたち作るRC混構造の構造形式は、後にも先にもないユニークかつ唯一無二のものであり、またそれは設計者の創意と苦心の痕跡を物語っている。さらに両建物により日本最初のRC造の出現のプロセスを示す証拠ともなっているわけで、こうした理由により外見上そう目立たない生糸倉庫もその価値は計り知れないのである。

       遠藤於菟が考案した生糸倉庫の構造をもう少し具体的に言うならば、内部の柱と屋上スラブは鉄筋コンクリート造であり、床版は木組みでそれらを煉瓦造タイル貼りの外壁が覆っているというものであった。内部の写真と構造の模式図(大野敏氏作成)が日本建築学会関東支部の保存要望書(*2)に添付されているので、これを参照すればイメージし易いかもしれない。
       こうした構造は今日では普通考えられないものだが、関東大震災に遭遇した際も生糸倉庫の機能を維持し商取引の継続に寄与したということなので、構造上の一定の有効性は実証済みと言えるではなかろうか。

       設計者遠藤於菟と言えば、この建物の他に帝蚕倉庫建物群を設計した建築家としても知られている。

           

       構造的な側面ばかりではなく外観について言えば、タイル貼りにバランス良く鉄扉付の窓が取り付けられただけと言っても良いような外壁面でありながら、深い味わいを感じさせるものとなっている。よく見るとタイル目地は覆輪目地となっていて、細やかな意匠上の配慮が感じ取られる。
       そして全体にシンプルな外壁面に、私は何かしらモダニズムの予兆のようなものを感じたのであるがどうであろう。建築意匠の歴史の上でも意義のある建物ではないだろうか。
       因みに(この建物と直接の関係は無いにしても)佐野利器が日本建築学会の誌上討論『我国将来の建築様式を如何にすべきや』において「・・・建築美の本義は重量と支持との明確な力学的表現に過ぎない事と思はれる・・・」と述べたことが思い起こされるのだが、この発言がなされたのは生糸倉庫が竣工したのと同じ1910(明治43)年のことであった。

           

                        ***

       生糸倉庫が近く解体されるのではないかとの情報がある中、建物の価値を知るためのシンポジウムが開催されるなど、にわかに注目が高まっている(*3)。
       最近の富岡製糸場の世界遺産登録決定の例を持ち出すまでもなく、生糸産業は日本の近代化における基幹産業であり、横浜などの港町は貿易の拠点であった。この生糸倉庫がそのことを証し立てる横浜に現存する最古の倉庫であることなどがこれまでに指摘されている。

       歴史を未来につなげるための資産として活かすことについて実績を持つ横浜に建つ建物のこと、そこで活動する企業にとっても、歴史的価値の高い建物をプラス材料として活して頂けるに違いないであろう・・・と、そのように私は希望をもって見守っていきたい。

        

       現在「旧三井物産横浜支店生糸倉庫を壊してほしくない人々の会」が活動を行っているが、その一環として昨日から同会の主催による倉庫をテーマとした写真展が横浜で開催されている。
       詳細は下記のとおり。場所は1957年に建てられた「防火建築帯」の建物(吉田町第一名店ビル。前話題中の画像「吉田町C」)なので、そちらの街並みも楽しみつつお気軽に覗いてみてはいかがだろうか。

                        ***

        【まちかどの近代建築写真展in横浜 テーマ:「倉庫」】
        日時:9/20(土)〜27(土) 13:00〜19:00(最終日は18:00まで)
        場所:Archiship Library&Cafe (中区吉田町4-9)
        料金:写真展入場無料
        主催:旧三井物産横浜支店生糸倉庫を壊してほしくない人々の会
        協力:まちかどの近代建築写真展実行委員会
           近代建築メーリングリスト・モダン建築探検隊




      *1:ここでは旧・三井物産横浜支店生糸倉庫と称したが、「旧・日東倉庫日本大通倉庫」に同じ
      *2:「KN日本大通りビル(旧三井物産横浜ビル)および旧三井物産横浜支店倉庫の保存活用に関する要望書」(日本建築学会関東支部,2014.7.28)
      *3:「生糸を守った建築家『遠藤於菟』」(2014.9.18)




       
      2014.09.15 Monday

      横浜の防火建築帯をめぐる

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          最近、横浜で気になっているのは、上と下の画像(長者町8丁目共同ビル,1958年頃竣工(?))のような、昭和20年代末から30年代頃に建てられたと思われるちょっと古びたRC造の建築である。これらは「防火建築帯」を形成する建物として建てられたものであり、横浜市には今でも多数残っている。特に建物が連なる吉田町界隈、それに飲食店として濃厚な賑わいをみせる福富町辺りで見かけた建物スナップをアップしてみた。
         
         「防火建築帯」の名が示すように、ひとつひとつの建物は鉄筋コンクリート造の耐火建築であり、それが街路に沿って連続することにより防火帯としての役目を果たす。また本来こうした目的で形成されたのだが、街路景観として見ても、普通なら個別の建築が乱立し雑然とした印象を与えるのを抑え、長い一棟の建物がある統一性を持つ街並みを作り出している。大抵はモダニズムの造形によるデザインで、新築当時は明るくシャープな印象がより際立っていたことであろう。

         さて、以下に防火建築帯について自分なりにまとめてみたのだが、基本的な内容について、実際に大阪で防火建築帯の計画に携わるなどした伊達美徳氏のHP(*1)をかなり参考にさせて頂いたことを、まずおことわりしておきたい。


         ●「防火建築帯」とは
         昭和27(1952)年、耐火建築の普及と町全体の不燃化を促進するために「耐火建築促進法」が制定されたことが、そもそもの発端である。これは防災上、広い道路に面した街区を連続する耐火建築で囲う(防火建築帯)ことを目論んだ法律であり、地上3階建ての建物を鉄筋コンクリート造などの耐火建築物とする必要があった。対象となる地域は都市計画審議会の議決を経て建設大臣が定めた。また建設費の一部は補助金として地方自治体から建主に交付できるしくみを持っていた。

         そしてこの法律を最初に適用したのは鳥取市だそうである。また沼津市には規模の大きなアーケード方式の建物が出現するなるなど、全国の都市で防火建築帯が建設された。横浜市については、1952年まで続いた占領軍の接収による復興の遅れを取り戻すべく、まず道路と宅地が復旧され、防火建築帯とするべく地域が指定され、数多くの防火帯建築が建築されていった。

         約500棟もの防火帯を成す建築物が建てられ、ある調査によれば約200棟程度が今でも現存しているとのことである(*2)。横浜市は抜きんでて広範囲に防火建築帯が作られた都市ということになるのではないだろうか。

        ●「防火建築帯」の形式
         複数の地権者が、敷地を出し合いつつ共同で1棟の建物を計画することが基本的な考え方であり、境界線上に壁や柱を立てた連続建築を区分所有するというものであった。
        (写真「福富町建物A」はこうした基本的な姿を反映したのか、異なる外装色の壁面が連続している。)
         しかし実際は、下層階ではこうした形式を取りつつも、上層階には共用の廊下と共用階段でつながった賃貸共同住宅が載ることが多かった。(写真「福富町建物A」以外の建物)

         このような形式となる理由は主として建設資金に起因する事情が関係しているらしい。
         伊達氏のHPによれば、地権者らは建設にあたり建築助成公社からの融資を受けることが出来たのだが、それだけでは足りない場合が多かった。そこで県の住宅公社が事業に加わることで、実際に建設を可能とすることができた。つまり公社が賃貸共同住宅の建設を上層階で受け持つことにより、地権者の工事費負担の軽減が図られた。下層部と共同住宅など賃貸の上層部が載ってひとつの建物を成しているのはこのためのようである。
         そして建築後10年を経過した後、上層の住宅を地権者に優先譲渡する約束が結ばれたとのことであるが、時間と共に権利関係は複雑さを増し、どこでも予定どおりに事が運んだかというと、そうでもないらしい。
         恐らく、建物が老朽化したまま修繕などの措置が加えられないでいる建物が多いのも同様の理由によるのではなかろうか。 


        ●現在の「防火建築帯」の評価など
         伊達氏はHP(*1)の中で、横浜の防火建築帯について、おおむね4つの点で評価されているのだが、ここでごく簡単にかいつまんで引用、紹介させて頂くと以下のようになろうか。
         1:防火建築帯の形成は都市計画上基盤整備のみならず建築物をもコントロールした。不燃化された居住と仕事の場を確保し、戦後復興の遅れを急速に取り戻すきっかけを作った。
        2:積極的に住宅を都心に持ち込む政策であったこと。
        3:住民参加のまちづくりの始まりであったこと。債務のリスクを恐れず土地を持ち寄って街並みを作りあげた先人の気概、しかも広範囲に渡って行われたことは敬服、賞賛に値する。
        4:一定の高さを持つ壁面線が形成され、秩序ある都市景観が形成されたこと。

         こうした点を挙げつつ、同氏は多大な努力を払い官民共同で作りあげた「戦後復興の街並み」に敬意を払い、評価し保全する視点が必要なのではないかとしている。

                             ***

         戦後の昭和期建築が知らぬ間に次々姿を消しつつある昨今である。復興期から高度成長期にかけて建てられた防火建築帯は、昭和の人の営みの歴史の証しであり、しかも今現在そこで人が暮らし活動する生きた建築-都市でもある。歴史を偲ぶとは言っても、決して過去の遺物ではない。
         聞けば、若い人を中心にクリエイティブな活動の拠点として防火建築帯の建物に入居する動きがあるという。様々なアイデアを持つ人々を柔軟に受け入れ、生きた空間として有り続けられれば良いと感じている。また横浜はそういう気風が良く似合う町だと思う。



        *1:「まちもり通信G1版 横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか」(伊達美徳)
        *2:「関内肝関外地区の防火帯建築など古ビルの再生活用まちづくりの相談態勢づくり」P5(特定非営利活動法人アーバンデザイン研究体)




         

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