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    2017.03.25 Saturday

    旧マミ会館(マミフラワーデザインスクール)

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          (1968年,東京都,岡本太郎,非現存(2002年建替え済)

       

       この冒頭の画像(▲)は現在のマミ会館(マミフラワーデザインスクール)のショップで頂いた、旧建物の写真絵葉書の画像である。
       実は私が学生の頃、2年ばかりこの近くに住んでいたので大森駅に出る時はいつも旧マミ会館の前を通り過ぎていた。大森駅の線路を挟んだ反対側からも高台にツノ状のものが聳えるのが見えた。だがなぜか写真の1枚も撮ることをせず、最近になって建物のことを思い出して気になりだしたのだが後の祭り、既に取り壊され道を挟んだ場所に建て替えられたということで悔しい思いをした。
       そしてつい最近大森に寄ったので、建て替えられた建物内にあるショップの女性にそうしたことを話し記憶のよすがを求めたところ、私に旧建物の少し古くなったという絵葉書をくれた。懐かしい画像を前に心の中で密かに狂喜乱舞した、そしてここに載せた、というわけである。

       

       以下の画像3点(▼)は、その時撮った建替え後の現在の建物の様子である。穏健な普通の建物ではあるが、旧建物の青いタイルが再利用されているとのこと、それに置いてあった岡本太郎の「座ることを拒絶する椅子」など、恐らく以前からと思しきものも見受けられた。
       

       

       

       

               

       

       さて、私はなぜ最近になってなぜ旧建物に惹きつけられ、心躍る思いをしたのだろうか。
       まずは岡本太郎唯一の居住機能を持つ建築作品と知って、その貴重な記録欲しさが昂じたということだろうか。

       それから「座ることを拒絶する椅子」と同様、建築物に対する安易な既成概念を打ちのめすほどのもの、建築であることへの異議を呼び起す何ものかを敢えて作り出し露呈させる(これが岡本の「対極主義」か)姿勢が見て取られるからであった。しかも雄々しく聳えるツノ状の物質やフニャフニャした物質などからは原始的な叫びが聞こえそうなほどである。

       ただこうした岡本流「反建築」を突き付けられてはいるのだが、私個人としては、それが独自の要素を独自の統辞法で構成しているように見えてしまうところが特に興味深い。(岡本の挑発的意図に反して)つまり正直に言ってしまえば妙に「建築的」な感じがする。例えば、いたずらに奇をてらっただけの一時期のポストモダン建築と比べるならば、時期的に先行しつつかつ、確かに同列にできない何かが備わっている(と、最近思うようになった)。
       因みに、私がこうした感覚を覚える作品として、建築ではないが「岡本かの子文学碑「誇り」」(1962,台座設計:丹下健三)(▼)があるので再掲したい。(こう言われるのを岡本は嫌うのだろうが)妙に上手いと思う。

       

              

       

       

       

      2017.03.06 Monday

      京都大学楽友会館

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              1925年,京都府京都市左京区,森田慶一,現存(撮影:1994年)

         

         言うまでも無く森田慶一による分離派の建築として知られる建物。ただその森田を分離派結成当時に辿ってみるならば、それを主導した存在とは言えず、誘われるがままに入っていた方なのであった。本人でさえ後に「ぼくは構造にいたんで、どうしてこんな連中に引きづり込まれたか、いまでもわからんです、いつそういうふうになったか」(*1)と述懐していた。しかし時の流れは分からぬもの、そんな事情にもかかわらず今日でも現存する代表的な分離派活動期の建築と言えば、恐らく森田慶一による楽友会館ということになるのではなかろうか。

         

             


         大正期に入ると帝大建築学科のカリキュラムには「構造(甲)」「意匠(乙)」の甲乙2班に分かれる選択授業が組み込まれるようになった。森田の「構造にいたんで」とはこのことを指す。堀口捨己ら「意匠」の数人は、技術と有用性優先の佐野利器を筆頭とするいわゆる構造派が強権を握り野田俊彦が「建築非芸術論」を著す中、それに反発して1920(大正9)年に分離派を旗揚げし建築の芸術性を主張すべく気炎を上げた。そのとき森田慶一は「構造」に属していたにもかかわらず、デザインに秀でた「構造」の人も必要だということになって引き入れられたのが実態なのらしい。

              

               

         

         しかし、そうしたいきさつのせいか分離派の作品集に掲載された森田の論考は異彩を放つ、ある意味で鋭いものがあった。最初の論考「構造派について」(1920年)では、他の分離派の面々が揃って構造派批判に腐心する中、森田にあっては西欧近代建築の構造合理主義的な傾向を把握しつつ、どちらかといえば肯定的であった。問題はこれをどのように新しい芸術として受け止めるかに過ぎないということに気付いていた。

         

          「構造派は決して建築非芸術を標榜して居るのではない。こんな事

                は其作品を見れば一遍にわかる事である。」(*2)

         

        そして力学的に純粋な構造と、芸術としての構造との違いについて自らの観点から言及する。

         

          「建築が芸術である為には其建築には表現された生命がなければな

                らぬ、・・・」(*2)

         

         森田は「生命」の概念を持ち出したが、そこから連想するのはリップスやヴォリンガー(*3)らウィーン学派の美学である。(ここではその説明は避けるとして)そのよく知られる二つの概念すなわち「感情移入」についてはギリシャ古典建築をもって説明され、「抽象衝動」についてはエジプトを例にとり、さらにゴシック芸術については特に念入りに『ゴシック美術形式論』によって説明がなされた。

         森田の場合も然りであった。後年ヴィトルヴィウス建築論の訳出などギリシャ古典建築を究めたことはよく知られているが、分離派時代の論考においては様々な歴史様式からP・ベーレンスの作品までを引き合いに出していた。中でもとりわけ1921年の「工人的表現」などゴシックの工人についての記述は、その当時の森田の思索の核心であったように思われる。


         構造に着目しつつも構造の純粋性だけでは足らず、森田は芸術足り得るかの分かれ目を「生命の表現」の有無にあるとした。論考「工人的表現」ではさらに、芸術足り得る構造について、自己の表現を内在させた「構立て(くみたて)」なる呼称を用い、それは例えばゴシックの「工人」達がイメージに向けて一途に石を積み上げるような、そのような表現への意志が欠かせないものであった(*4)。

         

               


         さて、楽友会館を見てみると、正面玄関中央の庇はゴシック建築風の尖頭アーチが並びアクセントとなっている。ゴシックへの憧憬あるいは森田の思索をシンボリックに表明したものであろうか(この他、森田による農学部門ではより大胆に尖頭アーチが用いられた)。そして白壁に穿たれた窓のリズミカルな配列は、当時の分離派の仲間の関心と同様、音楽をヒントにしたようなロマンチックな主観性を漂わせている。

         

         下図は『建築画報』(1923.9月掲載)の初期の楽友会館模型である。基本的なイメージはそのまま維持され竣工に至ったことが分かる。翌年の分離派の作品集第3刊(1924年)においては図面が掲載され、第5回作品展(『建築新潮』1926.3月掲載)において竣工した建物が掲載された。

         

               

         

                            ****

         

         ところで楽友会館の構造について、その実際の適用に関する気になる文章をみつけた。それは『建築雑誌』誌の記事「座談会・大正の建築を語る」(*5)の中の一部である(下記引用 太字筆者)。

         

         堀口:・・・後藤さんという人は不思議な偉さを持った人のように思い

                    ますね。ぼくのクラスの森田(慶一)君など非常に心酔をして、

                    ああいう無筋コンクリートをやってみたいというので、京都大

                    学に行ってからですよ。京都大学の同窓会館がありますね。森

                    田君の設計で。
         高杉:楽友会館です。
         堀口:あれが無筋です。
         山下:床は鉄筋コンクリートですか。
         堀口:床と梁だけが鉄筋で、あとは無筋です。これなど一番感心をしたほうでしょうが。

         

         楽友会館は公式には全体が鉄筋コンクリート造とされているが、堀口の話からすると壁(柱も?)が無筋コンクリートということであり、しかもそれは後藤慶二が無筋コンクリートで設計した東京区裁判所の影響による、とのことらしい。

         他にも無筋コンクリートをほのめかす資料がある。楽友会館竣工時の記念絵葉書セットに付された概要書(▼(傍線筆者))であり、構造を記述した部分では「コンクリート造」と「鉄筋コンクリート造」とをわざわざ書き分けている。

         

              

         

         正直言って無筋コンクリートという言葉には一瞬驚いた。しかし、よくよく考えてみるならば、耐震壁が考案される以前の初期の鉄筋コンクリート造の建物では、壁が煉瓦で出来ている事例があった位なので、力学上のことだけを考慮に入れるならば、確かに無筋の壁に限っては造られたとしても不思議ではないのかもしれない。勿論今日ではあり得ないことは分かっていても、無筋コンクリートという後藤慶二のDNAがもしもここに息づいていたとすれば、そのこと自体とても意義深いことなのではなかろうか。
         現在ある建物は実際どのように施工されたのだろうか。興味がつのるところではある。

         

                             ****

         

         最後にこの絵葉書セットから、竣工時の内部の様子を2枚ほどお目にかけて終わりにする(▼)。ここにみられる家具は森谷延雄が担当した。アーチの右に見える円形花台は近年現存が確認され、松戸市が所有している。

         

                     

         

                 

         

         *1:『建築記録/東京中央電信局』(「座談会」より 1968)
         *2:『分離派建築会 宣言と作品』(「構造派について」より 森田慶一 1920)
         *3:W・ヴォリンガーの著作には「抽象と感情移入」「ゴシック美術形式論」がある。
         *4:この頃の森田の思索の流れについては京都大学の田路貴浩氏により研究されている。
         *5:『建築雑誌』(「座談会・大正の建築を語る」より 1970年1月,堀口=堀口捨己,高杉=高杉造酒太郎,山下=山下寿郎)

         

         

         

         

         

         

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